それはいつまでも、忘れられてはいなかった
◇
「マクシー、お前に縁談の話があるんだ」
「えっ、私にですか……?」
ハインツ家を離れてから、半年ほどが経った頃。
それは両親との昼食を終えたあとのことだった。突然の話に、マクシーは目を丸くする。
「本来ならこちらから持参金の用意をしなければならないところだが、お相手の御当主が我がアルエット家に支援を申し出てくださっているんだ」
「私が縁談を引き受けることでアルエット家が安泰となるなら、もちろん、お引き受けいたします。でも、なぜ私を……?」
それは当然の疑問だった。
アルエット家の財政難は、他の貴族にも知られていることだ。数年に渡り社交界へ出られる状況でもなく、他の貴族との交流も少ないのが現状だった。
娘であるマクシーのことを、両親が他所に紹介したのだろうかと考えたが、そうではなかった。
「先方のご子息が、お前をいたく気に入ってくれていてな」
「それは有難いことなのですが……お相手の方は、お知り合いなのでしょうか」
気に入ってくれているということは、見知った相手なのだろう。
しかしいくら考えてみても、マクシーに思い当たる人はいない。
ハインツ家の家庭教師を辞めてからは、少しでも家の足しになればと別の仕事を探そうとしたが、なぜか両親に止められていた。
暫くは家にいて欲しいと切々と訴えられ、マクシーは困惑しながらも受け入れた。
そのため、ここ半年は人の多い場にもほとんど出ていない。だからこそ余計に思い当たる人が浮かばなかった。
「お相手は、マクシーのよく知るお方よ」
「以前マクシーが家庭教師に出向いていた侯爵家のご令息、イーサン・ハインツ様だ」
「えっ……!?」
それは、あまりにも意外な相手だった。
その日の夕刻には顔合わせの用意が整えられ、詳しい話も聞けないまま、マクシーは両親とともにハインツ侯爵家へ訪れることとなった。
急な顔合わせになったのは、多忙でなかなか時間の取れないハインツ家当主の都合に合わせたためらしい。
侯爵邸でよく見知った顔を前にしたマクシーは、ひどく所在なさげに俯いた。
(どうして、こんなことになったのかわからない)
戸惑っている様子のマクシーに気付いたイーサンの父が、少しでも不安をなくそうと、気遣うように優しく話しかけてくれた。
「マクシー、急なことに驚いただろう。学生のうちに身を固めたいと、息子が言っていてな。イーサンはまだ未熟なところばかりだが、ハインツ家次期当主としての心構えは確かにある。君がよければ、我がハインツ家に来てくれないだろうか」
「そんな……私には勿体無いほどのお申し出に、アルエット家へのご支援まで、本当に心から感謝しております」
その気持ちは嘘ではない。
けれどこれまでの事情が飲み込めないまま、とんとん拍子に話が進んでいることに、マクシーの心はいつまでも落ち着かず騒ついていた。
「床に伏せってばかりだったイーサンがここまで元気になったのは、マクシーが家庭教師として来てくれてからだ。なかなか時間の取れない父親の私に変わって親身に寄り添い、魔術の道にまで導いてくれた。改めて、君には感謝しているよ」
それが心からの気持ちであることは、マクシーにもよくわかっていた。けれど、肝心のイーサンの心がわからない。
ふと顔を上げると、マクシーの両親に話しかけるイーサンがいた。今まで見たことがないような、人当たりのいい笑顔で。
「よろしければ彼女と少し、二人きりでお話しさせていただきたいのですが」
「もちろん、構いませんわ」
「マクシー、ゆっくり話をしていきなさい」
「ぁ、待って、お父様、お母様……!」
二人はイーサンの父親とともに部屋をあとにした。
咄嗟に立ち上がったマクシーの声は、届かない。
両親を引き止めようとする手は、イーサンに繋がれた。
「とても素敵なご両親だね」
「どうして、こんなことに……?」
笑顔で互いの両親を見送るイーサンを見つめるマクシーの声は、微かに震えていた。
わけがわからず後退れば、ついさっきまで腰掛けていたソファに脚がぶつかる。ふらついたマクシーを支えるように腰に手を回したイーサンは、なんでもないことのように問いかけた。
「それって、縁談のこと?」
イーサンの胸に手を置いて、距離を取ろうとしながらマクシーが頷く。
そこですんなり解放してくれた彼は、混乱しているマクシーにこれまでの経緯を話してくれた。
「マクシーが家庭教師を辞めようと考えていることは、なんとなく気付いていたんだ。三年くらい前だったかな。その頃に、父さんに話をしたんだ。マクシーと結婚したいって」
「三年前……?」
それは確か、イーサンにキスをされた頃だ。
あの日から、彼から離れるべきだと後悔し始めていたことを覚えている。
「まともに学園に通えるようになって、マクシーから教わった魔術が思っていた以上に上達してしまって、それからかな。君が徐々に僕から離れようとしていることに気付いたのは」
(やっぱり、気付かれていた)
そこまであからさまには出さないようにしていたものの、マクシーのよそよそしい態度は、彼なりに感じるものがあったのだろう。
もしかしたら、彼の心を傷付けてしまったのではと、今になってそう思った。
「だから三年前に、アルエット家への縁談話を打診してもらえるよう、父さんに頼んだんだ」
「それは……まさか、私の両親は」
「もちろん知っていたよ。大切な一人娘にきた縁談の話だからね。だけどマクシーには、直前まで伝えないようお願いしたんだ。色々理由はあるけど、いちばんはマクシーに勘付かれて、逃げられられたりしないように」
「逃げたり、しません。そんな……」
「そうかなぁ。僕に何も言わずに、家庭教師を辞めたのに」
心臓が大きく跳ねた。痛いところを突かれたマクシーは、何も言い返せなくなる。
イーサンに浮かんでいた笑顔は、今はもう消えていた。
「父は特別、君に恩を感じている。僕の命の恩人とも言える人だからね。アルエット家への資金援助は父さんの提案なんだ。マクシーをハインツ家に迎えることも快諾してくれたよ」
「私に、アルエット家に、そこまでしていただく義理は……っ」
マクシーはただの一介の家庭教師としてハインツ家に出向いていただけだ。イーサンにはそこまでする義理も、得になるようなことも、なにもない。
それなのに。
「マクシーのこと、ずっと前から好きだったって言ったよね。忘れた?」
「——っ!」
イーサンが静かに歩み寄る。
マクシーのすぐ後ろはソファで塞がれ、それ以上逃げ場はない。それでも後ろへ下がろうとした体は、ソファに受け止められた。
「僕や、僕の家のためを思って、ここから去ったんだよね。マクシーは優しいから」
「……っ」
「でも、色々考えすぎるのもよくないと思うんだ」
ギシ、とソファの軋む音がやけに大きく響く。
マクシーの逃げ道を塞ぐように、イーサンがソファに片膝をついた。やわらかな淡い栗毛の束をとって、今にも零れ落ちそうなマクシーのヘーゼルの瞳をじっと覗き込む。
「身分差とか、周りの目とか、そんなものはどうでもいい。僕はマクシーだけが欲しい。だから利用できるものは、なんでも使ってやる。父でも、君の両親でも。マクシーのそばにいるためなら、なんでもするつもりだ」
押し寄せる感情に、息が詰まるような心地がした。
胸の高鳴りは誤魔化しようがなく、一方的にぶつけられたイーサンの想いの丈は、マクシーにはとても受け止めきれないと思えるほど、大きすぎるものだった。
「どうして僕に何も言わずにハインツ家を出て行ったのか、教えてよ」
「それは、あの……っ」
「僕から離れ難かったから?」
僅かに身を屈めたイーサンが、マクシーの熱くなった頬を両手で包み込む。
「こうして、引き止められると思ったから?」
ぎゅ、と大きな手がマクシーの指を絡めとるように握る。
「だめ、です、離してくださ……ぃ」
「もちろん、引き止めたよ」
甘い蜂蜜のような瞳に見つめられることに耐えきれず、マクシーは顔を逸らした。
けれどそんなことは許さないと言わんばかりに、強引に顔を上げさせられる。
「もう何も問題はなくなった。マクシーを悩ませるようなことは、これからも僕が全て取り払ってあげるから」
「どうして、そこまで」
「僕がマクシーに救われたように、今度はマクシーを、僕が救ってあげたかった。ただそれだけだよ」
「イーサン様……っ」
どう言葉を返すべきか、今はわからない。
彼のそれは執着に近いもので、それほどまでにマクシーを手放したくないという想いは充分に伝わってきた。けれどマクシーには受け止めきれないほどの想いを感じて、今は戸惑いの方が上回っている。
それでもなんとか受け入れてみようと、震える手でマクシーからイーサンの頬にそっと触れてみた。
すると、そこでようやく笑ってくれたイーサンの表情は、どこか安堵しているように見えた。
「僕が大きくなったら、お嫁さんになってくれるんだよね」
「それ、は」
「マクシーのおかげで、元気になったよ。だから、約束を果たして」
もう、すっかり忘れられているものだと思っていた。
しかし高熱に浮かされた際に彼が口にした言葉は、互いにいつまでも忘れられてはいなかった。
整った精悍な顔立ちに、あまりにも綺麗な笑みが浮かべられて。
「これでもう、離れる理由はないよね。マクシー」
広げられた腕に、優しく包まれる。
まるで閉じ込めるように。
決して逃がさないように。
こうしてマクシーは、幼い頃に求婚してくれたイーサンから離れることは、叶わなかった。




