第26話 グラディアス 2
「急げ!!」
【グラディアス】の五人は、来た道を引き返していた。
先頭を走るガイアスは何度も背後を確認しながら、それでも足を止めようとはしなかった。白金級冒険者である彼らにとって、撤退そのものは決して恥ずべき行為ではない。むしろ自分たちの実力では対処できない相手を前にして生き残るためには、退くという判断こそが重要になる。これまで幾度となく危険な依頼を経験してきた彼らだからこそ、そのことは誰よりも理解していたし、だからこそガイアスが撤退を口にした瞬間、誰一人として異論を挟まずに走り出したのだ。
だが――しばらく走ったところで、ガイアスは胸の奥に引っかかるものを覚えた。
出口が見えない。
最初は単純に、自分たちが思っていたよりも距離があっただけだと思った。スラム街が変質して出来た迷宮は、これまで確認されていた地形とは明らかに構造が違っている。そもそも、元からして違法に増改築された建物が建ち並び、迷宮のような様相のスラム街だったのだから、出口まで多少の距離があったとしても不思議ではない。
しかし、妙だった。
ガイアスは走りながら、周囲の壁へ視線を向ける。
さっきまで確かに直線だったはずの通路に、曲がり角が出来ている。
それだけではない。
見覚えのある廃屋があった。
いや、正確には「見覚えがあるような気がする」だけなのかもしれない。迷宮内に同じような建物がいくつも存在している可能性もある。しかし、あの崩れかけた屋根も、半ば朽ちた扉も、その横に転がっていた瓦礫の位置まで、どこか記憶に引っかかった。
「……待て」
ガイアスが足を緩める。
後ろを走っていた四人も、すぐにそれに気付いて速度を落とした。
「どうした、ガイアス?」
「……おかしい」
ガイアスは周囲を見回した。
自分たちは、確かに出口へ向かって走っていたはずだ。最初に通った道をそのまま引き返しているつもりだった。ところが、記憶にある道と現在目の前にある道が一致していない。
直線だった場所が曲がっている。
存在しなかった道が増えている。
そして何よりも――
「この道……さっきも通ってねぇか?」
その言葉に、四人の表情が変わった。
誰もすぐには答えなかった。
ガイアス自身も、自分の考えを口にしたくはなかった。そんなことがあるはずがないと思いたかったのだ。
迷宮とはいえ、道が存在する以上、進めばどこかへ辿り着く。少なくとも普通の迷宮ならばそうだ。道を間違えたのであれば、別の道へ戻ればいい。分岐を見落としたのであれば、そこまで引き返せばいい。
だが、この場所では、その当たり前が通用していない。
「……どこかで道を間違えたのかもしれねぇ」
ガイアスはそう呟いた。
しかし、その声には自分自身を納得させるような響きがあった。
五人は再び走り始めた。
今度は先ほど以上に周囲へ注意を払いながら進む。分岐があれば記憶し、曲がった方向も確認する。何度も振り返り、自分たちがどこを通ったのかを頭の中に刻みつける。
それでも――出口は見えなかった。
そして、そんな焦燥が少しずつ恐怖へと変わり始めた頃だった。
遠くの通路の先、少し開けた広場に人影が見えた。
「……人?」
誰かが呟いた。
遠くに立っているのは、一人の少女だった。
黒い帽子に黒いドレス、白い肌……
先ほど見た少女と、何一つ変わらない。
少女は動いていないように見えた。
こちらを追ってきた様子もない。ただ、そこに立っている。
その姿を見た瞬間、ガイアスの背中に冷たいものが走った。
「……嘘だろ」
誰かが掠れた声を漏らす。
少女が先回りしたわけではない、自分たちが戻ってきてしまったのだ……
「ちっ! また戻るぞ!」
ガイアスが叫ぶと、五人は少女から逃げるように踵を返した。
理屈の上では、同じ方向へ続けて曲がらなければ、元の場所へ戻ることはないはずだった。
だから今度は、それを意識する。
右へ曲がる。
その次は左。
そして真っ直ぐ進む。
それほど大きなカーブを描いたわけでもない。自分たちがどちらへ進んだのかも把握している。少なくとも、先ほどのように無意識のうちに同じ場所へ戻るようなことはないはずだった。
だからこそ――次の角を曲がった瞬間、五人は言葉を失った。
そこに少女が立っていた……先ほどと同じ場所に。
広場にあった廃屋、崩れた壁……地面の泥濘み、そして……その前に転がっているクダンの死体。
先回りされたのではない、追いつかれたのでもない。転移のトラップを踏んだ訳でもない……
戻ってきている──
「……なんなんだよ、これ」
誰かの声が震えた。
ガイアスも答えられなかった。
ダンジョンそのものが道を…….構造を変え、自分達を逃がさないようにしている。
そう考えるしかない。しかし、そんなことが可能なのかという疑問に答えを出せる者など、この場にはいなかった。
そして、理解できないものを前にした人間は、必ずしも冷静でいられるわけではない。
「ああああ!!」
恐怖に押し潰されたような叫び声が響いた。
シラルドだった。
彼は反射的にクロスボウを少女へ向けると、ほとんど狙いを定めることもなく引き金を引いた。
直後、矢が飛んだ。
ガッ、と重い音が響く。
矢は少女の左目の上あたりへ深々と突き刺さった。
半分ほどが額へ埋まり、普通の人間ならばまず間違いなく致命傷となるほどの傷だった。
少女の身体が大きくよろめく。
だが――少女は倒れなかった。
ゆっくりと身体を起こすと、額から流れ落ちた赤い血をそのままにして、少女はシラルドを見た。
その黒い瞳には怒りも苦痛もない。
ただ、不思議そうな色だけが浮かんでいた。
「ふむ。エリゼに言われ痛覚を戻してみたが……これが痛みというものか」
まるで自分の身体に矢が突き刺さっていることなど、どうでもいいとでもいうように少女は呟いた。
そして、歩き出す。少女は五人へ向かって、ゆっくりと近付いてくる。
額から生えた矢が、歩くたびに僅かに揺れていた。
「ちぃっ! コイツだ! コイツが化け物どものボスに違いねぇ!! 逃げるぞ!」
ガイアスが叫んだ。
五人は再び走り出した。
もはや先ほどまでの慎重さはない。ただ少しでも少女から離れようと、来た道を必死に戻っていく。
しかし――
次の曲がり角から少女が姿を現す。
額から矢を生やしたまま。
「なっ……なんなんだよ! なんなんだよコイツはっ!!」
シラルドが叫ぶ。
その声には怒りよりも恐怖が滲んでいた。
その問いとも言えぬ叫びに少女は妖艶な笑みを浮かべる。
「我か? クククッ、我が……我こそが原初の迷宮ラビリントス。故に迷宮を造り変える事など造作も無し」
その言葉の意味を、ガイアスはすぐには理解できなかった。
原初の迷宮?
それが何を意味するのかは分からない。
だが、少なくとも一つだけ理解できることがあった。
この少女こそが現在、自分達を襲っている異変の元凶なのだと。
ならば、逃げ道など存在しない。
ラビリントスは一歩ずつ距離を詰めてくる。
その動きに急ぐ様子はなかった。五人がどれほど必死になって逃げようと、どうせ逃げ切れないと理解している者の歩き方だった。
やがて少女は自分の額へ手を伸ばす。
そして、刺さっていた矢を何の躊躇もなく引き抜いた。
傷口から赤い血が流れ落ち、白い肌を汚していく。
それでも少女の表情は変わらない。
「この少女の身体はそこらにいる人間の小娘と同様、いやそれよりも脆いかもしれぬ。しかしな……憑依するまで考えもつかなかったのだが……ふと、気付いたのだ。この脆弱な身体でも我が宝物庫に眠るアーティファクトを纏えば……それなりに戦えるのではないか、とな」
ガイアス達は少女の放つ見えない圧に押されるように、ジリジリと後退していった。
武器を構えている。
それなのに、攻撃するという判断が出来ない。
目の前にいるのは、どう見ても小さな少女だ。身体だけを見れば、自分たちが一撃で吹き飛ばせる程度の脆弱な存在にしか見えない。
だが、先ほど頭へ矢を受けても倒れなかった。
ドンッと1番後ろにいた重戦士の背中が何かに当たる。
「な、何だ!? 壁?」
後ろへ下がっていた一人が叫んだ。
「バカな! 来た道が無くなってる!?」
ガイアスが振り返る。
先ほどまで確かに存在していた通路が消えていた。
そこにあるのは壁だった。
まるで最初から道など存在していなかったかのように、石造りの壁が行く手を塞いでいる。
「なっ!?」
ガイアスが再び少女へ視線を戻す。
そして、その瞬間――その瞳が大きく見開かれた。
いつの間に変わったのか、少女が身に纏っていた黒い帽子と黒いドレスは消えていた。
代わりにそこにあったのは、神々しい光を放つ純白のドレスだった。
額には碧い宝石の嵌め込まれたサークレットが輝き、その背中からは金属製の羽が伸びている。それは単なる装飾品ではなく、金属の歯車が規則的に動いている。機械仕掛けの翼でありながら、生き物の羽ばたきにも似た動きを見せていた。
そして少女の手には、一本の槍が握られている。
ただの槍ではない。
そこに存在するだけで、周囲の空気そのものが変質したように感じられるほどの異質な武器だった。
「神装イージス、叡智のサークレット、マキナアリス、理断槍ゲイ・アイファ。今回はこの辺を使ってみようかの……」
どれも神話の時代に存在したアーティファクトである。現在では伝承さえ残っていないものばかりであるが、今の時代にそれらと比肩できる装備など存在しない。
「くそぅ! 逃げ道がねぇんならやるしかねぇー!」
仲間の一人が叫んだ。
「行くぞぉ!」
追い詰められた【グラディアス】は、ついに全員でラビリントスへと向かっていった。
考えている余裕などなかった。
生き残るためには、目の前の少女を倒すしかない。
重いメイスが振り下ろされる。
別の戦士が魔法のブロードソードを横薙ぎに振るう。
ククリナイフが弧を描いて飛び、その間隙を縫うように鋭い槍の突きが放たれる。
白金級冒険者五人による、同時攻撃。
どれも一撃必殺を狙えるだけの威力を持っていた。
しかし――。
そのすべてが、少女へ触れることすらなかった。
見えない壁にメイスが弾かれる。
剣が弾かれる。
飛来したククリが軌道を逸らされ、槍の穂先もまた少女の身体へ届く前に何かに防がれた。
「化け物め…………」
そして――
「ゲイ・アイファよ理を断ち敵を滅せよ!」
少女が、槍を振るった。
その動きは、驚くほど何気ないものだった。
大振りでもなければ、力を込めているようにも見えない。
ガイアス達には、その槍の軌道がはっきりと見えていた。
遅い、避けられる……むしろ回避行動を取る必要すらない。そんな攻撃が当たるはずがない。
そう思った──
「がはっ!?」
「ぐっ……!」
次の瞬間、ガイアスの胸から血が噴き出した。
「何が……?」
何が起きたのか理解できなかった。槍は届いていなかった筈だ。少なくとも、目で見た限りではそうだった。
それなのに、自分の身体には確かに槍で貫かれた傷が存在している。
回避したはずなのに……
当たっていないはずなのに……
理を断ち、結果だけが残る。
その言葉が意味するものを、彼らは理解することすら出来なかった。
ただ、「ゲイ・アイファに貫かれた」という結果だけが、すでに現実として成立していた。
次々と身体から力が抜け、武器が手から落ちる。
膝が崩れ、仲間の身体へもたれかかるようにして、白金級冒険者たちが床へ倒れていった。
「ふむ。まさかお主ら即死対策もしておらんのか? 神代の英雄ならばこれくらいでは死なぬぞ?」
神や悪魔が人類と共存していた時代ならいざ知らず、現代では即死を防ぐ装備やアイテムなどかなりの希少品だった。
少女は、積み重なるようにして倒れた冒険者たちを見下ろした。
「本当にもう終わりなのか?」
その声音には戸惑いが含まれ、期待外れだったとでもいうような、つまらなそうな響きだけがあった。
こうして――
実に呆気なく、白金級パーティ【グラディアス】は壊滅した。




