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皇嗣は名を隠す ――旧図書館殺人事件  作者: 極楽鳥


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第六章 三人目の泣き声

 旧図書館の時計塔が午後六時十八分を指したまま止まり、時刻を告げるにはあまりに中途半端な鐘を一度だけ鳴らしたあと、最初に動いたのは長谷部だった。


「全員、建物の中へ戻ってください。時計塔には誰も近づけるな。施設課から図面と管理記録を取り寄せ、内部へ入る人間は私が指定するまで待機させろ。それから、今この場で聞いた話を、無線でそのまま流すな。皇族が関係しているからではなく、三人目の乳児という情報を犯人が知っている可能性があり、こちらがどこまで把握したかを外へ知らせたくない」


 長谷部の指示を受けた警察官たちが、旧図書館の周囲へ集まり始めた学生を遠ざけ、沙耶を建物内へ移動させる一方で、孝仁親王の随行員たちは、父をこの場から連れ出すべきか、それとも警察の聴取へ応じさせるべきか判断できず、互いの顔を窺っていた。


 皇族の身柄を守るという意味では、孝仁親王を直ちに皇宮へ戻すのが正しい。しかし、殺人事件の捜査という意味では、二十二年前の現場にいた本人を、これ以上自由に帰すべきではない。


 いつもなら、その二つの正しさが衝突すれば、皇族側の都合が優先される。


 少なくとも、遥人はそう信じていた。


 けれど父は、随行員が差し出した傘を受け取らず、雨に濡れたまま長谷部へ向かって言った。


「話すべきことは話します。ただし、ここでは学生たちの目がありますし、皇宮へ戻ってからでは、あなた方が自由に質問できないでしょう。旧図書館の中に、外から話を聞かれない部屋があるなら、そこで構いません」


 随行員の一人が、慌てて父へ近づいた。


「殿下、それはお立場上、正式な手続きを経ていただかなければ困ります。事件について警察から聴取を受けるのであれば、皇宮警察本部と宮内府を通し、場所や質問内容についても事前に――」


「二十二年前、私は同じように、正式な手続きを待つよう言われた。その結果、美弥子が生きていたことも、彼女が何を守ろうとしたのかも知らないまま、今日まで来た。今回も同じことをすれば、私が立場から何一つ学ばなかったことになる」


「しかし、殿下ご自身のご判断だけで――」


「責任は私が取る。もっとも、私がこれまで責任を取っているつもりでしてきたことの多くは、他人に後始末をさせていただけだったのかもしれないが」


 父の言葉は、遥人へ向けられたものではなかった。


 それでも遥人には、父が自分へ言い聞かせると同時に、息子へ弁明しているように聞こえた。


      *


 孝仁親王、遥人、榊原、長谷部の四人は、旧図書館一階の小会議室へ入った。


 水城沙耶は別室で坂井たちの聴取を受け、時計塔へ通じる廊下は警察官によって封鎖された。照明は復旧していたものの、建物の奥では古い機械が軋むような音が断続的に聞こえ、止まった時計塔が、今も内部だけで何かを動かしているようだった。


 長谷部は机の端へ録音機を置いたが、すぐには作動させなかった。


「これから伺う話は、正式な供述として扱う可能性があります。録音を始める前に、殿下のお立場から、記録へ残せない内容があるなら申し出てください。ただし、事件に直接関わる事実を、皇室の都合だけで伏せることはできません」


「それで構いません。私も、どこまでが事件に関係し、どこからが家族だけの秘密なのか、すでに判断できなくなっています」


 孝仁親王は、遥人の向かいへ座った。


 父と息子が机を挟んで正面から向き合うことは、これまでにもあった。皇族としての心得を叱られた時、公務について意見を求められた時、大学へ通いたいという希望を反対された時。


 しかし、それらの場面では、父は常に答えを知っている側にいた。


 今は違う。


 父は、自分が知っていることよりも、知らないことのほうを恐れているように見えた。


「三人いたというのは、二十二年前、旧図書館の中に乳児が三人いたという意味で間違いありませんか」


 長谷部が尋ねた。


「間違いありません。ただし、私が三人を同時に見た時間は、ほんの数分ですし、顔を一人ずつ確かめたわけでもない。あの夜の記憶には、後から知らされた事実や、私自身の推測が混じっている可能性があります。だから、これから話すことを、そのまま事実として扱わないでください」


「承知しています。まず、なぜ旧図書館へ行ったのか、その経緯からお願いします」


 孝仁親王は、膝の上で両手を組んだ。


「十月十七日の午後五時五十二分、玲子から私の私室へ電話がありました。当時、玲子は皇宮を出ることを許されておらず、私も彼女がどこにいるのか知らなかったため、最初は悪戯だと思いました。けれど玲子は、美弥子が双子を産んだこと、佳澄も予定より早く男児を出産したこと、そして三人の子供のうち、少なくとも一人が、その夜のうちに死んだことにされると話した」


「お待ちください」


 遥人は、父の話を途中で遮った。


「美弥子さんは、双子を産んでいたのですか」


「私は妊娠していることしか知らなかった。出産後も、子供は一人だと聞かされていた。しかし玲子の電話では、美弥子が産んだのは男児の双子で、その二人が旧図書館へ連れてこられていると言われた」


「では、三人というのは、美弥子さんの双子と、母上――佳澄妃が産んだ子供ですか」


「玲子の説明を信じるなら、そうなる」


 遥人は、父の言葉を頭の中で並べ直した。


 水城美弥子が産んだ双子。


 父の正妻である佳澄妃が産んだ男児。


 三人とも、父を同じくする子供だった可能性がある。


 そのうち一人が皇宮へ戻され、彰仁親王として育てられた。


 一人が三浦家へ預けられ、三浦直哉として育てられた。


 そして、残る一人が消えた。


「佳澄妃殿下の出産日は、公表上、十月十七日ですか」


 長谷部が確認した。


「そうです。ただし、実際にいつ出産したのか、今では私にも断言できません。当日の朝、急な体調不良で療養施設へ移されたと聞かされ、その後、男児を出産したが、母子ともに状態が安定しないため面会できないと説明されました。私は夫でありながら、佳澄にも、生まれた子供にも会わせてもらえなかった」


「そんなことが、当時の殿下のお立場であり得るのですか」


「私が皇位継承順位に関わる子供の父親だったからこそ、あり得たのです。出産を扱った医師も、移動を担当した者も、すべて父上と皇宮長官が選んでいた。私は家族であるより先に、情報を制限されるべき皇族として扱われていました」


 父の声には怒りがあった。


 しかし、その怒りは二十二年前に自分を従わせた者だけでなく、従った自分自身へも向けられているようだった。


「玲子内親王殿下からの電話を受けたあと、どうされましたか」


「護衛には、大学にある資料を受け取るよう命じられたと嘘をつき、車を出させました。正門を通れば記録が残るため、玲子の指示どおり裏門から入り、旧図書館へ着いたのが午後六時十八分です」


 遥人は、窓の外にある時計塔へ目を向けた。


「先ほど時計が示した六時十八分は、父上が旧図書館へ到着した時刻だったのですね」


「そうだ」


「しかし、御厨教授が残した十一時四分、十三時二十八分、十七時五十二分は、分の位置が二十四ずつ増えていました。四、二十八、五十二の次なら、本来は十六分になるはずです。十八分は、その並びの続きではありません」


 長谷部が、遥人を見た。


「先ほどは、十八分が次の位置だと思っていたのではありませんか」


「そう見えたため、深く確かめずに受け入れてしまいました。しかし、六十から五十二を引けば八で、二十四を足せば十六です。十八ではない。つまり、時計を六時十八分で止めた人物は、御厨教授の三つの時刻を単純に続けたのではなく、二十二年前の別の時刻を示そうとしていたことになります」


「その時刻を知っていた人間は?」


 長谷部の問いに、父はしばらく考えた。


「到着時刻を正確に知っていたのは、車を運転していた護衛官、旧図書館で私を待っていた玲子、美弥子、当時助手だった御厨宗一郎、それから医師の冬木玄蔵です。私自身も含めれば六人になります」


「運転していた護衛官の名前は?」


「真壁恭介。当時は皇宮警察の警部補で、その後、警察庁へ移り、十年前に退職しています」


 長谷部の顔から、わずかに表情が消えた。


「真壁恭介ですか」


「ご存じなのですか」


「直接の面識はありませんが、名前は知っています。退職後も警察関係者の研修や危機管理の仕事に関わり、現在は青嶺大学の危機管理顧問を務めているはずです」


 遥人は、受付の記録を思い出した。


 そこに真壁の名はなかった。


 だが、大学の顧問であれば、来館者として記帳せずに学内へ入ることも、施設課へ指示を出すことも、時計塔の管理方法を知ることもできる。


「真壁さんは、今日、大学にいたのですか」


「確認させます」


 長谷部はすぐに携帯電話を取り出し、坂井へ連絡した。危機管理顧問の所在、時計塔への立ち入り権限、旧図書館の防犯設備に関与しているかを調べるよう短く指示し、通話を終える。


「話を戻します。午後六時十八分に旧図書館へ到着した時、誰がいましたか」


 孝仁親王は、記憶の中の光景を一つずつ取り出すように、ゆっくり答えた。


「裏口を開けたのは御厨でした。まだ助手で、今より痩せており、顔色も悪かった。中へ入ると玲子がいて、その腕に白い布へ包まれた乳児が一人、美弥子のそばに置かれた籠の中に二人いました」


「美弥子さんの双子が籠の中にいて、玲子内親王殿下が佳澄妃殿下の子供を抱いていた、と理解されたのですか」


「その時はそう思った。しかし、玲子は、どの子が誰の産んだ子なのか、自分にもわからなくなったと言った」


「なぜです」


「三人の手首には、それぞれ識別札が付けられていたが、私が到着する前に一度停電し、その間に札がすべて外されていた。美弥子は双子を見分けられると言っていたものの、薬を投与され、意識がはっきりしていなかった。佳澄の子供については、私たちの誰も顔を見たことがなかった」


「医師なら判別できたのではありませんか」


「冬木は、血液型と出生時の体重を確認すれば判断できると話したが、記録を持ってきていなかった。あとで考えれば、それ自体が不自然だった。子供を区別する必要がある場で、医師が最も基本的な記録を持っていなかったのだから」


「その冬木という医師は、今どこにいますか」


 長谷部が尋ねた。


「二十年前に国外へ出たあと、行方がわからなくなっています。出国記録は残っているが、入国先での生活記録がなく、死亡届も出ていない。当時から、偽名を用意されていた可能性があると考えています」


「三人の乳児は、全員生きていたのですか」


 遥人が問うと、父はすぐには答えなかった。


「冬木は、籠の奥にいた一人について、すでに死亡していると説明した。佳澄の子供で、出生直後から呼吸が弱く、旧図書館へ運ぶ途中で亡くなったと」


「では、なぜその子まで旧図書館へ?」


「死亡を公表すれば、皇位継承をめぐる争いが起きるため、美弥子の子供の一人と入れ替える計画だったと、冬木は言った。佳澄の子供は死産として処理され、美弥子の子供の一人を佳澄が産んだことにする。もう一人の双子は、母親とともに国外へ逃がす。私は、その話を聞いて初めて、父上たちが何をしようとしていたのか理解した」


 遥人は、父から視線を外さなかった。


「父上は、それを受け入れたのですか」


「受け入れられるはずがない。美弥子の子供を皇族として育てることが嫌だったのではなく、佳澄から子供の死を隠し、美弥子から子供を奪い、三人の人生を、本人たちが何も選べないうちに決めようとしていたことが許せなかった。私はすべてを止めると言い、子供たちを病院へ戻すよう求めた」


「けれど、止められなかった」


「その直後、二度目の停電が起きた」


 父の声が低くなった。


「照明が消えたと同時に、裏口のほうで争う音がし、誰かが美弥子を連れ出そうとしていた。私は手探りで籠へ近づき、子供たちを守ろうとした。その時、死亡したと聞かされていた籠の奥の子供が、泣いた」


 部屋の中で、誰も動かなかった。


 古い建物の奥から聞こえる機械音だけが、父の言葉の続きを急かすように響いている。


「一度ではない。弱く、掠れた声だったが、確かに泣いていた。つまり、冬木は嘘をついていた。佳澄の子供は死んでいなかったか、あるいは、籠の奥にいたのが佳澄の子供ではなかった」


「三人とも生きていたのですね」


「少なくとも、停電が起きた時点では、三人の泣き声を聞いた。白い布の子供が一人、籠の手前と奥に二人。それぞれ声の大きさも間隔も違っていたから、同じ子の声を数え間違えたとは思わない」


「停電が復旧したあと、三人はどうなっていましたか」


 長谷部の問いに、父は両手を強く組み直した。


「玲子と冬木がいなくなり、美弥子は床へ倒れていた。御厨は頭から血を流していた。籠には一人しかおらず、私の足元に、白い布へ包まれた子供が一人置かれていた。三人目の姿はなかった」


「どちらを皇宮へ連れ帰ったのですか」


「足元にいた子供だ。籠の子供は、美弥子が意識を取り戻した時に抱きしめ、自分の子だと言った。どちらが双子の一人で、どちらが佳澄の子なのか、私には判断できなかったが、美弥子は籠の子だけは自分の子だと譲らなかった」


「その籠の子が三浦直哉ですか」


「おそらくは。ただし、美弥子がその後、三浦千鶴として育てた子供と、旧図書館に残った子供が同一であることを、私は確認していない」


「父上は、足元にいた乳児を私として皇宮へ連れ帰った。それなら、三人目は誰が連れ去ったのですか」


「わからない。私は、玲子が連れていったのだと思っていた。玲子はその日から半年間、公務へ出ず、皇宮内の療養施設へ移されたと聞かされたからだ。しかし、その後、玲子へ直接尋ねても、子供は自分が連れていったのではない、停電の中で別の人間に奪われた、としか答えなかった」


「別の人間とは?」


「それを話そうとすると、玲子は呼吸ができなくなり、意識を失うことがあった。医師から、当時の記憶を無理に尋ねれば命に関わると言われ、私はそれ以上聞けなかった」


 遥人は、二日前の晩餐会で見た叔母の姿を思い返した。


 玲子は冗談を好み、遥人が堅苦しい返事をするたび、父に似すぎて困ると笑っていた。食事中に手が震えることも、暗い場所を恐れる様子もなく、二十二年前の出来事に触れたことさえなかった。


 けれど、それは何も覚えていないことを意味しない。


 思い出さないように生きることと、忘れることは違う。


「三人目の子供について、父上はその後調べなかったのですか」


「調べた。だが、旧図書館の記録は火災で失われ、冬木は姿を消し、御厨は事件について何も覚えていないと主張した。美弥子は事故で死んだと知らされ、玲子は療養中で面会を制限された。私の周囲にいた人間は、三人目など最初から存在しなかった、混乱した状況で二人の泣き声を三人分だと思い込んだのだと繰り返した」


「父上自身も、そう思うようになったのですか」


「そう思わなければ、生きていけなかったのかもしれない」


 父は、遥人の目を見ずに答えた。


「私は一人の子供を皇宮へ連れ帰り、佳澄へ、これはあなたが産んだ子だと伝えた。佳澄は出産直後で意識が混濁しており、何も疑わず君を抱いた。その姿を見た時、私は真実を確かめることより、この子を佳澄の子として守らなければならないと思った。もし三人目を探し、入れ替えが明らかになれば、君も、三浦直哉も、佳澄も、美弥子も、すべてを失う。私はそれを恐れ、知らないことを守るという言葉へ置き換えた」


「それは、私を守ったことになるのですか」


 遥人の問いに、父は答えなかった。


 守られたからこそ、皇嗣として生きてきた。


 しかし、何も知らされなかったからこそ、自分が誰なのかを、殺人事件の現場で初めて疑うことになった。


 父を責めたい気持ちと、二十二年前の父が選べる道の少なさを理解したい気持ちは、遥人の中で互いを打ち消さず、どちらも重く残った。


 長谷部が、沈黙を断ち切るように尋ねた。


「三人目の乳児が生きていたとして、現在は二十二歳前後です。性別は男児で間違いありませんか」


「三人とも男児だと説明された。ただし、私は身体を確認していない」


「三人目が皇位継承に関わる立場だった可能性もある?」


「佳澄の子であれば、私の嫡男として、最も疑いのない皇位継承者になる。美弥子の子であっても、私の血を引く男子である以上、法制度や認知の扱いによっては、継承問題へ利用しようとする者が現れる可能性はある」


「御厨教授の写真にあった『この子を皇嗣にしてはならない』という言葉は、三人目を指しているかもしれませんね」


「あるいは、今の私か三浦を指している可能性もあります」


 遥人が言うと、長谷部は頷いた。


「問題は、その文を書いた人物が、三人のうち誰を『この子』と呼んだかです。写真に写っている子供の顔は塗り潰され、識別できないようにされている。犯人が正体を隠したのか、御厨教授が意図的に読者を迷わせたのか、それもまだわかりません」


 その時、長谷部の携帯電話が震えた。


 短い応答のあと、彼の表情が険しくなる。


「時計塔の管理室へ入った形跡がありました。扉の鍵は壊されていませんが、電子錠の記録が午後五時四十七分から六時二十分まで消去されています。時計を六時十八分で止めた操作も、その時間帯に行われた可能性が高い」


「真壁さんの所在は?」


「大学側の予定表では、今日は午後から学外の会議へ出席していたことになっています。しかし会議の主催者へ確認したところ、真壁は体調不良を理由に欠席しています。携帯電話もつながりません」


 長谷部は一度言葉を切り、さらに続けた。


「それから、時計塔の中心軸の下に、小さな金庫が埋め込まれているのが見つかりました。水城沙耶が持っていた銀色の鍵と、形が一致する可能性があります」


「中を確認できますか」


「これから鑑識立ち会いで開けます。ただ、金庫の扉に、最近付着したと思われる血痕があります」


「御厨教授の血でしょうか」


「まだわかりません。ですが、扉の表面には、指で書かれた文字が残っています」


「何と?」


 長谷部は携帯電話の画面を確認し、そこに届いた写真を遥人たちへ見せた。


 古びた金属扉の上に、乾ききっていない血で、漢字が二文字書かれている。


 十八。


「時刻ではなかったのかもしれません」


 遥人は呟いた。


「六時十八分を示したのではなく、十八という番号を指していた。部屋、資料、鍵、あるいは、人につけられた識別番号です」


「三人目の乳児が、十八という番号で管理されていた可能性もありますね」


 長谷部が言った。


 孝仁親王は、その文字を見たまま、顔色を変えていた。


「父上、十八という数字に心当たりがあるのですか」


「旧図書館へ入った時、籠の奥にいた子供の足首に、白い札が残っていた。停電のあと、すべて外されたと思っていたが、ほんの一瞬だけ、数字が見えた」


「そこに十八と書かれていた?」


「正確には、Kの文字と、十八という数字だった」


 K。


 久世。


 皇宮。


 佳澄。


 いくつもの言葉が、同じ頭文字を持っている。


 遥人が意味を考えるより先に、小会議室の扉が強く叩かれ、坂井が息を切らして入ってきた。


「長谷部さん、病院からです。桑原澄江が一時的に意識を取り戻しました。会話ができる状態ではありませんでしたが、看護師の手を掴み、何度も同じことを言ったそうです」


「何と言った」


「『十八番は子供ではない』『十八番が子供を選んだ』と」


 父が椅子から立ち上がった。


 その勢いで、机が大きく揺れた。


「真壁だ」


「どういう意味ですか」


「真壁恭介が皇宮警察に採用された時の候補者番号が、十八番だった。本人が、縁起の悪い番号だったが、皇族を守る仕事に就けたから忘れない、と何度も話していた」


 長谷部はすぐに坂井へ向き直った。


「真壁の自宅、車、大学内の執務室を同時に確認しろ。単独では近づくな。二十二年前から事件に関わっているなら、こちらの動きを予測している可能性がある」


 坂井が走り去ったあと、遥人は父へ尋ねた。


「真壁さんが、三人目の子供を連れ去ったのですか」


「わからない。しかし、あの夜、私を旧図書館まで運び、建物の外で待っていたのは真壁だった。停電の最中に入ってくることもできたし、その後、何事もなかったように私を皇宮へ送り届けてもいる」


「父上は、車へ戻った時、真壁さんの様子に何も感じなかったのですか」


「後部座席の床に、濡れた白い布が落ちていた。私は、君を包んでいた布がずれ落ちたのだと思い、深く考えなかった。しかし今思えば、君を抱いていた布は、皇宮へ着くまで私の腕の中にあった」


 つまり、車内に残されていた白い布は、別の乳児を包んでいたものだった可能性がある。


 真壁は、三人目を車へ載せていた。


 孝仁親王と、皇宮へ戻される子供のすぐ近くに。


 そして父が後部座席で一人の乳児を抱いている間に、もう一人の子供が、同じ車のどこかに隠されていたのかもしれない。


 長谷部の携帯電話が、再び鳴った。


 今度は短い会話では終わらず、彼は相手の報告を何度か聞き返したあと、低い声で礼を言い、通話を切った。


「真壁恭介の自宅から、本人がいなくなっています。近所の防犯カメラでは、午後二時頃に車で出たのが最後です。大学の地下駐車場で、その車が見つかりました」


「本人は?」


「車内にはいません。ただ、後部座席から、病院で新生児の足首へ装着する古い識別札が一つ見つかりました」


 長谷部は、届いた写真を開いた。


 黄ばんだ樹脂製の札には、薄く掠れた文字が残っている。


 K―18。


 その裏側には、二十二年前の文字ではなく、油性ペンで最近書かれたと思われる名前があった。


 三浦直哉。


 遥人は、写真から目を離せなかった。


 三浦がK―18の子供だと、真壁が考えていたのか。


 それとも、三浦をその子供に見せようとしているのか。


 だが、長谷部は写真の端を拡大し、別の部分を指した。


「札には、上から新しい名前が書かれています。しかし、その下に、以前書かれていた文字の跡があります。鑑識が画像を調整したところ、別の名前の一部が読めました」


 画面には、消された文字の輪郭が浮かび上がっていた。


 最初の一文字は、久。


 次の文字は、世。


 そしてその後ろに続いていたのは、遥人ではなかった。


『久世冬真』


 孝仁親王は、その名を見た瞬間、椅子へ戻ることもできず、その場で机へ手をついた。


「冬真は、佳澄が生まれてくる子につけようとしていた、もう一つの名前だ」


 遥人は父を見た。


「もう一つ、というのは?」


「彰仁という名は、皇族として公に用いるため、父上が決めた。佳澄は、生まれてくる子が皇族でなかったなら、冬真と名づけたいと話していた。私と佳澄しか知らないはずの名前だ」


 その名が三浦の名の下から現れたということは、真壁が三浦を三人目へ見せかけようとしたのではなく、三人目には二十二年前から別の名前が与えられていたことになる。


 そして、その名前は皇族としてではなく、皇宮の外で生きることを願って付けられたものだった。


 遥人がさらに問いかけようとした時、旧図書館の外で、車の警報音が鳴り響いた。


 続いて、誰かの叫び声。


 窓の向こうで、地下駐車場へ続く出入口から黒い煙が上がり始める。


 長谷部が立ち上がり、無線を掴んだ。


「地下駐車場で火災だ。真壁の車を最優先で保全しろ。札を持ち出した鑑識員の所在を確認しろ!」


 無線から、激しい雑音に混じって返事が届いた。


『識別札は回収済みです。ただし、車のトランクから人が一人見つかりました。生存していますが、手足を縛られ、口を塞がれています』


「誰だ」


 返事は一瞬途切れた。


『大学の危機管理顧問、真壁恭介です。本人の所持品と顔写真で確認しました』


 小会議室にいた全員が、言葉を失った。


 時計を操作し、車を大学へ運び、三浦の名前を書いた識別札を残した人物が真壁だと考えかけた、その直後だった。


 当の真壁は、自分の車のトランクへ縛られ、閉じ込められていた。


 つまり、午後から真壁の身分を使って大学内を動き、時計塔を操作し、二十二年前の識別札を車へ置いた人物は、真壁本人ではない。


 誰かが真壁を十八番として指し示し、その罪を二十二年前から今日まで、すべて一人へ集めようとしている。


 遥人は、長谷部の携帯電話に映るK―18の識別札を見つめた。


 御厨教授と桑原は、三人目の子供を見つけさせようとしていた。


 それに対して犯人は、三浦がその子供だと思わせようとしている。


 だが、消された名前が示すものは、三浦でも遥人でもない。


 久世冬真。


 皇族として存在することを許されず、二十二年間、誰にも知られない名前で生きてきた三人目。


 その人物は、今もどこかにいる。


 そしておそらく、自分が誰であるかを、すでに知っている。


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