第八章 鏡の中の友人
翌朝、遥人は皇宮へ戻る代わりに、宮内府が来賓の滞在用として管理している離宮近くの洋館で目を覚ましたが、眠ったという実感はほとんどなく、夜のあいだに何度も時計を確認しては、文字盤が正しい時刻を示していることに安堵し、その安堵自体がひどく馬鹿げていると感じながら、また目を閉じることを繰り返していた。
午前六時半に寝室を出ると、食堂にはすでに榊原がいて、毒物検査の済んだ朝食を並べていた。
昨朝なら、味噌汁へ器具を入れないでほしいと文句を言っていただろう。しかし今朝は、検査器具の緑色の光を見ても何も感じず、椅子へ座ったまま、湯気の向こうにある空席を見つめた。
孝仁親王は夜明け前に皇宮へ戻り、佳澄妃へ二十二年前のことを話しているという。
父がどこまで語り、母がどこまで知っていたのか、遥人には知らされていない。
玲子内親王は皇宮内の居所におらず、昨夜の晩餐会以降、予定されていた公務をすべて体調不良で取りやめていた。護衛官は、本人から一人にしてほしいと言われ、午前中から居室の外で待機していたと説明したが、夕刻になって扉を開けた時には、室内は無人だった。
窓も通用口も施錠され、防犯記録には異常がない。
皇族女性が、護衛官にも監視設備にも気づかれず皇宮から姿を消した。
その事実は、大学の旧図書館で起きた密室殺人と、不快なほどよく似ていた。
「食欲がおありにならなくても、少しは召し上がってください。三浦さんの病院へ向かうのは、医師と警察の許可が出たあとですから、今すぐ席を立っても早く会えるわけではありません」
榊原は遥人の前へ焼き魚を置きながら、いつもと変わらない声で言った。
「私は、何も言っていません」
「言われなくてもわかります。昨夜から、三浦さんのことを考えておられる時だけ、左手の親指で人差し指の爪を押していらっしゃいます」
遥人は、自分の左手を見た。
爪の脇が白くなるほど、親指へ力が入っている。
「その癖は以前からありましたか」
「幼い頃からです。ご自分が何かを我慢していることに、周囲より遅れて気づかれるところも変わっておられません」
「三浦に会って、何を尋ねればよいのか考えていました。映像に映っていた人物の顔を見せれば、記憶を刺激できるかもしれませんが、薬物の影響を受けている状態で、自分と同じ顔を見せることが適切かどうかわかりません」
「それを判断するのは医師と警察です。殿下が先回りして、すべての危険を取り除く必要はありません」
「御厨教授のようになるな、という意味ですか」
「昨日申し上げたことを、根に持っておられるのですか」
「忘れないようにしているだけです。耳に痛い言葉ほど、都合よく忘れたくなりますから」
榊原は、遥人が箸を手に取ったことを確認すると、自分も向かいの椅子へ座った。
「玲子内親王殿下について、宮内府は警察へ正式な捜索願を出していません。皇族の所在不明が外部へ漏れることを恐れ、皇宮警察だけで捜しているようです」
「長谷部さんには伝わっていますか」
「私からお伝えしました。皇室内部の問題として処理しようとする動きはありますが、御厨教授殺害事件に関係する可能性がある以上、隠すべきではないと判断しました」
「榊原さんが、命令を待たずに?」
「殿下の悪い影響を受けたのかもしれません」
遥人は、わずかに笑った。
それが昨夜から初めて浮かべた笑みであることに気づいたのか、榊原は何も言わず、味噌汁の椀を遥人の近くへ押した。
*
三浦直哉が入院している青岳記念病院の特別病棟は、一般病棟から離れた建物にあり、廊下の入口には制服警察官が二人、その奥には病院職員に扮した皇宮警察官が一人立っていた。
「病院の中でまで、この人数は必要なのでしょうか」
遥人が小声で言うと、榊原は前を向いたまま答えた。
「必要かどうかを判断するのは、護衛を受ける方ではありません」
「では、本人が息苦しいと感じていることだけは、判断材料に入れてください」
「検討します」
「あなたが検討すると言う時は、ほとんど断っている時ですね」
「殿下も、努力するとおっしゃる時は、ほとんど約束を守る気がないでしょう」
病室の前では、長谷部が紙コップのコーヒーを飲みながら待っていた。
昨日から着替えていないらしく、シャツの襟はわずかに崩れ、目の下の影も濃くなっている。
「医師から許可が出ましたが、長くても二十分です。三浦直哉の記憶は戻り始めているものの、頭部の打撲と薬物の影響が残っていますから、無理に思い出させようとしたり、本人が知らない情報を先に与えたりしないでください」
「映像に映っていた人物については?」
「まだ見せません。あなたと似た顔の人物がいたかどうかだけを、こちらから誘導せずに尋ねます。三浦が自発的に話さなければ、今日のところは止めるつもりです」
「わかりました」
「素直に返事をされると、かえって不安になりますね」
「昨夜、扱いづらいと何度も言われたので、改善しようと思っています」
「一晩で改善できるなら、友人も苦労していないでしょう」
長谷部が病室の扉を開けると、三浦はベッドの背を起こし、右腕に点滴を受けながら、窓の外を眺めていた。
頭には白い包帯が巻かれているが、顔色は昨日よりよく、遥人を見ると、ほっとしたように眉を下げた。
「久世、お前、来るのが遅い。俺は知らない刑事に何度も同じことを聞かれて、病院の飯まで薄味で、ものすごく心細かったんだからな。友達なら、せめて果物の一つくらい持ってくるものじゃないのか」
「何を持ってきてよいかわからなかったので、榊原さんに尋ねたところ、病院側の許可が出るまでは食品を持ち込むなと言われた」
「そこで素直に従うなよ。お前なら、病院の規則を三十分くらいかけて説得して、りんごの一個くらい持ち込めるだろ」
「私は、普段どのような人間だと思われているんだ」
「正しいことを面倒な言い方で主張し続けて、最後には相手が疲れて折れるまでやめない人間」
長谷部が咳払いをした。
「三浦君、会話ができる状態なのは何よりですが、久世さんと話せる時間は限られています。昨日の出来事について、何か思い出したことがあれば、順番が曖昧でも構いませんから話してください」
三浦の笑みが消えた。
「その前に、久世へ一つ聞かせてもらえますか」
「何だ」
「俺が御厨先生を殺したと思っているか」
病室の空気が変わった。
三浦は冗談へ逃げることも、相手が答えやすいよう笑ってみせることもなく、まっすぐ遥人を見ていた。
遥人は、すぐに「思っていない」と言うことができなかった。
証拠を見れば、三浦を疑う理由はいくつもある。しかし、それらがあまりにわかりやすく一人へ集まりすぎていることも、遥人は知っている。
ここで友人を安心させるためだけに無条件で信じると言えば、三浦は喜ぶかもしれない。だが、あとになって一つでも疑う素振りを見せれば、その言葉は慰めのためについた嘘になる。
「君が犯人だと考えれば説明しやすい証拠はある。しかし、君が犯人だとすると説明できなくなることのほうが多いので、私は違うと思っている」
「何だよ、それ。普通は友達なら、絶対に信じるとか、お前が人を殺すわけがないとか、もう少し感動的なことを言うところだろ」
「君が人を殺せない人間だとは断言できない。追い詰められれば、私も君も、今の自分には想像できないことをする可能性はある。ただ、今回の事件については、君が計画したとは考えにくいという意味だ」
三浦はしばらく黙ったあと、困ったように笑った。
「やっぱり、お前に聞いた俺が悪かった。だけど、妙に安心したよ。久世が絶対に信じるなんて言ったら、俺を落ち着かせるために嘘をついているんじゃないかと思っただろうし、疑っているなら疑っているで、お前はたぶん隠せないからな」
「私は、そこまで嘘が下手だろうか」
「嘘そのものは上手いんだと思う。家のことだって、かなり隠しているんだろ。でも、人に嫌われたくなくてつく小さな嘘が下手なんだよ。そこは、俺よりずっと不器用だ」
遥人は、返す言葉を探したが、長谷部が先に口を挟んだ。
「友情の確認が済んだところで、昨日の記憶について話してもらえますか。午前中、女性から封筒を渡されたところまでは覚えていますね」
「はい。顔は見ていません。女の人の声で、御厨先生へ渡せば母親のことがわかると言われました。最初は変な勧誘かと思ったんですけど、母の名前を出されたから、無視できなくて」
「そのあと、旧図書館へ行った?」
「午後の講義が終わってからです。久世には、ちょっと用があるとだけ言って別れたと思います。旧図書館の受付には誰もいなくて、机の上に、御厨先生は二階にいると書いた紙が置かれていました」
「その紙は、現場から見つかっていません」
「小さな白い紙でした。見たあと、受付のくず籠へ捨てたと思います」
長谷部が手帳へ書き込む。
「二階の史料室は、鍵がかかっていなかったのですか」
「開いていました。中は照明が半分しかついていなくて、奥の机に御厨先生が座っていました。ただ、こっちへ背中を向けていたので、顔は見ていません」
遥人は、昨日発見した時の室内を思い出した。
御厨教授は机へ伏せていたが、椅子の位置は、扉から見て斜めに背を向ける形になっていた。
「教授は、君へ話しかけたのか」
「ああ。『封筒は机の右側へ置いてくれ』って言われた。声が少し変だとは思ったけど、古い部屋で響いているせいだと思った。俺が母のことを聞くと、『今は話せない』『君が持ってきたものを確認すれば、すべてわかる』って」
「会話は成立していたのですか」
長谷部が尋ねた。
三浦は、記憶を確かめるように目を閉じた。
「成立していたと思っていました。でも、今考えると、俺が何を聞いても、似たような返事しかしていなかった気がします。母は本当に病気で死んだのかと聞いても、『今は話せない』。封筒の中に何が入っているのかと聞いても、『確認すればわかる』。それから、何かを話す前に、毎回、小さな金属音がしていました」
「金属音?」
「懐中時計の蓋を閉じるような、軽い音です。カチッと鳴って、少し間があってから先生の声がする。最初は、机の上で何かを触っているんだと思っていました」
遥人は長谷部を見た。
「御厨教授の足元に、銀色の懐中時計が落ちていました」
「鑑識が分解しています。外見は古い機械式ですが、内部に小型の録音再生装置と無線受信機が組み込まれていました。三浦君が聞いた声は、あの時計から流れていた可能性があります」
三浦の顔が青ざめた。
「じゃあ、あの時、御厨先生はもう……」
「死亡推定時刻は、午後二時五十分から三時二十分の間です。君が受付へ名前を書いた午後三時四十五分には、亡くなっていた可能性が高い」
「でも、座っていた。確かに、椅子に座っていたんです」
「遺体は、細い透明な線によって背もたれへ固定されていました」
長谷部は、三浦へ必要以上の衝撃を与えないよう、言葉を選びながら続けた。
「線は上着の内側から天井の換気口へ通され、壁の裏を経て、隠し書架の機構へつながっていた。午後四時二十一分、時計塔の制御装置が一時停止した際、固定していた線が切断され、御厨教授の身体が机へ倒れ込んだと考えられます」
遥人と榊原が一階から二階へ上がろうとした時、硬いものが床へ落ちる音を聞いた。
あれは犯人が逃げた音ではなかった。
椅子へ固定されていた御厨教授の身体が、机へ倒れ、懐中時計が床へ転がった音だったのだ。
「つまり、私たちが音を聞いた時、犯人が史料室の中にいたとは限らない。教授はすでに亡くなっており、遺体を支えていた線が、離れた場所から操作されただけだった」
遥人が言うと、長谷部は頷いた。
「扉が施錠されていたことも、犯人が密室から消えた証拠にはなりません。隠し書架の裏から、扉の錠へつながる古い非常解錠装置が見つかりました。通常は内側から扉を開けるためのものですが、機構を逆に使えば、隠し通路へ出たあと、外部から鍵をかけることができる」
「それなら、椅子の下に落ちていた鍵は何だったのですか」
「合鍵です。鍵番号は同じですが、二年前に作られた新しいものだとわかりました。桑原澄江の手へ握らされていた鍵が、旧図書館で以前から使われていた本来の鍵です」
犯人は、古い鍵を桑原へ持たせ、新しい合鍵を御厨教授の足元へ置いた。
警察官たちが密室の鍵として合鍵へ注目している間に停電を起こし、その鍵を回収した。まるで、死者のそばにあった鍵が、誰にも触れられず桑原の手へ移動したかのように見せるために。
「停電中、合鍵を持ち出した人物は、警察官か鑑識員の中にいたことになります」
遥人が言うと、長谷部は顔を硬くした。
「現場へ入った全員の行動を確認しています。ただ、停電直前まで合鍵を撮影していた鑑識員は、非常灯がついた時、鍵がなくなっていることに気づいていなかった。暗闇の数秒間に直接拾われたのか、事前に細い線や磁石を取り付けられていたのか、まだわかっていません」
「密室の仕掛けも、遺体が倒れる時刻も、桑原さんが発見される時刻も、時計塔の装置から操作されていた。犯人は史料室にいなくても、時計塔か、その制御盤へ接続できる場所にいればよかったのですね」
「そうなります。そして、真壁さんを襲った人物が、時計塔へ入っている」
長谷部は三浦へ顔を戻した。
「君が封筒を置いたあと、何が起きましたか」
三浦は、点滴のつながった右腕を左手で押さえた。
「机へ近づいて、封筒を置きました。その時、御厨先生の右手が床へ垂れているのが見えたんです。最初は眠っているのかと思ったけど、指の色が変だった。俺が先生に触ろうとしたら、背後から声がしました」
「何と言われた?」
「『触るな。次は君が倒れる』って」
「御厨教授の声ではなかったのですか」
「違います。俺の声でした」
三浦は、自分で口にした言葉に怯えるように、唇を強く結んだ。
「正確には、録音で聞く自分の声に似ていました。自分が喋っている時に頭の中で聞こえる声じゃなくて、スマートフォンで録音した声をあとから再生した時みたいな、少し低くて、他人のように聞こえる声です」
「振り返ったのか」
遥人が尋ねると、三浦は頷いた。
「誰もいませんでした。ただ、右側の書架にガラス扉があって、そこに俺の姿が映っていた。だから最初は、薬か何かで頭がおかしくなって、自分の声が聞こえたんだと思った」
「ガラスに映っていたのは、本当に君自身だったのですか」
三浦は、長いあいだ答えなかった。
窓の外を走る車の音が、病室の中まで微かに届く。
「昨日は、自分の姿だったと思っていました。でも、夜中に何度も思い出しているうちに、変なことに気づいたんです。ガラスの中の俺は、俺が振り返るより少し早く、こっちを向いていた」
「鏡像ではなかった?」
「わかりません。薬を打たれていたなら、記憶そのものが間違っているかもしれない。ただ、俺は右手で机へ触れていたのに、ガラスの中の男も右手を上げていた。鏡なら、反対になるはずだろ」
単なる鏡像ではない。
ガラス扉の向こう側、書架の隙間か隠し通路の入口に、三浦と同じ顔をした人物が立っていたのだ。
「その人物の首に、傷は見えませんでしたか」
長谷部が尋ねた。
三浦は首を傾げたあと、自分の左耳の下へ手を当てた。
「三本くらい、赤い線があったと思います。けど、それを見たのが本当なのか、今、刑事さんに聞かれたからそう思ったのか、自信がありません」
「これ以上、特徴について質問するのは止めましょう」
長谷部は手帳を閉じた。
「三浦君、その男は他に何か言いましたか」
「俺に近づいて、首筋へ何かを刺しました。力が入らなくなって、床へ倒れた時、そいつの靴しか見えなかった。俺と同じようなスニーカーだったけど、新しくて、汚れていなかった。それから、俺の鞄を開けながら、『母親に似ていなくて残念だったな』って」
三浦の左手が、点滴用のシーツを握り締めた。
「俺が、あんたは誰だと聞いたら、そいつは笑って、『お前が母親だと思っていた女は、俺を選ぶはずだった』と言った。それから先は、ほとんど覚えていません」
「水城美弥子さんが、本来はその人物を育てるはずだったという意味でしょうか」
遥人が尋ねても、三浦は答えられなかった。
「最後に、もう一つだけです」
三浦は遥人を見た。
「久世、お前の名前を呼んでいた」
「私の?」
「『次は久世に選ばせる』って。それから、『あいつは、選ばれる側でいることに慣れすぎた』とも言っていた。俺は、お前が何の話に巻き込まれているのか知らないし、家の事情を話せないなら、今までどおり話さなくてもいいと思っていた。でも、俺が母親のことで狙われて、お前の名前まで出てきたのなら、もう何も知らないふりをして隣にいるのは無理だ」
三浦の声には、怒りよりも、置いていかれた痛みがあった。
「俺たちは友達なんだろ。それとも、お前にとって俺は、身分を隠して普通の学生をやるために必要だった、都合のいい相手なのか」
遥人は、答えを急がなかった。
三浦を信頼していないから、正体を隠していたのではない。
秘密を話せば、三浦の人生が変わってしまうから、守るために言わなかった。
そう説明することはできた。
しかしそれは、父が美弥子や佳澄、自分へ対して選んだ言い訳と、ほとんど同じ形をしていた。
知らなければ安全でいられる。
選ばせれば苦しむから、自分が代わりに決める。
遥人は三浦を守っていたのではなく、三浦が秘密を知ったあと、自分から離れていく可能性を恐れていたのかもしれない。
「君は、都合のいい相手ではない」
遥人は、言葉を選びながら続けた。
「ただ、私が何者かを知れば、君の意思とは関係なく、今までと同じ生活はできなくなる。周囲から見られ方が変わり、家族のことまで調べられ、君が何を話しても、私との関係を通して受け取られるようになる。それが嫌で、何も言わないほうが君のためだと考えていた」
「俺のために黙っていた、って言うのか」
「そう思っていた。けれど今は、君のためという言葉を使えば、自分が怖がっていたことまで正当化できるとわかった。私は、正体を知った君が、以前と同じように接してくれなくなることを恐れていた」
三浦は遥人の顔を見つめた。
榊原が何かを言いかけたが、遥人は視線だけで止めた。
「事件が終わるまで、すべてを話すことはできない。ただ、これ以上、君と無関係なことだとは言わない。御厨教授が調べていた二十二年前の出来事は、私と君の出生に関係している可能性がある。そして、私には、君へ知られれば友人ではいられなくなるかもしれない身分がある」
「犯罪者なのか」
「違う」
「どこかの宗教団体の跡取り?」
「それも違う」
「大企業の御曹司なら、正直、だいたい想像どおりだから驚かないぞ」
「それより少し、面倒かもしれない」
「お前が面倒と言うなら、相当だな」
三浦は、まだ納得していなかった。
それでも、遥人が初めて自分の恐れを口にしたことだけは伝わったらしく、握っていたシーツから力を抜いた。
「事件が終わったら、ちゃんと話せよ。俺が離れるかどうかまで、お前が先に決めるな」
「約束する」
「努力する、じゃなくて?」
「約束する」
三浦は、ようやく小さく笑った。
*
面会を終えて病室を出ると、長谷部は廊下の端まで歩き、周囲に人がいないことを確かめてから、遥人へ一枚の写真を見せた。
「旧図書館に残っていた濡れた靴跡について、鑑定結果が出ました。靴は、桑原澄江が履いていたものと一致しますが、足跡をつけた人物は桑原本人ではありません」
「何を根拠に?」
「桑原は右膝に古い傷があり、歩く時には右足の歩幅が短くなる。しかし現場の足跡は、左足のほうが短く、右足へ強く体重をかけていた。しかも靴の内側から、桑原とは異なる男性の皮膚片が見つかっています」
「犯人が桑原さんの靴を履き、受付から史料室まで歩いた」
「おそらく。ただし、靴の大きさは二十三・五センチです。成人男性が普通に履くには小さすぎるため、踵を踏み、足先だけ入れて歩いた。その結果、左右で濃さの違う不自然な足跡になったのでしょう」
遥人は、最初に見た足跡を思い出した。
右だけ泥が濃く、左右の間隔も一定でなかった。
重いものを運びながら歩いたのではない。
自分の足に合わない靴を無理に履いていたのだ。
「なぜ、桑原さんの靴で足跡を残したのでしょう。隠し書架の中から桑原さんが見つかれば、警察は彼女が史料室まで歩いたと考える。しかし本人の足には靴がなく、右の靴下に泥が付いていた。あまりに矛盾が目立ちすぎます」
「その矛盾へ気づかせるためだったのかもしれません」
長谷部が言った。
「犯人は、証拠を隠すより、発見させることを優先している。三浦へ血の付いたハンカチを持たせたのも、真壁の車へ偽物の識別札を置いたのも、完全に罪を着せるためというより、我々へ一度その人物を疑わせたあと、不自然さへ気づかせるために見える」
「疑い、間違いに気づき、別の人物を選ぶ。その手順を、犯人は私たちに繰り返させている」
「そして映像の男は、あなたへ『次はお前が選べ』と告げた」
犯人は、単に真相を知らせようとしているのではない。
証拠を一つずつ並べ、誰かを犯人に見せ、その矛盾を解かせることで、遥人自身に選択させようとしている。
真壁を選ぶのか。
三浦を選ぶのか。
玲子内親王を選ぶのか。
あるいは、三人目の男を選ぶのか。
「犯人が選ばせたいのは、御厨教授を殺した人物だけではないのかもしれません」
遥人は言った。
「三人の子供のうち、誰が皇嗣であるべきか。それを、私自身に選ばせようとしている」
「自分が選ばれるために?」
「わかりません。皇嗣になりたいのなら、御厨教授の資料を公表し、自分こそ佳澄妃の子だと主張すればよい。しかし彼は、顔を見せながら名前を名乗らず、三浦を傷つけ、真壁を陥れ、私に推理をさせている。地位が欲しいだけなら、遠回りすぎます」
「では、何が目的だと思いますか」
「私がどのような基準で人を選ぶか、見ているのだと思います。血筋か、育った環境か、法的な身分か、それとも自分にとって大切な相手か。犯人にとっては、その答えが皇位そのものより重要なのかもしれません」
長谷部は、しばらく考えたあと、別の証拠袋を取り出した。
「三浦が運んだ封筒の便箋について、中央の切れ目から極薄のフィルムが見つかりました。文字ではなく、古い医療記録を縮小撮影したものです」
「何が記録されていたのですか」
「三人の新生児に関する一覧表ですが、氏名の欄は空白で、母親の欄も記号になっています。ただ、特記事項に、それぞれを見分ける身体的特徴が書かれていました」
長谷部は、鑑識が拡大した画像を遥人へ見せた。
一人目。
『左足踵に穿刺痕。血液採取時のもの』
二人目。
『右肩甲骨下に楕円形の母斑』
三人目。
『左頸部に三条の索状痕』
映像の男の左首には、三本の傷がある。
真壁が車へ隠した乳児にも、同じ傷があった。
「三人目の特徴は一致しています。しかし、この表だけでは、それぞれを誰が産んだかはわからない」
「母親を示す記号は、A、B、Cの三つです」
長谷部の言葉に、遥人は画像を見直した。
「母親は二人ではなかったのですか」
「孝仁親王殿下の説明では、水城美弥子が双子を産み、佳澄妃殿下が一人を産んだ。母親は二人のはずです。しかし、この記録では三人の乳児に、それぞれ異なる母親の記号が付けられている」
「記号が母親を示しているとは限らないのでは?」
「表の欄外に、『母体識別記号』と記されています。少なくとも、この記録を作成した医療関係者は、三人を別々の女性から生まれた子供として扱っていた」
水城美弥子の双子という前提が、崩れる。
三人の父親が同じであっても、母親は三人いた。
孝仁親王が知らされていた双子の話も、誰かが用意した嘘だった可能性がある。
「三人目の母親は、誰なのですか」
「それを示す部分だけが、フィルムから削られています。ただし、三番目の記録には、出産場所を示す略号が残っていました」
長谷部は画像の右端を拡大した。
『S・R』
遥人には、すぐに意味がわからなかった。
だが、その略号を見た榊原が、隠しきれないほど大きく表情を変えた。
「榊原さん、心当たりがあるのですか」
「皇宮内にある玲泉療養所の旧称は、瑞泉離宮です。内部文書では、長いあいだS・Rと略されていました」
「瑞泉離宮で出産した女性は?」
榊原は、答えをためらった。
遥人は、その沈黙から、答えを先に理解した。
二十二年前、玲子内親王は体調不良を理由に、半年間、瑞泉離宮で療養していた。
もし、三本の傷を持つ乳児が瑞泉離宮で生まれたのなら、三人目は水城美弥子の双子でも、佳澄妃の子でもない。
玲子内親王が産んだ子供である可能性が浮かぶ。
そして映像に映っていた男は、三浦と同じ顔をしていた。
別々の母親から生まれた二人が、偶然そこまで似るとは考えにくい。
「顔と出生記録のどちらかが、嘘です」
遥人は、画像を見つめながら言った。
「映像の男は三浦の双子ではないのに、三浦と同じ顔をしている。あるいは、記録が別の子供へ差し替えられている。犯人は、身体の傷だけは本物だと真壁さんに証言させ、顔については私たちが勝手に双子だと思い込むよう仕向けた」
「親切すぎる証拠を疑え、と話したばかりですね」
「はい。彼は、自分の顔を見せたのではなく、私たちが見たい顔を見せたのかもしれません」
遥人がそう口にした時、病室の中から、何かが床へ落ちる大きな音がした。
扉を開けると、三浦がベッドから身を乗り出し、窓際の床を見つめている。
窓は閉じられ、外側は五階の壁面で、足場も避難用の通路もない。
それにもかかわらず、窓の内側には、いつ置かれたのかわからない白い封筒が一通落ちていた。
表には、三浦直哉の字に酷似した筆跡で、
『彰仁へ』
と書かれている。
長谷部が手袋を着け、封筒を拾い上げた。
中に入っていたのは、一枚の鏡だった。
薄い鏡面には、刃物で文章が刻まれている。
『私の顔を見ても、まだ三浦を選べるか』
遥人が文字を読み終えた直後、鏡の表面に映った三浦の顔が、照明の角度によって二つに重なった。
一つは、ベッドの上で怯えている友人の顔。
もう一つは、その背後で笑っているように見える、同じ輪郭の男の顔だった。




