第四章 青い石の指輪
玲子内親王の名を思い浮かべた瞬間、遥人の中に生じたのは、叔母を疑うことへの罪悪感よりも先に、自分が二日前の晩餐会で見た光景を、どこまで正確に記憶しているのか確かめたいという、ひどく冷静で、それゆえに身内へ向けるには残酷な衝動だった。
皇宮内の小晩餐室。
長い食卓の中央には白い百合が飾られ、玲子は遥人の父である孝仁親王の向かい側に座っていた。薄紫色のドレスを身にまとい、左手でワイングラスの脚を持ち、話の途中で笑うたび、薬指にはめられた青い石が照明を反射していた。
見間違いではない。
ただし、青い石の指輪を持っているという事実だけで、叔母が三浦へ封筒を渡した人物だと決めつけることもできなかった。皇族女性へ贈られる指輪の意匠は公表されておらず、市販品にも似たものは数多く存在する。それに三浦は相手の顔を見ておらず、声が若かったという曖昧な印象しか覚えていない。
玲子は四十七歳であり、年齢より若く見えるとはいえ、二十一歳の三浦が若い女性の声だと感じるかどうかは疑わしい。
それでも、二十二年前の失踪。
彰仁という子供の入れ替え。
そして、その直後から半年間、公務へ姿を見せなかった玲子内親王。
無関係だと考えるには、重なる点が多すぎた。
「玲子内親王殿下が、三浦へ封筒を渡した人物だと思っているのですか」
長谷部は、遥人の表情から考えを読み取ったように尋ねた。
「思っているのではなく、可能性として考えただけです。三浦が覚えている青い石の指輪と同じ特徴のものを、二日前に叔母が身につけていました。ただし、それだけで疑うつもりはありませんし、三浦が見たものが本当に皇族女性へ贈られる指輪だったかもわかりません」
「その指輪は、一点ものですか」
「基本となる意匠は受け継がれていますが、石の形や台座は持ち主によって異なります。もっとも、一般には公開されていない慣例ですから、模造しようとすれば、皇室内部に詳しい人間の協力が必要になるでしょう」
「あなたの叔母上は、二十二年前の件について何か知っていると思いますか」
「それを今から確かめます」
遥人が立ち上がると、長谷部は露骨に顔をしかめた。
「どこへ行くつもりです」
「玲子叔母へ連絡します。今日の午後、どこにいたのか、指輪を誰かに貸したことがあるのか、二十二年前に何があったのかを聞きます」
「あなたが直接尋ねれば、仮に相手が事件へ関わっていた場合、証拠を隠す時間を与えることになります。警察が確認するまで、連絡は控えてください」
「叔母は皇族です。通常の手続きで事情を聞こうとすれば、警察庁、宮内府、皇宮警察の間で調整が行われ、質問の内容まで事前に伝わる可能性があります。その間に何かを隠せるという意味では、私が今尋ねる場合と大きく変わらないでしょう」
「それでも、あなたは捜査員ではありません」
「身内だからこそ、警察には答えないことを話す可能性もあります」
「身内だからこそ、嘘をつかれても信じてしまう可能性もある」
「長谷部さんは、私が叔母を庇うと思っているのですか」
「逆です。あなたは、自分が公平であろうとするあまり、身内を必要以上に厳しく見る人間に思えます。証拠が足りない段階で叔母上を問い詰め、相手が傷ついてから、自分のしたことを後悔する可能性を心配しています」
遥人は返す言葉を失った。
長谷部は事件現場で会ったばかりの男であり、遥人の過去も家族関係も知らない。それにもかかわらず、その指摘は、長く仕えてきた榊原よりも容赦なく、遥人の性質を言い当てていた。
皇族である以上、誰かを特別扱いしてはならない。
幼い頃からそう教えられてきた遥人は、親しい相手を庇っていると思われることを恐れ、むしろ身近な人間へ厳しい判断を下すことがあった。公平であることと、冷酷であることの境界が、自分でもわからなくなる時がある。
「それでも、話を聞かないわけにはいきません。ただし、問い詰めるのではなく、事実を一つずつ確認します。長谷部さんにも同席していただいて構いません」
「電話へ警察官を同席させるつもりですか」
「あなたが私を信用していないのなら、それが最も合理的でしょう」
「本当に、友人から面倒だと言われる理由がよくわかります」
長谷部が溜息をついたところで、小会議室の扉が開き、榊原と坂井が入ってきた。
榊原は普段どおり無表情だったが、遥人には、顎の筋肉がわずかに硬くなっているのがわかった。すでに警察庁から連絡が入り、事件の内容が皇宮へ伝わったのだろう。
「久世さん、迎えが到着しました。今夜はご自宅ではなく、ご家族の管理する施設へ戻っていただきます」
「皇宮へ戻れということですか」
「ここでその名称を口にしないでください」
「長谷部さんは知っていますし、坂井さんも手帳を見ています。今さら、施設という言葉で隠せるとは思えません」
坂井は、聞いてはいけない会話へ巻き込まれた人間のように視線を泳がせたが、長谷部は気にした様子もなく、榊原へ尋ねた。
「迎えというのは、皇宮警察ですか」
「その質問には答えられません。ただ、久世さんの安全を確保できる者が来ています」
「事件関係者を、警察の聴取が終わる前に連れ出されては困ります」
「正式な聴取が必要であれば、指定された場所へお越しください。久世さんを一般の警察施設へ移動させることは認められません」
「先ほどまでは、ただの大学院生だったはずですが」
「設定は状況に応じて変わります」
長谷部が怪訝な顔をしたため、遥人は思わず口元を緩めた。
「榊原さんがよく使う言葉です。私も便利だと思います」
「殿下、今は冗談を申し上げている状況ではありません」
榊原が本来の呼び方を口にしたことで、坂井の背筋が目に見えて伸びた。
遥人はその反応を横目に見ながら、榊原へ向き直った。
「玲子叔母の本日の予定を確認してください。午後、青嶺大学へ来ることができたかどうか、それから、現在、青い石の指輪を所持しているかを知りたいのです」
「玲子内親王殿下をお疑いなのですか」
「まだ何も疑っていません。三浦へ封筒を渡した女性が、青い石の指輪を身につけていたというだけです。ただし、二十二年前に叔母が半年間公務を休んでいた理由についても、改めて確認する必要があります」
「玲子内親王殿下の療養については、当時の公式記録に――」
「体調不良とだけ書かれ、病名も療養場所も公表されていません。私はこれまで、家族の私的な事情だと思い、詳しく聞こうとはしませんでした。しかし、桑原さんの記録に私の出生をめぐる入れ替えが書かれていた以上、知らなかったことを理由に、このまま目を逸らすわけにはいきません」
榊原は遥人の顔を見たあと、長谷部と坂井へ視線を移した。警察官の前で皇族の事情をどこまで話すべきか、迷っているのだろう。
「確認いたします。ただし、殿下ご自身が直接連絡されることはお控えください。玲子内親王殿下が事件に関与しているかどうかとは別に、皇族同士の会話が捜査へ利用されたと受け取られれば、別の問題が生じます」
「人が殺されている時に、体面の問題を先に考えるのですか」
「体面だけではありません。何を尋ねられたかが相手へ伝われば、殿下がどこまで知っているかも伝わります。これは長谷部警部と同じ理由で申し上げています」
遥人は長谷部を見ると、彼は小さく頷いた。
同じ内容でも、長谷部から言われた時には自分の行動を制限されていると感じ、榊原から言われれば皇室の都合で事件から遠ざけられようとしていると感じる。自分の受け止め方が、相手への先入観に左右されていることを認めないわけにはいかなかった。
「わかりました。ただし、確認結果はすべて私にも知らせてください。叔母が皇族だからという理由で、質問そのものを曖昧にすることは認めません」
「承知しました」
「それから、三浦へ会いたいのですが」
「認められません」
榊原と長谷部の声が重なった。
二人は互いを見て、わずかに気まずそうな沈黙を作った。
「三浦は私へ伝えたいことがあるはずです。封筒を渡した女について、警察の質問では思い出せなかったことも、私と話せば出てくるかもしれません」
長谷部が答えた。
「それは先ほども説明しましたが、あなたと三浦直哉は、どちらも事件の関係者です。記憶が曖昧な状態で会話をすれば、あなたの言葉に影響されて、実際には見ていないものまで見たと思い込む可能性がある。友人として心配なのは理解しますが、今は会わせられません」
「では、三浦の証言を詳しく教えてください。若い声、青い指輪以外に、話し方、身長、服装、香り、足音など、何か覚えていることはありませんか」
「病院へ確認していますが、本人の記憶は断片的です。封筒を受け取った時、相手は三浦の背後に立っており、振り返る前に立ち去った。指輪が見えたのは、封筒を差し出された時だけです。ただ、一つ気になる話があります」
「何でしょう」
「女性は三浦へ、御厨教授に渡せばあなたの母親のことがわかる、と言ったそうです」
遥人は、三浦が午前中に口にした言葉を思い出した。
――俺だって家族のことはあんまり話してない。
あの時の硬い笑顔。
御厨教授の名が書かれた封筒。
そして、自分の家族について尋ねられた直後、三浦が話題を変えたこと。
「三浦の母親に、何かあったのですか」
長谷部は坂井へ視線を向けた。
坂井がメモ帳を開く。
「三浦直哉の戸籍上の母親は、三浦千鶴。十九年前に病死しています。直哉が二歳の時です。父親は健在で、現在は県外の印刷会社に勤務していますが、母親について詳しいことを話したがらないと、三浦本人が供述しています」
「十九年前に亡くなったのなら、二十二年前の事件とは直接関係しないように見えます」
遥人が言うと、坂井はさらに頁をめくった。
「ただし、三浦千鶴には、出産記録が見つかっていません」
「どういう意味ですか」
「三浦直哉の出生届には母親として記載されていますが、出産したとされる病院は二十三年前に閉院しており、残っている診療記録にも三浦千鶴の名前がありません。自宅出産だったという親族の証言もなく、母子手帳の交付記録も確認できていません」
遥人は、背中に冷たいものが這うのを感じた。
「つまり、三浦千鶴が直哉を産んだという客観的な記録がない」
「現時点では、そうなります。しかし古い記録ですし、行政側の保存や転記に不備があった可能性もあります。出産記録がないからといって、実母ではないと断定はできません」
「三浦の誕生日は?」
「二十二年前の十月十四日です」
桑原の手帳に記録された出来事は、十月十七日。
その三日前。
一人は三日前に生まれ、一人は四日後に生まれている。
桑原の記録に書かれていた、二人の子供の誕生日。
遥人の公表上の誕生日は十月十七日だった。
そして三浦直哉は、その三日前に生まれている。
「三浦が、もう一人の子供なのですか」
遥人が口にすると、榊原はすぐに否定した。
「推測にすぎません。誕生日が一致しただけで、三浦さんと二十二年前の子供を結びつける証拠はありません」
「しかし、犯人は三浦の母親を餌にして封筒を運ばせた。御厨教授の手帳には、別の家へ預けられた子供がいたと書かれている。三浦の母親には出産記録がなく、三浦はその子供と同じ日に生まれている。これほど重なっても、偶然だと言うのですか」
「偶然だとは申し上げていません。殿下が、自分に都合の悪い可能性だけを選び、確定した事実のように受け取ろうとしていることを止めているのです」
「私に都合が悪い?」
「三浦さんが本来の皇位継承者であり、殿下が入れ替えられた子供だったという結論です。殿下は先ほどから、そう考える方向へ急いでおられるように見えます」
榊原の指摘に、遥人は強く反発しかけた。
だが、言葉にする前に、自分の胸の中を確かめた。
もし自分が偽物なら、皇嗣として抱えてきた責任から解放される。
その可能性を恐れている一方で、どこかで望んでいるのではないか。
生まれた時から決められていた人生が、誰かの間違いだったと証明されれば、自分は久世遥人として生きられる。大学へ通うことを一年で終わらせる必要もなく、三浦と食堂でラーメンを食べ、値段を知らないコートをからかわれ、誰かと親しくなるたびに身元を調査されることもなくなる。
そして、その自由を得る代わりに、三浦へ、自分が背負ってきたものを押しつけることになる。
「私は、逃げようとしているのでしょうか」
遥人は誰に尋ねるともなく言った。
榊原はすぐには答えなかった。
「殿下が何をお考えになっているかを、私が決めることはできません。ただ、真実を知りたいというお気持ちと、今のお立場から離れたいというお気持ちが、同時に存在していても不思議ではないと思います。どちらか一方だけが本心だと決めつければ、ご自身を見誤ります」
「あなたは、私が皇嗣でなくなったとしても、今と同じように話すのですか」
問いかけた直後、遥人は、それがひどく幼い質問だったことに気づいた。
榊原は一瞬だけ目を見開いたあと、普段よりゆっくりと答えた。
「皇嗣殿下であるからお守りしていることは事実です。それが私の職務ですから、綺麗事で否定するつもりはありません。しかし、十年以上、毎朝食事をされる姿を見て、苦手なものを残せば注意し、体調を崩されれば眠れず、大学へ行かれる背中を見送ってきた相手が、ある日立場を失ったからといって、知らない人間へ戻ることもできません。少なくとも私は、そこまで器用ではありません」
遥人は、返事ができなかった。
榊原は照れた様子を見せることもなく、ただいつもの無表情に戻り、長谷部へ向き直った。
「殿下を移動させます。これ以上の聴取は、今夜でなくても可能でしょう」
長谷部は遥人の顔を見て、わずかに考えたあと頷いた。
「今日は帰って構いません。ただし、大学にも自宅にも戻らず、所在は警察側にも知らせてください。それから三浦直哉、桑原澄江、玲子内親王へ、独断で接触しないこと。守れますか」
「努力します」
「守るとは言わないのですか」
「守れない可能性がある約束を、安心させるためだけにするべきではないでしょう」
「正直なのか、扱いづらいのか、本当に困る人ですね」
*
旧図書館を出ると、雨が降り始めていた。
正面階段の下には黒い車が二台停まり、私服姿の皇宮警察官たちが、大学職員や学生を遠ざけている。規制線の外側には、何が起きたのか確かめようとする学生が集まり始めており、スマートフォンを掲げている者もいた。
遥人はコートの襟を立て、顔を伏せて車へ向かった。
その途中で、背後から自分の名を呼ぶ声がした。
「久世君」
振り返ると、透明な傘を差した若い女性が規制線の向こうに立っていた。
肩まで伸びた黒髪に、青嶺大学の職員証。年齢は二十代後半に見え、薄い灰色のコートを着ている。遥人には見覚えがなかったが、女性は以前から知っている相手へ話しかけるような目で、まっすぐこちらを見ていた。
「誰ですか」
榊原が遥人の前へ出る。
女性は答えず、傘を持っていない右手を規制線の高さまで上げた。
左手ではない。
右手の薬指に、深い青色の石をはめた指輪があった。
「御厨先生から、あなたに渡すよう頼まれていたものがあります。警察に見つかる前に受け取ってください。そうしないと、三浦君のお母様が、なぜ二度死ななければならなかったのか、永遠にわからなくなります」
長谷部が警察官へ合図を送る。
女性は逃げようとしなかった。
むしろ、近づいてくる警察官を待っていたかのように傘を閉じ、灰色のコートのポケットから、小さな銀色の鍵を取り出した。
「私は犯人ではありません。でも、御厨先生が殺されることは知っていました」
雨が女性の髪と肩を濡らしていく。
その顔には恐怖よりも、長いあいだ隠してきたものを、ようやく手放せる安堵が浮かんでいた。
「私の名前は水城沙耶です。二十二年前、旧図書館から運び出された子供を産んだ女性の娘です」
遥人は、言葉の意味をすぐには理解できなかった。
水城沙耶は、遥人ではなく、車の向こうへ目を向けた。
そこには規制線を越えて近づいてきた、一人の男が立っていた。
濃紺の外套を着た、遥人の父、孝仁親王だった。
父は水城沙耶の顔を見ると、血の気を失い、その場で足を止めた。
「なぜ、君が生きている」
孝仁親王が呟く。
沙耶は、雨に濡れながら静かに笑った。
「それは私の母に向ける言葉でしょう、殿下。二十二年前、あなたが死んだことにした女性へ」




