第29話
それは、スラム街の一角に建つ粗末な家屋を舞台にした、およそ、人間同士の戦いと思えぬ激しいものだった。
家の中では、大きな肉切り包丁を振り回す白い翼を広げた少女と、傘を手にしたメイド姿の少女が互いの間合いを激しく奪い合っていた。
その少し離れた場所では、巨大な身体を持つ異形の女が二人の戦いに割り込もうとしていた。無数にある手にはそれぞれ違う武器を持ち彼女はただ自分の娘を守るように腕を振り回し、そのたびに狭い室内そのものが悲鳴を上げていた。
壁が震えた。
次の瞬間には、ウィスパーレインの傘に吹き飛ばされた巨大な身体が壁面を直撃し、古びた木材と石材がまとめて吹き飛んだ。積み重なっていた瓦礫が床へ落下し、埃が煙のように舞い上がる。その向こうに見えたのは、すでに家と呼ぶには危ういほど崩れかけた室内と、そこを飛び回る二つの白い影だった。
そして、その光景を目にしていたロッツは、あまりの異常事態の連続に呆けていたが、自分がまだそこにいることの危険性を思い出す。
腕を失い魔族の腕を取り付けられ、それでもなお自分の意志で動けていることが奇跡なのか……それとも単なる悪夢なのか……そんなことを考えている余裕などもう残っていない。
何より、このままここにいれば次に自分へ何が施されるのか分からない。そう考えた瞬間、ロッツの身体は恐怖に突き動かされるように瓦礫の隙間へと飛び込んでいた。
「ひっ……!」
背後から聞こえてくる轟音に振り返ることさえせず、ロッツは崩れた壁の向こうへ転がり出る。外へ出た途端、冷たい空気が肺へ流れ込んできたが、それを心地よいと感じる余裕はなかった。あの家から離れなければならない。あの白い少女から、少しでも遠くへ逃げなければならない。
しかし、彼が逃げ出したことなど2人は気付いてもいないようだった。
そしてロッツが逃げるタイミングは奇跡的にもその瞬間が最適であった。
「あの……もう……いい加減にして……」
少女の持つ肉切り包丁と何度も傘で斬り結び、最後はウィスパーレインの傘が少女を吹き飛ばす。けれど、何事も無かったかのように少女は笑顔で向かってくる。
ウンザリしたウィスパーレインは静かな声でそう呟きながら、手にした傘をゆっくりと開いた。
周囲に細かな水滴が生まれ、それが空中へ浮かび上がる。それは無数の雫となり意思を持つかのように戦場全体へ降り注ぐ。そこにいる者たちの意識へ直接触れていった。
【囁く雨】
それは肉体を傷つけるための雨ではなく、触れた者の精神へと干渉するための雨だった。
聞こえるはずのない声を聞かせ、思い出したくもない記憶を呼び起こしたり、相手の欲望を刺激し望む未来の幻覚を見せる。
精神汚染耐性や対策のアイテムをもっていなければ、触れただけで勝敗が決してしまうような恐ろしい能力だ。
ところが──
「うふふふふっ! あああぁぁっ!! マァマァァァァアアッ!!」
イムは泣きながら笑っていた。
楽しそうに笑いながも涙を流し、意味の分からない言葉を叫び、肉切り包丁を振り回している。
その瞳は昏く……理性の光が存在していない。
ただ目の前にいるものを壊すという衝動だけが肥大化し、少女自身の身体を制御するものすら失われつつあった。
効いてはいる……しかし、効き方が違う。
精神を汚染された人間は恐怖や混乱を起こし狂喜し幻覚の世界へと閉じこもる。
しかし、イムの場合はもともと存在していた狂気そのものがさらに膨れ上がっているようだった。人間から生まれ変わったことで、少しだけ精神汚染耐性が付いていたが、本人も気付かない壊れかけていた心をさらに壊そうとした結果、残っていた最後の均衡まで崩れてしまった──そんな有様である。
「ママァ……どうしてぇぇ!」
その言葉と同時に、イムが突っ込んできた。
ウィスパーレインは傘を盾のように構え、その攻撃を受け流す。だが、すぐさま横から巨大な腕が迫り、今度はそれを避けるために大きく後退した。イム一人ならばともかく、母親まで戦闘へ加わっている以上、状況は完全な二対一である。
しかも二人とも囁く雨の精神汚染によって混乱し、まともな連携などしていないというのがかえって厄介だった。
互いの行動を予測して動くのではなく、それぞれが自分の思うままに暴れるているため、攻撃の起点が読めない。
そのときだった。
イムの身体が、不意に止まった。
「……え?」
小さな声が漏れた直後、少女の胸元が大きく弾けた。
何の前触れもなかった。そこに存在していたはずの肉体が、まるで最初からそこだけが存在していなかったかのように抉り取られ、胸部に大きな穴が開いていた。
遅れて、血が噴き出す。
「──がっ……!」
イムの口から大量の血が吐き出され、白い服を赤く染めた。
普通、胸に風穴があけば人間のみならず、魔物だろうと致命傷のはずである。
だが、イムは倒れない。
胸に開いた穴の周囲から肉が蠢き、失われたはずの組織が急速に生み出されていく。骨が伸び、筋肉が繋がり、皮膚が覆い直され、先ほどまで存在していた傷そのものがなかったことにされるかのように修復されていった。
「ママァ…….痛いよぉ……」
そして、瓦礫の向こうから、少女が一人、楽しそうに歩いてくる。
「ククククッ」
純白のドレスに大ぶりな機械羽、神々しい姿で歩いてくるのはラビリントスだった。
そして、その手に握られているのは、巨大な槍。細身の少女の身体には明らかに不釣り合いなそれを軽々と持ちながら、ラビリントスはまるで面白い玩具を見つけた子供のように笑っている。
「イムよ。なかなか面白い能力ではないか」
その視線の先にいるのは、胸の傷を完全に修復したイム。
「やはり一撃で死ぬとつまらぬからなぁ。これぐらいでなければ、戦い甲斐がないからの」
ラビリントスが笑みを深める。
胸を貫いたのは、理断槍ゲイ・アイファ。
つい先程、グラディアスのメンバーを一撃で葬り去った、理そのものを断ち貫いた結果だけをもたらす槍だった。
「さぁて……我を楽しませてみよ」
ラビリントスが槍を構えると、それに応じるようにイムが肉切り包丁を構える。
「どうして……どうして痛いことするのー!」
白い翼が大きく羽ばたいた瞬間、イムの身体が空へ舞い上がった。ラビリントスもまた背中の機械羽──マキナアリスを展開し、金属製の羽根が高速で回転する。甲高い駆動音とともに小さな身体が地面から離れ、二人の姿が崩れた家屋の上空へと移動していった。
その後を追うように、母親も動き出す。
巨大な身体が家屋へぶつかり、残っていた壁が耐えきれず崩れ落ちる。
戦いの余波だけで住居が次々と破壊されていく有様は、もはや二人の少女が争っているなどという規模ではなかった。
上空では、白い翼と機械仕掛けの翼が交差する。
イムが放った攻撃は、ラビリントスの前で見えない壁に阻まれた。神装イージスによって形成された防御膜は、少女の攻撃をことごとく弾き返していく。逆にラビリントスのゲイ・アイファがイムの身体を貫けば、その傷は【無垢なる遊戯】によって瞬く間に塞がっていった。
攻撃しても死なない。
攻撃されても届かない。
互いに決定打を欠いているように見えるが、実際にはそうではない。
イムの【無垢なる遊戯】は回復する能力ではない。体組織を操り穴の空いた部分を綺麗に結合しているだけだ。何度も肉体を吹き飛ばされれば次第に容量が少なくなっていく。
長期戦になればラビリントスの有利だろう。
「クククク、これが戦いというものか。やはり眺めるだけよりも面白いのぅ」
「アアアアアアァァァアアッ!!」
イムが叫び両手を広げた。
その瞬間、周囲の瓦礫の陰から、ぞろぞろと異形の者たちが姿を現し始めた。
天使を思わせる翼を持ちながら、その姿はどこか人間とはかけ離れているもの。人間の頭部を別の生物の身体へ繋ぎ合わせたもの。そして、何がどの生物から作られたのかすら判別できない肉塊。
それらが一体、また一体とイムの周囲へ集まってくる。
しかし、その光景を見てもラビリントスは笑っている。
「ほぅ……見た事ないモンスターばかりじゃな」
その頃、地上ではウィスパーレインとイムの母親の戦いも決着へ近づいていた。
巨大な身体を持つ母親は、その巨体そのものを武器に幾つもの腕で剣や槍を振り回して襲い掛かっていたが、ウィスパーレインは傘を巧みに使いながら攻撃の軌道を逸らすと、最後には頭部へと強烈な傘の一撃を加え地面へ押さえ込んだ。
「もう……大人しく……してください」
ウィスパーレインがイムとラビリントスを確認する為に空を仰ぐ──
ぽつり……
ウィスパーレインの頬に、一滴の雫が落ちた。
「……雨?」
そして、もう一滴。
ぽつ、ぽつ、と雫が増えていく。
ウィスパーレインの【囁く雨】はイムが凶暴化したのをみて解除している。
空から落ちてきたものは、光を吸い込むような黒色をしていた。
黒い雨──
それが地面を濡らし始めた瞬間、戦場にいた異形たちが次々と動きを止めた。
「……え?」
イムが首を傾げる。
身体が重い。雨粒が身体に浸透する度に自分の重さがどんどんと増えていくようなら感覚。
まるで全身へ鉛を流し込まれたかのように手足が動かなくなり、翼を羽ばたかせることすらできなくなる。周囲にいた眷属たちも同じだった。空を飛んでいた天使擬きが次々と高度を失い、地面へ墜落していく。
そして、ついにはイム自身も──
「なぁにこれ……?」
身体が傾いた。
羽ばたこうとしても翼が動かない。
そのまま地面へ落下し、地面に叩きつけられる。
黒い雨は、イムたちの身体に染み込むとどんどんとその重さを増やしていく。
そして、その雨の中を一人の少女が歩いてくる。
ラビリントスだった。
彼女は傘すら差さず、神装イージスの防御膜は黒い雨が身体に触れるのを防いでいた。
そして、倒れたイムの前まで歩いてくる。
その顔には、先ほどまでの戦闘を楽しんでいた笑みがまだ残っていた。
「姉様……」
ウィスパーレインの視線の先──
ラビリントスの後ろを付き従うように現れたのは、ウィスパーレインと同じようなクラシカルなメイド服に身を包んだ黒髪の少女だった。
「ラビリントス様の御前ですよ。もっとしっかりしなさい、愚妹」
淡々とした声だった。
「……主様」
ウィスパーレインは直立するとラビリントスを前に頭を下げる。
その一方で、地面へ倒れていたイムがゆっくりと顔を上げる。
囁く雨の効果が切れ、先ほどまで狂気に染まっていた瞳から、少しずつ狂気が薄れていった。
「あ……あれ?」
イムは周囲を見回すと、自分の前に立つ少女に気付く。
「……ラビ様?」
その声に、ラビリントスが目を細める。
「ようやく正気に戻ったか」
「あれ? わたし……」
イムはゆっくりと起き上がった。
そこには先ほどまでラビリントスへ向けていた敵意がない。狂気が抜け落ちたことで、ようやく目の前にいる存在を正しく認識できるようになったらしい。
ラビリントスは少し考えるように顎へ手を当てると、やがて楽しそうに笑った。
「イムよ。お主の造ったこのダンジョン、放っておけばいずれ冒険者どもに荒らされるじゃろう。そうすれば今までのように母親と一緒にいられなくなるかもしれぬぞ?」
「ママと?」
「我が迷宮の中ならば庇護してやれる。どうじゃ、来るか?」
イムは少しだけ考えると倒れた母親の方へと視線を向ける。
「ママと一緒?」
「うむ」
イムの表情がぱぁっと明るくなる。
「じゃあ、行くー!」
ラビリントスが手を広げた。
その瞬間、世界そのものが歪んだ──
濃い霧の立ち込めるスラム街の景色が波打ち、建物も地面も、そこに存在していた異形たちも、まるで巨大な何かに飲み込まれていくように輪郭を失っていく。
迷宮が口を開いた。
それは地下へ続く穴などではなく、空間そのものが別の場所へ接続され、現実と迷宮の境界が失われていくような、異常な侵食だった。
「さて、イムの迷宮に名を付けてやろう」
少女の口元が愉快そうに吊り上がる。
「そうじゃな……堕天歪穢胎夢宮としようかの」
その名が告げられた瞬間、スラム街そのものがラビリントスの迷宮へと取り込まれた。
そして、濃い霧が晴れたスラム街だった場所が悪夢のような夜を越え、朝日に照らされると……そこはただの広い空き地へと変わっていた。




