第6話 金碧華廟牛頭迷宮 2
「どけぇっ!」
怒号と悲鳴が、黄金で彩られた回廊へ幾重にも反響した。
男たちは我先にと出口を目指し、仲間を突き飛ばしながら駆け抜けていく。その中で、一番年若い下っ端の青年──マルクは肩を強く押され、その場へ倒れ込んだ。
「ぐっ……!」
立ち上がろうとした時には、仲間たちは既に数十メートル先まで逃げ去っている。
背後からは、一定の間隔で重い足音が迫ってきた。
ドン。
ドン。
ドン。
まるで死神が時を刻むような音だった。
恐る恐る振り返る。
そこには三メートルを超える巨躯を誇る牛頭人身の怪物、ミノタウロスが悠然と歩いていた。全身を覆う隆起した筋肉は岩のように硬く、肩へ担いだ巨大な戦斧には乾ききらぬ血が滴っている。
「ひっ……!」
マルクは転がるように立ち上がり、再び走り出した。
(なんで俺がこんな目に……!)
足は鉛のように重い。それでも止まれば死ぬ。
その一心だけで前へ進む。
元は田舎で畑を耕して暮らす、ごく普通の青年だった。
幼馴染のミリーが年貢の代わりとして領主へ奉公へ出されると知り、どうにか身請けする金を工面しようと強盗団へ加わった。しかし現実は甘くなく、危険な仕事ばかり押し付けられる下っ端のまま二年が過ぎた。
今日だってそうだ。
宝を運ぶのも、囮になるのも、真っ先に危険へ飛び込むのも自分だった。
「俺は悪くねぇ……俺は悪くねぇんだ……!」
その叫びを嘲笑うように、空気が裂けた。
ブォン――ッ!
咄嗟に身を屈める。
頭上を巨大な戦斧が凄まじい勢いで通過し、前方を走っていた男たちへ直撃した。
轟音。
肉と骨が砕ける嫌な音が響き、二人の身体が原形を留めぬほど吹き飛ぶ。
「うわぁぁぁぁっ!」
悲鳴を上げながら再び走る。
だが、迷宮は番人だけでは終わらなかった。
先頭を走っていた男が、不意に視界から消える。
次の瞬間、絶叫が響いた。
落とし穴。
その底には、人の胴ほどもある鉄杭が何本も突き立っていた。
冷静に見れば中央には細い足場があり、それを渡れば避けられる単純な罠だ。しかし極限まで追い詰められた男たちに、その僅かな道を見極める余裕など残っていない。
矢が飛ぶ。
炎が噴き出す。
床が崩れる。
黄金の回廊は、挑戦者の焦りを試すように牙を剥いていた。 冷静に対応すれば簡単に攻略できる罠ばかりだった。
しかし……気が付けば、生き残ったのはマルクただ一人だった。
「はぁ……はぁ……」
壁へ背中を預け、その場へ崩れ落ちる。
もう一歩も動けない。
胸元から、先ほど夢中で掴み取った金の首飾りが転がり落ちた。
これだけでいい、これさえあれば……
これさえ売れば……
ミリーを助けられるはずだった。
その時だった。
ミノタウロスが目の前で歩みを止めた。
戦斧を肩へ担いだまま、微動だにしない。
静寂。
そして、その沈黙を破るように幼い少女の笑い声が響いた。
「カッカッカッ……ようやく一人になったか」
マルクが顔を上げる。
回廊の奥には、黒髪の少女──ラビリントスが立っていた。
腕を組み、愉快そうにこちらを見つめている。
「お主は運が良い。この部屋にはもう罠は無い。守り人も盗んだ宝を返せば襲って来ぬ。あとはあの出口を潜れば、お主の勝ちじゃ」
「か……返せば、生きて帰れるのか?」
「うむ」
その一言だけで全身から力が抜け、その場に座り込んでしまう。
マルクは後ろ髪を引かれる思いで金の首飾りをミノタウロスへ向かって床を滑らせる。
「チッ……」
命を賭けたのに結局何も手に入れていない。 けれど生きているだけマシなのか……
生きて帰れる……
そう思った瞬間、張り詰めていた糸が切れたように全身の傷が痛み始める。
矢が掠め、炎で炙られ、高所から落ちたりもした。 既に満身創痍だ。
ラビリントスは小さな瓶を取り出し、指先で弄ぶ。
「その傷ではしんどいじゃろう。これはネクタルという霊薬でな、どんな傷でも癒やす秘薬じゃ」
瓶が放られる。
マルクは慌てて受け取った。
「ほれ、あちらを見てみよ」
ラビリントスの隣には、腹を刺されたはずのグレイと、その妹エリゼが立っていた。
グレイは自らの腹へ手を当て、不思議そうに笑っている。
「あの兄妹には我が褒美として与えた。本来ならとても貴重な品なんじゃ」
「ありがてぇ……!」
マルクは迷うことなく栓を抜き、一気に飲み干した。
温かな力が全身を駆け巡る。
傷が塞がる。
疲労が消える。
身体が羽のように軽い。
(助かった……これで街まで戻れる)
傷が治れば挫けそうだった心もまた持ち直してくるものだ。
マルクはエリゼを見る。
(帰る振りしてあの娘を拐って行くか! このまま一銭にもならないんじゃ割に合わねーしな。 俺をこんな目に合わせた罰だ、あの娘は散々楽しんでから売っぱらってやる!)
安堵と共に、胸の奥から醜い欲望が顔を出す。
その瞬間だった。
「お主……」
ラビリントスの声音が変わる。
冷たく、底の見えない深淵のような声だった。
「誰が飲んでよいと言った?」
「……え?」
「兄妹には我が与えた」
少女は首を傾げる。
「お主には効能を説明してやっただけじゃが?」
マルクの顔から血の気が引いた。
「いや……いやいや! そんなの卑怯じゃねーか! ま、待ってくれ……」
「他人の物を勝手に飲むとは、礼儀がなっておらぬな」
ラビリントスが肩を竦める。
「ほれ、守り人も怒っておるぞ」
振り返る。
そこには、戦斧を振り上げるミノタウロスがいた。
「ち、違う! 違う! 騙されたんだ! 返す! 返すから――」
喉へ指を突っ込み、必死に吐き出そうとする。
「エ、エヘヘ……ちょっと待ってくれ……へへっ、今吐くからよ……オエッ……」
しかし遅い……今更吐ける訳がない。
霊薬はすでに身体へ溶け込んでいた。
「遅い」
ラビリントスが静かに告げる。
次の瞬間、黄金の戦斧が振り下ろされた。
轟音……
マルクの姿は一瞬で赤い飛沫へ変わり、その場には血溜まり以外は何も残らなかった。
「きゃっ……!」
エリゼが悲鳴を上げ、グレイは妹を庇うように抱き寄せる。
ラビリントスだけが、心の底から愉快そうに笑っていた。
「カッカッカッ! 見たか、今さら吐き出そうとしおったぞ! 実に滑稽じゃ!」
その無邪気な笑い声に、兄妹は言葉を失う。
グレイは震える声で問い掛けた。
「……何も、殺さなくてもよかったんじゃないのか」
ラビリントスはゆっくりと振り返る。
漆黒の瞳には怒りも慈悲もなかった。
ただ、永い時を生きた者だけが持つ無機質な静けさが宿っている。
「そうじゃな。殺さなくてもよい」
少女は口元を三日月のように吊り上げた。
「じゃが──殺した方が面白いじゃろ? クハハハハッ!」
その一言で、グレイは理解した。
目の前にいるのは恩人ではない……たしかに結果的に助けられたりした。
けれど、善人でも悪人でもない……そもそも人ですらない。
善悪の倫理など遥かに超越した、気まぐれな災厄そのものなのだと。
黄金の迷宮には、幼い少女の高らかな笑い声だけが、いつまでも響き渡っていた。




