第七章 十八番の証言
地下駐車場で発生した火災は、真壁恭介の車一台を焼いただけで、隣接する車両や建物の設備へ燃え移る前に消し止められたが、消火活動が終わったあとも旧図書館の周囲には焦げた樹脂と薬品の匂いが漂い、雨によって薄められた黒い煙が、濡れた煉瓦の壁にまとわりつくように残っていた。
火元は運転席の足元だった。
車内へ撒かれた可燃性の液体に、一定時間を置いて発熱する薬品が混ぜられており、真壁をトランクへ閉じ込めた人物が現場から離れたあと、自動的に発火するよう仕掛けられていたらしい。炎は前部座席から後部座席へ広がったものの、トランク内部までは達しておらず、真壁は煙を吸って意識を失っていたが、命に別状はなかった。
偶然、早く火災に気づいたから助かったのではない。
犯人は、真壁が死ぬ前に発見される可能性まで計算していたように見えた。
車を完全に焼き、真壁の口を封じることが目的なら、もっと確実な方法はいくらでもあったはずである。それにもかかわらず、犯人は大学の地下駐車場という発見されやすい場所へ車を置き、火災報知器が作動する程度の炎を起こし、真壁本人を、かろうじて救出が間に合う位置へ閉じ込めていた。
殺そうとしたのではなく、疑わせたあとで生かして見つけさせた。
その意図がどこにあるのか、遥人にはまだわからなかった。
「殿下、これ以上ここへ残ることはできません。現在、大学構内に正体不明の人物が潜伏している可能性があり、御厨教授の事件が殿下の出生へ直接関わっている以上、次に狙われるのが誰かは明らかです」
地下駐車場から戻ってきた榊原は、濡れた上着を脱ぐこともせず、旧図書館の玄関近くに立つ遥人へ言った。
「明らかではありません。私が狙われる可能性はありますが、犯人が真相を公にしたいのか、隠したいのかさえ、まだわかっていないでしょう。御厨教授は殺されましたが、桑原さんと真壁さんは、生きた状態で警察へ発見させられている。犯人が全員を殺したいのなら、行動に一貫性がありません」
「犯人の意図が不明だからこそ、危険なのです。理解できる犯人だけが人を殺すわけではありません」
「それはわかっています。ただ、私が皇宮へ戻れば安全になるという前提にも、疑問があります。二十二年前の事件に皇室内部の人間が関わっており、今もその人物が残っているのなら、皇宮が最も安全な場所だとは限りません」
榊原の表情が硬くなった。
「それでも、警備体制の整った施設へ移っていただく必要があります。少なくとも、大学よりは安全です」
「大学の危機管理顧問が本人の知らないところで利用され、時計塔の電子記録が消され、警察官と鑑識員がいる現場から鍵が移動したのです。警備体制があることと、その中に協力者がいないことは同じではありません」
「殿下は、今夜、どこへも移動しないつもりなのですか」
「真壁さんから話を聞くまでは残ります。二十二年前の現場にいた人物のうち、現在、話せる状態にあるのは父上と真壁さんだけです。犯人が車を燃やした理由が、彼に何かを話させるためなのか、それとも話す内容を信用させないためなのか、確認しなければなりません」
「警察が確認します」
「真壁さんは元皇宮警察官です。私が同席しなければ答えないこともあるでしょうし、反対に、私がいるために答えられないこともあるかもしれない。どちらにしても、彼の反応を自分で見たいのです」
「それは捜査ではなく、殿下ご自身の出生を知りたいというお気持ちでしょう」
榊原の言葉は、責めるものではなかった。
だからこそ、遥人はすぐに否定できなかった。
「そうです。事件を解くためだけではありません。自分が誰なのかを知りたいと思っています。ただ、その気持ちがあるから、事実を正しく見られないと決めつけられるのも納得できません」
「決めつけてはいません。けれど、人は、自分が最も知りたい答えに近い証拠ほど、疑うことが難しくなります。殿下は普段、他人の言葉に慎重でいらっしゃいますが、ご自身の出生に関するものについては、現れた情報を次々につなげ、結論を急いでおられるように見えます」
「では、あなたはどうすればよいと思うのですか。何も聞かず、何も考えず、皇宮へ戻って、誰かが安全だと判断した真実だけを渡されるまで待てと言うのですか」
「私は、殿下に考えるなとは申し上げていません。ただ、すべてをご自分一人で判断できると思わないでいただきたいのです。御厨教授がそうだったのでしょう。自分だけが真相を正しく扱えると思い、人を駒のように配置し、その結果、三浦さんも桑原さんも危険へ晒された。殿下が教授と同じ方法で真実へ近づけば、同じ間違いを繰り返すことになります」
遥人は、何も言えなくなった。
御厨宗一郎は、三浦へ封筒を持たせ、水城沙耶へ青い指輪をつけさせ、桑原を隠し書架へ待機させ、自分が死んだ場合にも秘密が順番に明らかになるよう仕組んでいた。
その計画は精密であったかもしれない。
しかし、計画の中で動かされた者たちは、それぞれ何を失うかまで選ぶことができなかった。
遥人も、自分が正しいと思う方向へ進むため、榊原や長谷部、三浦、父を、自分の推理に必要な人間として見始めていたのかもしれない。
「わかりました。真壁さんから話を聞いたら移動します。それ以上は残りません」
「話を聞くこと自体を認めたわけではありません」
「長谷部さんが認めれば、あなたが止めても私は行きます。ここで私を無理に連れ出せば、周囲の警察官へ身分を明かすことになるでしょうから、榊原さんも困るはずです」
「それを交渉材料に使うのは卑怯です」
「皇族ですから」
「その冗談は、そろそろ笑えなくなってきました」
榊原が深く息を吐いたところで、旧図書館の奥から長谷部が現れた。
「真壁恭介の意識が戻りました。救急車で搬送する前に、本人がどうしてもここで話したいと言っています。ただし、長い聴取はできませんし、医師が中止を求めた時点で終わりです」
「私も同席できますか」
「真壁本人が、彰仁親王殿下へ話すことがあると言っています。どうやら、あなたがここにいることも、最初から知っていたようですね」
*
真壁は、旧図書館一階の閲覧室に運び込まれていた。
窓を開けて煙の匂いを逃がし、古い長机を壁際へ寄せた中央に、救急隊が用意した簡易寝台が置かれている。真壁は酸素マスクを外した状態で上半身を起こしていたが、額には包帯が巻かれ、両手首には細い縄で強く縛られた痕が残っていた。
年齢は六十代半ば。
短く刈られた白髪と、日に焼けた顔。大学の危機管理顧問という肩書きより、退職した警察官と説明されたほうが納得できる、鋭さの残る目をしている。
その目が孝仁親王を見た時、真壁は寝台から降りようとした。
「そのままで構いません。今は礼を受けるために来たのではない」
孝仁親王が止めると、真壁は身体を起こしかけた姿勢のまま、苦しそうに顔を伏せた。
「殿下、お久しゅうございます。こんな形で再びお目にかかることになり、申し開きのしようもありません」
「謝る前に、知っていることを話してほしい。二十二年前、君は私と一緒に旧図書館へ来た。三人目の子供を、車へ隠したのか」
真壁は、すぐには答えなかった。
長谷部が録音機のスイッチを入れる。
「真壁さん、これは御厨宗一郎殺害事件と、あなた自身に対する監禁、殺人未遂事件の聴取です。二十二年前の出来事が現在の犯行に関係している可能性がありますので、覚えている範囲で事実だけを話してください」
「二十二年前のことを、今さら事実だけで話せと言われても、どこまでが自分の記憶で、どこからが長い間に作り直した言い訳なのか、私自身にもわかりません。それでも構いませんか」
「わからない部分は、わからないと話してください」
真壁は頷き、遥人へ顔を向けた。
皇嗣へ向ける敬意よりも、過去に置き去りにした子供の成長を確かめるような視線だった。
「殿下がお生まれになったとされた日、私は候補者番号十八番の護衛官でした」
「候補者番号というのは、採用試験の番号ですか」
「いいえ。皇族に緊急事態が起きた際、誰がどの任務を引き受けるかを決める、内部訓練の番号です。私の役割は、十八番。皇族本人の安全と、皇位継承に関わる物品や人間の安全が同時に脅かされた場合、どちらを先に退避させるか、現場で選択する役目でした」
「人間を番号で扱っていたのですか」
遥人が尋ねると、真壁は苦い表情を浮かべた。
「訓練の上では、物品も人間も同じ対象です。皇族を守る者が情に引かれないよう、名前を使わず、番号だけで命令を伝える。それが合理的だと教えられました。若かった私は、それを疑いもしなかった」
「桑原さんの『十八番が子供を選んだ』という言葉は、あなたが三人のうち一人を選んだという意味ですか」
「そうです」
真壁は、手首の縄痕を見つめた。
「あの夜、最初の停電が起きたあと、私は殿下をお守りするため、旧図書館の中へ入りました。裏口を開けると、女の声がして、『十八番、どちらを守る』と尋ねられた。暗闇の中で、足元には乳児が一人、少し離れた場所には孝仁親王殿下がおられた。命令では、皇族を優先すべきでした」
「しかし、子供を選んだ」
「乳児の泣き声が弱く、このまま放置すれば死ぬと思いました。私は、その子を抱き上げ、車の後部にある緊急装備収納室へ入れました。孝仁親王殿下には、別の護衛が間もなく到着すると考えていたのです」
「その女は誰でしたか」
「顔は見ていません。停電していましたし、声も布越しのようにくぐもっていた。ただ、玲子内親王殿下ではありません。殿下の声は以前から知っていました」
「水城美弥子でもない?」
孝仁親王が尋ねた。
「わかりません。水城美弥子という女性とは、それまで直接会ったことがありませんでした」
「子供を収納室へ入れたあと、どうしましたか」
「旧図書館へ戻ると、照明が復旧し、孝仁親王殿下は別の乳児を抱いておられた。御厨助手は負傷し、水城美弥子は床へ倒れていた。玲子内親王殿下と冬木医師の姿はありませんでした。私は、殿下を一刻も早く皇宮へお戻ししなければならないと判断し、車を出しました」
「収納室の子供は?」
「車へ残したままでした。途中で泣き声が聞こえたため、生きていることは確認できましたが、殿下へは申し上げませんでした。別の乳児を抱いておられる方へ、さらに子供が一人隠されていると伝えれば、車を止めて旧図書館へ戻ると言われると思ったからです」
「私に判断させず、君が決めたということか」
孝仁親王の声が低くなった。
真壁は顔を上げずに答えた。
「はい。お守りするという言葉を使い、殿下から選ぶ権利を奪いました」
その言葉は、二十二年前の父が遥人へしたこととも重なっていた。
相手を守るために、知らなくてよいと決める。
選ばせれば苦しむからと、先に道を閉ざす。
守られた側は、何を失ったかさえ知らないまま生きることになる。
「皇宮へ到着したあと、子供はどうなったのですか」
長谷部が尋ねた。
「正門ではなく、北側の搬入口へ車を入れました。孝仁親王殿下が乳児を抱いて降りたあと、私が収納室を開けると、子供はいなくなっていました」
「走行中の車から消えたと?」
「収納室は車内側からしか開きません。車を止めたのは、旧図書館を出た直後、警備員から通行証を確認された時と、皇宮の搬入口へ入る前に検問を受けた時の二度だけです。どちらも私は運転席を離れていない」
「誰かが車へ乗り込んだ可能性は?」
「皇宮の搬入口で、医療班の制服を着た者が後部扉を開けました。私は、孝仁親王殿下がお抱きになっている乳児を受け取るためだと思っていました。しかし、その者たちは殿下へ近づかず、車の反対側へ回っていた」
「顔を覚えていますか」
「一人は冬木医師でした。もう一人は、マスクと帽子で顔を隠していましたが、女性だったと思います」
「玲子内親王では?」
「背丈が違いました。玲子内親王殿下より高く、肩幅もあった」
「その女性が収納室から子供を取り出した?」
「そう考えました。しかし、問い詰めようとした時、上司から、十八番の任務は終了した、今夜見たことは一切記憶するなと命じられました。そして翌朝、収納室を確認すると、子供を包んでいた白い布だけが残っていたのです」
孝仁親王が、以前の記憶を確かめるように言った。
「私が後部座席の床で見た布だ」
「はい。殿下がお気づきになったとは知りませんでした」
「識別札は?」
長谷部が、真壁の車から見つかったK―18の札の写真を示した。
「この札に見覚えはありますか」
真壁は写真を見るなり、首を横へ振った。
「ありません。少なくとも、あの夜、乳児たちが身につけていたものではない」
「断言できますか」
「三人の手首には布製の細い札が結ばれていました。水に溶ける特殊な紙へ文字を書き、上から透明な糸で固定する形式です。記録を残したくない出産や移送で使われていた。写真のような樹脂製の識別札ではありません」
「では、K―18の札は偽物?」
「二十二年前のものではないでしょう。樹脂の変色は薬品や熱で再現できますし、印字も当時の形式とは違う。何者かが古いものに見せかけ、私の候補者番号十八番と結びつけたのだと思います」
遥人は、札の裏に書かれていた二つの名前を思い返した。
三浦直哉。
その下に消されていた久世冬真。
「久世冬真という名を知っていますか」
真壁の目が、わずかに揺れた。
「名前だけは」
「いつ、誰から聞いたのですか」
「子供を収納室へ入れた時です。暗闇の中にいた女が、その子を渡しながら、『この子が冬真になれば、誰も皇嗣にならずに済む』と言った」
「誰も皇嗣にならずに済む、とはどういう意味ですか」
「わかりません。当時は、佳澄妃殿下の子供が亡くなり、水城美弥子の子供を入れ替える計画を止めるため、三人とも皇宮から遠ざけるという意味だと思いました。しかし、その後、一人は彰仁親王殿下として育てられ、一人は三浦家へ預けられた。女の言葉どおりにはなっていません」
「久世冬真という名前は、佳澄妃殿下と孝仁親王殿下しか知らないはずでした」
榊原が言った。
「それを暗闇の中の女性が知っていたのであれば、皇族に近い人物か、佳澄妃殿下ご本人から聞いたことになります」
孝仁親王の顔が曇った。
「佳澄は、冬真という名前を玲子へ話していた可能性がある。二人は当時、実の姉妹のように親しかった。だが、玲子以外へ伝えたとは考えにくい」
「声は玲子内親王ではなかったのですね」
遥人が確認すると、真壁は頷いた。
「少なくとも、私が知っている声ではありません。ただし、意図的に声を変えていた可能性はあります」
長谷部は、真壁の証言をメモしたあと、今日の出来事へ質問を移した。
「あなたは午後二時頃、自宅を車で出ています。どこへ向かったのですか」
「御厨教授から、旧図書館の防犯設備について相談したいという連絡を受けました。メールには、二十二年前のことを終わらせる用意ができた、午後二時半に大学の旧講堂裏へ来てほしいと書かれていた」
「そのメールは本当に御厨教授から送られたものですか」
「送信元は教授の大学用アドレスでした。文章にも、本人しか知らないはずのことが書かれていたため、疑いませんでした」
「本人しか知らないこととは?」
「白い布のことです。二十二年前、車の後部座席へ残された布について、御厨教授には話したことがありました」
「いつ話したのですか」
「十年前です。教授から突然連絡があり、過去の事件を調べ直していると告げられました。それ以来、数年に一度、情報を交換していました」
「今日、旧講堂裏へ着いたあと?」
「御厨教授の姿はなく、大学の施設課職員が一人待っていました。教授は時計塔の管理室にいるので案内すると言われ、後をついて建物へ入りました」
「その職員の顔は?」
「帽子とマスクを着けていましたが、大学内で何度か見たことがあると思い、警戒しませんでした。時計塔へ上がる途中、背後から腕を掴まれ、首筋へ何かを押し当てられたところまでは覚えています」
「声を聞きましたか」
「一言だけです」
真壁は、そこで言葉を止めた。
「何と言われたのですか」
「『十八番、今度は正しい子を選べ』と」
閲覧室に沈黙が落ちた。
それは二十二年前、暗闇の中で真壁へ子供を選ばせた人物と、同じ言い回しだった。
「同じ声でしたか」
遥人が尋ねると、真壁は苦しそうに眉を寄せた。
「二十二年前の声を、正確に覚えているとは言えません。けれど、言葉の区切り方が同じでした。十八番と呼んだあと、わずかに間を置く癖がある。それを聞いた瞬間、私は、あの夜の女だと思った」
「女性の声だった?」
「今日聞いた声は、男性にも女性にも聞こえました。機械で変えていたのかもしれません」
「真壁さんを襲った人物は、二十二年前の犯人と同一人物であるように見せようとしている。しかし、本当に同じ人物なら、わざわざ同じ言葉を使い、正体へつながる癖まで残すでしょうか」
遥人が言うと、長谷部は頷いた。
「相手は、我々に二十二年前から生き残っている誰かを疑わせたいのかもしれません。真壁さんの候補者番号を知り、当時の言葉まで再現できる人物は限られますが、その情報を御厨教授の資料から得た可能性もあります」
「御厨教授の研究資料は、どこまで盗まれていますか」
「研究室と史料室を調べています。ただ、教授のパソコンから、多数のファイルが消去されていることがわかりました。完全に復元できるかは不明です」
その時、閲覧室の扉が開き、坂井がタブレット端末を手に入ってきた。
「長谷部さん、真壁さんの車が地下駐車場へ入る映像を確認できました。運転していた人物は、真壁さんではありません」
「顔は映っているのか」
「危機管理顧問用の帽子とマスクを着けていましたが、駐車場へ入ったあと、車内で一度だけマスクを外しています。照明が暗く、正面ではありませんが、顔の一部は確認できます」
坂井は、タブレットの画面を長谷部へ向けた。
映像の時刻は午後四時四十六分。
真壁の車が地下駐車場へ入り、柱の陰になる区画へ停車する。運転席の人物は周囲を確認すると、帽子を外し、マスクの紐へ指をかけた。
横顔が映る。
遥人は、最初、自分が見間違えたのだと思った。
映像が粗く、照明も暗い。顔の半分は車の窓へ反射した光に隠れている。
それでも、鼻筋、頬の輪郭、髪の生え際は、よく知っている人物とあまりに似ていた。
「三浦……?」
遥人の声に、長谷部はすぐ答えなかった。
「映像解析へ回した結果、三浦直哉の学生証写真との類似度は九十七・八パーセントです」
榊原が、画面と時刻を見比べた。
「午後四時四十六分であれば、三浦さんはすでに旧図書館裏の倉庫脇で倒れていた可能性があります」
「救急隊が発見したのは四時三十分過ぎです。搬送記録と病院の防犯映像も確認しましたが、四時四十六分には救急車の中にいました。映像の人物が三浦直哉本人であることは、時間的に不可能です」
長谷部が言った。
「合成映像の可能性は?」
「元データに大きな加工痕は見つかっていません。映像へ別の顔を後から重ねたのではなく、三浦直哉によく似た人物が、実際に真壁さんの車を運転していたと考えるほうが自然です」
水城美弥子が産んだのは双子だった。
三浦がその一人なら、もう一人が同じ顔をしていても不思議ではない。
二十二年前、真壁が車へ隠し、皇宮の搬入口で姿を消した三人目。
久世冬真と呼ばれるはずだった人物。
その男が今、三浦と同じ顔で大学内を歩き、御厨教授を殺し、時計を操作し、真壁を十八番として犯人に見せようとしているのかもしれない。
遥人は画面を見つめたまま、三浦と初めて会った日のことを思い出していた。
講義室で隣に座り、教科書を忘れたから見せてくれと、何の遠慮もなく話しかけてきた男。
秘密を抱えるのが苦手で、人の悩みを一人で背負えず、それでも困っている相手を放っておけない友人。
その三浦と同じ顔をした誰かが、二十二年間、自分の名前も家族も奪われたまま生きてきたのだとしたら、その人物が三浦や遥人をどのように見ているのか、想像することさえ難しかった。
「この男が、三人目なのでしょうか」
遥人が尋ねると、長谷部は画面を止め、運転席の人物の顔を拡大した。
「似ていることは証拠になりますが、同一人物だという結論にはなりません。変装、整形、親族、意図的に似せた別人という可能性もあります。それに、我々へこの顔を見せたかったからこそ、犯人は防犯カメラの前でマスクを外したとも考えられる」
「つまり、この人物が三浦の双子であるように見せること自体が、犯人の仕掛けかもしれない」
「そうです。御厨教授の事件では、見つかる証拠の多くが、こちらへ結論を与えようとしている。時刻、手帳、識別札、名前、そして今度は顔です。親切すぎる証拠は、疑ったほうがいい」
長谷部の言葉に、遥人は頷いた。
しかしその時、真壁が画面を指差し、震える声を上げた。
「待ってください。顔ではありません。首を見せてください」
坂井が映像を戻し、運転席の人物がマスクを外す直前で止める。
襟元から、首の左側がわずかに見えている。
そこには、細い三本の傷が、耳の下から鎖骨へ向かって並んでいた。
真壁は、その傷を見たまま、寝台の上で身体を強張らせた。
「二十二年前、私が収納室へ入れた乳児の首にも、同じ場所に三本の傷があった。生まれつきの痣ではなく、何か細いものが当たった傷だった。私は、子供を抱き上げた時に指で触れたから覚えている」
「三本の傷があることを、誰かへ話しましたか」
長谷部が尋ねた。
「誰にも。御厨教授にも話していません。記録にも残していない。あの子を選んだ証拠として、自分の中にだけ残していました」
もし真壁の記憶が正しければ、映像の人物は、御厨教授の資料を読んで傷を再現したのではない。
二十二年前に真壁が選び、車へ隠した乳児本人であるか、その身体を直接知る人物しか持ち得ない特徴だった。
画面の中の男は、車を降りる直前、監視カメラがある方向へ顔を向けた。
偶然ではない。
レンズの位置を知り、自分が映っていることを理解したうえで、ゆっくりと唇を動かしている。
音声は記録されていなかった。
けれど、映像を何度か再生すると、遥人には、その男が何と言ったのか読み取れた。
『次は、お前が選べ』
男が見ていたのは、監視カメラではなかった。
その映像をいずれ見ることになる、皇嗣・彰仁親王へ向かって告げていた。




