第5話 走り出す理由
次の日。
ニコはいつもより相当早く目を覚ました。
身体が痛くて眠れなかったからだ。
肩も脚も熱を持ったように重い。
寝返りを打つたびに筋肉が悲鳴を上げる。
薄暗い天井を見つめながら、ニコは昨日の言葉を何度も思い返していた。
――今のままじゃきついと思うよ。
昨日からずっと腹を立てている。
悔しくて、そして悲しかった。
「(このままじゃ、嫌だ)」
ニコは心の中で呟くと、静かに毛布を退ける。
隣のベッドではサマンサが幸せそうに眠っている。
反対側では、アグネスとフロムの寝床は既に空だった。
「……やっぱり」
ニコは小さく呟き、運動のできる格好へ着替える。
サマンサを起こさないよう静かに部屋を出た。
寮の廊下は冷え切っていて、石床の冷たさが足裏に伝わる。
外へ出ると、空にはまだ星が瞬いていた。
吐く息が白い。
それでもニコは練兵場へ向かう。
◆
そこには驚くような光景があった。
まだ夜明け前だというのに、先輩騎士たちが黙々と走り込みや剣の素振りをしている。
剣を振る音。
地面を蹴る足音。
短く吐かれる息。
誰も無駄口を叩いていない。
その中にはヴァスケス班長の姿もあった。
重そうな木剣を片手で軽々と振り続けている。
その動きには、一切の迷いも淀みも無かった。
「(先輩たちは、こんなに早くから自主訓練をしている……)」
衝撃を受けた。
入団試験の試練を潜り抜けたから大丈夫だと勝手に思っていた。
でも、全然大丈夫じゃない。
先輩たちはこんなにも努力している。
自分は何だ。
ずっとベッドにしがみ付いていた。
「くっ」
ニコは走り始める。
まだ昨日の筋肉痛が残っているせいで、身体中が悲鳴を上げる。
脚が重い。
肺が痛い。
それでも走る。
走らないといけない気がした。
置いていかれるのは嫌だった。
心の中がぐちゃぐちゃだった。
悔しい。
情けない。
でも諦めたくない。
だからニコは走るのを止めない。
止めてはいけない気がしたからだ。
◆
そんな時、不意に横から声が掛かる。
「そんなに最初から飛ばすと、余計な負担が掛かって訓練にならないよ。最初は体が訴えてくることに耳を傾けながら、ゆっくりとね」
アグネスだった。
いつの間にかアグネスが横を走っていた。
「アグネス……」
「疲れていると姿勢が崩れやすいんだ。そういう時が怪我しやすい」
反対側をフロムが走っている。
「ひじを少し引いて。呼吸を乱さないように」
「う、うん」
三人で並んで走る。
不思議だった。
さっきまで重かった足が、少しだけ軽くなる。
呼吸も整ってくる。
空の端がゆっくり白み始めていた。
朝露の匂い。
冷たい風。
規則正しく重なる足音。
「どう、朝練もいいものでしょ?」
アグネスが微笑む。
「うん」
ニコもつられて笑顔を浮かべる。
今朝まで胸の中で渦巻いていたグチャグチャな感情は、ずいぶん静まっていた。
悔しさは消えていない。
でも、それで良かった。
悔しいから前へ進める。
そう思えた。
そして分かったことがあった。
「あたしは、自分に胸の張れる自分になりたい」
その言葉は、誰かに聞かせるためじゃない。
自分自身へ向けた誓いだった。
アグネスは少し驚いたように目を瞬かせ、フロムは小さく口元を緩める。
そんな三人を、ヴァスケスが少し離れた場所から見つめていた。
「……ようやく走り出したか」
ヴァスケスは誰にも聞こえない声で呟くと、再び木剣を振り下ろす。
乾いた音が、夜明け前の練兵場に鋭く響いた。




