第22話 レースガーデンと迷宮
羽音が聞こえた。
最初は一度だけだった。バサ……バサ……と、何か大きな鳥が翼を動かしているような音が、頭上から降ってくる。しかし、こんな場所で鳥が飛んでいること自体がおかしい。ロッツは反射的に足を止め、ショートソードへ手を添えながら上を見上げた。
白い羽根が、一枚。
薄暗い空からゆっくりと舞い落ち、それがナディアの足元へ触れる。
「……羽?」
ナディアが小さく呟いた。
その直後だった。
バサバサバサッ、と先ほどとは比べものにならないほど大きな羽音が響き渡り、建物の陰から何かが飛び出してきた。
それを見た瞬間、ロッツは言葉を失った。
人間の顔。
それが、四本足の獣の身体に乗っていた。
身体の大きさと蹄の形を見る限り、ヤギか羊の類なのだろう。だが、そんな分類に意味があるとは到底思えなかった。毛皮の生えた四足の身体から伸びた首の先にあるのは、確かに人間の頭部だったからだ。
しかも、その顔は苦痛に歪んでいる。
両目があるはずの眼窩は何かに抉り取られたかのようにぽっかりと黒い穴を開け、そこからは血とも何ともつかない黒い液体が涙のように頬を伝っていた。耳まで裂けた口からは鋭い牙が覗き、その口が開くたびに、言葉とも鳴き声ともつかない耳障りな叫び声が吐き出される。
そして何よりも異様だったのが、その背中に生えている純白の翼だった。
四本足の獣。
人間の顔。
純白の翼。
その三つが一つの生物として組み合わされていること自体が、自然界の理から外れているように思えた。
「こ、これが……天使か?」
ロッツの口から、ようやく言葉が漏れる。
「天使と言うより……悪魔ですね」
クロッグが低い声で答えた。
「オ、オエェ……」
ミコは返事をする余裕すらなかった。
猫耳をぺたりと伏せ、長い尻尾を足の間へ巻き込むようにして四つん這いになる。顔色は見るからに悪く、今にも胃の中のものを吐き出しそうに口元を押さえていた。
「ミコ、大丈夫?」
ナディアが慌てて背中を擦る。
「気持ち悪いにゃ……なんか、見てるだけで気持ち悪くなるにゃ……」
「無理しないで。ここは私たちが──」
ナディアが言いかけたところで、再び羽音が響いた。
一つではない。
二つ、三つ。
そして、それは瞬く間に数を増やしていった。
バサバサバサバサバサ──
薄暗い空の向こうから、白い翼が次々と姿を現す。
「……おいおい」
ロッツは思わず後退した。
先ほどの一体だけでも十分に悍ましかった。それが今度は一体、二体どころではない。建物の屋根や路地の奥から、まるで何かに呼び寄せられたかのように次々と集まってくる。
最初に現れたものを含め、全部で六体。
「これのどこが天使だってんだよ……」
思わず吐き捨てるように呟いたロッツに応えるように、天使擬きの一体が大きく口を開いた。
ギャアアアアアッ!
金属を擦り合わせたような不快な声が響く。
だが、ロッツの視線はその口ではなく、六体の顔へと向けられていた。
男。女。子供。老人。
それぞれ違う顔をしている。
共通しているのは、その全てが苦悶に歪んでいることだった。
「……こんなの」
ナディアの顔から血の気が引いていく。
「こんなの……生命に対する冒涜だわ」
魔術師として多くの魔物を見てきたナディアですら、その姿には嫌悪を隠せなかった。
そして、天使擬きの一体が翼を大きく広げた。
「来るぞ!」
ロッツが叫ぶ。
翼が一度、大きく羽ばたいた。
次の瞬間、天使擬きが弾丸のような勢いで飛び込んでくる。
「クロッグ!」
「はいっ!」
クロッグが即座に前へ出た。
首元から脛までを覆うほど巨大なタワーシールドを構え、仲間たちとの間に身体を滑り込ませる。分厚い金属板を何枚も重ねた盾は、普通の魔物の突進程度なら真正面から受け止めてもびくともしない。
直後、凄まじい衝撃が盾を襲った。
ガァンッ!
「ぐっ……!」
クロッグの巨体が半歩後ろへ押し込まれる。
それでも盾を手放すことはない。
天使擬きは盾に取りつくと、まるで獲物に噛みつく獣のように大口を開いた。
ガリッ。
金属を爪で引っ掻くような音がする。
「……コイツ、何を?」
クロッグが怪訝そうに盾を見る。
天使擬きはタワーシールドを齧っていた。
まるで骨でも食べるかのように、分厚い金属製の盾へ牙を突き立てている。
「馬鹿な……」
ロッツも目を疑った。
こんなことができる魔物はそう多くない。そもそも金属を噛み砕くには、それだけの顎の力が必要になる。
そして──
ギギギギギィィッ!
金属が悲鳴を上げた。
「なっ……!」
盾の表面が、牙の形にへこんでいる。
「なんて力だっ!」
クロッグが驚愕の声を上げる。
ロッツは考えるより先に身体を動かしていた。ショートソードを抜き放ち、盾へ食らいついている天使擬きの横腹へ斬りつける。
ザシュッ!
刃が肉へ食い込んだ。
天使擬きが苦悶の声を上げて身をよじり、その隙にようやく盾から牙が離れる。
「襲ってこねぇって話じゃなかったのかよ!」
ロッツは自警団の生存者から聞かされた話を思い出しながら叫んだ。
ここの魔物は冒険者を襲わない。
ただ徘徊しているだけで、攻撃を受けても怯えるだけ。
それが事前に得られた情報だった。
だが、今、目の前にいる化け物は明確な殺意を持って自分たちへ襲いかかっている。
「こんな奴に噛みつかれたら、ひとたまりもねぇぞ!」
「ロッツさん!」
クロッグの声に振り返る。
「他の奴らも来ます!」
見れば、残りの五体が一斉に翼を広げていた。
六つの口が同時に開く。
その光景を見た瞬間、ロッツは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「ちっ!」
次の瞬間、周囲が一気に赤く染まった。
「──爆火球!」
ナディアの放った炎の塊が、天使擬きたちの中央で炸裂した。
轟音とともに炎が膨れ上がり、周囲へ熱風を撒き散らす。さらに爆発によって巻き上げられた粉塵が路地を覆い、視界を完全に奪っていく。
派手な見た目の割に威力は大した魔法ではない。
ナディア自身、目の前の化け物を倒せるとは考えてはいないが、目的は別だ。
逃げるための時間を作ること。
「今よ! 逃げて!」
ロッツたちは一斉に踵を返した。
だが──煙幕の向こうから純白の翼が姿を現した。
「なっ……!」
爆炎をまともに受けたはずの天使擬きが、ほとんど傷ついた様子もなく煙の中から飛び出してくる。
そのまま真っ直ぐ向かった先には、ナディアがいた。
「ナディア!」
ロッツが叫ぶ。
しかし、ナディア自身も気づいていた。逃げるには遅い。そして次の瞬間──
「貫通力強化──筋力強化──突進力強化!」
横から一つの影が飛び込んだ。
ミコだった。
さっきまで吐きそうなほど顔を青ざめさせていた少女が、今度は自ら天使擬きへ向かって突っ込んでいく。
両手で握ったエストックが一直線に伸び、その切っ先が天使擬きの眼窩へと吸い込まれた。
ズブッ!
黒い涙を流していた眼窩の奥深くへ、黒い三角錐の刀身が突き刺さる。
天使擬きが甲高い悲鳴を上げた。
ミコが使うエストックは、一般的な刺突剣とは少しばかり性質が違う。無骨な黒い三角錐の刀身は、斬ることを捨てて貫くことだけを追求したような形状をしている。そのうえ武器そのものに【不壊】の魔法が付与されているため、多少乱暴に扱ったところで折れることはない。
そしてミコ自身は軽戦士でありながら多少の付与魔法を使う事が出来た。自身の魔法による強化を最大限まで施せば、薄い金属鎧程度なら正面から貫くことさえできる。
「にゃぁ……」
ミコは怯えるように猫耳をぺたんと伏せ、身体はふらついている。
眼窩から後頭部まで貫かれた天使擬きはミコの足元で動かなくなっていた。
「ミコ!」
ナディアが駆け寄る。
その顔を見て、ナディアは息を呑んだ。
先ほどまでとは明らかに様子が違う。
ミコは自分の身体を支えるようにエストックへ体重を預け、肩で荒く息をしている。だが、それ以上におかしいのは、その両目だった。
「ミコ……?」
「ナディア……」
ミコはゆっくりと顔を上げた。
「ミコは、もうダメっぽいにゃ……」
「何言ってるの! 一緒に逃げるわよ!」
「駄目にゃ」
ミコが首を振る。
「ここはミコが抑えるから……ナディアたちは先に逃げるにゃ」
「そんなことできるわけ──」
ナディアは言葉を失った。覗き込んだミコの頬を、黒い液体が伝っていた。
「……それ」
両目から、黒い涙が流れている。
ミコはそのことを気にする様子もなく、ただ困ったように笑った。
「ここ、なんかヤバいにゃぁ……」
「ミコ?」
「ずっと聞こえるにゃ」
ナディアに聞こえるのは不快な羽音と、自分たちの荒い呼吸、それから遠くで何かが崩れる音くらいだ。
だが、人間より遥かに優れた聴覚を持つ猫人族のミコには、別の何かが聞こえているらしい。
「ずっと……ずっと、気持ち悪い音がするにゃ」
その言葉を聞いた瞬間、ナディアの脳裏に自警団の生存者から聞かされた話が蘇った。
曰く──長くいると、気が触れる者が出る。
最初はただの噂だと思っていた。
このダンジョンの異様な魔物を見れば精神的に参ってしまう者がいても不思議ではない。そういう意味での「気が触れる」なのだろうと。
だが、違うのかもしれない……ミコにしか聞こえない様な遠い場所で人間の精神を壊してしまうような……何か、があるのかもしれない──
「ちぃっ! 逃げるぞ! 早く!」
考えている時間はない。しかし──
「待って! ……ミコが!」
ミコは足を動かせていない。
それどころか、その場に立っていることさえ難しそうだった。
「アイツ何やってんだ!」
ロッツは一瞬だけ苛立ったように怒鳴った。だが、すぐに自分の判断を修正する。
ミコを置いていくわけにはいかない。
「クロッグ!」
「はい!」
「ナディアを連れて先に行け!」
「ですが──」
「ミコは俺が連れていく!」
ロッツがミコのもとへ戻ろうと踵を返した、その時だった。頭上から聞こえてきた羽音に気付き、何気なく空を見上げた彼の表情が凍りつく。
建物の屋根の向こうから、白い翼が次々と姿を現していた。最初に見えた一匹だけではない。路地の奥からも、そのさらに向こうからも、まるで何かに呼び寄せられるように天使擬きが集まってくる。純白の翼が薄暗い空を覆い、その下では人間の顔を持った異形たちが、黒い涙を流しながらこちらを見下ろしていた。
男も、女も、子供も、老人もいる。そのどれもが苦悶に顔を歪め、眼窩には眼球の代わりに底の見えない暗闇が広がっている。そして一匹が大きく口を開くと、それに呼応するように周囲の天使擬きたちも一斉に牙の並んだ口を開いた。
次の瞬間、凄まじい絶叫がダンジョン中に響き渡った。何十もの喉から発せられた声が重なり合い、耳を塞いでも防ぎようがないほどの音圧となって押し寄せてくる。
「……は?」
ロッツは呆然と空を見上げたまま、間の抜けた声を漏らした。
先ほどまで六匹だった。それだけでも十分に異常だったというのに、今や視界に収まらないほどの数が集まっている。逃げ道を塞ぐように路地へ降りてくる天使擬きたちを前にして、ロッツはようやく理解した。
これは戦う相手ではない。
逃げなければならない。
「無理だろ、こんなの……」
呟いた直後、ロッツは仲間たちへ向かって叫んだ。
「逃げろぉおおおおおっ!」
その声さえも、押し寄せる羽音と絶叫に呑み込まれていった。
白い影に視界が埋め尽くされる。
何体いるのかすら分からない。
「ぐあぁぁぁあああっ!」
「ひぃぃぃっ! やめっ──!」
「た、助け──!」
仲間たちの悲鳴が上がる。それすらも、無数の羽音と絶望の中へ呑み込まれていった──




