第五章 二度死んだ母
孝仁親王が口にした「なぜ、君が生きている」という言葉は、雨音に紛れて聞き違えられてもおかしくないほど小さなものだったが、その場にいた全員が、他の誰でもなく、水城沙耶の顔を見た父が発した言葉として受け取っていた。
沙耶は、近づいてきた警察官へ抵抗する様子も見せず、右手に持っていた銀色の鍵を指先でつまんだまま、雨に濡れる孝仁親王を静かに見返している。その表情には勝ち誇ったところも、皇族を前にした畏れもなく、長く答えを待ち続けた人間が、相手の口からようやく決定的な一言を引き出したという、疲れに近い安堵だけが浮かんでいた。
「私をご存じなのですか、孝仁親王殿下。それとも、今のは私の顔を見て、別の誰かと取り違えただけでしょうか」
沙耶が尋ねると、孝仁親王はすぐには答えず、彼女の額や目元、唇の形を確かめるように見つめていた。
遥人が知る父は、公務の席で予想外の質問を受けても表情を崩さず、家族の前で感情的になることもほとんどない人物だった。声を荒らげる代わりに黙り込み、その沈黙によって相手へ自分の不快を伝えるようなところがあり、遥人は幼い頃から、父が怒鳴ることよりも、何も言わなくなることのほうを恐れていた。
しかし今の父は、沈黙によって感情を隠しているのではなく、あまりに多くのものが一度に押し寄せたため、どの言葉から口にすればよいのかわからなくなっているように見えた。
「長谷部さん、その女性を建物の中へ移してください。ここには学生も報道関係者も集まり始めていますし、このまま皇族と会話を続ければ、誰かに撮影される可能性があります」
榊原が低い声で言い、遥人の前へ身体を入れようとしたが、沙耶は銀色の鍵を胸元へ引き寄せると、近づく警察官へ向かって首を横へ振った。
「逃げるつもりはありませんし、警察の質問にも答えます。ただ、先に一つだけ確認させてください。孝仁親王殿下が私の顔を見て、誰だと思ったのか、それを本人の口から聞かなければ、ここまで来た意味がありません」
「それは警察が確認します」
長谷部が答えた。
「あなたは御厨宗一郎が殺されることを知っていたと話した。三浦直哉へ封筒を渡した女性である可能性も高く、現時点では重要参考人です。質問をする立場ではなく、質問に答える立場だと理解してください」
「理解しています。けれど、私がいくら母の話をしても、殿下が知らないと言えば、皇室側はその言葉を事実として扱うでしょう。だから御厨先生は、私をここへ立たせ、殿下が何とおっしゃるかを、警察と彰仁親王殿下の前で確かめさせたのです」
「御厨教授が、父上の反応を確かめるために、あなたをここへ来させたのですか」
遥人が問いかけると、沙耶は初めて彼へ顔を向けた。
「はい。先生は、孝仁親王殿下が母の死を本当に信じていたのか、それとも生存を知りながら隠してきたのか、自分では最後まで判断できなかったと言っていました。殿下の反応を見れば、少なくとも、その一つだけはわかるはずだと」
「御厨教授は、自分が殺されることまで予測していたのですか」
「予測ではありません。殺される可能性が高いとわかったうえで、今日、旧図書館へ行きました」
周囲にいた警察官たちの表情が変わった。
長谷部は、沙耶の手にある鍵へ一度目を向けたあと、孝仁親王へ向き直った。
「殿下、申し訳ありませんが、ここから先は事件捜査に関わる話です。お立場は承知していますが、今の発言について、私からも確認させていただく必要があります」
孝仁親王は雨に濡れたまま、しばらく沙耶を見つめていたが、やがて目を閉じ、長く息を吐いた。
「私が知っている女性は、水城美弥子という名だった。二十二年前、青嶺大学の近くで起きた自動車事故によって亡くなったと聞かされている。事故のあと、遺体の確認を求めたが、火災が激しく、本人だと断定できる状態ではないと説明された。それでも、身につけていた品と歯科記録が一致し、死亡に疑いはないと報告された」
「その報告を、疑わなかったのですか」
沙耶の声には、責めるような強さよりも、本当に理解できないという困惑があった。
「疑った。事故の前日まで、彼女は自分と子供の身が危険だと訴えていたからだ。しかし、私が独自に調べようとすると、当時の皇宮長官と父上から、これ以上関われば、彼女が守ろうとしたものまで危険に晒すことになると言われた」
「それで、諦めたのですか」
「諦めたのではない。従ったのだ」
「同じことでしょう」
沙耶の言葉に、孝仁親王の顔が強張った。
遥人は父へ反論したい衝動と、沙耶の言葉へ頷きたい衝動の両方を感じながら、どちらも口にすることができなかった。
皇族として、父が当時どれほど自由を制限されていたかは想像できる。命令に背けば自分だけでなく周囲の人間が処分され、場合によっては、守ろうとした相手の安全まで失われる。従うことしかできなかったという父の言葉は、遥人にとって決して理解できないものではなかった。
しかし、従った結果、一人の女性が二十二年間、死者として扱われたのであれば、それを仕方がなかったという言葉だけで済ませてよいとも思えない。
「水城さん、あなたのお母様は、水城美弥子という方なのですか」
遥人が尋ねると、沙耶は頷いた。
「母が生まれた時の名前は、水城美弥子です。ただし、その名前で一度死んだあと、別の名前を与えられました」
「別の名前とは?」
沙耶は長谷部へ視線を移し、それから、遥人へ向き直った。
「三浦千鶴。三浦直哉君の戸籍上の母親です」
遥人は、雨音が一瞬遠ざかったように感じた。
三浦千鶴には、三浦直哉を出産した記録がない。
直哉が二歳の時、病死したことになっている。
そして水城美弥子は、その三年前、自動車事故で死んだことになっていた。
「お母様は、水城美弥子として死亡したあと、三浦千鶴として直哉を育てた。しかし、その三浦千鶴も十九年前に亡くなったことになっている。それが、あなたの言った、三浦君の母親が二度死んだという意味なのですか」
「そうです。母は水城美弥子として一度、三浦千鶴としてもう一度、戸籍の上で殺されました。けれど、実際にはどちらの時も生きていました」
「では、現在も生きているのですか」
遥人の問いに、沙耶はゆっくりと首を横へ振った。
「三か月前に亡くなりました。今度は病院で医師が死亡を確認し、私が遺体を引き取り、火葬にも立ち会いましたから、三度目だけは本当です」
沙耶は淡々と答えようとしていたが、最後の言葉だけはわずかに震えていた。
孝仁親王は、顔を伏せた。
「美弥子は、二十二年間、生きていたのか」
「殿下がそれを本当にご存じなかったのなら、母は二十二年間、あなたにも見捨てられたと思いながら生きていました。何度も連絡しようとしたそうですが、皇宮へ手紙を送るたびに送り返され、電話をすれば、その番号は存在しないと言われ、直接近づこうとした時には、見知らぬ男たちから、娘を守りたいなら二度と皇族へ連絡するなと脅されたそうです」
「娘というのは、あなたのことですか」
「はい。二十二年前、私は五歳でした。母が自動車事故で死んだと発表されたあと、私は遠縁の家へ預けられ、母とは七年間会えませんでした。再会した時、母は水城美弥子でも三浦千鶴でもない、まったく別の名前で暮らしていました」
「では、あなたは三浦君の姉にあたるのですか」
「戸籍の上では違います。血のつながりについても、私にはわかりません。母は、直哉君を自分が産んだ子ではないと話していましたが、誰の子なのかは、最後まで教えてくれませんでした。ただ、あの子を守るために三浦千鶴という人間になり、役目を終えたあと、再び死んだことにされたと言っていました」
孝仁親王が顔を上げた。
「美弥子は、直哉という子供を育てていたのか」
「二年間だけです。母によれば、旧図書館から運び出された二人の乳児のうち、一人を皇宮へ戻し、もう一人を三浦家へ預けた。そのあと母は、三浦千鶴として預けられた子供の母親を演じるよう命じられたそうです」
「二人の子供とは、私と三浦のことですか」
遥人が問うと、沙耶は答えなかった。
「それを確かめる方法が、御厨先生の残した封筒に入っています」
「三浦君へ渡した茶色の封筒ですね」
長谷部が尋ねた。
「では、あれを渡したのは、やはりあなたですか」
「はい。御厨先生から指示され、午前中に三浦君へ渡しました。先生は、自分の手から直接渡せば監視している者に奪われる可能性があるため、何も知らない学生を介したほうが安全だと言っていました」
「何も知らない人間を危険へ巻き込んだことになります」
「私も反対しました。けれど先生は、直哉君本人が持っていなければ意味がないと言いましたし、封筒の存在を知る者は、自分を殺してでも奪いに来るだろうから、むしろ人目のある大学内で渡したほうが安全だと考えていたのです」
「実際には、三浦は薬を打たれ、頭を殴られた。御厨教授の判断は間違っていたことになります」
「そうです。先生は、自分が考えていたより、相手が追い詰められていることを見誤りました」
沙耶は反論せず、三浦を危険へ巻き込んだ責任を受け入れるように目を伏せた。
「青い石の指輪は、どこで手に入れたのですか」
遥人が尋ねた。
沙耶は右手を上げ、薬指にはめた指輪を外すと、掌へ乗せた。
雨に濡れた青い石は、暗い空の下でも深い光を保っている。遥人が二日前の晩餐会で玲子内親王の指に見たものと、意匠までよく似ていた。
「母の遺品です。亡くなる直前、御厨先生へ渡すよう頼まれました。母は、この指輪を二十二年前、玲子内親王殿下から受け取ったと話していました」
遥人が父を見ると、孝仁親王は驚きを隠せないまま、指輪を見つめていた。
「玲子が、美弥子に?」
「母は、玲子内親王殿下が自分たちを逃がそうとしてくれた、ただ一人の皇族だったと言っていました。しかし、途中で計画が漏れ、子供たちは別々に連れ去られた。玲子内親王殿下がその後どうなったのか、母も知らなかったそうです」
「では、あなたが三浦へ封筒を渡す時、この指輪を見えるようにつけていたのは、なぜですか」
「御厨先生に命じられたからです。彰仁親王殿下がその指輪を見たと知れば、真っ先に誰を思い浮かべるかを確かめたいと言っていました」
遥人は眉を寄せた。
「私が三浦へ封筒を渡す場面を見るとは限らなかったはずです」
「見る必要はありません。直哉君が覚えていれば、いずれあなたへ伝わると先生は考えていました。そして、あなたが玲子内親王殿下を疑うなら、二日前の晩餐会で同じ意匠の指輪を見ていたことになる。つまり、玲子内親王殿下が現在も指輪を持っているのか、それともよく似た別の指輪を身につけているのか、確認する必要が生まれる」
「御厨教授は、私を使って、叔母の指輪を調べさせようとしたのですか」
「先生は、皇宮の中にいる人間を正面から調べることはできないと言っていました。けれど、あなたなら家族として自然に近づき、指輪を確認できると」
「ずいぶん勝手な人ですね」
「はい。自分が正しいと思ったことのためなら、周りの人間がどれほど傷つくかを、後回しにする方でした」
沙耶の言葉には、御厨教授への感謝と怒りの両方が含まれていた。
長谷部は、沙耶の掌にある指輪を証拠品として預かると告げ、代わりに銀色の鍵を指し示した。
「その鍵は何ですか。御厨教授から預かったものですか」
「母の遺品の中に入っていました。御厨先生は、旧図書館の時計塔にある『中心』を開く鍵だと言っていました」
遥人は、小会議室で描いた時計盤の三角形を思い出した。
十一時四分、十三時二十八分、十七時五十二分。
三つの位置を結んだ中央。
時計の軸。
「時計塔の中心に、何かが隠されているのですか」
「先生は、二十二年前の入れ替えを証明するものが、時計塔の内部に残されていると話していました。ただし、鍵だけでは開かず、二つの時刻を知る者と、二つの名前を持つ者が必要だと」
長谷部が顔をしかめた。
「謎かけをしている場合ではありません。具体的に、どこへ鍵を差し込むのですか」
「私は知りません。御厨先生は、すべてを一人へ教えれば、その人間が殺された時に終わるため、情報を分けて残したと言っていました。鍵は私、時刻は桑原さん、開け方は御厨先生、そして中にあるものが何を意味するかは、別の人物が知っているはずだったそうです」
「別の人物とは誰です」
「先生は、最後まで教えてくれませんでした。ただ、その人物は今日、大学に来る予定だったと」
遥人は受付記録にあった三人の名前を思い出した。
桑原澄江。
三浦直哉。
久世遥人。
記録に残っていない人物が、もう一人いた可能性がある。
「御厨教授が殺されると知っていたという話について、説明してください」
長谷部の声が低くなった。
沙耶は旧図書館の二階を見上げた。
「昨日の夜、御厨先生から電話がありました。明日の午後、これまで資料を奪ってきた人間が、自分と最後の交渉をするため旧図書館へ来る。その人物は、証拠を渡せば事件を公にせず、彰仁親王殿下にも何も知らせないと約束している。しかし先生は、相手が約束を守るとは思っていなかった」
「それなら、なぜ警察へ知らせなかったのですか」
「知らせようとしました。けれど先生は、二十二年前の事件には、警察内部の人間も関わっていたと言いました。誰を信用すればよいかわからない状態で通報すれば、相手へ警告するだけになると」
長谷部の表情が険しくなる。
「御厨教授は、具体的な警察官の名前を挙げましたか」
「いいえ。ただし、午後三時四十五分から四時十分までの間に、自分から連絡がなければ、交渉が失敗したと考えろと言われました。そして、午後五時五十二分に旧図書館の隠し書架が開くよう準備してあるから、その時刻まで警察が建物を封鎖していれば、桑原さんは救出され、手帳も見つかるはずだと」
「桑原さんが書架の裏にいることも、教授は知っていたのですか」
「桑原さん自身が隠れることに同意していました。先生は、自分が殺された場合、桑原さんまで狙われると考え、あの場所へ避難させたのです」
「桑原さんは首を絞められ、意識を失っていました。避難ではありません」
長谷部が厳しく言うと、沙耶の顔から血の気が引いた。
「そんなはずはありません。隠し書架は内側からも開けられますし、先生が鍵を持っている者を入れない限り、誰も中へは入れないと聞いていました」
「実際には、何者かが中へ入り、桑原さんを襲った。そのうえ、教授の遺体のそばにあった鍵を、警察官がいる現場から消し、桑原さんの手へ握らせています」
沙耶は、初めて明確な恐怖を見せた。
「では、御厨先生が想定していた相手とは別に、隠し書架の仕組みを知る人間がいたことになります」
「あるいは、あなたが嘘をついている」
「嘘ではありません」
「御厨教授が殺される可能性を知りながら警察へ通報せず、指示どおり封筒を運び、事件後に鍵を持って現れた。あなたが犯行計画の一部を知っていたことは間違いない。ここからは、場所を移して詳しく話を聞きます」
長谷部が警察官へ合図を送ると、沙耶は抵抗せず両手を下ろしたが、連れていかれる直前、遥人へ向かって言った。
「彰仁親王殿下、御厨先生は、あなたに一つだけ伝えるよう言っていました。三浦直哉君と血液を比べても、どちらが皇嗣かはわからない。二人の父親が同じだから、と」
孝仁親王の表情が変わった。
遥人は、父を見た。
沙耶の言葉を否定してほしかった。
何を根拠にそんなことを言うのかと怒り、自分には心当たりがないと断言してほしかった。
しかし父は、視線を逸らした。
「父上」
遥人が呼びかけても、孝仁親王は答えなかった。
「三浦は、父上の子なのですか」
「今ここで話すことではない」
「御厨教授は殺され、三浦は犯人に仕立てられ、私の出生に関わる記録が残されています。それでも、まだ話す時ではないと言うのですか」
「彰仁、事情は君が考えているほど単純ではない。二十二年前、私自身も何が行われていたのか、すべてを知らされていたわけではない」
「知っていることだけで構いません。三浦直哉は、父上の子である可能性があるのですか」
雨は強くなり、傘を持たない父の髪から水が滴っていた。
孝仁親王は長い沈黙のあと、遥人だけでなく、その場にいる長谷部や榊原にも聞こえる声で答えた。
「水城美弥子が産んだ子供の父親は、私だ」
遥人は、胸の奥で何かが静かに崩れていくのを感じた。
「ただし、その子供が三浦直哉なのか、君なのかは、私にもわからない。私が旧図書館へ着いた時には、二人の乳児はすでに同じ白い布へ包まれ、識別するための札も外されていた。そして、その夜、私が皇宮へ連れ帰った子供が、今ここにいる君だ」
父の言葉は、遥人が偽物だとも、本物だとも証明しなかった。
むしろ、それまで一つだと思っていた疑問を、さらに深い二つの穴へ分けた。
遥人と三浦は、同じ父を持つ可能性がある。
そのうえで、どちらが水城美弥子の子供で、どちらが皇嗣として生まれた子供なのか、父にさえわからない。
孝仁親王は、遥人の目を見たまま、苦しそうに続けた。
「そして、もう一つ、君に伝えなければならないことがある。二十二年前、旧図書館にいた乳児は、二人ではなかった」
榊原がわずかに息を呑んだ。
「三人いた」
その言葉と同時に、旧図書館の時計塔から、時刻とは関係のない鐘が一度だけ鳴った。
誰も操作していないはずの時計の文字盤は、雨の向こうで午後六時十八分を示していた。
三つの時刻の次に来る、十八分だった。




