第6話 剣と闇
共同訓練場へ通い始めて三日目の朝、グランベルの空は薄い雲に覆われていた。
《跳ね鹿亭》の二階にある部屋の窓を開けると、夜の間に冷えた空気が流れ込み、頬をひんやりと撫でていった。通りには朝早くから荷車が行き交い、石畳を踏む馬の蹄の音に混じって、近くのパン屋から焼きたての香ばしい匂いが漂ってくる。
俺は窓辺で軽く身体を伸ばし、右肩から腕にかけて残る鈍い疲労を確かめた。
昨日も、その前の日も、ほとんど一日中、剣と闇魔法を同時に扱う練習をしていた。
慣れない左腕へ魔力を流し続けたせいか、筋肉痛とは少し違う、身体の奥が重くなるような疲れが残っている。
それでも、訓練場へ向かうことが億劫だとは思わなかった。
最初は掌の先に黒い球体を生み出すことさえ手探りだったが、今では意識を向ければ、比較的安定して闇を形にできるようになっている。
黒い靄を広げる範囲も、少しずつ調整できるようになった。
問題は、その先だ。
右手で剣を振りながら、左手で闇魔法を維持する。
たったそれだけのことが、思っていた以上に難しい。
俺は机の上に置いていた剣帯を手に取り、腰へ巻きつけた。
使い慣れた剣の重さが左腰へ収まると、不思議と気持ちまで落ち着いてくる。
今日は、もう少し先へ進めるだろうか。
そんなことを考えながら身支度を終え、階下の食堂へ向かった。
◇
食堂には、温かな野菜のスープと焼いたパンの匂いが満ちていた。
朝食を取る冒険者たちの低い話し声が卓の間を行き交い、厨房では食器を重ねる音や、鍋をかき混ぜる音が忙しなく響いている。窓際の席には薄曇りの空から柔らかな光が差し込み、磨き込まれた木製の卓を淡く照らしていた。
空いている席へ向かおうとすると、厨房から聞き慣れた明るい声が飛んできた。
「あっ、アルク! おはよう!」
振り返ると、メルが大きな盆を抱えて立っていた。
亜麻色の髪は今日も後ろでまとめられ、頬には朝の仕事で動き回っていたためか、ほんのりと赤みが差している。白いブラウスの袖を肘までまくり、前掛けをきゅっと結んだ姿は、すっかり見慣れたものになりつつあった。
「おはよう、メル。今日も忙しそうだね」
「朝はいつもこんな感じだよ。でも、今日はちょっと早起きしたから余裕があるの」
そう言って笑うと、メルは盆を近くの卓へ置き、厨房の方へ小走りに戻っていった。
何か忘れ物でもしたのだろうかと思っていると、ほどなくして、一着の上着を腕に掛けて戻ってくる。
「はい、これ!」
差し出されたのは、昨日預けていた俺の上着だった。
グレイウルフの牙で裂かれた左袖は、丁寧に縫い合わされている。生地の色に近い糸が使われているため、よく見なければ傷んでいた場所が分からないほどだった。
「……すごいな。ほとんど元どおりだ」
「でしょ? お母さんにも少し手伝ってもらったけど、縫ったのはあたしなんだからね」
メルは得意げに胸を張った。
その拍子に、前掛けの上からでも分かる豊かな胸元がふわりと持ち上がり、俺は思わず視線を上着へ戻した。彼女はそんな俺の反応には気づかなかったらしく、縫い目のあたりを指先で示しながら、嬉しそうに説明を続けている。
「ここ、少し生地が薄くなってたから、裏から当て布もしてあるんだ。次に引っかけても、すぐには破れないと思うよ」
「ありがとう。助かったよ」
「ふふっ、どういたしまして!」
メルは満足そうに笑ったあと、ふと俺の腰にある剣へ目を向けた。
「それで、アルクは今日も訓練場?」
「うん。もう少し練習しておきたくて」
「そっか。毎日頑張ってるもんね」
彼女は感心したように頷いたが、すぐに少しだけ眉を寄せた。
「でも、ちゃんと休んでる? 昨日も帰ってきた時、ちょっと疲れた顔してたよ」
「そんなに分かりやすかった?」
「分かるよ。あたし、毎日いろんな冒険者さんを見てるんだから」
そう言って、メルは片手を腰へ当てた。
明るい笑顔はいつもどおりだったが、こちらを見上げる青みがかった瞳には、ほんの少し心配そうな色が浮かんでいる。
「訓練するのはいいけど、お昼ご飯もちゃんと食べてね。強くなっても、お腹が空いて倒れちゃ意味ないんだから」
「分かった。気をつけるよ」
「本当に?」
「本当に」
俺が頷くと、メルはようやく安心したように表情を緩めた。
「よし! じゃあ、朝ご飯もたくさん食べていってね!」
彼女は軽やかに踵を返し、厨房へ戻っていった。
その背中を見送りながら、俺は修繕された上着をそっと撫でた。
王宮にいた頃、衣服が破れれば、いつの間にか新しいものが用意されていた。
誰が直し、誰が洗い、どれほど手間をかけているのか、深く考えたこともなかった。
けれど今、目の前にある上着には、メルが自分のために針を動かしてくれた時間が残っている。
そう思うと、ただの古い上着が、昨日までとは少し違って見えた。
俺はそれを丁寧に畳んで隣の椅子へ置き、運ばれてきた朝食へ手を伸ばした。
温かなスープを一口飲むと、野菜の甘みと香草の香りが口の中へ広がり、朝の冷えた身体へゆっくりと染み込んでいく。
今日も、頑張ろう。
そう思いながら、俺は黒パンをちぎった。
◇
南区の共同訓練場へ着く頃には、空を覆っていた薄い雲が少しずつ流れ始めていた。
周囲を囲む高い石壁の向こうからは、剣を打ち合わせる金属音や、魔法が標的へ命中する乾いた音が聞こえてくる。入口付近の地面には昨夜の雨が残っているらしく、湿った土と石の匂いが、朝の冷たい空気に混じっていた。
利用料を支払い、いつもの魔法用区画へ向かう。
共同訓練場には、いくつもの区画が並んでいる。
剣士たちが木剣を振る場所もあれば、弓の練習をするための長い射場もある。魔法用の区画には、簡単には壊れない黒樫の標的が一定の間隔で設置されており、周囲の石壁には何度も魔法を受けた跡が残っていた。
王宮の訓練場とは、ずいぶん違う。
あそこでは近衛騎士たちが整然と並び、教官の号令に合わせて同じ型を繰り返していた。磨き上げられた剣や鎧が朝日を反射し、均された砂の上には、規則正しい足跡が刻まれていく。
それに比べて、ここには統一された動きがない。
若い魔法士が火球を放って標的を焦がしているかと思えば、少し離れた場所では年配の男が水の球を何度も生み出している。剣士たちの区画からは威勢のよい掛け声が響き、時折、失敗した者をからかう笑い声まで聞こえてきた。
誰かに命じられているわけではない。
それぞれが、自分に必要な技術を、自分のやり方で磨いている。
最初は雑然として見えたその光景を、俺はいつの間にか気に入り始めていた。
荷物を区画の隅へ置き、剣を抜く。
使い慣れた柄が右手へ収まると、身体の重心が自然に定まった。
続いて、左手を正面の標的へ向ける。
身体の奥へ意識を沈めると、夜の湖のような冷たい魔力が、静かに広がっていた。
三日前、初めて触れた時には、その底知れない深さに戸惑ったものだ。
今でも、あの暗がりの奥に何があるのかは分からない。
けれど、そこから必要なだけの魔力を引き上げることには、少しずつ慣れてきていた。
「《ダーク》」
左の掌の先に黒い靄が生まれ、ゆっくりと標的の周囲へ広がっていく。
薄曇りの朝の光が、その一角だけ削り取られたように弱くなり、黒樫の輪郭が曖昧になった。
初日は、ここまで闇を広げるだけでも苦労した。
今では、魔力を一定に流し続ければ、ある程度の範囲を覆うことができる。
俺は右手の剣を構え直し、ゆっくりと腰を落とした。
標的までは五歩ほど。
足の裏で湿った地面を捉え、左腕を流れる冷たい魔力を意識しながら、一歩ずつ距離を詰めていく。
以前なら、剣先を少し動かしただけで闇が消えていた。
しかし、今は違う。
腰を落としても、闇は消えない。
歩幅を変えても、魔力の流れを保てる。
さらに踏み込みを強めると、左腕の内側を流れる冷たい感覚がわずかに乱れたが、意識を戻せば、黒い靄は再び安定した。
標的まで、残り二歩。
俺は右肩を引き、足の裏へ力を込めた。
ここまでは、できる。
問題は、この先だ。
呼吸を整え、標的の中心へ意識を向ける。
右足で地面を蹴り、腰を回転させながら剣を振り抜く。
十年間繰り返してきた動きに身体が自然と応え、刃先が黒樫へ向かって走った。
その瞬間、左腕を流れていた冷たい感覚が途切れた。
標的を覆っていた闇が薄れ、剣が木材へ食い込む乾いた音だけが訓練場に響いた。
「……また駄目か」
剣を引き抜きながら、俺は小さく息を吐いた。
昨日までと比べれば、確かに進歩している。
歩くことも、構えることもできるようになった。
軽く剣先を動かす程度なら、闇を維持したままでも問題はない。
けれど、実戦で使うような斬撃を放とうとすると、決まって魔力の制御が途切れてしまう。
剣を振る瞬間、身体は自然と相手の動きへ意識を集中する。
間合いを測り、踏み込みの強さを決め、刃筋を整える。相手が動けば、その変化に合わせて剣の軌道も変える。
普段はほとんど意識せずに行っている動作だが、その一つ一つが、十年間の稽古によって身体へ染み込んでいる。
対して、闇魔法はまだ違う。
魔力を引き上げ、左腕へ流し、掌の先で形を保つ。そのすべてを、意識していなければならない。
剣へ集中すれば闇が消え、闇へ集中すれば剣の動きが鈍る。
今の俺には、二つを同時に扱う余裕が足りないのだろう。
俺は剣を下ろし、左手を見つめた。
掌を標的へ向けると、そこへ魔力を集めることはできる。
だが、その姿勢を保ったままでは、剣を振る時に身体の動きが制限される。
左腕は、剣を握っていないからといって、何もしていないわけではない。
身体のバランスを取り、重心の移動を助け、次の動作へつなげるために自然と動いている。
それを魔法のために固定してしまえば、剣術本来の動きが鈍くなるのも当然だった。
もっとも、魔法を使い始めてまだ三日しか経っていない。
今は、できることを少しずつ増やしていくしかないのだろう。
そう考えて、もう一度左手を前へ出そうとした時だった。
「それ以前に、そのやり方じゃ大変だと思うけどな」
不意に、横から男の声がした。
◇
振り返ると、隣の区画との境になっている腰ほどの石壁へ、一人の男が肘をついていた。
三十代半ばくらいだろうか。色褪せた灰色のローブをまとい、右手には使い込まれた短い杖を持っている。伸びかけた無精髭と眠そうな目のせいで、王宮で見てきた宮廷魔法士たちのような威厳はまるでなかった。
ただ、杖を握る指先には妙な落ち着きがあった。
特に力を入れている様子もないのに、手の中で杖が自然と収まっている。長年使い続けてきた道具を扱う者特有の、無駄のない動きだった。
「……いつから見ていたんですか?」
「お前が同じことを十回くらい失敗した辺りから」
「結構前ですね」
「隣で黒いものが出たり消えたりしてりゃ、嫌でも目に入る」
男は悪びれもせず答え、俺の左手へ目を向けた。
「お前、魔法を習い始めてどれくらいだ?」
「三日です」
「三日?」
それまで眠そうだった目が、わずかに開いた。
「本当に?」
「本当に」
「今の魔法もか?」
「三日前に初めて出しました」
男はしばらく俺を見つめたあと、短い杖で頭を掻いた。
「……なるほど。妙なのがいると思ったが、想像してたより妙だったな」
「それ、褒めてます?」
「半分くらいは」
どの半分なのかは教えてくれなかった。
男は石壁から身体を離すと、俺の右手にある剣へ視線を移した。
「それにしても、お前、剣の方はずいぶん慣れてるな。さっきの踏み込み、なかなか悪くなかったぞ」
「ありがとうございます。剣術は小さい頃から習っていたので」
「なるほどな。剣は使えるが、魔法は始めたばかりってわけか」
男は納得したように頷いた。
「で、剣を振りながら魔法を使いたい、と」
「はい。闇魔法だけでは、あまり攻撃力がないみたいなので」
「闇属性か。そりゃまた珍しいな」
男は少しだけ眉を上げたが、特に驚いた様子は見せなかった。
「それなら、剣と組み合わせようって考えも分からなくはない。だが、お前のやり方だと、慣れるまで相当苦労するぞ」
「……やっぱり、魔法の練習が足りないんでしょうか?」
「それもあるが、問題はそこだけじゃねえな」
男はそう言うと、俺の左手を顎で示した。
「お前、魔法を使う時、必ずその手を前へ出してるだろ」
「はい。そうしないと、うまく魔力を集められないので」
「なるほど。まあ、初心者なら普通だな」
男は軽く肩をすくめた。
「だが、魔法を使うのに、いちいち手を突き出す必要はねえんだぞ」
「……え?」
思わず聞き返した。
男は俺の反応が面白かったのか、口元を少し緩めた。
「何だ、その顔。初めて聞いたみたいだな」
「初めてです。魔法を使う時は、手や杖を使うものだと思ってました」
「そりゃ、そう教わることが多いからな。初心者にとっちゃ、その方が分かりやすい」
男は手にしていた短い杖を軽く持ち上げた。
「杖は魔力の流れや方向を意識しやすくするための道具だ。手をかざすのも同じようなもんだな。狙った場所へ魔法を出すには、目印があった方が楽だろ?」
「……確かに」
俺は自分の左手を見つめた。
初めて闇魔法を使った時、右手を前へ出したのは、教本に描かれていた魔法士たちの姿を真似したからだった。
その後、剣を右手で扱うために、魔法を左手へ移した。
それからは、魔法を使おうとするたび、当然のように左手を標的へ向けていた。
けれど、それが唯一の方法だと、誰かに教わったわけではない。
「じゃあ、手を動かさなくても魔法は使えるんですか?」
「使える奴はな」
男はあっさりと答えた。
「ただし、簡単じゃねえぞ。魔力をどこへ集めて、どこへ出すのか、手や杖に頼らず意識しなきゃならんからな」
「あなたも、できるんですか?」
「多少はな。まあ、見た方が早いか」
男はそう言うと、短い杖を石壁の上へ置いた。
そして、両手をだらりと身体の横へ下ろしたまま、足元の地面へ目を向ける。
何をするつもりなのだろう。
俺が見守っていると、男の足元に落ちていた小石が、かすかに震えた。
最初は風にでも動かされたのかと思った。
しかし、小石は地面の上を転がることなく、ゆっくりと浮かび上がっていった。
「……え?」
思わず声が漏れた。
小石は男の膝ほどの高さまで上がると、そこでぴたりと止まった。
男は手を動かしていない。
杖も持っていない。
ただ、足元に浮かんだ小石を眺めているだけだった。
「土属性の魔法だ。まあ、こんなのは大したことじゃねえけどな」
男がそう言うと、小石はゆっくりと横へ動き始めた。
空中を滑るように進み、石壁の上を越えて、俺の目の前で静止する。
俺は思わず顔を近づけた。
ごく普通の小石だった。
表面には細かな土が付着し、雨に濡れた部分がわずかに黒ずんでいる。
けれど、その小石は何の支えもなく、俺の目の前に浮かんでいた。
「……すごいですね」
「そうか?」
「手も杖も使わずに、こんなふうに動かせるなんて」
「慣れりゃできるようになる。もっとも、細かい操作をしようと思えば、俺だって杖を使った方が楽だがな」
男は小石をゆっくりと地面へ下ろした。
乾いた小さな音がして、小石が石畳の上へ転がる。
「今のは、魔力を使って土や石へ働きかけてるだけだ。お前の闇魔法とは性質が違うが、魔力をどう操るかって点では同じようなもんだ」
「……なるほど」
俺は小石が落ちた場所を見つめた。
男は何気なく魔法を使っていた。
魔力を集めるために長く集中する様子もなく、術式を口に出すこともなかった。
ただ、視線を向けただけで、小石が浮かび上がった。
それは、俺が剣を抜く時の動きに少し似ていた。
柄を握り、鞘から刃を引き抜く。
その一連の動作を、今ではほとんど意識する必要がない。
男にとって、魔法を使うことも、それと同じくらい自然なのかもしれない。
「……詠唱もしませんでしたよね」
「この程度ならな。何百回も使ってる術だから、いちいち声に出さなくても形にできる」
男は石壁の上に置いた杖を手に取った。
「魔法ってのは、本来もう少し面倒なもんだ。術式を組んで、魔力を流して、属性に応じた形へ変えて、狙った場所へ作用させる。詠唱は、その手順を頭の中だけで処理しきれない時に、形を整えるための補助になる」
王宮で学んだ魔法理論と重なる部分はあった。
ただ、実際に魔法を使う人間から聞くと、教本の文字とは違った重みがある。
「じゃあ、慣れれば何も考えなくても魔法を使えるようになるんですか?」
「何も考えない、は言いすぎだな。だが、考えなきゃならんことは減る」
男は杖を指先で軽く回した。
「剣だって同じだろ。踏み込むたびに、右足を出して、腰を回して、剣先をこう動かして……なんて、いちいち考えてるか?」
「考えてません」
「だろ? 魔法も使い込めば、少しずつそうなる」
男はそう言ってから、俺の右手の剣へ視線を移した。
「ただ、お前の場合は、もう一つ考えた方がいいことがあるな」
「何ですか?」
「剣を振る時、左手はどうしてる?」
突然の質問に、俺は少し考えた。
「……身体のバランスを取ったり、構えに合わせて動かしたりしてます」
「そうだろうな。なのに、魔法を使う時だけ、その左手をずっと前へ突き出してる」
男は俺の姿勢を真似するように、右手で見えない剣を構え、左手を前へ伸ばした。
そのまま軽く腰を落とし、身体を捻ってみせる。
「これじゃ、剣を振る動きまで窮屈になるだろ?」
確かに、そのとおりだった。
俺はこれまで、魔法を維持することばかり考えていた。
左手を前へ出し、そこへ魔力を集める。
その姿勢を崩さないようにしながら、右手で剣を振ろうとしていた。
けれど、それでは剣術本来の動きを十分に活かせない。
剣を振る時、左腕は自然と身体の動きに合わせて位置を変える。
その動きを無理に止めてしまえば、重心の移動がぎこちなくなり、次の動作へつなげる余裕も失われる。
魔法を使うために、剣術を犠牲にしていたのだ。
「……そういうことか」
俺は思わず呟いた。
男が片方の眉を上げる。
「何か分かったか?」
「俺、ずっと剣と魔法を同時に使うことばかり考えてました。でも、それ以前に、魔法を使うための動作が剣術の邪魔になってたんですね」
「まあ、そういうことだな」
男は満足そうに頷いた。
「もちろん、今のやり方が間違ってるわけじゃねえぞ。初心者が魔力を集めるには、手を使った方が分かりやすいし、安定もしやすい」
「でも、剣と一緒に使うなら……」
「いつかは、手に頼らず魔法を扱うことも考えた方がいいだろうな」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にあった何かが、静かにほどけていくような感覚があった。
今まで俺は、剣と魔法をどうやって同時に扱うか、そのことばかり考えていた。
右手には剣。
左手には魔法。
それが当然だと思っていた。
けれど、魔法を使うために必ず手をかざす必要がないのなら、話は変わってくる。
例えば、剣を振る動きの中で、相手の足元へ闇を広げられたら。
相手が踏み込んでくる瞬間、その視界を遮ることができたら。
剣を握ったまま、身体の動きを妨げることなく魔法を使えたなら。
それは、今まで考えていたものとは、まったく違う戦い方になるかもしれない。
昨日のグレイウルフとの戦いが、再び脳裏に浮かんだ。
飛びかかってくる魔物の姿。
鋭い牙。
こちらの動きを捉える黄色い瞳。
もし、あの瞬間に相手の視界を奪うことができたなら、俺はもっと余裕を持って剣を振るえたかもしれない。
そして、剣を振るために左手を固定する必要がないのなら、相手の動きに合わせて、もっと自由に闇を使えるはずだ。
俺は自分の左手を見つめた。
そこには何もない。
けれど、身体の奥には、あの冷たい魔力が確かに存在している。
それを掌の先へ集めることしか、今の俺は知らない。
だが、それが唯一の方法ではないと分かった。
「……ありがとうございます」
自然と、そんな言葉が口から出た。
男は少し意外そうな顔をしたあと、肩をすくめた。
「別に、礼を言われるようなことはしてねえよ」
「いえ。ずっと同じところで悩んでいたので、助かりました」
「そりゃよかったな」
男は短い杖を肩へ担ぎ、自分の区画へ戻ろうとした。
俺は慌てて声をかける。
「あの、もう一つ聞いてもいいですか?」
「何だ?」
「手を使わずに魔法を出せるようになるには、どんな練習をすればいいんでしょう?」
男はしばらく俺を見つめた。
そして、何とも気の抜けた声で答えた。
「知らん」
「……そこまで言っておいて?」
「俺はお前の師匠じゃねえよ」
男は愉快そうに笑った。
俺は思わず肩を落としたが、その表情を見ているうちに、こちらまで少しおかしくなってきた。
確かに、初対面の相手にここまで教えてもらっておいて、さらに具体的な訓練方法まで求めるのは、少し図々しかったかもしれない。
「……そうですよね。すみません」
「いや、別に謝ることじゃねえけどな」
男は軽く手を振り、石壁の向こうへ戻りかけた。
しかし、数歩進んだところで足を止め、こちらを振り返った。
「まあ、一つだけ言っとくか」
「はい」
「三日で先の技術ばっかり考えるのはやめとけ。今できることを、まず確実にしろ」
男は俺の左手を顎で示した。
「手を使わずに魔法を出すなんて、慣れた魔法士でも簡単じゃねえ。今のお前なら、まずはその闇を安定して使えるようになることだな」
「……なるほど」
「剣だって、そうやって覚えたんだろ?」
その言葉に、俺はゆっくりと頷いた。
「はい」
「なら、魔法も同じだ。焦らずやれ」
男はそう言うと、今度こそ自分の区画へ戻っていった。
俺はその背中を見送りながら、ふと大事なことを思い出した。
「あの、すみません!」
「今度は何だ?」
男が振り返る。
「名前を聞いていませんでした」
「ああ、そういや名乗ってなかったな」
男は短い杖で肩を軽く叩き、少しだけ笑った。
「ロイドだ。ここらで冒険者をやってる」
「俺はアルクです。今日はありがとうございました、ロイドさん」
「アルクか。覚えとくよ」
ロイドさんはそう言ってから、俺の左手へちらりと目を向けた。
「次に会った時には、もう少しまともに使えるようになってるといいな、その黒いの」
「……頑張ります」
「おう。期待しすぎずに見とく」
そう言って、ロイドさんは隣の区画へ戻っていった。
しばらくすると、石壁の向こうから小さな石が地面へ落ちる音が聞こえてきた。
どうやら、また土魔法の練習を始めたらしい。
俺はその音を聞きながら、もう一度、黒樫の標的へ向き直った。
◇
俺は右手の剣を握り直し、黒樫の標的へ向き合った。
いつものように左手を前へ出しかけて、ふと動きを止める。
ロイドさんは、手を使わずに小石を浮かべていた。
あれができるなら、俺もいつか、剣を振る動きを妨げずに闇を操れるようになるかもしれない。
試しに、左腕を自然に身体の横へ下ろしたまま、ゆっくりと息を整えてみた。
身体の奥へ意識を沈める。
冷たい魔力は、変わらずそこにあった。
夜の湖のような静けさが胸の内側へ広がり、意識を向けると、深い暗がりから力がゆっくりと動き始める。
俺はその流れを左腕へ導きながら、標的の周囲へ闇を生み出そうとした。
しかし、何も起こらなかった。
「……あれ?」
もう一度、標的へ意識を向ける。
魔力は確かに動いている。
けれど、いつものように掌を前へ出していないせいか、どこへ力を集めればよいのか、うまく掴めない。
標的を意識すれば、今度は身体の内側にある魔力の感覚が薄れてしまう。
何度か試してみたが、結局、黒い靄は一度も現れなかった。
「……やっぱり、簡単じゃないな」
小さく息を吐き、左手を見つめる。
ロイドさんが何気なく見せてくれた技術が、どれほど難しいものなのか、少しだけ分かった気がした。
それでも、落胆するほどではなかった。
そもそも、俺はまだ魔法を使い始めて三日目なのだ。
ロイドさんにも、まずは今できることを確実にしろと言われたばかりだった。
俺は剣を鞘へ収め、今度は左手を標的へ向けた。
掌の先へ魔力を集める。
すると、先ほどまで何も起こらなかったのが嘘のように、黒い靄がゆっくりと生まれた。
その輪郭はまだ不安定で、少し意識を緩めれば消えてしまいそうだったが、初めて魔法を使った時と比べれば、ずいぶん自然に形を保てるようになっている。
俺は靄を少しずつ広げ、標的の周囲へ行き渡らせた。
薄曇りの空から差し込む光が、その一角だけ静かに弱まっていく。
黒樫の輪郭が闇の向こうへ隠れ、先ほどまで見えていた標的の中心が、ゆっくりと分からなくなった。
俺は左手をわずかに動かし、闇の位置を変えてみた。
靄がゆっくりと横へ流れ、標的の右側が姿を現す。
続いて、もう少し魔力を流し込むと、闇は再び広がり、今度は標的の左半分を覆った。
「……なるほど」
思わず呟いた。
最初は、ただ黒い球体を生み出すだけだった。
それが今では、広げる範囲や位置を、少しずつ変えられるようになっている。
まだ細かな操作は難しいが、少なくとも、まったく思いどおりにならないわけではない。
俺は靄を標的の中央へ戻し、今度はできるだけ小さくまとめてみた。
広がっていた闇がゆっくりと縮まり、黒樫の表面に、丸い影のようなものが残る。
そこだけ、周囲の光が失われていた。
試しに、闇を少し上へ動かす。
すると、標的の上半分が見えなくなった。
次に、下へ。
今度は、標的の根元が暗がりに沈んだ。
その様子を眺めているうちに、ふと、昨日のグレイウルフの姿が頭に浮かんだ。
飛びかかる直前、こちらを捉えていた黄色い瞳。
もし、あの目の前へ闇を広げることができたなら。
俺は標的の上部を覆う黒い靄を見つめた。
今の魔法は、まだ動かない標的を相手にしているからこそ、こうして落ち着いて操れている。
相手が素早く動き、こちらへ牙を向けてくる状況では、同じようにできるか分からない。
けれど、試してみる価値はありそうだった。
俺は闇を消し、もう一度左手へ魔力を集めた。
今度は、先ほどより少し速く。
掌の先に黒い靄が生まれ、標的の周囲へ広がっていく。
思い描いた位置へ動かそうとすると、輪郭がわずかに乱れた。
それでも、魔力の流れを整えると、闇は再び形を保った。
「……よし」
小さく頷き、もう一度試す。
隣の区画からは、ロイドさんが土魔法を使う音が聞こえてきた。
小石が地面へ落ちる乾いた音。
土が擦れるような、かすかな響き。
俺はその音を聞きながら、左手の先に広がる闇を見つめた。
あの人のように、手を使わずに魔法を操れるようになるには、まだ時間がかかるだろう。
けれど、今はそれでいい。
まずは、この闇をもっと自由に動かせるようになりたい。
そう思いながら、俺は魔力を少しずつ調整した。
訓練場の石壁に午後の陽射しが傾き、湿った地面に落ちていた影がゆっくりと伸び始める。
俺は一度、標的を覆っていた闇を消し、もう一度、左手へ魔力を集めた。
掌の先に生まれた小さな闇が、柔らかな光の中で静かに揺れる。
その向こうには、黒樫の標的が立っていた。
俺は闇の位置を少しずらし、標的の輪郭が隠れるのを確かめた。
……これが、本物の魔物にも通用するだろうか。
そう考えると、自然と口元が緩んだ。




