第3話 退屈な迷宮 3
第3話
迷宮からの旅立ちは思いのほかあっけないものだった。
少女の姿となったラビリントスは、目の前に揺らめく陽光を見つめていた。
「ラビリントス様……本当に行くッスか?」
グラがどこか名残惜しそうに身体を揺らす。
その声に、ラビリントスはゆっくり振り返った。
「当然じゃ」
漆黒の瞳には迷いなど微塵もない。
「このまま待っていても誰も来ぬ…….世界を歩く方が遥かに面白いじゃろう」
「ラビリントス様が留守の間、迷宮はどうするッスか?」
「我が迷宮である事に変わりはない、迷宮そのものが消えるわけではないのじゃ。 試練も魔物も今まで通り動き続けるじゃろう……挑戦者がおればな……」
「ラビリントス様……」
ラビリントスの寂しそうな顔にグラはかける言葉がなかった。
「では、行って参る」
ラビリントスは輝く陽光の下へ足を踏み出す。
次の瞬間――
「……!」
思わず目を細める……熱い──
いや、暖かいのか。
迷宮の重く冷たい空気とはまるで違う。
肌を撫でる風。
草木の匂い。
鳥の囀り。
耳に届くすべてが新鮮だった。
「ほぅ……」
ラビリントスはゆっくりと空を見上げる。
果てしなく広がる蒼穹。
流れる白雲。
太陽が燦々と世界を照らしている。
「……これが世界か」
思わず言葉を失う。
神代より存在するラビリントスでさえ、空を見たことはなかった。
知識としては知っていた。勇者たちの記憶や支配する眷属たちの報告から。
しかし、実際に見る空はそれらとは比べものにならないほど広く、美しかった。
「空、とは……これほど広大だったのか。 まるで限りが無いではないか」
ラビリントスはしばらく黙ったまま立ち尽くしていた。
数万年、永い永い時を生きた災厄は生まれて初めて世界を見ていた。
風が長い黒髪を揺らす。
木漏れ日が白い頬へ踊る。小さな蝶が目の前を横切るとラビリントスは指を伸ばす。
蝶は指先へ止まることなく飛び去った。
「ふむ」
「あれは蝶々ッス!」
いつの間にか、ぷるぷると跳ねながらグラも迷宮から出てきていた。
「なんじゃお主も来たのか」
「もちろんッス! ラビリントス様は外の事何も知らないッスよね。 オイラが色々と教えてあげるッス!」
「ふむ……まぁ良い」
グラには何の期待も出来ないが……それはそれとして悪くはない……少なくとも、一人よりは退屈しなさそうだと判断した。
ラビリントスは改めて周囲を見渡す、迷宮は深い森の中に口を開けていた。
空気は澄み、遠くでは川のせせらぎが聞こえる。
生命に満ちた世界。
迷宮とは正反対の景色だった。
その時、突如として陽の光が遮られた。
ラビリントスが見上げると、巨大な影が降るように降りてくる。
グギャロロローンッ!!
目に飛び込む極彩色の羽毛、ギラギラとした輝きを放つエメラルド色の竜鱗──
体長10メートルを優に超える巨大なドラゴンだった。
「なるほど……」
この自己主張の激しいドラゴンが棲みついたせいで人間たちが寄り付かずこの周辺は寂れていったのかもしれない。 もっとも、単に寂れた森にこのドラゴンが棲みついたのかも知れないが……
「しかし、コヤツ……我に敵意を向けておらぬか?」
見れば極彩色のドラゴンはグルルルと喉を鳴らし口からはよだれを垂れ流している。
「ラビリントス様を食べようとしてるッスね」
「ふむ。グラよ、真の捕食者とは何かを教えてやれ」
「やふー了解ッス!」
ラビリントスの命令を受けて薄水色のスライムであるグラからブクブクと気泡が発生したかと思えば一気に目の前のドラゴンを包み込める程に巨大化する。
原初のスライム──強欲で暴食
薄水色の体は今では漆黒の粘体へと変化している。 その体に触れる物は全て溶かされ吸収される。 現在も触れた木々や地面ですら溶かされシューシューと煙を上げている。
その変化に驚いたドラゴンが炎のブレスを吐く。 超高温のブレスは金属さえも溶解する威力だ。 しかし──
「この姿になるとお腹が空くッス!」
巨大な黒い粘体はブレスの直撃を受けても平然としている。 むしろそのブレスを食べているようにも見える。
斬撃、刺突、殴打、炎、冷気、雷……あらゆる属性に対する無効や耐性、さらに状態異常無効。およそ弱点と呼べるものの無い原初のスライム。
僅かな粘液が飛び散る……それが極彩色のドラゴンの竜鱗に触れると煙を上げて溶けていく。
グッギャロロロロッ!!
危険を察したのかドラゴンが背を向けて飛び立とうと翼を広げた……
赤、青、緑、黄……様々な色で彩られた色彩豊かな羽が広がるが……
極彩竜が見上げた空は黒かった──
ただただ全てを塗り潰す黒だけが広がっていた。
⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
黒髪の少女は一歩を踏み出す。
「待ってくださいッス!ゲフッ」
「何故お主の食事を待たなければいけぬのじゃ」
グラがいつもの薄水色に戻り、大きさも普通のスライム程度まで縮小している。
ただし、辺りは溶かされた樹木や抉れた地面、そして飛び散ったいくつかの綺麗な羽根を残してドラゴンの姿は消えていた。
「なかなか美味かったッス」
上機嫌に揺れるグラを尻目にラビリントスが先へと進む。
しかし、ぐらりと視界が揺れた。
「ぬ?」
足元がふらつき膝に力が入らない。
「ラビリントス様?」
「何だ……これは」
身体が重い……酷い喪失感を覚える。 なにやら思考力まで鈍っていくようだ……
ラビリントスは困惑した。
「くっ……何じゃ? やはり人間の身体に憑依するのは無理があったか?」
「えっ!? そんなッス!」
グラは慌ててラビリントスの顔を覗き込む。
青白い──乾燥した唇からは血の気が引いているように思える。
ぐぅぅぅぅぎゅるるるるぅぅうう……
静かな森に、場違いな音が響いた。
「…………」
「…………」
ラビリントスはゆっくり腹へ視線を落とす、グラも少女の腹部を見ている。
「なんじゃ今のは?」
「ラビリントス様の腹の音ッス!」
「腹……?」
「その身体、腹が減ってるんじゃないッスか?」
「腹が減っている、だと……?」
その言葉は知っている、知識として。
人間や獣、魔物だって食物を摂取する必要がある。
しかし──
「まさか、我がの……」
ぐぅぅぅぅぎゅるるるるぅぅううッ!!
再び腹が鳴る、1度目よりも更に大きく。
グラは呆れたように身体を縮めた。
「その身体は人間ッスからね。食べなければ死ぬッス」
「では、この不調は空腹によるものか……なんとも情け無い話しじゃのぅ」
ラビリントスは額を押さえる。
初めて迷宮を出て、ラビリントスの足を止めるのはまさかの空腹だった。
あまりにも予想外で、あまりにも情けない敵だった。
「まぁ……仕方あるまい」
「ラビリントス様! あっちに道があるッス! あと建物らしきものもッス!」
グラがびょ〜んと伸びると軽々と背の高い木を超えて辺りを見渡す。
ラビリントスは遠くに見える街道へと向かう事にする。
「さっきの竜の肉、残しておけばよかったのでは?」
ラビリントスがジトっとした目でグラを見る。
「ラ、ラビリントス様に食べさせる様なお肉じゃなかったッス!すっごい不味かったッス!」
ついさっきまで美味かったと上機嫌だったグラはペッペッと地面に粘液を吐いている。
「はぁ……まずは人間の食事というものを調達するとしようか」
「はいッス! でもどうやって調達するッスか? 人間たちのお金とか持ってるッスか?」
「ふん。 確か宝物殿に財宝があったじゃろう。 それに……我は最凶の原初の迷宮じゃぞ」
ラビリントスは可愛らしい少女の顔に似合わない獰猛な笑みを浮かべた。
「クククッ、必要な物は全て奪えば良かろう」




