第三章 本名を知る者
桑原澄江の手帳に書かれていた自分の本名を目にした瞬間、遥人が最初に感じたのは恐怖でも驚愕でもなく、周囲にいる人間が今どこを見ているかを確認しなければならないという、長年の訓練によって身体へ染み込んだ反応だった。
手帳を持っている長谷部。
その隣に立つ若い刑事。
書架の裏で桑原の救護に当たっている二人の警察官。
証拠品を撮影している鑑識員。
そして、遥人の腕を掴んだまま、普段とは明らかに異なる緊張を全身にまとっている榊原。
少なくとも、最後の頁に並ぶ文字をはっきり読んだのは長谷部と若い刑事、それに自分たち二人だけらしい。しかし、誰か一人でも声に出せば、その名前は数分のうちに現場全体へ広がり、警察組織の報告経路を通って、大学の外へ出ていく。
皇嗣・彰仁親王が、久世遥人という偽名を用いて青嶺大学へ通っている。
その事実が公になれば、一年間の大学生活が終わるだけでは済まない。
大学側が皇族の身分を秘匿して受け入れていたのか、政府が一般学生へ知らせないまま警備体制を敷いていたのか、学内に監視が行われていたのではないか。憶測は事実より速く広がり、遥人と一度でも言葉を交わした学生は取材を受け、三浦をはじめとする友人たちは、本人たちの意思とは無関係に「皇嗣の学友」という役割を与えられるだろう。
だが、今ここで最も重要なのは、自分の大学生活ではない。
御厨教授が殺され、三浦が血の付いた状態で発見され、桑原は書架の裏で首を絞められていた。
遥人は、自分へ向けられた視線から逃げず、長谷部へ尋ねた。
「その手帳には、私の名前以外に、何が書かれているのですか。二十二年前の出来事を記録したものなら、御厨教授の死や桑原さんが襲われた理由を知る手掛かりになるはずです」
長谷部は答えず、最後の頁と遥人の顔を何度か見比べたあと、手帳を閉じて若い刑事へ渡した。
「坂井、今見た文字については、私が許可するまで無線でも口頭でも報告するな。この手帳はその場で撮影したあと、他の証拠品と分けて保管しろ。内容を確認する人間も、当面は私が指定する」
「しかし、長谷部さん、この名前は――」
「聞こえなかったのか。今は報告するなと言った」
坂井と呼ばれた刑事は、長谷部の声に含まれた強さを感じ取ったらしく、それ以上は何も言わず、透明な証拠袋を用意して手帳を収めた。
長谷部は廊下にいる警察官へ、桑原を速やかに救急搬送すること、書架の裏の空間へ誰も入れないこと、停電の原因が特定されるまで建物から人を出さないことを指示すると、遥人と榊原へ向き直った。
「お二人には、別々に話を聞きます。久世さんは私と一緒に一階へ。榊原さんは、坂井の質問に答えてください」
「それはできません」
榊原の返答は、大学院生が警察へ向けるものとしては、あまりに即座で、あまりに断定的だった。
長谷部が眉を上げる。
「できないとは、どういう意味ですか」
「久世さんは遺体を発見した直後から精神的な動揺が大きく、体調にも不安があります。質問を受けるのであれば、私は同席します」
「先ほどまで、誰より落ち着いて現場を観察していたように見えましたが」
「落ち着いて見えることと、負担を受けていないことは同じではありません。彼は、自分が耐えれば周囲に迷惑をかけないと思い込むところがありますので、本人の様子だけで判断しないでいただきたい」
護衛対象を守るための言葉であると同時に、榊原自身の本音でもあるのだろう。
遥人は、それをありがたいと思いながらも、この場では受け入れられなかった。
「榊原さん、私は大丈夫です。長谷部さんが私たちを別々に聴取しようとするのは、証言の内容を互いに合わせることを防ぐためでしょうから、ここで拒めば、かえって疑いを強くします」
「しかし――」
「私を守るために、警察へ不自然な態度を取らないでください。今朝、私が申し上げたことを忘れたのですか」
榊原は口を閉じた。
皇嗣を守ることと、一人の人間として遥人の意思を尊重することが衝突する時、榊原は必ず前者を選ぶ。それが彼の職務であり、遥人も理解している。
だからこそ、榊原が引き下がったのは、遥人の言葉へ納得したからではなく、これ以上抗えば正体を明かさずには済まなくなると判断したためだった。
「久世さんは、私が責任を持ってお預かりします。事件の聴取以上のことは、今の段階では尋ねません」
長谷部が言った。
今の段階では、という一言が何を意味しているのか、遥人には十分わかっていた。
*
旧図書館一階の小会議室は、長い間使われていなかったらしく、中央に置かれた机には薄く埃が積もり、壁際の書棚には何年も前の大学紀要が並べられていた。
長谷部は入口の扉を閉めると、遥人へ椅子を勧めることもなく、窓のカーテンを引き、部屋の隅に設置されていた古い防犯カメラの電源が切れていることを確認した。
「座ってください。ここで話すことは、記録へ残す正式な聴取ではありません」
「警察官が、事件関係者と記録に残さない話をしてもよいのですか」
「よいかどうかを決めるのは、話の内容を確かめてからです。少なくとも、今すぐ大勢の人間へ知られれば、捜査そのものが混乱する可能性がある。私は、先ほど手帳に書かれていた名前が、偶然の一致なのか、何者かの悪戯なのか、それとも本当にあなたを指しているのかを確認しなければなりません」
長谷部は机を挟んだ向かいの椅子へ座り、手帳ではなく、自分の携帯電話を机の上に置いた。
「彰仁親王殿下は、現在二十一歳。公表されている経歴では、皇宮内に設けられた教育機関で学んでおり、大学には在籍していないことになっている。公務の予定も公開されるものは限られ、顔写真も幼少期ほど多くない。まして大学生が、皇嗣殿下と同じ年齢で、顔立ちや雰囲気が多少似ていたとしても、普通は同一人物だとは考えないでしょう」
「そうでしょうね」
「否定しないのですか」
「何を否定すればよいのでしょう。私が彰仁親王に似ていることですか。それとも、その名前を知っていることですか」
「質問に質問で返すのは、時間を稼ぎたい人間がよく使う方法です」
「警察官が相手の反応を確かめるため、事実ではなく推測を混ぜて質問するのと同じでしょう」
長谷部は、面白がるでも苛立つでもなく、しばらく遥人の顔を見ていた。
「大学の友人にも、そういう話し方をするのですか」
「三浦には、面倒だからやめろと言われています」
「彼の意見は正しいと思います。では、聞き方を変えましょう。あなたは、皇嗣・彰仁親王殿下ご本人ですか」
遥人は、すぐには答えなかった。
否定すれば、その場を一時的に凌げるかもしれない。しかし長谷部は、手帳の文字を見ただけでなく、遥人と榊原の反応を観察している。今さら拙い嘘をつけば、疑いを深め、事件に関する証言まで信用を失う。
一方で、正式な権限や秘密保持の手続きを経ず、刑事一人へ正体を明かすことは、遥人だけの判断で許されることではなかった。
「その質問には、私から直接お答えすることができません」
「答えられないという答えは、否定とは受け取りません」
「そう受け取るかどうかは、長谷部さんの自由です。ただ、確認が必要なのであれば、榊原さんへではなく、あなたの上司を通じ、警察庁警備局へ連絡してください。そこで、この件について照会する権限があると判断されれば、必要な回答が得られるはずです」
長谷部の表情から、わずかに探る色が消えた。
「警察庁警備局という言葉が、大学生の口から自然に出てくるとは思いませんでした」
「父の仕事の関係で、多少は知っています」
「似たようなもの、でしたか」
「便利な表現でしょう」
「私も今度使わせてもらいます」
長谷部は携帯電話を手に取ったものの、すぐには発信せず、机の上で指先を組んだ。
「仮に、あなたが私の想像している人物だったとしても、事件の扱いを変えるつもりはありません。御厨教授が殺され、桑原澄江が襲われ、三浦直哉が負傷している。被害者や容疑者の中に皇族がいたとしても、事実が変わるわけではない」
「そうしていただかなければ困ります。私の身分を理由に、捜査の一部が伏せられたり、誰かの罪が軽く扱われたりすることは望みません」
「しかし、あなたの身分が事件の動機に関わっているなら、捜査上、秘密にしたままでは済まない」
「必要な範囲で共有してください。ただし、大学に通っている事実まで広げる必要があるのかは、捜査の進展を見て判断していただきたい」
「要求が多いですね」
「お願いしているのです」
「皇嗣殿下からのお願いは、一般人から見れば命令と区別がつきにくい」
長谷部の口調は変わらなかったが、すでに遥人を誰として扱うべきか、心の中では結論を出しているようだった。
遥人は、あえて訂正しなかった。
「ところで、あなたは桑原澄江の手帳へ自分の本名が書かれているのを見ても、なぜ自分の身分が知られているのかより、手帳の内容を先に尋ねました。秘密を守りたい人間としては、少し不自然です」
「私の正体を知る者がいること自体は、これまでも想定していました。完全に隠し通せるとは思っていません。しかし、御厨教授はすでに亡くなり、桑原さんは意識がありません。二人が何を知っていたのか確認できない以上、手帳に残された記録のほうが重要です」
「自分の身分より、事件を優先したと?」
「そう聞こえるように言えば、立派な人間に見えるでしょうが、実際は違います。自分のことだからこそ、知りたいのです。御厨教授の写真には、皇嗣にしてはならない子供が写っていた。桑原さんは私の顔を見て、死んだはずの子供に似ていると言った。私はその意味を知らない。知らされていないことが、自分の出生や立場に関係するのなら、気にならないはずがないでしょう」
「率直ですね」
「三浦から、言葉を選びすぎると本心が見えなくなると言われたことがあります」
「彼は、あなたが何者か知らない?」
「知りません。知っていれば、私の家へ泊まり、護衛官の前で皇室の悪口を言うようなことはしないでしょう」
「皇室の悪口を?」
「制度が時代遅れだとか、皇族は税金で楽をしているとか、その程度です。三浦は、本人を目の前にしているとは知らなかったのですから、責めるつもりはありませんし、むしろ、そういう意見を聞くために大学へ来ました」
「あなたが三浦直哉を友人として大切にしていることはわかりました。しかし、彼は御厨教授の死亡推定時刻に近い時間帯、この建物へ来ていた。教授の研究室の鍵を持ち、手には血が付着し、血の付いたハンカチまで所持している。現時点では、最も疑わしい人物です」
「それでも、彼が犯人だとは思いません」
「先ほどは、友人だから信じるだけでは事実を見ないふりになる、と言っていましたね」
「信じることと、考えることは両立します。三浦は秘密を抱えるのが下手で、嘘をつく時には、必要のない説明を増やします。今日、御厨教授について話した時、彼は教授と面識がないように振る舞いましたが、自分が呼ばれていたことを隠したかったのなら、御厨教授が学生を個人的に呼び出すのは珍しい、などという話題を自分から出す必要はありませんでした」
「嘘が下手だから、犯人ではない?」
「殺人を犯せないと言っているのではありません。少なくとも、計画的に御厨教授を殺し、密室を作り、時計塔を操作し、桑原さんを隠し通路へ閉じ込めた人間が、自分の名前を受付へ残し、教授宛ての封筒や血の付いたハンカチを持ったまま、建物の裏で倒れているのは不自然です。犯人であるなら、あまりにも証拠を残しすぎていますし、犯人でないなら、誰かが彼を犯人に見せようとしたと考えられます」
「その誰かに心当たりは?」
「まだありません。ただ、三浦が何を隠していたのかを聞かなければ、何も始まらないと思います」
「意識が戻れば聞きます。あなたより先に」
「それは警察の仕事ですから、当然でしょう」
「それでも、会わせろとは言わないのですね」
「先ほど言って、断られました。同じ要求を繰り返しても、あなたが考えを変えるとは思えません」
「物分かりがよいのか、諦めが早いのか、やはり判断に迷います」
長谷部が携帯電話へ手を伸ばした時、扉の外から二度、控えめにノックする音がした。
「長谷部さん、坂井です。三浦直哉が搬送先で意識を取り戻しました。ただ、様子が少しおかしいそうです」
「何がおかしい」
扉越しの坂井の声が、わずかに低くなる。
「自分の名前と大学は答えられますが、今日の出来事を覚えていません。朝、久世遥人と大学で会ったところまでは記憶があるのに、その後が抜け落ちているそうです」
遥人は椅子から立ち上がった。
「食堂で桑原さんに会ったことも、旧図書館へ来たことも覚えていないのですか」
「久世さん、座ってください」
長谷部に言われたが、遥人はすぐには従わなかった。
「三浦の頭部に打撲があるなら、記憶障害が起きても不思議ではありません。ただ、朝まで覚えていて、食堂から後だけが都合よく抜けているのなら、薬物の影響も考えるべきです。血液検査はしていますか」
扉の外で坂井が一瞬黙った。
「病院で検査中です。しかし、三浦は一つだけ、繰り返し話していることがあります」
「何ですか」
「御厨教授を殺していない、と言っています。ただし、警察はまだ、教授が殺されたとは伝えていません」
部屋の空気が、わずかに重くなった。
長谷部は扉を開け、坂井を中へ入れた。坂井は手に小さなメモ帳を持ち、そこへ書いた内容を確認しながら報告を続ける。
「救急隊員が、大学で人が倒れていたとだけ説明したそうです。病院でも、事件については話していません。目覚めた三浦は、最初に久世遥人の名前を出し、そのあと『俺は御厨先生を殺していない』『あの封筒を渡しただけだ』と何度も繰り返した。封筒の中身を尋ねると、自分でもわからないと答えています」
「記憶がないのに、殺していないと言う」
長谷部が呟いた。
「三浦は、完全に忘れているわけではないのだと思います」
遥人は言った。
「出来事を順序立てて思い出せなくても、強い恐怖や罪悪感だけが残ることはあります。教授の遺体を見たか、誰かから死を知らされたか、あるいは、自分が教授を傷つけたと思い込むような状況に置かれたのかもしれません」
「あなたは医者ですか」
「違います。ただ、記憶がないという言葉を、そのまま何も覚えていないという意味で受け取るべきではないと思います」
「では、封筒の中身について何か知っていますか」
「食堂で三浦の鞄から、御厨宗一郎と宛名の書かれた茶色の封筒が覗いているのを見ました。私が見たのは表だけです。中身は知りません」
坂井はメモを取りながら、長谷部へ視線を向けた。
「三浦の鞄から出た封筒は、封が切られていました。中には便箋が一枚入っていましたが、文字は書かれておらず、中央に細い切れ目があります。光へ透かすと、その部分だけ二重になっているようです」
「現場へ持ち帰り、勝手に開くな。鑑識へ回せ」
「わかりました。それから、病院からもう一点あります。三浦の右腕に注射痕が見つかっています。本人は、最近予防接種も採血も受けていないと言っています」
遥人は、食堂で三浦がラーメンを食べていた時の姿を思い出した。
袖は手首まで下ろしていた。誰かが注射をしたとしても、いつなのかは見ていない。
「三浦の血液から、どのような薬物が検出されたか、できるだけ早く調べてください。もし記憶を混乱させる薬が使われているなら、桑原さんにも同じものが投与されている可能性があります」
「それは医師が判断します」
長谷部はそう答えたものの、坂井へ病院に確認するよう指示した。
坂井が部屋を出ていくと、長谷部はしばらく考え込んだあと、遥人へ言った。
「あなたの身元については、このあと上司を通して確認します。ただし、正式な回答が得られるまで、あなたを帰すことはできません。三浦直哉との接触も認めません」
「わかりました」
「思ったより素直ですね」
「その代わり、一つ確認させてください。桑原さんの手帳に書かれていた、二十二年前の午後五時五十二分という記録について、他に何か書かれていませんでしたか」
「手帳はまだ詳しく読んでいません」
「最後の頁へ私たちの名前が書かれていたなら、最近になって書き加えられた部分があるはずです。二十二年前の記録と、現在の記録が同じ手帳に混在している。筆跡やインクが同じかどうかも調べる必要があります」
「言われなくても調べます」
「では、手帳の最初の頁にあった『本物の子供は、午後五時五十二分に旧図書館から運び出された』という文の前後だけでも、今ここで確認できませんか。教授が残した時刻と一致している以上、今日の事件を仕組んだ人物は、その記録を知っていた可能性が高いでしょう」
長谷部は、明らかに断ろうとした。
しかし、御厨教授の机にあった十七時五十二分という時刻に合わせ、隠し書架が開き、桑原が発見されたことは事実だった。二十二年前の同じ時刻に何が起きたかを知ることは、過去への好奇心ではなく、現在の事件を解くために必要な確認である。
「ここから動かないでください」
長谷部はそう言い残し、部屋を出た。
遥人は、薄く埃の積もった机へ目を落とした。
部屋の外では、警察官の足音や無線の声が行き交っている。旧図書館の停電はまだ復旧しておらず、窓の外に見える時計塔だけが、暗い構内で白く浮かび上がっていた。
文字盤は午後六時三分。
遥人の腕時計は六時七分。
再び、四分遅れに戻っている。
なぜ四分なのか。
二十二年前の午後五時五十二分に子供が運び出され、その同じ時刻に桑原が隠し通路から発見された。御厨教授の紙には、十一時四分、十三時二十八分、十七時五十二分という、二時間二十四分ずつ離れた三つの時刻が書かれている。
十一時四分から十三時二十八分まで二時間二十四分。
十三時二十八分から十七時五十二分までは四時間二十四分。
一定ではない。
だが、分だけを見れば、四、二十八、五十二と、二十四分ずつ増えている。
次に続くなら、十八分。
時刻全体ではなく、文字盤の位置かもしれない。
四分、二十八分、五十二分は、すべて時計の針が円周上で二十四分ずつ移動した位置を示している。三つを線で結べば、文字盤の上で何らかの図形になる可能性がある。
遥人は、近くにあった使われていない用紙の裏へ、時計の円を描き、三つの分針の位置へ印をつけた。
四分は一時の少し手前。
二十八分は六時の少し手前。
五十二分は十一時の少し手前。
三点は、文字盤の右上、下、左上へほぼ均等に配置される。
三角形。
その中央にあるものは、時計の軸だ。
「時計そのものではなく、中心を示している……?」
遥人が呟いた時、扉が開き、長谷部が証拠袋に入った桑原の手帳を持って戻ってきた。
「原本には触らせません。私が頁をめくります。写真も撮らせない。必要な箇所を口頭で確認するだけです」
「それで構いません」
長谷部は机の向かいへ座り、手帳の最初から数頁を慎重に開いた。
日記というより、業務記録に近い細かな文字が並んでいる。蔵書の移動、閲覧者の名前、施設の不具合、教授から頼まれた資料。日付は二十二年前の六月から始まっていた。
「事件が起きたのは何月ですか」
「桑原が記録した『本物の子供』の文は、十月十七日の頁にあります。その前日から読みます」
長谷部が、声に出して記録を追った。
『十月十六日。御厨助手より、旧宮家関係資料の一時保管を依頼される。箱は二つ。第一保管室へ搬入。鍵は館長が管理』
『同日午後。若い女性が来館。名乗らず。乳児を抱いている。御厨助手との面会を求めるが、助手は不在。女性は、明日午後五時までに来なければ、すべてを新聞社へ渡すと伝言を残す』
『十月十七日。午前十一時四分、皇宮より電話。館長が応対。内容を聞くことはできず』
「十一時四分」
遥人が言うと、長谷部は頷き、その先を読んだ。
『午後一時二十八分、御厨助手が来館。女性からの伝言を伝える。助手はひどく動揺し、館長室へ入る』
『午後四時頃、黒い車が二台、裏門より入構。車両番号は記録なし。大学本部からの指示で、警備員は持ち場を離れる』
『午後五時五十二分、本物の子供は旧図書館裏口から運び出された。白い布に包まれ、泣き声はなかった』
長谷部はそこで言葉を止めた。
遥人は、御厨教授の紙に書かれていた三つの時刻を思い返した。
十一時四分。
十三時二十八分。
十七時五十二分。
すべて、二十二年前の同じ日に桑原が記録した時刻だった。
「御厨教授が残したものは、予告ではなく、二十二年前の出来事を示す時刻だったのですね。しかし、今日の十七時五十二分にも隠し書架が開いた。犯人は、過去の記録を再現した」
「そのように見えます」
「続きをお願いします」
長谷部は次の行へ目を移したが、すぐに眉を寄せた。
「ここから数頁が破られています」
「切り取られたのですか」
「根元が残っています。少なくとも三枚、おそらく六頁分。かなり以前に破られたようですが、断定はできません」
「次に記録が残っている日付は?」
「十月二十一日です」
長谷部は頁をめくった。
『館長より、十月十七日の出来事について、誰にも話さないよう命じられる。あの女性は事故で亡くなったと聞かされた。子供も同じであると説明されたが、私は見た。運び出された子供と、その後に皇宮へ戻された子供は、同じ子ではなかった』
遥人は、無意識に机の端を掴んでいた。
「皇宮へ戻された子供、と書いてあるのですか」
「そうです」
「その子供が誰なのか、名前は?」
「次の行にあります」
長谷部は一瞬、読むべきか迷ったように遥人を見た。
それから、静かに続けた。
『御厨助手は、何も知らないほうの子が彰仁様として育てられるのだと言った。本物の子供は死んだことにされ、別の家へ預けられる。だが、どちらが本物なのかを、私はもう判断できない』
遥人は、長谷部の声を聞きながら、自分が椅子に座っている感覚を失いかけていた。
二十二年前。
彰仁様として育てられる子供。
自分と同じ年齢。
皇宮へ戻された子供。
別の家へ預けられた、本物と呼ばれる子供。
「これは、私が入れ替えられたという記録ですか」
「記録を書いた桑原自身が、どちらが本物かわからないと書いている。事実とは限りませんし、誰かから聞かされた内容を誤解した可能性もある」
「それでも、御厨教授はこの記録を知り、私を呼び出した。そして、その前に殺された」
遥人は声を荒らげたつもりはなかったが、自分でも驚くほど低く、硬い声になっていた。
長谷部は、手帳を閉じなかった。
「まだ続きがあります」
「読んでください」
「落ち着いてからにしたほうがいい」
「今ここで止められるほうが、落ち着けません。読んでください」
長谷部はしばらく迷った末、次の頁へ進んだ。
『十一月三日。御厨助手から、二人の子供は同じ日に生まれたのではないと聞かされる。公表された誕生日は偽りであり、一人は三日前、一人は四日後に生まれている。血液検査だけでは判別できないよう、記録はすべて変更された』
『十二月九日。館長が死去。自宅での事故と発表された。御厨助手は大学を辞めると言っている。私にも遠くへ行くよう勧めた』
『十二月十一日。御厨助手から最後の手紙を受け取る。封筒には、子供を見分ける方法が書かれているという。しかし私は怖くて開けられない。このまま保管する』
長谷部は、そこまで読むと手帳から顔を上げた。
「その封筒について、以後の記録には触れられていません」
遥人は、三浦の鞄から見えていた茶色の封筒を思い出した。
御厨宗一郎と書かれた宛名。
中央に切れ目があり、二重になっている無地の便箋。
「三浦が持っていた封筒です」
「断定はできません」
「御厨助手というのは、二十二年前の御厨宗一郎でしょう。桑原さんが受け取った最後の手紙が、何らかの理由で御厨教授へ返され、その後、三浦が運んでいた。便箋が無地に見えるのは、文字が消されているか、普通の方法では読めないからかもしれません」
「鑑識が調べています」
「子供を見分ける方法が書かれているのなら、御厨教授は、それを私へ伝えようとした。だから殺された」
「可能性の一つです。ただし、その記録が真実であるなら、犯人は二十二年前の秘密を守ろうとしていることになる。そんな人間が、なぜ今日、桑原澄江の手帳を我々の目に触れる場所へ残したのでしょう。隠したいなら、燃やすほうが簡単です」
遥人は答えられなかった。
確かに、犯人は奇妙だった。
御厨教授を殺し、三浦へ証拠を持たせ、桑原を隠し通路へ閉じ込めた一方で、二十二年前の記録を手帳ごと残し、時刻を再現して警察の前へ提示している。
過去を隠したい者の行動ではない。
むしろ、誰かに気づかせようとしている。
「犯人は、秘密を守りたいのではなく、別の形で公にしたいのかもしれません」
「教授を殺してまで?」
「御厨教授が明らかにしようとしていた真相と、犯人が明らかにしたい真相が違うのなら、あり得ます。二十二年前に子供の入れ替えがあったという事実だけを世間へ示し、どちらが本物なのかを誤認させたい。御厨教授は、それを訂正できる証拠を持っていたから殺された」
長谷部は、ゆっくりと手帳を閉じた。
「あなたは、自分が偽物かもしれないと思わないのですか」
問いは静かだった。
遥人は窓の外に浮かぶ時計塔を見た。
生まれた時から、自分はいずれ国を背負う者だと教えられてきた。選んだわけでも、望んだわけでもない。それでも、その立場から逃げることだけは許されないと思い、受け入れるために学び続けてきた。
もし、血筋も出生も偽りだったなら、自分が受けてきた教育も、周囲が払ってきた犠牲も、すべて間違いだったのだろうか。
「思います」
遥人は答えた。
「この記録を読んで、何も感じないほど強くはありません。自分が本当に皇族なのか、皇嗣でいる資格があるのか、疑わないはずがない。ただ、それを確かめるためにも、御厨教授を殺した人物を見つけなければならないでしょう。犯人が用意した物語だけを信じて、自分が本物か偽物かを決めるつもりはありません」
「立場を失う可能性があっても?」
「立場を守るために真実を避ければ、これまで私が学んできたことまで偽物になります」
長谷部は、しばらく何も言わなかった。
やがて携帯電話が震え、画面を確認すると、椅子から立ち上がった。
「警察庁から連絡が来ました。あなたの件について、私の上司を含めた限られた人間だけで対応するよう指示が出ています。詳しい話は別の者が来てからになりますが、少なくとも、久世遥人という身分のまま捜査へ協力することは認められたようです」
「大学へ戻れるのですか」
「そこまでは私が決めることではありません。ただ、身分が公表される事態は、今のところ避けられるでしょう」
長谷部は扉へ向かいかけたが、途中で足を止めた。
「それから、三浦直哉が、どうしてもあなたに伝えてほしいと言っている言葉があるそうです」
「何ですか」
「『封筒を渡した女は、桑原さんではない』と」
遥人は、椅子から立ち上がった。
「三浦は、女の顔を覚えているのですか」
「いいえ。顔は見ていないそうです。午前中、講義棟の廊下で後ろから呼び止められ、御厨教授へ渡してほしいと頼まれた。ただ、その女は若い声で話し、左手の薬指に、青い石の指輪をしていたと」
青い石の指輪。
遥人には、その特徴に心当たりがあった。
皇族女性が成年を迎えた際、皇室から贈られる指輪は、代々、深い青色の石を用いる慣例がある。
同じような指輪は世間にも存在するため、それだけで皇族とは断定できない。
しかし遥人は、二日前の晩餐会で、青い石の指輪を左手の薬指へつけていた人物を思い出していた。
父の妹であり、遥人にとって叔母にあたる、玲子内親王。
そして彼女は、二十二年前、遥人が生まれたとされる日の直後から半年間、体調不良を理由にすべての公務から姿を消していた。




