第二章 十七時五十二分
救急隊員が御厨宗一郎の死亡を確認し、旧図書館の二階へ警察官たちが次々と上がってくるまでに、遥人は榊原から三度、史料室の入口から離れるよう注意され、そのたびに一歩ずつ後ろへ下がりながら、結局は室内を見通せる位置に立ち続けていた。
御厨教授の遺体へ近づくつもりはないし、現場の物に触れようとも思っていない。しかし、一度視界に入った違和感を、誰かに言われたからという理由だけで見ないふりをすることは、遥人にはできなかった。
机に伏せた教授の身体は、椅子から完全に崩れ落ちてはいない。左腕は胸の下に入り、右腕だけが床へ垂れている。胸元から広がった血は机の端を伝い、床へ細長い筋を作っていたが、その筋の真下にあるはずの教授の右靴には、一滴も血が付着していなかった。
椅子の脚には血が付いている。
床にも落ちている。
それなのに、靴だけが不自然なほどきれいだった。
「久世さん、先ほどから何を見ているのですか。あなたが現場へ入っていないことは確認しましたから、これ以上ここにいる必要はありませんし、警察から質問を受けるにしても、一階のほうが落ち着いて話せるでしょう」
榊原は、大学職員や警察官の耳に入っても不自然でないよう、あくまで同居人として心配している口調を装っていたが、声の奥には、今すぐ遥人を建物の外へ連れ出したいという焦りが滲んでいた。
「御厨教授の靴が乾いています」
「それがどうしたのですか」
「受付からここまで濡れた靴跡が続いているのに、教授の靴底にも甲にも水分がありません。それどころか、床へ落ちた血が椅子の脚には付着しているのに、右足の靴だけが避けられたように汚れていない。犯人が教授の靴を脱がせて履いたか、別の靴で足跡を作ったあと元へ戻した可能性があります」
「今は推理をする場面ではありません。警察が調べます」
「警察が調べることと、私が考えることは両立します。私が黙っていれば捜査が進むというわけではないでしょう」
「あなたが余計なことを話せば、身元を調べられる可能性が高くなります。御厨教授に呼び出され、遺体の第一発見者となり、皇位継承に関する文言が書かれた写真を目にした。これだけでも、警察が久世遥人という学生を詳しく調べる理由としては十分です」
「だからといって、見たものを隠せば、今度は事件への関与を疑われます。榊原さん、私を守ろうとして証言を歪めることだけはしないでください。皇嗣の身分を伏せるために、殺人事件の捜査を妨げるようなことがあれば、それは私がここへ来た目的そのものに反します」
遥人が声を抑えて言うと、榊原はすぐには返答せず、二階の廊下を行き交う捜査員たちへ目を向けた。
制服警察官が扉の前に規制線を張り、鑑識員が床へ番号札を置いていく。その一人が写真を撮るたび、白い光が薄暗い史料室の中で瞬き、御厨教授の遺体が、まるで何度も異なる時刻に発見され直しているように見えた。
「私は、事件を隠せとは言っていません。あなたが知る必要のないことまで知ろうとするのを、止めたいだけです」
「御厨教授の手に、私の立場を示す言葉が残されていたのです。これを私と無関係な事件だと考えるほうが難しいでしょう」
「写真の『皇嗣』が、必ずしもあなたを指しているとは限りません。二十二年前の写真なら、その当時の皇嗣を意味している可能性もあります」
「二十二年前、現在の皇帝にはすでに皇太子としての地位がありましたが、皇嗣という呼称が公的に用いられることはほとんどありませんでした。それに、御厨教授は私を名指しでここへ呼び出している。偶然が二つ重なれば疑うべきですし、三つ重なれば、偶然という言葉に逃げるべきではありません」
「そういうところが、あなたの厄介なところです」
「自覚しています」
「自覚があるなら、少しは改善してください」
「改善すべき欠点と、捨ててはいけない性質は、同じではありません」
榊原が何か言い返そうとした時、廊下の向こうから、紺色のスーツを着た男が歩いてきた。
年齢は五十歳前後。背は高くないが肩幅があり、少し猫背で、左手には使い込まれた黒い手帳を持っている。髪には白いものが混じり、目の下には寝不足の影があったものの、歩き方には妙な無駄がなく、周囲の警察官たちも、彼が近づくと自然に道を空けた。
「捜査一課の長谷部です。第一発見者は、こちらのお二人で間違いありませんか」
男は警察手帳を開き、遥人と榊原を交互に見た。
「発見したのは私たちですが、先に室内を確認したのは榊原さんです。私は扉の外にいました」
遥人が答えると、長谷部は手帳へ視線を落としたまま尋ねた。
「名前と所属をお願いします」
「青嶺大学法学部三年、久世遥人です。こちらは同居人の榊原宗一さんで、大学院に在籍しています」
「同居人が、工具箱を持って一緒に大学へ来たのですか」
長谷部の視線が、廊下の壁際に置かれた工具箱へ向いた。
榊原は一瞬も間を置かず答えた。
「大学施設の点検補助をアルバイトで請け負っています。今日は旧図書館の設備確認があり、久世さんが御厨教授との面談で同じ場所へ来るというので、一緒に入りました」
「なるほど。ずいぶん都合よく予定が重なりましたね」
「偶然です」
「偶然というものは、事件現場では急に数が増えるので、我々も扱いに困るんですよ」
長谷部は、疑っているとも冗談を言っているとも取れる声でそう言い、遥人へ顔を向けた。
「あなたは御厨教授と、どういう関係ですか」
「講義を一度受けたことがあるだけで、個人的な付き合いはありません。教授から何度か面談を求められ、今日は話を聞くために来ましたが、用件については知らされていませんでした」
「面談の依頼は、いつ頃から?」
「最初は二週間ほど前です。その後、数日おきに連絡がありましたが、心当たりがなかったので断っていました」
「心当たりがないのに、今日は来た。なぜです」
「四度も呼ばれれば、少なくとも教授にとっては、話さなければならない理由があるのだろうと思ったからです」
「好奇心ですか」
「責任だと考えました。相手が何を伝えようとしているのか知らないまま断り続け、後になって聞いておくべきだったと悔やむのは避けたかったので」
長谷部は初めて手帳から目を上げ、遥人を見た。
相手の表情ではなく、答え方そのものを観察している目だった。
「大学生にしては、ずいぶん慎重な言い方をしますね。普通なら、しつこかったから仕方なく来た、とでも言うところでしょう」
「家庭で、言葉は選ぶように教えられました」
「厳しいご家庭ですか」
「人によっては、そう感じると思います」
「ご両親は何を?」
榊原がわずかに身体を動かした。
遥人は、それに気づかないふりをして答えた。
「父は公務に関わる仕事をしています。母は家のことをしています」
「公務員?」
「似たようなものです」
皇族を公務員と呼べるかどうかは議論の余地があったが、少なくとも、完全な虚偽ではない。
長谷部は返答に納得した様子を見せず、今度は史料室の中へ目を向けた。
「中へ入った時、何か動かしたり、触れたりしましたか」
「私は扉の外から見ただけです。榊原さんも、教授の状態を遠目に確認しただけで、遺体には触れていません」
「写真の裏に書かれていた文言は読みましたか」
長谷部の問いに、榊原の顔がわずかに硬くなった。
遥人は、長谷部がすでにその写真を確認しているのだと理解した。
「はい。『この子を、皇嗣にしてはならない』と書かれていました」
「その言葉に心当たりは?」
「ありません。ただ、御厨教授が近代皇室史の研究者である以上、過去の皇位継承に関する資料の一部だろうと考えました」
「驚かなかったのですか」
「驚きましたが、私が驚いたかどうかは、事件の事実とは関係がないでしょう」
「人が何に驚き、何に驚かなかったかは、時々、物証より役に立ちます」
長谷部はそう言うと、今度は受付台に残されていた来館者記録の写しを遥人へ見せた。
「今日、御厨教授を訪ねた人物は、記録上三人います。午後三時二十分に桑原澄江、三時四十五分に三浦直哉、そして四時十分に久世遥人。最初の二人は退館時刻を書いていません。桑原澄江という女性には心当たりがありますか」
「今日の午前、学生食堂で会いました。向こうから私の名前を呼び、二十二年前に亡くなった子供と私が似ているようなことを話していました」
「初対面で?」
「はい」
「その女性は、あなたの本名を知っていた」
「久世遥人という名前は大学内で公表されていますから、知ろうと思えば調べられます」
「では、三浦直哉は?」
「友人です。同じ法学部に通っています。ただ、今日ここへ来たことは聞いていませんでした」
「教授との関係も知らない?」
「面識がないと思っていました。少なくとも、彼は御厨教授が学生を個人的に呼び出すのは珍しいと話していましたから、自分が面会していることを隠していた可能性があります」
「友人を疑っているのですか」
「疑っているのではありません。私が知っている事実と、記録に残っている事実が一致していないと申し上げているだけです」
「ずいぶん冷静ですね。友人が殺人事件の容疑者になるかもしれない場面で、普通の人間は、もう少し感情的になるものですが」
「感情的になれば、三浦への疑いが消えるのでしょうか」
「消えません。ただ、あなたの答え方は、まるで自分とは関係のない事件を分析しているように聞こえる」
長谷部の言葉は静かだったが、その視線は鋭く、遥人の表情からわずかな揺れも見逃すまいとしていた。
遥人は、すぐに反論しなかった。
三浦が旧図書館を訪れていたことには驚いている。なぜ黙っていたのか、教授と何を話したのか、食堂で見えた封筒と関係があるのか、尋ねたいことはいくつもあった。
しかし、皇族として育った人間にとって、感情をそのまま表へ出さないことは、礼儀であると同時に防衛でもあった。公務の席で不快な言葉を投げかけられても顔を変えず、親しい者の不祥事を知らされても、その場では事実だけを聞くよう教えられてきた習慣が、今はかえって自分を不自然に見せている。
「関係がないとは思っていません」
遥人は、長谷部から目を逸らさず答えた。
「三浦は友人ですし、御厨教授は私をここへ呼び出した。食堂で会った桑原さんも私を知っているようでした。関係があるからこそ、今ここで私が三浦は犯人ではないと叫んでも、何の役にも立たないと思っています。必要なのは、彼がなぜここへ来たのかを確かめることであって、友人だから信じるという言葉だけで、事実を見ないふりをすることではありません」
長谷部は数秒、遥人を見つめていたが、やがて手帳を閉じた。
「あなたは、友人にすると頼もしいのか、息苦しいのか、判断に迷う人ですね」
「三浦からは、面倒だとよく言われます」
「それについては、私も同意します」
長谷部の口元に、初めてわずかな笑みが浮かんだ。
その直後、一階から慌ただしい足音が聞こえ、若い刑事が階段を上がってきた。
「長谷部さん、三浦直哉という学生を見つけました。旧図書館の裏手にある倉庫の脇で倒れていて、意識がありません。頭部に打撲がありますが、呼吸はあります」
遥人は、思わず一歩前へ出た。
「三浦は生きているのですか」
「今、救急隊が確認しています。ただ、手に血が付いていて、上着の内ポケットから、御厨教授の研究室の鍵が見つかりました」
若い刑事の報告を聞いた長谷部は、史料室の扉と遥人を順に見た。
「研究室の鍵というのは、ここの鍵ですか」
「いえ、教授が普段使っている本館の研究室です。ただし、三浦の鞄からは、御厨教授宛ての封筒と、血の付いたハンカチも出ています」
食堂で三浦の鞄から覗いていた茶色の封筒が、遥人の脳裏に浮かんだ。
あの時、問いかけていればよかった。
何を隠しているのかと尋ねていれば、三浦は冗談でごまかしたかもしれないし、怒ったかもしれない。それでも、何も知らないままここへ来るよりは、何かを掴めた可能性がある。
「三浦のところへ行かせてください」
遥人が言うと、長谷部は首を横へ振った。
「今は無理です。救急搬送されますし、意識が戻れば警察が先に話を聞きます。あなたには、このままもう少し確認したいことがあります」
「彼は私の友人です」
「だからこそ、会わせられません。意識を取り戻した直後に、事件関係者同士で話をされては困る」
「事件関係者という言い方は適切ではありません。私は教授の遺体を発見しただけで、三浦が何をしたのかも知りません」
「警察は、知らないことを確認するために、人を一時的に遠ざけます。納得できなくても従ってください」
遥人は反論しようとしたが、榊原が腕へ軽く触れた。
触れ方は穏やかだったものの、これ以上抵抗すれば、一般の大学院生としてではなく護衛官として動くという合図だった。
「三浦さんの安全は、救急と警察に任せてください。今、あなたが無理に近づけば、かえって彼の立場を悪くします」
「わかっています。ただ、わかっていることと、納得できることは別です」
「それでも、今は待つしかありません」
榊原の声には、普段よりわずかに柔らかいものが含まれていた。
遥人は拳を握ったまま、廊下の窓へ目を向けた。
外はいつの間にか薄暗くなり、時計塔の文字盤には照明が灯っている。針は午後四時三十六分を示していたが、遥人の腕時計は四時四十分だった。
いつもの四分遅れに戻っている。
先ほど止まっていた秒針も、何事もなかったように動いていた。
「時計が動いている」
遥人が呟くと、長谷部が窓の外を見た。
「時計塔がどうかしましたか」
「御厨教授を発見した直後、文字盤は四時二十一分を指したまま止まっていました。ところが今は、正しい時刻から四分遅れた状態で動いています。誰かが停止と再開を操作した可能性があります」
「時計塔の管理室には、施設課の職員しか入れません。確認させましょう」
「鐘も、針とは別の時刻で鳴りました。四時二十五分に、四時を告げる鐘が鳴っています」
「それを聞いた人は?」
「私と榊原さん、それから廊下にいた大学職員です」
長谷部は若い刑事へ指示を出し、時計塔の管理室を封鎖するよう伝えた。
その間にも、遥人の視線は、御厨教授の机に置かれた紙へ引き寄せられていた。
十一時四分。
十三時二十八分。
十七時五十二分。
最初の二つが過去の時刻であり、最後の一つだけが未来を示している。単なる時刻ではなく、何かの順序なのかもしれない。列車、放送、講義、電話、時計塔の鐘。あるいは、人が死んだ時刻。
「長谷部さん、あの紙に書かれた三つの時刻について、御厨教授が書いたものかどうか確認できますか」
「筆跡鑑定には時間がかかりますが、研究室の資料と比較はします。ただ、どうしてそこまで気になるんです」
「最後の時刻がまだ来ていないからです。あれが犯人の残した予告である可能性を捨てるべきではありません」
「十七時五十二分まで、あと一時間ほどですか」
「一時間十二分です」
「秒まで正確な時計をお持ちなんですね」
「時間には厳しい家庭でしたので」
長谷部は、また何かを探るように遥人を見た。
しかし、今度は質問を続けず、机の紙を確認している鑑識員へ声をかけた。
その時、一階から別の警察官が上がってきた。
「桑原澄江という女性の所在が確認できません。大学の防犯カメラでは、午後三時二十分に旧図書館へ入ったあと、建物から出た映像が残っていないそうです。ただし、午前中には学生食堂にいたという証言があります」
「時間が合わないな」
長谷部が眉を寄せた。
遥人も、すぐに違和感へ気づいた。
「午前中に会った桑原さんが、午後三時二十分に入構した記録になっているのですか」
「そのようです。正門の受付で記帳した時刻が三時二十分。ですが、あなたは午前十一時前後に食堂で彼女と会ったと言っている」
「間違いありません。三浦も一緒でしたし、食堂の防犯カメラにも映っているはずです」
「では、午前中から大学内にいた女性が、午後になって改めて入構した記録を残したことになる。あるいは、午前中にあなたが会った女性と、午後に桑原澄江として記帳した人物が別人か」
「写真は同じものを持っていました。少なくとも、御厨教授の手に握られていた写真と、食堂で彼女が落とした写真は、同じ場所で撮られたものです」
「同じ写真ではなく、同じ写真から焼き増しされた別の一枚かもしれません」
長谷部の言葉に、遥人は写真の細部を思い返した。
食堂で見た写真には、若い女性が一人だけ写っていた。
御厨教授の手にあった写真には、女性の隣に子供がいた。
構図も背景も同じだったが、人物の数が違う。
写真の一部を切り取ったのだと思っていたが、もともと二種類の写真が存在した可能性もある。
「長谷部さん、桑原さんが食堂で落とした写真には、子供は写っていませんでした。しかし教授の写真には、同じ女性の隣に子供がいる。二枚は同時に撮られた連続写真なのか、片方が加工されたものなのかもしれません」
「それは重要な違いですね。最初からそう言ってください」
「今、意味に気づきました」
「あなたは見たことを覚えている割に、その場では全部を口にしない。そういう証人は、捜査する側にとって扱いづらいんですよ」
「申し訳ありません。ただ、覚えていることと、それが重要だと理解することは同時ではありません」
「そこまで正直に言われると、責めにくくなりますね」
長谷部が溜息交じりに答えた、その瞬間だった。
旧図書館全体の照明が消えた。
廊下が暗闇に沈み、誰かが息を呑む音と、鑑識員が機材へぶつかった音が重なった。非常灯が点灯するまでの数秒間、遥人は榊原に肩を掴まれ、壁際へ強く引き寄せられた。
「動かないでください」
「停電ですか」
「わかりません。私から離れないでください」
赤みを帯びた非常灯が点くと、廊下にいた全員が互いの位置を確認した。
史料室の中では鑑識員が遺体と証拠品を守り、長谷部が無線で建物全体の状況を尋ねている。
「旧図書館だけ停電しています。外部の送電には異常ありません」
無線から返事があった。
遥人は腕時計を見た。
午後五時五十分。
「あと二分です」
「何がですか」
長谷部が聞いた。
「紙に書かれていた最後の時刻まで、あと二分です」
その場にいた全員の視線が、史料室の机へ向いた。
十七時五十二分。
数字を知ってしまったことで、何も起きない可能性より、何かが起きる可能性のほうが大きく感じられる。遥人は、自分の呼吸が早くなるのを抑えながら、時計塔、史料室、階段、廊下の窓を順に見た。
午後五時五十一分。
非常灯の下で、秒針だけが進んでいく。
榊原の手は、遥人の腕を掴んだまま離れない。
「一分です」
「声に出さなくてもわかります」
「皆が同じ時刻を意識している必要があります。何かが起きた時、誰がどこを見ていたか証言できるように」
長谷部は反論せず、廊下にいる警察官たちへ、窓と階段、史料室の内部をそれぞれ監視するよう指示した。
午後五時五十二分。
最初に鳴ったのは、時計塔の鐘だった。
一度。
二度。
三度。
五時を告げるには二分遅く、六時を告げるには早すぎる鐘が、暗くなった大学構内へ不規則に響いた。
四度目の鐘が鳴る直前、史料室の奥から、低い機械音が聞こえた。
書架の一つが、わずかに動いた。
鑑識員が叫び、警察官が中へ踏み込む。
壁際に固定されていると思われていた書架が、ゆっくりと手前へ開き、その裏から、人が一人通れるほどの細い空間が現れた。
その暗がりの中に、紺色のコートを着た人物が座り込んでいた。
「桑原さん」
遥人は思わず名前を呼んだ。
老女は壁にもたれ、胸の前で革の鞄を抱いていた。目は閉じているが、身体はわずかに動いている。
警察官が駆け寄り、呼吸を確認した。
「生きています。ただ、意識がありません。首に圧迫痕があります」
桑原澄江は、午前中に食堂から立ち去った時と同じ服装をしていた。
しかし、その足元には靴がなかった。
右足の靴下だけが、黒い泥で濡れている。
そして左手には、古い鍵が握られていた。
史料室の扉の鍵だった。
長谷部が、椅子の下に落ちているはずの鍵を確認するよう鑑識員へ指示した。
数秒後、困惑した声が返ってくる。
「長谷部さん、椅子の下にあった鍵がありません。さっきまでは確かにここに置かれていました」
現場は警察官と鑑識員に囲まれ、誰も自由に出入りできなかった。
それにもかかわらず、御厨教授の足元にあった鍵は消え、閉ざされた書架の裏で発見された桑原澄江の手へ移っていた。
「誰も書架へ触れていないんですね」
遥人が尋ねると、長谷部は答えなかった。
代わりに、桑原の鞄を調べていた警察官が、中から一冊の古い手帳を取り出した。
表紙には、かすれた文字で日付が記されていた。
二十二年前。
手帳の最初の頁には、同じ筆跡で一文だけ書かれている。
『本物の子供は、午後五時五十二分に旧図書館から運び出された』
長谷部は手帳を見つめ、それから遥人へ顔を向けた。
「久世さん。あなたは今日、ここへ来るまで、この女性に会ったことは本当に一度もなかったのですね」
「ありません」
「では、どうして彼女の手帳の最後の頁に、あなたの名前が書かれているのでしょう」
手帳が裏返される。
最後の頁には、震えた文字で、いくつもの名前が並んでいた。
御厨宗一郎。
三浦直哉。
榊原宗一。
そして、その一番下に、
久世遥人ではなく、
彰仁親王。
遥人の本当の名が書かれていた。




