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皇嗣は名を隠す ――旧図書館殺人事件  作者: 極楽鳥


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第一章 四分遅れの時計

 午前七時十五分、久世遥人は、味噌汁の椀から引き抜かれた細長い検査器具を眺めながら、これを一般的な大学生の朝食風景と呼ぶには、いささか無理があるのではないかと考えていた。


 検査結果に異常がないことを示す緑色の光が点灯すると、台所に立っていた榊原宗一は、ようやく味噌汁を遥人の前へ差し出した。豆腐と油揚げ、それから細く刻まれた長葱が入っており、香りだけなら、築四十年を超える古びた借家で迎える、ひどく慎ましい朝にふさわしいものだったが、その一杯が食卓に並ぶまでに毒物、異物、放射性物質の検査を通過していると知れば、慎ましいという言葉は途端に居心地を失う。


「榊原さん、昨日もお願いしたと思いますが、少なくとも私が食卓に着く前に検査を済ませてもらえませんか。味噌汁の中へ器具を差し込まれるところを毎朝見せられていると、これから毒を飲むわけではないと理解していても、食欲というものが少しずつ削られていく気がします」


 遥人がそう訴えると、榊原は炊飯器の蓋を閉めながら、まるで幼い子供から野菜を食卓へ出すなと頼まれた母親のように、聞き分けのない相手を諭す口調で答えた。


「殿下のお気持ちは理解しますが、検査しているところが見えなければ危険そのものが消えてなくなるわけではありませんし、食欲が多少落ちることと、身体に害のあるものを口へ運ぶことを比べれば、私がどちらを優先すべきかは申し上げるまでもないでしょう」


「その呼び方をやめてください。大学ではもちろん、この家でも壁が薄いのですから、近所の方に聞かれれば説明が面倒になります」


「二軒隣の森田さんは補聴器を新しくしたそうですから、なおさらお気をつけください。先日、殿下が玄関先で『皇宮より寒い』と口にされた時も、庭の手入れをしていた森田さんがこちらを振り向いていました」


「皇宮ではなく、広い家より寒いと言ったつもりでした」


「声に出す時につもりは通用しません。殿下は、ご自分が思っている以上に、世間というものに対して不用心でいらっしゃいます」


「大学へ通う前は、あなた方が周囲から人を遠ざけ、話しかけようとする人間の身元まで調べていたのですから、不用心になる機会さえなかったのです。その責任をすべて私へ返されても困ります」


 榊原は、反論したい気持ちと、これ以上言い合えば朝食が冷めるという現実を天秤にかけたらしく、しばらく無言で遥人を見つめたあと、諦めたようにご飯をよそった。


 表向き、榊原宗一は青嶺大学大学院に在籍する三十八歳の社会人学生であり、久世遥人が借りている一軒家の同居人ということになっている。しかし実際には皇宮警察本部所属の護衛官であり、遥人が大学へ入学する以前から、身辺警護を担当してきた人物だった。


 そして久世遥人という名も、本名ではない。


 彼の本当の名は彰仁親王。現皇帝の弟を父に持ち、皇位継承順位第一位に定められている、瑞穂国の皇嗣である。


 皇族という立場を隠して青嶺大学へ通っている理由を、遥人自身は、市井の暮らしを自分の目で知るためだと説明していた。用意された視察先で、あらかじめ選ばれた人間から、無難に整えられた話だけを聞き続けていても、いずれ背負うことになる国の姿などわかるはずがないと、皇帝である伯父と父を半年近く説得し、ようやく一年間という期限つきで許されたのが、この大学生活だった。


 もっとも、自由を得たと言えるかどうかは怪しかった。


 講義室には学生を装った護衛官が入り、大学職員の中にも協力者がおり、友人と食事へ行けば店内の客まで確認される。皇宮を離れたことで監視が減ったのではなく、監視する人間の服装が制服から私服へ変わっただけなのではないかと、遥人は時々、本気で疑っている。


「本日の予定を確認します。一限が憲法学、二限は空き時間、午後一時から近代政治史演習、午後四時から旧図書館で御厨宗一郎教授との面談です。面談場所については変更を申し入れましたが、教授本人が旧図書館を指定して譲らなかったそうです」


 榊原が手帳を開きながら告げると、遥人は箸を止め、味噌汁の表面へ浮かぶ葱を見つめた。


「私は、その面談を断ったはずですが」


「三度お断りになり、御厨教授から四度目の依頼がありました。そこまでして話したいというのであれば、何を知っているのか確認したほうがよいと判断しました」


「何を知っているのか、という言い方をする以上、あなたも教授が私の身元に気づいている可能性を考えているのでしょう。御厨教授の講義を受けたのは一度だけで、質問をしたこともなければ、レポートを提出したこともありません。それなのに、わざわざ学生を一人だけ呼び出し、大学の中でも人目の少ない旧図書館を指定するというのは、普通の面談とは思えません」


「だからこそ、行かれるべきです。先方が殿下のお立場を知っているのなら、知らないふりをして放置するよりも、どこから情報を得たのか確かめたほうが安全ですし、単なる学生として話があるだけなら、それはそれで何の問題もありません」


「問題はあります。あなたが隣に立っていれば、教授は話すつもりだったことまで口にしなくなるでしょうから、面談には同席しないでください」


「それは認められません。御厨教授が善良な研究者であることと、刃物も毒物も所持していないことは、まったく別の話です」


「大学教授と二人で会話をするたびに、相手が刃物を持っている可能性まで考えていたら、私は誰とも話せなくなります」


「殿下のお立場で誰とでも気軽に話せると思われていたのなら、大学へ通われる前の説明が不足していたことになります」


「十分すぎるほど説明されました。ただ、説明の大半を無視しなければ、一般学生として生活することなどできないと思っただけです」


 榊原は、今度こそ露骨に眉を寄せた。


「護衛官の目の前で、規則を無視することを当然のように言わないでいただけますか。せめて悪いことをしているという自覚くらいはお持ちください」


「自覚はあります。そのうえで、面談中は廊下にいてください。教授が助けを求めるような声を上げるか、私が決めておいた言葉を口にした時だけ入ってくる。それならば、あなたの職務と、私が相手の話を聞くことの両方を守れます」


「決めておいた言葉とは何ですか」


「味噌汁に検査器具を入れないでください、と言います」


「それでは、毎朝助けを求められていることになります」


 遥人は思わず笑ったが、榊原は少しも笑わず、結局、面談中は扉から十メートルほど離れた廊下の突き当たりで待機するという条件を飲んだ。


 食事を終え、玄関で靴を履いていると、榊原が遥人のコートの襟へ手を伸ばし、わずかな乱れを直した。


「今日は冷えますので、講義が終わったあとも前を開けたまま歩かないでください。それから、御厨教授との面談が始まる前に、必ず私へ連絡を。勝手に中へ入るようなことはなさらないでください」


「二十一歳にもなって、出かける前にそこまで念を押される大学生は、私くらいでしょうね」


「二十一歳にもなって、財布の中身を自分で確認せず、護衛官に小銭を補充されている大学生も、殿下くらいでしょう」


「久世です」


「自宅ですから」


「壁が薄いのではなかったのですか」


 榊原は答えず、玄関を開けた。


      *


 青嶺大学の正門をくぐったところで、遥人は背後から肩を強く叩かれ、反射的に半歩身を引いた。


 数メートル離れて歩いていた私服護衛官が、上着の内側へ手を入れるのが視界の端に映ったため、遥人は何事もなかったように振り向き、寝癖の残った髪で笑っている三浦直哉へ、できるだけ普通の大学生らしい表情を向けた。


「おはよう、三浦。人の背後から急に触れるのは、驚くのでやめてくれないか」


「驚いた人間は、普通そんな軍人みたいな避け方をしないだろ。俺の手が肩へ触れる前に、もう身体が横へ動いていたぞ。お前、高校時代に何をしていたんだ」


「特別なことはしていない。ただ、家が少し厳しかったので、姿勢や歩き方については細かく言われていた」


「歩き方を注意されただけで、友達の手を暗殺者みたいに避けられるようになるなら、俺も子供の頃に習っておけばよかったよ。ところで、そのコート、前から気になっていたんだけど、どう見ても大学生が気軽に買う値段じゃないだろ。布がもう俺の着ているものと違うし、襟のところなんて、触っただけで育ちの差を思い知らされる」


 三浦は遠慮なくコートの襟をつまんだ。


「家族が用意したものだから、値段は知らない」


「自分の服の値段を知らないって、それだけで金持ちの発言なんだよ。普通は高い服を買ったら、汚さないように値札まで覚えているものだろ。お前の家、実はものすごい資産家なんじゃないか」


「普通の家だ」


「普通の家では、同居人が靴下へアイロンをかけない」


 遥人は足を止めた。


「なぜ、そのことを知っているんだ」


「この前、お前の家へ泊まった朝に見た。榊原さんが洗濯物の前で、ものすごく真剣な顔をして靴下へアイロンを当てていたから、俺が何をしているんですかと聞いたら、衛生上必要だと答えた。あの人、大学院生というより、どこかの特殊部隊から来た人みたいだよな」


「あれは、しわを伸ばしていたのではなく、おそらく殺菌だと思う」


「なぜ靴下を殺菌する必要があるんだ。久世、お前の家族、相当に面倒な人たちだろ」


「否定はしない」


「そこは否定しろよ。俺が言っておいて何だけど、妙に正直に認められると、これ以上聞いてはいけない家庭事情が出てきそうで怖くなる」


 三浦直哉は、遥人が大学で最初に親しくなった学生だった。


 着古したパーカーに、踵のすり減った運動靴。鞄の中には教科書より菓子の袋が多く、提出期限の前日になるまで課題の存在を忘れている一方で、誰かが困っていれば、自分の予定を後回しにしてでも手を貸す。親切を誇ることもなく、恩を返せと要求することもないが、その代わり、人から聞いた話を一人で抱えておくことが苦手だった。


 悪意があるのではない。誰かの悩みを聞けば、本気で心配し、その心配を別の誰かへ相談してしまうのだ。


 そのため遥人にとって三浦は、最も信頼している友人であると同時に、絶対に正体を知られてはならない相手でもあった。


「そういえば、お前、昨日の近代史の講義で御厨教授に呼び止められていただろ。何の話だったんだ」


「今日、旧図書館へ来てほしいと言われただけで、詳しいことは聞いていない。以前から何度か面談を申し込まれていたが、心当たりがないので断っていた」


「御厨教授が学生を個人的に呼び出すなんて珍しいな。あの人、自分の研究に関係しない学生の顔なんて、ほとんど覚えていないって評判だぞ。それに最近、皇室関係の古い資料を見つけたとかで、学内の研究者と揉めているらしい」


「皇室関係の資料?」


「詳しくは知らないけど、近代の皇位継承に関する記録だとか何とか。新聞社から取材も来ていたし、教授本人も、今まで正しいとされてきた歴史がひっくり返るかもしれないと話していたらしい。ただ、あの人は大げさなところがあるから、どこまで本当かわからないけどな」


 遥人が返事をしないまま歩いていると、正面に青嶺大学の時計塔が見えてきた。


 大正期に建てられた煉瓦造りの講堂、その中央から伸びる黒ずんだ時計塔は、青嶺大学の象徴として入学案内や観光雑誌にも使われている。年月を経た文字盤には細かなひびが入り、遠目にはわからない程度に針の塗装も剝げていたが、大学側は歴史的価値を理由に交換せず、必要な箇所だけを修繕しながら使い続けていた。


 文字盤は八時三十二分を示している。


 遥人が腕時計を見ると、八時三十六分だった。


「今日も、きっちり四分遅れている」


 遥人が立ち止まって言うと、三浦は時計塔を見上げたものの、すぐに興味を失ったように肩をすくめた。


「あれは前からだぞ。去年の秋くらいから、ずっと四分遅れているらしいけど、誰も困っていないから直さないんじゃないか」


「時計が正しい時刻を示していないのに、誰も困っていないから直さないというのは、時計そのものが必要ないと認めているようなものではないのか」


「四分くらい遅れていたって、講義に遅れるやつは時計が正しくても遅れるし、待ち合わせに来ないやつは何分待っても来ない。時計だけ正しくしたところで、人間まで正しくなるわけじゃないんだから、その程度で役目を失ったなんて言ったら、世の中の大半のものが必要なくなるぞ」


 三浦の返答に、遥人はわずかに目を見開いた。


「君は時々、驚くほどまともなことを言うな」


「時々という言葉が余計なんだよ。お前は人を褒める時まで、どこか偉そうなんだよな。家族に政治家でもいるのか」


「いない」


 皇帝は政治家ではないため、嘘ではなかった。


 遥人はもう一度、時計塔を見上げた。秒針は滑らかに動いており、機械そのものが止まっているわけではない。正しい時刻から、毎日きっちり四分だけ遅れた状態で動き続けている。


「故障なら、日によって遅れ方が変わってもよさそうだが、毎日同じ四分ということは、誰かが意図的に遅らせた可能性もある」


「何のために、そんな面倒なことをするんだ」


「それがわからないから、気になる」


「本当に面倒な性格をしているな。お前と結婚する人は、相当に苦労すると思う」


「その意見には、私も同意する」


 三浦は一瞬、遥人の顔を見つめ、それから声を上げて笑った。


      *


 二限が空いていたため、二人は昼食には少し早い時間に学生食堂へ入った。


 窓際の席には、講義資料を広げている学生や、イヤホンをつけたままノートパソコンを操作している学生がまばらに座っているだけで、普段の昼休みに見られるような混雑はない。厨房からは揚げ油と醤油の混じった匂いが漂い、自動券売機の前で財布を開いた三浦は、硬貨を何度も数え直したあと、露骨に顔をしかめた。


「百円足りない。昨日、妹にアイスを買わされたのを忘れていた。悪いけど貸してくれないか。今月の給料が入ったら、必ず返すから」


「百円なら、返さなくても構わない」


「そういうことを平気で言うから、お前は金持ちなんじゃないかと疑われるんだ。百円を笑う者は百円に泣くという言葉もあるし、少額だからこそきちんと返さないと、次から借りる時に頼みにくくなるだろ」


「その言葉は、一円を笑う者は一円に泣く、ではなかったか」


「うちの祖母は物価の上昇に敏感だから、数年前から百円へ改訂したらしい」


 三浦は遥人から受け取った硬貨で醤油ラーメンの食券を買い、遥人も同じものを選んだ。


「また俺と同じものにしたな。たまには自分が食べたいものを選べばいいのに、いつも人の後を真似していたら、大学へ来た意味がないだろ」


「どれが食べたいのか判断するためには、まず味を知らなければならない。私はこの食堂の料理をほとんど食べたことがないから、経験のある君と同じものを選ぶのが合理的だと思った」


「食事くらい、合理的に考えず選べないのか。今日は脂っこいものが食べたいとか、何となく麺の気分だとか、その程度でいいんだよ」


「何となくという基準は、判断の根拠として不安定すぎる」


「久世、お前は本当に普通の大学生になる気があるのか。ラーメン一杯を選ぶのに、国家予算みたいな顔をするな」


 二人が窓際の席へ座り、ラーメンが運ばれてくるのを待っていると、背後から、ひどく慎重な声で名前を呼ばれた。


「久世遥人さんで、いらっしゃいますか」


 遥人が振り向くと、紺色の古いコートを着た老女が立っていた。


 年齢は七十歳前後だろうか。細い身体の前で革の鞄を抱き、灰色の髪はきちんとまとめられているものの、頬は痩せ、目の下には深い影が刻まれている。服装にも振る舞いにも乱れはないが、遥人を見る目だけが、長いあいだ探し続けていたものを突然目の前へ差し出された人間のように、大きく揺れていた。


「はい、久世遥人ですが、どちら様でしょうか」


 老女は答えず、遥人の額から顎までを確かめるように見つめたあと、かすかに首を振った。


「本当に、よく似ていらっしゃる。目元も、口の形も、あの方が若かった頃と同じで……けれど、そんなはずはない。あの子は、あの夜に死んだと、皆がそう言っていたのに」


「誰に似ているのですか。それから、あの子というのは誰のことでしょう」


 遥人が立ち上がると、老女は怯えたように一歩後ろへ下がり、その拍子に抱えていた鞄を椅子へぶつけた。古くなった留め具が外れ、白いハンカチ、薬の袋、小さな手帳、数枚の封筒と一緒に、一枚の白黒写真が床へ落ちる。


 遥人は反射的に写真を拾い上げた。


 煉瓦造りの建物の前に、若い女性が立っている。建物は青嶺大学の旧図書館で、写真の隅に記された日付は、ちょうど二十二年前のものだった。女性は柔らかく笑っていたが、その笑顔には、どこか撮影者を警戒しているような硬さが残っている。


「それを返してください」


 老女の声が、それまでとは別人のように鋭くなった。


「申し訳ありません。落ちたので拾っただけです。ただ、この写真に写っている方は――」


「あなたには関係ありません。何も知らないのなら、これからも知らないままでいてください。そのほうが、あなたのためにも、周りにいる方々のためにもなります」


「先ほど、あの子は死んだと言われた、とおっしゃいました。私の顔を見て驚かれたことと関係があるのでしょうか」


 老女は遥人の手から写真を奪い取ると、散らばった荷物を急いで鞄へ戻した。三浦が手伝おうとして腰を上げたが、老女は触れられる前に、ほとんど悲鳴に近い声を上げた。


「触らないでください。もう、誰にも触らせたくないのです。あの時も、皆が大丈夫だと言って、私の手からあの子を取り上げて、そのまま二度と返してくれなかった」


 食堂にいた学生たちが一斉に振り向いた。


 老女は自分の声の大きさに気づいたらしく、唇を押さえ、しばらく俯いていたが、やがて遥人へ顔を向けると、涙の浮かんだ目で言った。


「人違いでした。どうか、今のことは忘れてください。二十二年前に何があったのかなど、知ったところで、誰も幸せにはなりません」


「忘れることはできません。少なくとも、あなたが何を恐れているのかだけでも教えてください」


「あなたは、昔からそういう方だったのでしょうね。自分が傷つくかもしれないことより、知らないことのほうを怖がる。だから、あの人たちも、あなたをここへ出すべきではなかった」


 老女はそれだけ言い残すと、鞄を胸へ抱き、食堂から逃げるように出ていった。


 遥人が追おうとした時、出入口の近くに榊原が立っているのが見えた。表向きは偶然通りかかった大学院生を装っているが、視線は老女の背中を正確に追っている。遥人と目が合うと、榊原はごく小さく頷き、そのまま老女の後を追った。


「知り合いなのか」


 三浦が、運ばれてきたラーメンへ箸をつけないまま尋ねた。


「いや、会ったことはない。ただ、向こうは私のことを知っているようだった」


「会ったこともない老人に、昔からそういう人間だったと言われる大学生は、そう多くないと思うぞ。久世、冗談抜きで聞くけど、お前は何か面倒なことを隠していないか。家が厳しいとか、同居人が妙に怖いとか、そういう笑って済ませられる話じゃなくて、俺が知らないまま近くにいると危ないようなことを」


 遥人は、湯気の向こうにある三浦の顔を見た。


 普段の三浦は、深刻な話であっても冗談を挟み、相手が答えやすいように逃げ道を作る。しかし今は笑っておらず、遥人の返事を待ちながら、どこか傷つく準備をしているように見えた。


「隠していることが一つもないと言えば、嘘になる。ただ、君を危険に巻き込みたいと思っているわけではないし、話せないのは君を信用していないからでもない」


「それは、話せない事情がある人間の言い方としては、かなり正しいんだろうけど、言われた側はあまり安心できないな。まあ、お前が今ここで無理に話すとは思っていないから、これ以上は聞かない。ただ、本当に困った時くらいは、一人で何とかしようとするなよ。お前は頭がいいけど、人に頼るのが下手そうだから、気づいた時には取り返しがつかなくなっていそうで怖い」


「君は、私が思っていたより人をよく見ているんだな」


「そういう上から褒める言い方は、今後の課題にしておけ。それより早く食べろ。麺が伸びるし、俺は百円を借りた相手に、まずいラーメンを食わせたという罪悪感まで抱えたくない」


 三浦はようやく箸を取り、遥人もラーメンへ手を伸ばした。


 その時、三浦の鞄から古びた茶色の封筒がわずかに覗いていることに、遥人は気づいた。表には、御厨宗一郎と手書きされていたが、三浦がすぐ鞄を閉じたため、何の封筒なのか尋ねる機会を逃した。


 遥人は、そのことを深く考えなかった。


 後になって振り返れば、この時に問いかけていれば、その日の夕方に起きたことの少なくとも一部は、違った形になっていたかもしれない。


      *


 午後四時十二分、遥人は旧図書館の前へ立っていた。


 青嶺大学の旧図書館は、現在使われている中央図書館が建設されるまで、八十年以上にわたって大学の蔵書を収めてきた煉瓦造りの建物である。現在は一階の一部と二階の史料室だけが利用され、残りの区画は老朽化を理由に閉鎖されているため、昼間であっても人の出入りは少なく、雨雲に覆われた空の下では、大学の中に取り残された廃墟のように見えた。


 その日は朝から雨が降っていなかったにもかかわらず、正面階段の一部だけが濡れていた。


 水を撒いて清掃した跡とも考えられるが、濡れているのは階段の中央から右側だけで、左側は乾いている。遥人が立ち止まって眺めていると、後ろから工具箱を持った榊原が近づいてきた。


「先ほどの女性について確認が取れました。名前は桑原澄江、七十一歳。二十二年前まで、この旧図書館で司書補として勤務しており、今日は御厨教授の面会者として大学へ入っています。受付記録では午後三時二十分に入構していますが、退構した記録はありません」


「つまり、食堂で私に会う前か後に、教授と会っていた可能性があるということですね。写真に写っていた女性については、何かわかりましたか」


「現在照会中ですが、大学側の古い職員名簿と卒業生名簿を確認するには時間がかかります。それから、御厨教授が殿下の身元を知っているかどうかについても、現時点では証拠がありません」


「久世です」


「周囲に人はいません」


「人がいないからといって、壁に耳がないとは限らないと、今朝あなたが言ったのではありませんか」


「殿下は、都合のよい時だけ私の言葉を正確に覚えていらっしゃいますね」


 榊原は工具箱を持ち直した。


「私は設備点検業者として中へ入ります。面談中は約束どおり廊下の突き当たりにいますが、何か異常を感じた時点で、こちらの判断で入室します。それだけは譲れません」


「わかりました。ただ、教授が私の正体に気づいていたとしても、あなたの姿を見れば警戒するかもしれませんから、できるだけ視界に入らない場所にいてください」


「護衛官へ、気配を消せと命じているつもりでしょうが、その言い方では、まるで私が不審者のようです」


「工具箱を持って学生を追いかけている時点で、十分に不審です」


「あなたを守るためです」


「その言葉を出せば、何をしても許されると思っていませんか」


「思っています」


 朝の仕返しをされたような気がして、遥人は苦笑しながら扉へ手をかけた。


 旧図書館の中は薄暗く、古紙と埃、それから湿った木材の匂いが混じっていた。受付台には人がおらず、奥へ続く廊下の照明だけが、一定の間隔で白く床を照らしている。


「御厨教授、久世です。お約束の時間に参りました」


 遥人が呼びかけたが、返事はなかった。


 受付台の上には、冷めたコーヒーが置かれており、その横に来館者記録が広げられている。午後三時二十分、桑原澄江。午後三時四十五分、三浦直哉。


 遥人は、その名前を見たまま動けなくなった。


「榊原さん、三浦がここへ来ています。彼は教授と面識がないような話をしていましたが、少なくとも私より先に旧図書館へ入り、まだ退館時刻が記録されていません」


「記録を触らないでください。警備室へ確認しますので、殿下はここで――」


「久世です。それに、床を見てください」


 受付台の脇から、奥の廊下へ濡れた靴跡が続いていた。


 一人分の足跡に見えるが、左足より右足の跡だけが濃く、細かな黒い泥が混じっている。旧図書館前の階段は濡れていたものの、周囲に泥はなく、この跡が外からそのまま持ち込まれたとは考えにくい。


「右足だけ、別の場所で泥を踏んでいます。それに、足跡の間隔が一定ではありません。普通に歩いたというより、何か重いものを引きずるか、身体を支えながら進んだように見えます」


「それ以上近づかないでください。現場である可能性があります」


「教授が倒れているなら、一刻を争います」


「だからこそ、私が先に確認します。あなたはここから動かないでください。今回は交渉ではなく命令です」


 榊原が低い声で言い、濡れた靴跡を避けながら廊下の奥へ進んだ。


 遥人も二歩ほど後を追ったところで、二階から、硬いものが床へ落ちて転がる音が聞こえた。


 榊原は即座に上着の内側へ手を入れ、階段を見上げた。


「ここにいてください。何があっても上がってはいけません」


「教授が助けを必要としているかもしれないのに、ここで待っているだけでは――」


「私が確認します。殿下に何かあれば、教授一人の問題では済みませんし、ここであなたが危険を冒すことは、勇気でも責任感でもなく、ただ周囲の人間へ負担を押しつける行為です」


 榊原の言葉は厳しかったが、正しかった。


 遥人は一度頷いたものの、榊原が階段を上り始めると、結局、その数段後ろを追った。


 榊原が振り返り、信じられないものを見るような顔をした。


「今の話を聞いておられましたか」


「聞いていました。ただ、あなたが一人で危険な場所へ入ることを当然だと思うほど、私はあなたの命を軽く考えていません」


「そういうことを言えば、私が強く止められなくなるとわかっていて口にされるのなら、殿下は以前より、ずいぶん人の扱いが上手になられました」


「褒め言葉として受け取っておきます」


「少なくとも、私は褒めていません」


 二階の突き当たりには、近代皇室史料室と書かれた扉があった。


 取っ手を回した榊原が、すぐに表情を変える。


「鍵がかかっています。御厨教授、聞こえますか。中にいらっしゃるなら返事をしてください」


 返事はない。


 内線電話で管理室へ連絡すると、数分後、青ざめた顔の大学職員が合鍵を持って駆けつけた。御厨教授は午後から史料室を使用しており、外へ出たところは確認していないという。


 職員の手が震え、鍵穴へなかなか鍵が入らなかった。


 榊原が代わりに受け取り、扉を開ける。


 史料保存のため低く設定された室温が、冷たい空気となって廊下へ流れ出した。


 細長い部屋の両側には、天井近くまで届く書架が並び、最奥に大きな机が置かれている。御厨宗一郎教授は、その机へ上半身を伏せるように倒れていた。


 白髪交じりの後頭部、床へ垂れた右腕、机の上から滴り落ちた血。足元には書類が散らばり、その中央に、古い銀色の懐中時計が落ちている。


 職員が短い悲鳴を上げた。


 榊原はすぐ遥人の前へ立ち、室内を遮るように片腕を広げた。


「中へ入らないでください。教授には触れず、警察と救急へ連絡します」


「生きている可能性はないのですか」


「呼吸も動きも確認できませんが、私が断定することではありません。ただし、出血量から見て、発見されるかなり前に亡くなっている可能性が高いでしょう」


 遥人は榊原の肩越しに、室内を見た。


 窓は閉じられ、内側から掛け金が下ろされている。扉の鍵は御厨教授の椅子の下へ落ちており、室内には教授以外の人影はない。濡れた靴跡は机の手前で途切れていたが、教授の靴底は乾いている。


 机の上には、縁の焼け焦げた古い紙が一枚置かれ、その中央に三つの時刻が記されていた。


 十一時四分。


 十三時二十八分。


 十七時五十二分。


「榊原さん、最後に書かれている時刻は、まだ来ていません。現在は午後四時二十三分ですから、十七時五十二分までは一時間以上あります」


「それが犯人からの予告だと考えているのですか」


「わかりません。ただ、過去の時刻を二つ並べたあと、未来の時刻を一つだけ書き残している以上、偶然とは思えません」


 その時、校内に鐘の音が響いた。


 青嶺大学の時計塔が、時刻を告げるために鳴らす鐘だった。


 遥人は腕時計を確認した。


 午後四時二十五分。


 本来なら四時を告げる鐘が鳴る時間ではない。


 窓越しに時計塔を見ると、文字盤は午後四時二十一分を指し、秒針だけが止まっていた。


 毎日きっちり四分遅れていた時計が、その日だけは、さらに二十一分遅れた時刻で止まっている。


「四分ではない」


 遥人が呟くと、榊原が振り返った。


「何のことですか」


「時計塔です。今朝まで、正しい時刻から四分遅れて動いていました。しかし今は、午後四時二十一分で止まっている。腕時計は四時二十五分ですから、文字盤だけを見ればいつもどおり四分遅れですが、鐘は今になって四時を告げました。針と鐘を動かす機構が、別々の時刻を示しているということです」


 榊原は何か答えようとしたが、遥人の視線が御厨教授の右手へ向いていることに気づき、口を閉じた。


 教授の指の間には、小さな白黒写真が握られていた。


 食堂で桑原澄江が落とした写真と同じく、旧図書館の前に若い女性が立っている。しかしこちらの写真には、女性の隣に幼い子供が写っており、その顔の半分が黒いインクで塗り潰されていた。


 写真の裏には、震えた筆跡で一行だけ記されている。


『この子を、皇嗣にしてはならない』


 遥人は、息をすることさえ忘れたように、その文字を見つめた。


 御厨教授がなぜ久世遥人を呼び出したのか、誰が鍵のかかった史料室で教授を殺したのか、三浦直哉と桑原澄江が何のためにこの建物を訪れたのか、その時点では何一つわかっていなかった。


 ただ、ひとつだけ確かなことがあった。


 御厨宗一郎は死ぬ前から、久世遥人が何者なのかを知っていた。


 そしておそらく、皇嗣・彰仁親王本人さえ知らされていない過去を、誰かに殺されなければならないほど深く知っていたのだ。


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