【挿話】イーサン・ハインツの包囲網
「父さん、今時間ある? 話があるんだけど」
「どうした、珍しいな」
その日、昼間から書類仕事でハインツ邸の書斎に籠っていた父親のもとへ、学園から帰宅したイーサンが訪ねた。
母を早くに亡くした影響だろうか。手掛けていた事業に時間をとられて父親らしいことをあまりしてやれず、ほとんど構ってあげられなかったのも要因のひとつかもしれない。
幼少から口数が少なく、どこか達観したところがあったイーサンは、自身の父親に対してもあまり積極的に話す方ではなかった。
そのため、わざわざこうして父親のもとへ訪ねてくること自体が、珍しいことだったのだ。
「さぁ、掛けなさい。体調はどうだ? 学園は楽しいか?」
「体調はすごくいい。学園の方は、まあまあかな」
書類が山積みになったデスクの向こう側から出てきたイーサンの父は、近況を聞く機会が得られた喜びを隠さないまま、息子と向き合う形でソファへ腰掛けた。
長年悩まされてきた高熱の原因が判明し、今では学園に通えるまでになった息子を見て、心から嬉しく思いながら。
「そうか、安心したよ。外出できるようになれば、何か欲しいものも見つかるだろう。遠慮せず、なんでも言いなさい」
「今は特にないよ。頼みたいことならあるけど」
「頼み事か。どういったものだ?」
遊び盛りの十代にして物欲がほとんどなく、何か強請るようなことも今までなかったイーサンは、頼み事も珍しかった。
父親としては、元気になった息子を盛大に甘やかすいい機会だと思い、なんでも叶える心積りで答えを待った。
しかし、息子が口にしたのは予想外の内容だった。
「結婚したい人がいるんだ」
「結婚? 随分と唐突だな。その歳ではまだ早くないか」
「もちろん、今すぐにってわけじゃないけど。でも、絶対にこの人と結婚したいって思う相手がいるんだ。ずっと前から」
「そうか……。一応、相手を聞いてもいいか」
息子からそんな話をされるとは思ってもいなかったため、イーサンの父は大いに戸惑った。
最近は学園に通う頻度も増えたため、向こうで好きな人でもできたのかと考えたが、そうではなかった。
「マクシー」
「……、家庭教師に来てもらっている?」
「そう。家庭教師に来てくれてる、マクシー・アルエット」
二人がそんな会話を交わしたのは、マクシーが家庭教師を辞める三年ほど前のことだった。
◇
突然の結婚話に戸惑っている父親を説得するため、マクシーが自身にとってどれほど大きな存在なのかをイーサンは切々と訴えた。
家の厳しい経済状況にもめげない気丈さ。傍若無人に振る舞っていたイーサンを決して見捨てない真面目なところ。つらい思いをしていた時には誰よりも心に寄り添ってくれた優しさ。
上げればキリがないが、マクシーの存在は幼い頃からずっとイーサンの心を掴んで離さなかった。
「こんなことを聞くのは野暮かもしれないが……彼女の気持ちは知っているのか?」
「それっぽいことは聞いたけど、」
「聞いたのか」
その時、息子の知らない一面を知った父は、たいそう面食らった様子だった。想い人へ見せる積極性が彼のどこにあったのかと思っているのが目に見えた。
そんな父には構わず、イーサンは話しを続ける。
「僕のことは家庭教師先の家の息子だからって、応えてくれなかった」
この日は、イーサンがマクシーにキスをした数日後のことだった。
初めて目にするような表情をたくさん見られたことを嬉しく思ったと同時に、マクシーに言われたことが頭から離れないでいた。
『こういうことは将来を誓い合った方とするべきです! 安易にするものではありません……っ』
安易な気持ちでキスをしたわけではないのに、とイーサンは思った。
マクシーだからしたのだと伝えても、受け入れてはくれなかった。
『私は、ハインツ家ご当主であるイーサン様のお父様に信頼を寄せていただいて、家庭教師として雇っていただいているのです。こういうことは、その信頼を裏切ることになります』
今の関係性では、きっと何があってもマクシーはイーサンのことを受け入れないのだろうと気付かされたのは、ある意味では良かったことなのかもしれない。
だからこそイーサンは、考えた末にこうして行動に移した。
「多分……マクシーは近いうちに、家庭教師を辞めるって言い出すと思う」
「どうしてそう思うんだ? 彼女がそう言ったのか?」
「だって、僕が学園に通えるようになったら家庭教師はもう必要ないよね」
「だが、魔術はマクシーに教えてもらっているんだろう? 私は魔術に関してはさっぱりだ。お前のために、彼女にはいてもらわなければ困る」
「そうだよね。僕も、そう思ってる」
イーサンは先ほど『それっぽいことを聞いた』とぼかしたが、あえて父には言わなかった。
マクシーにはっきりと想いを告げ、キスをしたことを。
イーサンの言動をマクシーは重大なことと受け止め、責任を感じている様子だったのは見てとれた。
けれど自ら起こした行動を、彼はひとつも悔やんではいなかった。
「その時が来たら、彼女を引き止めてほしいのか」
「引き止めなくていいよ」
息子の言わんとすることが汲み取れず、父が困惑したように眉根を寄せる。
そんな彼に、イーサンは自身の気持ちをはっきりと表明した。
「家庭教師も、他の何かも要らない。父さん、僕はマクシーと結婚したいんだ。生涯をともにしたい人と、生きている限りずっとそばにいたい。ただそれだけだよ」
若くして妻を亡くしたイーサンの父には、息子の言葉は特に響くものがあった。
命には限りがある。それが皆、平等であるとも限らず、同じ時を過ごせる保証はどこにもない。
それは愛する妻を失った父がいちばんよく知っていた。
そしてそれらは、原因不明の高熱に悩まされ、いつまで生きられるのかと日々不安に苛まれていたイーサン自身も、常々感じてきたものだった。
だからこそ、マクシーのそばにいるためならなんでもしようと思ったのだ。
「そこで頼みがあるんだ、父さん。アルエット家に、僕との縁談話を持ちかけてほしい。マクシーの両親以外には知られないように」
マクシー本人の気持ちが分からないのは気がかりではあったが、ようやく息子の真剣な思いに向き合うことにした父は、話を聞くことに決めた。
「何故知られたくないのか、理由を聞きいても?」
「まず、アルエット家が財政難なのは知ってる。他の貴族に知られていることも。そんな状況で、マクシーはこのハインツ家に家庭教師として出入りしていた。もし今、僕との縁談話が持ち上がったら、周りに何も言われないとは思えない」
「……まぁ、そうだな」
貴族社会とは、とても面倒なものであった。謂れのない噂というのは、あっという間に広がってしまう。
確かにイーサンの言うように、側から見れば、ハインツ侯爵家の財産を最初から狙っていたのではないかと言われかねないような状況に、意図せずなっていた。
そのため、マクシーがイーサンをたぶらかしたのではないかと、そう言わてしまうのは目に見えた。
父として息子の気難しい性格を知っていると分かるが、イーサンを手懐けるのは容易ではない。
それにマクシーを選んで雇ったのは、他でもないイーサンの父だ。しかも、何人も家庭教師が辞めた後にようやく来てくれたのが、彼女だった。
実際に会話して感じたマクシーの人柄は控えめで奥ゆかしく、真面目すぎるほどの性格は手に取るほど実感できるものだった。
予想し得る謂れのない噂が全て事実無根であることは、彼らが一番よく知ることとなるだろう。
「マクシーが気にすると思うんだ。余計な心労をかけたくない」
イーサンには他の意図もあったが、それも父にはあえて言わなかった。これ以上突っ込んだことを聞かれないうちに、更に情に訴えかける。
「マクシー以外、望まないから」
姿勢を正して、真っ直ぐに父の目を見る。
その凜とした姿には、亡き母の面影があった。
「今まで行かなかった社交界にも出るし、交友関係も今後役に立つなら広げる。事業の手伝いも、この先、僕ができることがあればするよ。父さんが望むことはなんでもする。だから、」
「わ、わかった。お前がそこまで言うなら、本気なんだろう」
畳み掛けるような息子の怒涛の説得に、父は待ったをかけるように目の前に手を翳した。
一時は長く生きられず、人並みの幸せですら手に入れることができないのではと杞憂していたイーサンがここまで立派に育った。それはマクシーのおかげでもある。
実際、マクシーをただの家庭教師に置いておくには勿体ないと思うこともあった。彼女をハインツ家に迎えることに、反対意見は全くない。
「だが、彼女はアルエット家の大切な一人娘だ。こちらで勝手に決めるわけにはいかない。それはわかるな、イーサン」
「もちろん、それはわかってる」
「まずは、アルエット家と話をしよう。今まで息子が世話になっていたというのに、挨拶もろくにできていなかったしな。ちょうどいい機会だ」
早速、直近のスケジュール確認のために立ち上がってデスクへ向かった父に、イーサンは広い背中を追いかけるようにして話しかける。
差し出がましく思われてしまわないよう、控えめであろうと努めて。
「提案なんだけど……アルエット家の事業に、資金援助を申し出てみるのはどうかな。周りに悟られない程度に、少しずつ、少額から。もちろん、父さんが良いと思うならだけど」
「私はいいが……それだと、いわゆる政略結婚というものになってしまうが、お前はそれでいいのか?」
貴族同士の結婚に、政略的なものがついてまわるのは珍しくない。
両家の縁談話に経済的なものが関われば、それはもう政略結婚と呼ばれるものになってしまう。
しかしイーサンは、あえてアルエット家への資金援助の案を持ち出した。もちろん、マクシーとの縁談話に付加価値をつけるためだ。
しかしイーサンは、父の気がかりを一掃するように真面目な顔で言い切った。
「マクシーと一緒にいられるなら、構わない」
「——」
あっけないほどさっぱりしたイーサンの答えに、父は言葉を詰まらせた。それほど、結婚に対する前のめりな姿勢に困惑させられたのだろう。
全く隠そうとしないマクシーへの執心ぶりを懸念する父の心情は、手に取るように伝わってきた。
しかしイーサンは、あえて気付かないふりをした。




