直接「さようなら」は言えなかった
◇
「最近、ここへ来る頻度が減ったね」
マクシーが二十二の歳を迎えた頃。
体が弱く、頻繁に臥せっていたイーサンだったが、十六歳となった今、随分と様変わりしていた。
声変わりをし、あっという間に身長はマクシーを大きく超え、体つきも逞しく成長していた。
「イーサン様はほとんど学園に通えるほどお元気になられましたし、成績も優秀だとお聞きしました。家庭教師はもう必要ないでしょうから……」
それは誰が見ても明らかな事実だった。
今では、マクシーはハインツ家での存在意義を見失っていた。
「まあ確かに、家庭教師はいらないかもしれないけど。魔術はマクシーから教わってるし、そんなの抜きにしたって、僕にはマクシーが必要だよ」
「そう言ってくださるのはありがたいのですが……私は、魔術師ほど多様な魔術を教えることはできないですし、やはり限界があります」
魔術の師を選ぶなら、マクシーよりもっと適任がいるはずだ。それはイーサンの父にも、以前話していたことだった。
今ではイーサンの魔術の技量は、ともに鍛錬を積むにつれて、マクシーを超えるものとなっている。
それに気付いていたマクシーは、イーサンの将来のために正規で魔術師を呼んではどうかと、改めて彼の父に相談したことがあった。
『話はしたんだが……あからさまに嫌な顔をされてしまってな。君がいいと、はっきり断られてしまった』
そう言って申し訳なさそうに眉尻を下げるイーサンの父に、マクシーはそれ以上なにも言えなかった。
頻繁に床に臥せっていた幼少期に比べれば笑顔も増え、よく話すようになったイーサンだが、頑ななところは少しも変わっていない。
「それって何か問題あるのかな。そもそも、魔術を使う目的は僕の魔力消費なんだし」
「ですが、それだけでは勿体無いほどイーサン様は魔術を使いこなせているのですよ。私は魔術師と呼べるほどたいそれた人間ではありませんが、それだけはわかります」
そこで突然、魔術書を持っていたマクシーの手がぐっと引かれる。
驚いて見上げると、真剣な表情のイーサンが何もかもを見透かそうとするように、ヘーゼルの瞳をじっと見つめた。
「そういう自分を卑下するような言い方、良くないよ」
「そんなつもりは……」
「マクシーは僕の命を救った恩人なんだから、もっと胸を張っていいんだよ。僕にとって世界でいちばん、輝いて見える人なんだから。そんな言い方しないで」
それを聞いたマクシーは、どういう反応を返すのが正解なのかわからずに戸惑った。
もちろん嬉しい。けれど言葉通りに受け取るには、向けられた感情があまりに大きすぎて。
イーサンはマクシーを過大評価しすぎていると、そう思わずにはいられなかった。
「マクシーは、家庭教師を辞めたいの?」
「ぁ、っ……」
「何があっても、マクシーを手放すものか」
掴んでいたマクシーの手を優しく握ってはいるけれど、逃がさないと言わんばかりに、イーサンは何か答えようとする彼女の言葉を遮る。
それはほとんど、執着に近いものだった。
マクシーからここを去ることを言い出さなければならないと、最近はずっとそればかり考えていたが、そのことをイーサンに勘付かれている気がした。
「ねえ、マクシー。何か悩んでいるなら僕に話してよ。マクシーのためならなんでもするよ」
「……っ」
黙り込んでしまったマクシーを心配するように、イーサンが顔を覗き込む。
それはマクシーが、いつかイーサンにかけた言葉と同じだった。
「ご心配いただきありがとうございます。ですが、お話できるようなことは何もありません」
きっぱり言い切るマクシーに、イーサンはそれ以上問い詰めようとはしなかった。
そのことに安堵した反面、急にやってきた気まずい沈黙に耐えきれず、マクシーは再び魔術書に目を向けようとする。
しかしその前に、イーサンに体ごと引っ張られる。強引に膝へ座らされたマクシーは、目を丸くした。
頬がかっと熱くなるのを感じる。
「だ、だめです、こんな……!」
「どうして? 僕のことが嫌いだから?」
「そういう、ことでは……っ」
「じゃあ、別にいいよね」
まるで子供の頃に戻ったように無邪気に抱きつくイーサンを、マクシーは昔から無下にすることができなかった。
そこですぐに彼の表情は大人びて変わり、明らかに確信犯的に、マクシーに縋るような目を向ける。
「少し、気分が悪いんだ」
「ぁ……」
「助けて、マクシー」
指を絡めるように、手を強く握られる。すぐにやって来る酩酊感を伴った熱を、マクシーはよく知っていた。
キスをされた日から何度も懇願され、続けられた魔力譲渡。
「ねぇ、さっきの続き。答えてよ。僕のこと、好きか嫌いか」
「ぅ……待っ、ィ、サン、さま……っ」
意識をぼんやりさせる酩酊感に耐えきれず、イーサンに体を委ねる。
この瞬間の、まるでイーサンの熱を分け与えられているような感覚を、マクシーはいまだに慣れずにいた。
窓から差し込む夕陽で茜色に染まった、静かな部屋の中。僅かな間、マクシーの早い息遣いだけが空気に溶けるように響く。
「……どっちか答えるだけなのに、そんなに難しいことかな」
僅かに上気した頬を指先で撫でられ、マクシーは微かに体を震わせた。
どうして今に限って、そんなことを聞くのだろうとぼんやり思いながら。
「嫌いなら、こんなふうに頬を赤くしたりしないよね」
無防備に体を預けるマクシーを、イーサンはじっと眺める。繋がれていた手は、いつの間にか離れていた。
魔力譲渡が終わって、徐々に体から熱が引いていくことに気付いた瞬間、マクシーは慌ててイーサンの膝から降りようとした。
しかしすぐに腰に腕を回されて、身動きできなくなる。
「だめだよ。マクシーは魔力酔いしやすいんだから。暫くは座っていないと」
「このようなところを他の方に見られてしまったら……よからぬ関係だと、噂されてしまいます」
「きちんと説明すればいい。ちゃんと理由があってこうしているんだから。でも、僕はどう思われたって構わない」
そうしてイーサンは、華奢な肩にそっと頭を預けた。そんな彼に、マクシーはどう反応を返すべきか分からなかった。
きっと、それが答えだった。
「好き」か「嫌い」かなんて、なんとも思わない相手であれば適当にあしらえば済むことなのに。
はっきりと返せないほど、イーサンに心を寄せている自分に気付かされて。同時に、やはりここにいるべきではないと、改めて思った。
頬に触れる艶やかな黒髪がどうにもくすぐったかったけれど、今のマクシーにはどうすることもできなかった。
「体が楽になったよ。ありがとう、マクシー」
「それは……よかったです」
「おかげで体調を崩すことはほとんどなくなったけど、僕にはマクシーが必要だ。なによりも、誰よりも」
「……」
マクシーは答えなかった。
いや、答えられなかった。
もう心は、決まっていた。
それから一年も経たないうちに、マクシーはハインツ家の家庭教師を自ら退いた。
イーサンにはもう必要ないだろうと彼の父に伝えれば、惜しみながらも承諾してくれた。
イーサンが学園にいる間をあえて見計らったため、別れの言葉も告げないまま、マクシーはハインツ家をあとにする。
直接「さよなら」と面と向かって言うことは、どうしてもできなかった。
あの日キスをされた時に、縋る手を放すべきだった。
本当にイーサンのためを思うなら、もっと早くこの決断をするべきだったと、マクシーはひどく後悔した。




