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第3話 扇の魔女

 ニコは念願の懐剣が手に入ったので、ウキウキ気分で帰宅する。

 懐剣の名前は『銀嶺』。


 白木の箱を見つめる度に、頬が緩んでしまう。


 が、待ち受けていたのはメイド長の一言だった。


「アンリエッタ様が中庭でお待ちです」


 ニコのテンションは幸福の絶頂から一気に奈落の底まで急降下したのだった。


 ◆


 朝の穏やかな空気が漂う中庭。

 白い石畳の中央に設けられたガゼボに、アンリエッタは静かに腰掛けていた。

 庭園には薔薇の香りが漂い、噴水の音だけが静かに響いている。


「念願のものは手に入ったようね」


 年齢を感じさせない凛とした佇まい。

 優しげな表情でも、その眼光だけは鋭い。


「おかげさまで、素晴らしいものが手に入りました」

「そう……では、その『銀嶺』にふさわしい持ち主であることを示してもらわなくてはね」

「えっ、おばあさま、何でその名前を……」

「……ふっ、女には秘密があったほうが魅力的だと教えたでしょう? そのような質問をすることは『野暮』だと知りなさい」


 アンリエッタは扇を口元へ運び、小さく笑う。


「さて、貴女がどの位成長したのか……見せて戴こうかしら」


 メイド長が恭しく細剣を差し出してきた。


「ハンデを差し上げましょう……貴女は細剣を使いなさい……私はこれでいいわ」


 そう言ってアンリエッタは扇をパチンと鳴らした。


「おばあさま……お言葉を返すようですが……あたしだって、この数か月訓練に明け暮れたんですよ……そんな素手みた――」

「お黙りなさい!!」


 空気が震える。

 木々がざわりと揺れ、ニコの身体が思わず硬直する。


「戯言はこの年寄りに勝ってから言いなさい」

「くっ」

「(あたしだって、最近はアグネスやフロムと良い勝負をするんだ……負けるもんか)」


 ニコは細剣を抜く。

 銀色の刀身が朝日を受けて白く染まった。

 正眼に構える。


 だが――


「(あれっ……全然隙が無い)」


 アンリエッタは扇を弄ぶように小さく回している。

 本当にただ立っているだけだ。


 それなのに。

 どこから攻めればいいのか分からない。


 視線を向けた瞬間、逆にこちらの隙を覗き込まれているような感覚がする。

 喉が渇く。

 背中に嫌な汗が流れる。


「そちらから来ないのなら……私から行くわよ」


 その言葉が終わる前に、アンリエッタの姿はニコの正面にあった。

 しかもニコの剣の間合いの中に。


「えっ?」


 驚いている瞬間、手首に激痛が走る。


 パシィッ――!!

 鋭い音が響いた。

 扇で手首を強かに打たれたのだと分かった。


「剣を落とさなかったことは褒めてあげましょう……しかし、隙だらけよ」


 パシッ。


 今度は額を叩かれた。


「ニコレッタ……死亡ね」


 その瞬間、背筋を冷たいものが伝う。


「(……そうだ……真剣だったら……死んでた)」


 ニコはこの時初めて、アンリエッタに得体のしれない畏怖を感じた。

 これは祖母ではない。

 歴戦の何かだ。


「さあ、続けるわよ。剣を構えなさい……亡者のニコレッタ?」

「くっ、いきますっ!!」


 ニコが踏み込む。

 突きを放つ。

 しかし、空を切る。


 次の瞬間には背後から声が聞こえた。


「遅い」

 パシッ!!

 肩を叩かれる。


「甘い」

 パシッ!!

 脇腹。


「視線が正直すぎるわ」

 パシッ!!

 膝。


「呼吸が乱れている」

 パシッ!!

 額。


 まるで子供扱いだった。

 何度踏み込んでも届かない。

 何度振っても当たらない。


 逆に、こちらだけが一方的に打たれ続ける。

 気が付けば、記憶があやふやになる程、叩きのめされていた。

 髪は乱れ、肩で息をし、細剣を握る腕も震えている。


 一方のアンリエッタは涼しい表情で、汗一つかいていない。


「この程度なのね。アレクシアにはきつく言っておかないといけないわね」

 アンリエッタはそう言って、中庭を後にする。

 去り際、ふと足を止めた。


「……ただ」


 ニコが顔を上げる。


「最後まで剣を落とさなかったことだけは、少し褒めてあげる」


 それだけ言い残し、アンリエッタは静かに去っていった。

 残されたニコは、中庭に大の字に転がりながら、真っ青な空を見る。

 こんなに良い天気なのに、気分は雨の日のようだ。


「(おばあさまに……かなう訳はない……けど……)」


 眼から涙が零れ落ちる。

 悔しかった。


 あまりにも差がありすぎた。

 自分が少し強くなった気でいたことが、恥ずかしくなるほどに。

 ニコは腰の『銀嶺』にそっと触れる。


「(……悔しい……悔しいよ、銀嶺っ、ノワール)」


 その声は震えていた。


 でも。

 心の奥底では、確かに火が灯っていた。

 もっと強くなりたい。

 追いつきたい。

 誰にも負けたくない。

 ニコはそのまま声を殺して泣くのだった。



 ■朝焼けに誓って

 次の日。

 ニコは早朝に目を覚ます。

 薄暗い天井を見上げた瞬間、全身に鈍い痛みが走った。


「いっ……たぁ……」


 腕を動かすだけで肩が悲鳴を上げる。

 脚も重い。

 特に扇で何度も打たれた手首は、赤く腫れて熱を持っていた。


 ベッドから起き上がろうとして、腹筋に力を入れた瞬間。


「っ……!」


 脇腹に鋭い痛みが走る。

 昨日、アンリエッタに容赦なく打ち据えられた箇所だった。


「(ヴァルキュリア騎士団で鍛えていたつもりだったけど……全然かなわなかった)」


 昨日の悔しさが蘇る。

 扇しか使っていなかった。

 しかも、本気ですらなかった。


 それなのに、自分は一度もまともに触れることすら出来なかった。


「……悔しい」


 ぽつりと呟く。

 だが、その悔しさは嫌なものではなかった。

 胸の奥で、静かに火が燃えている。


「せめて、自宅謹慎のうちに少しでも……」


 ニコは決意を固め、ベッドから起き上がる。

 床に足を付ける。

 筋肉痛で脚が震えた。

 それでも立つ。


「おばあさまに、見捨てられないようにっ。そして、自分が誇れるようにっ」


 ニコはそう決意すると、訓練用の服に着替えるのだった。


 ◆


 流石に王都の中は走れないので、屋敷の中をグルグルと走る。

 朝の空気はひんやりとしていて、肺の奥まで冷たさが入り込んでくる。


 まだ屋敷の使用人たちも動き始めたばかりの時間だ。

 庭師たちが朝露に濡れた花壇を整えている姿が見える。


「そっか……今の季節はこんな花が咲くんだ……」


 淡い青色の小花が風に揺れていた。


 騎士団に入ってから、毎日必死だった。

 走って、怒鳴られて、転んで、剣を振って。

 周りに追いつくことばかり考えていた。


 だから……こうして季節を感じる余裕が少しだけ出来たことが、何だか嬉しかった。

 ニコは呼吸を整えながら走り続ける。


 最初は痛かった脚も、徐々に熱を帯びて軽くなっていく。


「はぁ……はぁ……」


 額に汗が滲む。

 でも、止まりたくなかった。


 昨日、アンリエッタに見せつけられた。

 自分はまだまだ弱い。

 だけど。

 だからこそ、強くなりたいと思った。


 ◆


 朝のランニングの最後に、厩舎へ顔を出す。

 乾草の匂いと、温かな獣の気配が鼻をくすぐる。


 ノワールもすでに起きていて、与えられた飼葉を食んでいた。

 ニコの姿を見つけると、耳をぴくりと動かす。


「おはよう、ノワール。どう、あたしの自宅の居心地は?」

「ぶるるるる」


 どうやら、悪くないと言っているようだ。

 ニコは思わず笑ってしまう。


 ノワールの首を優しく撫でる。

 温かい。

 生き物の温もりに、張り詰めていた気持ちが少しだけほどけていく。


「ごめんね。多分今日もおばあさまの訓練があるから、一緒に走ってあげられないかも……」

「ぶるるるる」


 ノワールが鼻先でニコの肩を軽く押す。

 まるで、『気にすんな』と言っているようだった。


「ふふっ……ありがと」


 ニコは少しだけ目を細める。


「あとでブラシをかけてあげる。これは絶対に、約束する」


 ノワールは満足そうに鼻を鳴らした。

 ニコはその姿を見て、小さく笑う。


 昨日は泣いた。

 悔しくて、情けなくて、惨めだった。

 でも。

 今日は昨日より少し前を向けている気がした。


 ニコは朝日に照らされる厩舎を後にし、屋敷へ戻るのだった。



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