第27話 天使
ピチャリ、ピチャリ……
どこかで水音のようなものが聞こえていた。
一定の間隔で繰り返されるその音は、静かな部屋の中では妙に大きく感じられ、意識の底へ沈んでいたロッツを少しずつ現実へと引き戻していく。
「んっ……こ、ここは……?」
重たい瞼を持ち上げ、ロッツはぼんやりと天井を見上げた。
自分がどこにいるのか分からない。
最後に覚えているのは、あの天使擬きの大群に襲われたところまでだった。巨大な口を開け、鋭い牙を剥き出しにした化け物たちが一斉に襲い掛かってきたことまでは覚えている。しかし、その後に何があったのかについては、まるで頭の中から綺麗に抜け落ちていた。
身体を動かしてみる。
腕も、足も動く。
胸や腹にも、骨まで噛み砕かれたような激痛はない。
「生きて……いるのか……」
ロッツは安堵したように息を吐いた。
あれだけの数に襲われたのだ。自分の身体が無事だということの方が、むしろ不思議なくらいだった。少なくとも、あの鋭い牙で身体を食い千切られ、骨ごと喰われるようなことにはならなかったらしい。
だが、安心するのはまだ早かった。
「クソ……クッセェ、なんだこの匂い……」
鼻を突く生臭い匂いがする。
腐った肉のような臭いに、血の臭いまで混じっている。その臭いを嗅いだ瞬間、ロッツは反射的に眉をひそめた。
そして、その臭いに混じるようにして──どこからか笑い声が聞こえてきた。
「うふふふ、食べるの上手だねぇ。えへへ……美味しい?」
無邪気な子供の声だった。
その声音だけを聞けば、楽しそうに食事をしている子供の姿を想像してもおかしくない。しかし、今いる場所がどこなのか分からず、周囲には腐臭と血の臭いが漂っている。
ロッツは警戒しながら上体を起こす、どうやら自分は、民家の中らしい。
床には古びた板が敷かれているものの、ところどころ腐って穴が開きかけている。粗末な作りのテーブルと椅子が置かれ、その奥にはキッチンらしき空間まで見えた。生活のために使われていた家なのだろうが、長い間人が住んでいないのか、室内には薄汚れた埃が積もっている。
少なくとも、ダンジョンの通路で倒れていたわけではないらしい。
「誰か! 誰かいるのか?」
ロッツが声を張る。
すると、キッチンとの間に設けられた間仕切りの向こうから、ひょいと一人の少女が顔を覗かせた。
「あっ! 起きた?」
「……人か?」
思わずそんな言葉が口から漏れた。
ここへ来てからというもの、ロッツは人間の姿をした何か、あるいは人間の身体を材料にして作られた化け物ばかりを見てきた。だからこそ、間仕切りの向こうから顔だけを覗かせた少女を見た瞬間も、まず最初に頭へ浮かんだのは「また人頭の化け物ではないのか」という疑念だった。
しかし、どうやら違う。
少女の顔は美しく、肌にも不健康な色はない。こちらを見る瞳にも、これまで見てきた化け物たちに共通していた不気味な黒さや、苦痛に歪んだ表情は見当たらない。
普通の少女、そう思った。
だが──
ロッツは妙な違和感を覚えた。
(……やけにデカいな?)
少女は間仕切りの向こうから顔を覗かせているだけだ。それなのに、その頭の位置が妙に高い。
ロッツは自分の身長と少女の位置を比べるように視線を動かした。
おかしい。
どう考えても、自分より高い。
それも、少し高いという程度ではない。
天井までの距離を考えれば、あの少女は百八十センチ近くあるのではないか。
草原小人族であるロッツは、人間と比べれば当然ながら背が低い。それでも成人男性のプラートなら平均で百四十センチほどにはなる。ロッツ自身も同族の中では少し背が高い方で、百四十二センチある。
人間の成人女性なら百六十センチ程度が平均だろう。そう考えれば、自分より高いこと自体は何もおかしくない。
だが、目の前の少女はどう見ても成人していない。
むしろ十歳にも満たないように見える。
そんな幼い少女が、自分より三十センチ以上も高いというのは、どうにも奇妙だった。
「ちょっと待っててねー」
少女はそんなロッツの困惑など気にする様子もなく、そう言うとキッチンの奥へと戻っていった。
姿が見えなくなると再び室内に静けさが戻った。
そして──
ピチャリ……ピチャリ……
先ほどから聞こえていた音が、今度ははっきりと耳に入ってきた。
「何の音だ……?」
音は少女が消えていったキッチンの奥から聞こえている。
ロッツはしばらくその場で考えた。
このまま少女を待っているべきか。
それとも、周囲を確認するべきか。
結局、彼は後者を選んだ。
生きていることが分かったからといって、ここが安全だとは限らない。むしろ、今までの経験を考えれば、見知らぬ場所で無警戒に待ち続ける方が危険だった。
ロッツはゆっくりと立ち上がった。
足音を殺す。
ロッツは軽戦士としての力量も高いが、草原小人族らしく斥候としての技術にも長けている。身体が小さいということは、それだけで狭い場所を動きやすく、気配を消して移動することにも向いている。
今はその能力が役に立つ。
ロッツは物音を立てないよう注意しながら、少しずつキッチンへ近付いていった。
間仕切りの手前で立ち止まり、呼吸を整える。
何かがいる──臭いから分かる。
血の臭い、腐敗臭。そして…….獣の臭い。
ロッツは慎重に顔だけを出し、キッチンの中を覗き込んだ。
「……犬?」
少女の姿は見えなかった。
その代わり、キッチンの奥に一匹の犬がいた。
こちらには背を向けているため、細かな姿までは確認できない。ただ、床に置かれた餌皿へ顔を突っ込み、何かを食べているらしいことだけは分かった。
ピチャリ、ピチャリと音を立てて、餌皿を舐めている。
「ちっ……どうせ、人の顔なんだろ? 今更そんなんで驚くかって」
ロッツは自分に言い聞かせるように呟いた。
この場所で、普通の犬が餌を食べているなどと考える方が難しい。
今まで見てきた化け物を考えれば、あの犬の身体に人間の頭がくっついていても、もはや驚くことはないだろう。
そもそも、ここがどこなのかすら分かっていない。
腐敗した臭いの中に混じって漂ってくる血の臭いを、プラートの鋭敏な嗅覚ははっきりと感じ取っている。
つまり──ここもまだダンジョンの中である可能性が高い。
(生きていたからといって、まだ油断出来ないな……それに、ミコ、クロッグ、ナディアも探さないとな)
ロッツは仲間のことを思い出した。
あの襲撃で、皆がどうなったのか分からない。
自分だけが生き残ったのか、それとも他の三人もどこかで生きているのか。
確かめなければならない。
そう考えたロッツは、犬の横を通り抜けるようにしてキッチンの奥へ進んだ。
ピチャリ、ピチャリ。
犬は夢中になって餌皿を舐め続けている。
ロッツはその横を通り過ぎる際、ちらりと犬へ視線を向けた。
どうせ人間の顔が付いているのだろう。
どれほど醜悪な姿だったとしても、もう驚かない。
そう思っていた、だが──
「……なっ!?」
その姿を目にした瞬間、ロッツの身体が硬直した。
そこにあったのは、見慣れた顔だった。
長いオレンジ色の髪。
普段なら編み込んで下ろしているはずの髪は、今では解かれ、乱れたまま肩から垂れ下がっている。
そして、その頭の上にある猫耳。
いつもなら感情に合わせてピコピコと忙しなく動いていた耳は、今では力なく垂れ下がっていた。
「ミ……ミコ……?」
ロッツの声が震えた。
その声に反応したのか、垂れ下がっていた猫耳がピクリと動いた。
そして、犬の身体に付いた頭がゆっくりとこちらを向く。
その顔を見た瞬間、ロッツは息を呑んだ。
深く昏い眼窩。
そこから黒い液体が涙のように流れ落ちている。
かつては明るく笑っていた顔が、今では生気を失い、まるで死者のような表情を浮かべていた。
「……にゃ……ぁ……」
「ッ!! オ、オェッ!!」
ロッツは口元を押さえた。
耐えられなかった。
これまで何体もの化け物を見てきた。
人間の頭を牛の身体に繋ぎ合わせたもの。
人間の身体に異形の生物を繋ぎ合わせたもの。
何のために作られたのかすら分からない、悍ましい姿の怪物たち。
それらを見たときも、確かに気分が悪くなった。
それでも、何とか耐えることが出来ていた。
所詮は自分とは何の関係もない、知らない誰かの顔だったからだ。
だが、違う──これは……違う。
犬の身体に付けられているのは、紛れもなくミコの頭だった。
少し生意気で、よく喋り、いつも元気に動き回っていた猫獣人の軽戦士。
それが今は、こんな姿に変えられている。
「ゴホッ! ゲホッ! オエェェッ……」
胃の奥から込み上げてくるものを抑えきれず、ロッツはその場に膝をついた。
胃酸が逆流し喉が焼けるように熱い。
涙まで滲んできた。
それでも、ミコから目を逸らすことが出来なかった。
いや──逸らしてはいけないような気がした。
「大丈夫?」
「ッ!?」
突然、すぐ近くから声をかけられロッツの心臓が跳ね上がる。
慌てて顔を上げ、周囲を見回す。
だが、誰もいない──
「どうしたの?」
今度は、頭上から声が聞こえた。
「……え?」
ロッツはゆっくりと顔を上げた。
そして──言葉を失った。
天井近く。
そこに白髪の少女が浮かんでいた。
先ほどキッチンから顔を覗かせていた少女だ。
少女の背中から伸びた四枚の純白の羽が生えており、ゆっくりと動いている。
その羽ばたきによってなのか、少女の身体は重量を無視して宙へ浮かび、天井近くをふわふわと漂っていた。
「…………て、天使?」
ロッツの口から、呆然とした声が漏れた。
つい先ほどまで、彼は天使擬きの大群に襲われていた。
あの化け物たちは天使のような白い羽を持ちながらも、その実態は見る者の本能的な嫌悪感を刺激する悍ましい怪物だった。
だが、目の前にいる存在は違う。
醜悪な天使擬きとは似ても似つかない。
まるで、人々が神話の中で語る本物の天使そのものだった──




