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第7話 角兎討伐

 翌朝、宿屋《跳ね鹿亭》の食堂には、焼きたてのパンと温かなスープの香りが漂っていた。


 窓から差し込む朝日が木製の卓を明るく照らし、厨房からは食器の触れ合う音と、メルが母親に何かを話しているらしい楽しげな声が聞こえてくる。俺は朝食を済ませると、空になった皿を重ね、椅子の背に掛けていた上着を手に取った。


「アルク、今日はもう出かけるの?」


 声のした方を振り向くと、厨房から出てきたメルが、腰に手を当ててこちらを見ていた。


 後ろで一つに結んだ亜麻色の髪が、歩くたびに肩のあたりで軽やかに揺れている。白いブラウスの上からエプロンを締めた姿はいつもどおりだったが、忙しく立ち働いていたせいか、頬にはほんのり赤みが差していた。


「ああ。今日は角兎の討伐依頼を受けようと思ってるんだ」


「角兎? じゃあ、東の草原まで行くんだね」


「たぶん、そうなると思う」


 俺が答えると、メルは少し考えるように視線を上げ、それから何かを思いついたように手を打った。


「だったら、ちょっと待ってて!」


 返事をする間もなく厨房へ引き返してしまったので、俺は上着を羽織りながら、何事だろうと首を傾げた。


 しばらくすると、メルが生成りの布に包まれた小さな包みを手に戻ってきた。


「はい、これ。お昼ごはん!」


「えっ、俺に?」


「他に誰がいるのよ。草原まで行くなら、お昼には帰ってこられないかもしれないでしょ?」


 メルは呆れたように笑いながら、包みを俺の手へ押しつけた。


 受け取ると、布越しにパンの形が分かる。焼きたてほどではないものの、まだほんのり温かさが残っていて、香ばしい小麦の匂いが漂ってきた。


「黒パンと干し肉を入れておいたから、途中で食べてね。水は持ってる?」


「ああ、水筒はあるよ。でも、わざわざ用意してくれたのか?」


「ちょうど厨房にあったからね。それに、朝ごはんを食べたからって、お昼まで何も食べずに歩き回るつもりだったんじゃない?」


「……少し、考えてなかったかもしれない」


「もう、アルクったら」


 メルは肩をすくめたが、その表情はどこか楽しそうだった。


 そして、俺が包みを鞄へしまおうとすると、彼女はふと思い出したように身を乗り出した。


「あ、そうそう。パンの下に、干し果物も一つ入れてあるからね」


「干し果物?」


「うん。歩き疲れた時に食べると、甘くて元気が出るんだよ。あたしも忙しい時、よくつまんでるの」


 そう言って笑うメルの顔が、思いのほか近くにあった。


 エプロンの胸元を押し上げる豊かな膨らみが、前屈みになった拍子にわずかに揺れ、俺は思わず視線を逸らした。厨房から漂う焼きたてのパンの匂いに混じって、彼女の髪から石鹸のような柔らかな香りが感じられ、なぜだか頬が熱くなる。


「……ありがとう。大事に食べるよ」


「ふふっ、そんなに改まらなくてもいいのに」


 メルは俺の様子を不思議そうに眺めていたが、すぐにいつもの明るい笑顔へ戻った。


「それより、ちゃんと帰ってきてよね。せっかく直した上着、またボロボロにしてきたら怒るから!」


 そう言って、彼女は俺の左袖を指先で軽くつまんだ。


 先日、グレイウルフとの戦いで破れてしまった場所には、今では丁寧な縫い目が残っている。


 昨日返してもらったばかりの上着を見下ろすと、メルが時間をかけて直してくれたことが改めて感じられた。


「気をつけるよ。せっかく直してもらったんだから」


「うん。それならよし!」


 満足そうに頷いたメルは、俺の袖から手を離すと、軽く背中を押した。


「ほら、行ってらっしゃい! 今日は天気もよさそうだし、頑張ってきてね!」


「ああ。行ってくる」


 俺は昼食の包みを鞄へしまい、メルに手を振って宿を出た。


 朝の空気はまだ少し冷たかったが、東の空には明るい陽光が広がっていた。石畳の道を歩きながら、肩に掛けた鞄へ何気なく手を添えると、布に包まれた昼食の感触が指先へ伝わってくる。


 王宮を出てから、まだそれほど長い時間が経ったわけではない。


 けれど、こうして誰かに見送られ、帰る場所があることを、以前よりも少しだけ嬉しく感じるようになっていた。


 俺は朝の光が差し込む通りを抜け、冒険者ギルドへ向かった。


     ◇


 冒険者ギルドは、朝から大勢の冒険者たちで賑わっていた。


 大きな扉を押して中へ入ると、酒場の厨房から漂ってくる焼いた肉と黒パンの香ばしい匂いに、革鎧の油や濡れた外套の匂いが混じって鼻をくすぐった。壁際の掲示板には新しい依頼書が何枚も張り出され、その前では武器を帯びた冒険者たちが報酬や危険度を見比べながら、今日の仕事について声を交わしている。


 初めてここを訪れた時には、その騒がしさに少し圧倒されたものだが、今では腰に下げたF級の木札が歩くたびに揺れる感触にも、掲示板の前で依頼を探す時間にも、少しずつ馴染んできていた。


 まだ顔見知りと呼べる冒険者はほとんどいないものの、少なくとも、自分が場違いな場所へ紛れ込んでいるような感覚は薄れつつある。


 俺は人の流れが途切れたところで掲示板へ近づき、目の高さに張られていた一枚の依頼書へ視線を留めた。


 《角兎討伐》。


 討伐対象は三体。


 推奨ランクはF級で、報酬は銀貨二枚。


 討伐した角兎の角と魔石については、別途買い取りがあるらしい。


 角兎は、額に一本の鋭い角を持つ小型の魔物だ。草原に生息し、危険を感じると逃げることも多いが、追い詰められれば発達した後脚を使って突進してくる。


 身体は小さくても、その角をまともに受ければ大怪我につながることがあるという。


 昨日、ギルドの図鑑で特徴を調べておいた。


 グレイウルフほどの危険はないとはいえ、油断してよい相手ではない。


 それでも、剣術だけであれば十分に対応できると思うし、冒険者として魔物との戦いを経験するには、ちょうどよい依頼に思えた。


 それに、ここ数日、共同訓練場で練習してきた闇魔法が、実戦でどこまで役に立つのかも気になっている。


 もちろん、魔法の練習を優先して危険を冒すつもりはない。


 依頼を達成することが第一で、試す余裕がなければ剣だけで戦えばいい。


 そう決めてから依頼書を剥がし、俺は中央の受付へ向かった。


     ◇


 窓口では、今日もエレナが書類を整理していた。


 後ろでまとめた栗色の髪が窓から差し込む朝の光を受けて柔らかく輝き、銀縁の眼鏡の奥では蜂蜜色の瞳が忙しなく書類を追っている。白いブラウスに濃紺のベストという見慣れた服装も、彼女が身につけているとどこか上品に感じられ、何枚もの依頼票を手際よく揃える細い指先には、普段の柔らかな雰囲気とは違う仕事慣れした確かさがあった。


 俺が窓口の前へ立つと、エレナは書類を重ね終えてから顔を上げた。


「あ、おはようございます、アルクさん」


「おはようございます。今日は、この依頼を受けようと思って」


 差し出した依頼書へ目を落としたエレナは、内容を確認すると小さく頷いた。


「角兎討伐ですね。東門の先に広がる草原が主な生息地ですが、場所は調べてありますか?」


「はい。昨日、図鑑で確認しました」


「ふふっ、準備がいいですね」


 感心したように微笑んだエレナは、受付印を手に取ったところで、ふと何かを思い出したらしく、こちらへ視線を戻した。


「そういえば、アルクさん。昨日も共同訓練場へ行っていたそうですね」


「……どうして知ってるんです?」


「訓練場の管理人さんが、昨日こちらへ納品に来られたんです。その時、少し面白いお話を聞きまして」


 嫌な予感がした。


「……何て言ってました?」


「『黒い霧を出しては剣を振り、消してはまた出している変な新人がいる』と」


 エレナはそこで一度言葉を切り、俺の反応を確かめるように首を傾げた。


「心当たりはありますか?」


「……あります」


「ですよね」


 彼女は口元へ手を添え、楽しそうに笑った。


 初めて会った頃は、受付嬢としての丁寧な対応が中心だったが、最近はこうして冗談めいた言葉を交わすことも増えてきた。


 俺が困った顔をすると、エレナはそれを少し楽しんでいるようにも見える。


「そんなに目立ってましたか……」


「管理人さんのお話では、ずいぶん熱心だったそうですよ。でも、あまり無理をしていないか、少し心配もされていました」


「大丈夫です。昨日は、訓練場で知り合った魔法士の人にも、少し助言をもらいましたから」


「まあ、そうなんですか?」


「はい。ロイドさんという土属性の魔法士で、魔法を使う時に、必ずしも手をかざす必要はないって教えてもらいました」


 エレナは興味深そうに目を瞬かせたあと、穏やかに頷いた。


「よい方に出会えたんですね。冒険者同士で教わることも多いですから、そういう出会いは大切にしてください」


「はい。もっとも、まだ教わったことを上手くできるわけじゃないんですけど」


「焦らなくても大丈夫ですよ。魔法は、すぐに使いこなせるようになるものではありませんから」


 そう言って微笑んだエレナは、改めて依頼書へ目を落とした。


「ただ、今日の依頼では気をつけてくださいね。角兎は身体が小さいので、草むらへ入ると見失いやすいんです。突進も速いですから、姿が見えなくなった時には無理に追いかけないこと。それから――」


 そこで彼女は言葉を止めた。


 眼鏡の奥の蜂蜜色の瞳が、まっすぐ俺を見つめる。


「新しい魔法を試したいからといって、わざと危険なことをしないこと」


「……そんなことしませんよ」


「今、少し間がありましたね」


「気のせいです」


「そうですか?」


 エレナは微笑んでいたが、まったく信じていないようだった。


 俺が小さく咳払いをすると、彼女はくすりと笑ってから、少しだけ真面目な表情に戻った。


「訓練場では上手くいくことでも、魔物が相手だと同じようにはいかないことがあります。アルクさんは剣の経験があるようですけど、冒険者としてはまだ新人なんですから、その違いを忘れないでくださいね」


 穏やかな声だったが、不思議と逆らいにくい響きがあった。


 毎日多くの冒険者と接しているからだろうか。エレナの注意には、単に依頼書の内容を読み上げているだけではない、確かな説得力がある。


「……分かりました。無理はしません」


「はい。それなら安心です」


 エレナは依頼書へ受付印を押し、冒険者証と一緒にこちらへ差し出した。


 受け取ろうとした時、彼女が書類の内容をもう一度確かめるため、少しだけ身を乗り出した。まとめていた栗色の髪が一房ほど頬へ落ち、エレナは空いた手でそれを耳へ掛ける。


 その何気ない仕草に、俺は一瞬だけ目を奪われた。


 白いブラウスの襟元から覗く細い首筋や、濃紺のベストが描く柔らかな身体の線が、いつもより少し近くに感じられる。ふわりと漂った清潔な石鹸の香りに、なぜか胸の奥が落ち着かなくなり、俺は慌てて差し出された冒険者証へ視線を戻した。


「アルクさん?」


「な、何でもないです」


「そうですか?」


 エレナは不思議そうに首を傾げたが、それ以上は追及せず、いつもの柔らかな笑顔に戻った。


「討伐した角兎は、角と魔石を持ち帰っていただければ大丈夫です。角を傷つけずに採取できれば、買い取り額も少しよくなりますよ」


「分かりました。ありがとうございます」


 冒険者証を受け取りながら、俺は少しだけ早くなった鼓動をごまかすように剣帯の位置を直した。


「それじゃあ、行ってきます」


「はい。お気をつけて」


 エレナはそう言ってから、ふと視線を下げた。


 書類の端を揃えていた指先が、一瞬だけ止まる。


 何かを考えているような短い間のあと、彼女は顔を上げ、少しだけ声を和らげた。


「……今日も、夕方までには帰ってきてくださいね」


 受付嬢としての言葉なのだろう。


 依頼を受ける冒険者に、無事に戻るよう声をかけるのは、ごく普通のことだ。


 それでも、彼女が俺を見つめる蜂蜜色の瞳には、仕事上の注意だけではない何かが宿っているように感じられた。


「はい。ちゃんと帰ってきます」


 俺が答えると、エレナはほっとしたように微笑んだ。


「行ってらっしゃい、アルクさん」


 その声に見送られながら、俺はギルドをあとにした。


 外へ出ると、朝の光が石畳の通りへ広がっていた。荷車の車輪が石を踏む音や、店先で客を呼ぶ商人の声が耳に入ってくる。


 いつもと変わらないグランベルの朝だったが、エレナの最後の言葉が、しばらく胸の中に残っていた。


     ◇


 グランベルの東門を抜けて街道を進むと、やがて左右に広い草原が開けた。


 朝の空には薄い雲が残っていたものの、その隙間から差し込む陽光が、風に揺れる草の上へ淡い光の帯を落としている。背丈の低い草にはまだ朝露が残り、歩くたびに革靴の先が湿った。遠くには以前ヒール草を採取した森が黒緑色の帯のように横たわり、振り返ればグランベルの灰色の城壁と、その向こうにそびえる教会の白い尖塔が見える。


 街道から少し外れると、人の往来はほとんどなくなった。


 聞こえてくるのは、草を渡る風の音と、時折どこかで鳴く小鳥の声ばかりだ。湿った土の匂いに混じって、踏みつけた草から青い香りが立ち上り、街の中とは違う静けさが周囲を包んでいた。


 角兎は、この辺り一帯に生息しているらしい。


 しかし、実際に探し始めてみると、思っていた以上に見つからなかった。


 普通の兎より一回り大きいとはいえ、草むらへ潜り込めば、その姿は簡単に隠れてしまう。


 少し離れた場所で草が揺れたため、足音を抑えて近づいてみたが、飛び出してきたのは小鳥だった。


 別の場所では、何かが動いたと思って剣の柄へ手を添えたものの、風が草の穂先を押し倒しただけで、結局何も見つからなかった。


 討伐依頼と聞いて、俺はどこかで魔物と戦うことばかりを考えていたのかもしれない。


 王宮の訓練場では、決められた時間に相手が現れ、合図とともに模擬戦が始まった。


 けれど、魔物は都合よく姿を見せてくれるわけではない。


 居場所を探し、周囲の安全を確かめ、相手に気づかれないよう近づくことも、冒険者にとっては大切な技術なのだろう。


 そんなことを考えながら歩いているうちに、少しずつ草の動きの違いが気になり始めた。


 風に揺れる草は、周囲の草と同じ方向へ倒れる。


 小鳥が飛び立つ時には、狭い範囲の草が一瞬だけ大きく動く。


 それに対して、何かが草むらの中を移動している時には、揺れが一か所に留まらず、少しずつ別の場所へ移っていくはずだ。


 剣術では、相手の重心や足の位置、肩の動きから次の攻撃を読むことがある。


 草原の様子を読むことにも、似たところがあるのかもしれない。


 もっとも、剣の間合いと違って、こうした観察にはまだ慣れていない。


 実際に役立つかどうかは、試してみなければ分からなかった。


 やがて、一時間ほど歩いた頃だった。


 少し離れた場所で、背の高い草が不自然に揺れた。


 風は右から左へ吹いている。


 しかし、今の草は、こちら側へ押し倒されるように動いていた。


 俺は足を止め、しばらく様子を窺った。


 揺れは一度収まったが、少し離れた場所で再び草が倒れた。


 何かが、草むらの中を移動している。


 俺は足音を抑え、ゆっくりと近づいた。


 途中で一度立ち止まり、草の隙間を覗き込む。


 しばらくすると、緑の葉の間から、白い耳が一本だけ現れた。


 続いて、小さな頭が持ち上がる。


 額の中央には、細長く尖った一本の角が伸びていた。


「……いた」


 角兎だ。


 白い毛並みの身体は普通の兎より一回り大きく、後脚はよく発達している。額から伸びた角は思っていたより鋭く、先端が朝の光を受けてわずかに光っていた。


 角兎は草を食んでいた口を止め、赤い瞳をこちらへ向けた。


 どうやら、向こうも俺の存在に気づいたらしい。


 俺はゆっくりと剣を抜いた。


 鞘から刃が滑り出す音が、静かな草原に小さく響く。


 角兎はすぐには動かなかった。


 耳を立てたまま、こちらの様子を窺っている。


 距離は、およそ十歩。


 足元は比較的平らで、周囲に大きな岩や木はない。


 草は膝ほどの高さまで伸びているが、今の位置なら角兎の姿を十分に確認できる。


 剣だけで戦うなら、問題のない間合いだった。


 俺は相手の動きを見ながら、左手へ意識を向けた。


 訓練場で練習してきた闇魔法。


 今なら、狙った場所へある程度の闇を広げることができる。


 角兎がまだ動いていない今なら、試す余裕もあるだろう。


 もちろん、無理はしない。


 魔法で動きを止められなければ、すぐに剣へ切り替える。


 俺はそう決めると、剣を右手に構えたまま、左手をゆっくりと前へ出した。


 身体の奥へ意識を沈める。


 冷たい魔力が、静かな湖の底から浮かび上がるように動き始めた。


 その流れを左腕へ導き、掌の先へ集める。


 訓練場で何度も繰り返した動作だ。


 以前のように、魔力を引き上げるだけで長く集中する必要はない。


 俺は角兎の周囲へ意識を向け、静かに魔法を発動した。


「《ダーク》」


 掌の先に黒い靄が生まれた。


 それは風に流される煙とは違い、俺が意識を向けた場所へゆっくりと広がっていく。


 角兎の足元から黒い影が滲むように広がり、白い毛並みを包み込んでいった。


 草原の一角だけが、朝の光を失ったように暗くなる。


 魔力の流れは安定していた。


 訓練場で使った時と同じように、闇は狙った場所へ広がっている。


 成功だ。


 そう思った次の瞬間、俺は小さく眉を寄せた。


 黒い靄の向こうにいたはずの角兎が、見えなくなっていた。


「……あれ?」


 俺は剣を構えたまま、目を凝らした。


 けれど、闇の中には白い毛並みも、赤い瞳も見えない。


 さっきまで確かにそこにいた角兎の姿が、完全に隠れてしまっている。


 魔法は狙いどおりに発動した。


 角兎の周囲へ闇を広げることもできた。


 だが、肝心の相手がどこにいるのか分からない。


 考えてみれば、当たり前のことだった。


 闇で相手の姿を覆えば、こちらからも見えなくなる。


 訓練場では標的が動かなかったため、そのことを深く考えていなかった。


 俺は黒い靄の向こうへ意識を向けながら、角兎の動く気配を探った。


 草が擦れる音がした。


 最初は、風に揺れる葉の音かと思った。


 しかし、次に聞こえた音は少し違っていた。


 何かが地面を蹴り、草を押し分けている。


 しかも、その音は少しずつ近づいてきていた。


 俺は剣を握り直した。


 角兎がこちらへ向かっているのかもしれない。


 だが、正確な位置が分からない。


 黒い靄の内側で草が揺れたように見えたが、その動きもすぐに闇へ飲み込まれてしまった。


 相手が右へ動いたのか、左へ動いたのか。


 それとも、こちらへ真っ直ぐ突進しているのか。


 音だけでは判断できなかった。


 俺は一歩だけ後ろへ下がり、剣先を闇へ向けた。


 その瞬間、黒い靄の一部が内側から大きく揺らいだ。


 白い影が飛び出した。


 額の角が、俺の腹へ向かって真っ直ぐ迫ってくる。


 角兎が闇を突き破った瞬間、俺はその身体の向きと突進の軌道を捉えた。


 剣を振れば間に合わないと判断し、右足で地面を蹴りながら身体を半身へずらす。


 鋭い角が上着の脇を掠め、遅れて冷たい風が腹の横を抜けた。


 角兎はそのまま数歩先まで走り抜け、草を蹴散らしながら地面へ着地した。


 俺は反射的に剣を構え直したが、その時にはもう、左腕を流れていた魔力の感覚が途切れていた。


 黒い靄が薄れ、朝の光が草原へ戻ってくる。


 数歩先で角兎が身体を反転させ、再びこちらへ赤い目を向けた。


 俺はゆっくりと息を吐いた。


 心臓が、さっきまでより少し速く鳴っている。


 危なかった。


 角兎の突進そのものは、決して避けられない速さではない。


 姿が見えていれば、前脚の動きや後脚に力を溜める姿勢から、攻撃のタイミングを読むことができただろう。


 しかし、今は違った。


 俺が闇魔法を使ったことで、相手の動きが見えなくなってしまった。


 魔法を使わなければ、もっと余裕を持って対応できたはずだ。


 その事実に気づいた時、朝の受付で聞いたエレナの声が、嫌になるほど鮮明に蘇った。


 ――訓練場では安全だと思えることでも、魔物が相手だと、同じようにはいかないことがあります。


 まさに、そのとおりだった。


 俺は十分に距離を取ったつもりだった。


 角兎が動き出す前に魔法を使い、相手の様子を見ながら剣へ切り替えるつもりだった。


 だが、闇魔法によって相手の姿を隠した時点で、その判断に必要な情報を自分から失っていたのだ。


「……なるほど。こうなるのか」


 俺は左手を下ろした。


 今は、もう魔法を使わない。


 まずは目の前の角兎を確実に倒す。


 それが、今の俺にできることだ。


 角兎が前脚で地面を掻いた。


 白い身体が低く沈み、発達した後脚へ力が溜まっていく。


 俺は剣を右手に構え、相手の姿勢を静かに観察した。


 額の角は、真っ直ぐこちらへ向いている。


 前脚の位置から考えれば、次の突進もほぼ直線的なものになるだろう。


 さっきは闇の中から突然飛び出してきたため、避けるだけで精一杯だった。


 しかし、今は相手の動きが見えている。


 後脚が地面を蹴る直前、角兎の身体がわずかに沈んだ。


 俺はその変化を捉え、踏み込みの方向を予測した。


 角兎が跳んだ。


 小さな身体が草を押し分け、額の角を突き出したまま一直線に迫ってくる。


 俺はすぐには動かなかった。


 相手の進む方向を見極めながら、右足の裏で地面を捉え、腰の位置をわずかに落とす。


 角兎が途中で軌道を変える様子はない。


 ならば、必要以上に大きく避けることはない。


 角の先端が届く寸前、俺は身体を半歩だけ横へずらした。


 白い身体が脇を抜ける。


 その瞬間、踏み込んだ足から腰へ力を伝え、右腕の剣を滑らかに振り抜いた。


 刃が角兎の首筋を正確に捉えた。


 一撃だった。


 角兎の身体が草の上へ落ち、短く地面を転がってから動かなくなった。


 俺は剣を振り抜いた姿勢のまま、周囲に別の魔物がいないことを確かめた。


 草原には、先ほどまでと変わらない風が吹いている。


 踏み倒された草がゆっくりと起き上がり、遠くでは小鳥の鳴き声が聞こえた。


 俺は息を整えながら剣先を下ろした。


「……剣だけなら、こんなに簡単なのにな」


 思わず、そんな言葉が漏れた。


 剣術は十年間、繰り返し鍛えてきた。


 相手の動きを読み、間合いを測り、最小限の動作で剣を振るう。


 その一つ一つが、今では身体へ染み込んでいる。


 対して、闇魔法を使い始めてからは、まだ数日しか経っていない。


 同じように扱えないのは当然だろう。


 それでも、少しだけ悔しかった。


 せっかく新しい力を手に入れたのに、実戦で使おうとすると、かえって自分の剣を鈍らせてしまう。


 闇魔法が弱いからではない。


 俺が、まだその使い方を知らないのだ。


 剣についた血を布で拭いながら、俺は先ほどの黒い靄を思い返した。


 魔法の発動そのものは、失敗していなかった。


 狙った場所へ闇を広げることができたし、角兎の身体を覆うこともできた。


 問題は、そのあとだ。


 相手の姿が見えなくなれば、剣を振るために必要な判断ができなくなる。


 訓練場では気づかなかった、ごく単純なこと。


 けれど、実際に魔物を相手にして初めて、その意味を身体で理解した気がした。


 俺は剣を鞘へ収め、倒れた角兎の前へしゃがみ込んだ。


     ◇


 角兎の身体は、思っていたよりも温かかった。


 白い毛並みをそっと押さえると、柔らかな毛の下に、小さく引き締まった筋肉の感触が伝わってくる。さっきまで草原を駆け回っていた身体が、今はもう動かない。


 俺は腰の革袋から解体用の小刀を取り出し、図鑑で確認した位置を思い出した。


 グレイウルフを倒した時には、牙を回収することばかり考えていて、魔石を取り忘れてしまった。


 今日は、同じ失敗をしない。


 俺は小刀の刃先を確かめ、角兎の身体へ慎重に刃を入れた。


 木製の標的を斬る時とは、まるで違う感触だった。


 皮を切り開くと、その下の柔らかな組織が刃を押し返し、わずかな温かさが指先へ伝わってくる。湿った草の匂いに混じって血の匂いが立ち上り、俺は一度だけ息を止めた。


 王宮にいた頃、獣の解体を自分でする機会などなかった。


 剣術の訓練で木人を斬ることはあっても、倒した魔物から素材を取り出す作業は、まったく別の技術だ。


 俺は小刀を握り直し、必要以上に傷つけないよう注意しながら、魔石のあるはずの場所を探した。


 しばらくすると、肉の奥に小さな紫色の光が見えた。


「……あった」


 指先で慎重につまみ出すと、淡い光を宿した結晶が現れた。


 小指の先ほどの大きさしかないが、掌へ載せると、思っていたよりもしっかりとした重みがある。


 これが魔石か。


 教本では何度も見たことがあるし、王宮でも魔石を利用した道具は珍しくなかった。


 けれど、こうして自分の手で取り出してみると、ただの素材とは少し違って感じられる。


 俺は掌の上の結晶をしばらく眺め、それから布で丁寧に拭って革袋へ収めた。


 続いて、額の角を傷つけないよう慎重に取り外す。


 細長い角は根元が思っていたより太く、先端へ向かうほど滑らかに細くなっていた。指で軽く触れるだけでも鋭さが分かり、これが勢いよく腹へ突き刺さっていたらと考えると、少し背筋が冷たくなる。


 俺は角も革袋へ収め、小刀を丁寧に拭ってから鞘へ戻した。


 ひととおり作業を終える頃には、陽が少し高くなっていた。


 風に揺れる草の間から、温められた土の匂いが漂ってくる。


 俺は立ち上がり、遠くに見えるグランベルの城壁へ目を向けた。


 依頼達成まで、あと二体。


 まだ時間には余裕がある。


 俺は革袋の口を確かめながら、先ほどの戦いを思い返した。


 闇魔法は、狙ったとおりに発動した。


 角兎の周囲へ闇を広げ、その姿を隠すこともできた。


 ただし、その結果、俺自身も相手を見失ってしまった。


 訓練場では気づかなかった、単純な落とし穴だ。


 俺は左手を持ち上げ、掌を見つめた。


 あの時、闇は角兎の身体をすっぽりと覆っていた。


 相手の視界を奪うつもりが、こちらからも姿を見えなくしてしまったのだ。


 ……待てよ。


 相手の身体を隠すことと、相手の視界を妨げることは、同じなのだろうか。


 ふと浮かんだ疑問に、俺は少し考え込んだ。


 例えば、相手の姿が見える範囲を残したまま、視界だけを遮ることができたなら。


 そうすれば、こちらは相手の動きを見失わずに済むかもしれない。


 俺はもう一度、左手を見つめた。


 今の俺には、まだ闇をそこまで細かく操る技術がない。


 けれど、闇を広げる範囲や位置を変えることなら、訓練場でも少しずつできるようになっていた。


 もしかしたら、何か方法があるのかもしれない。


 草原を渡る風が少し強まり、足元の草が一斉に波打った。


 俺は風の向こうへ目を凝らした。


 少し離れた場所で、草が不自然に倒れる。


 何かがいる。


 俺は剣の柄へ手を添え、足音を抑えながら歩き始めた。


 左手には、まだ冷たい魔力の感覚が残っている。


 さっきの失敗を、もう一度繰り返すつもりはなかった。


 草むらの奥で、何かが動いた。


 俺は足を止め、静かに剣を抜いた。

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