第5話 闇魔法
翌朝、窓の外から聞こえてくる荷車の音で目が覚めた。
薄いカーテンの向こうには柔らかな朝の光が広がり、木製の窓枠が床の上へ細長い影を落としている。廊下では誰かが階段を下りていくらしく、古い床板が一定の間隔で軋んでいた。
俺は寝台の上でゆっくりと身体を起こし、しばらく見慣れない部屋を眺めた。
小さな机と椅子、荷物を置くための棚。それに、昨夜は疲れのあまり気にならなかった、少し硬い寝台。窓から差し込む光の中には細かな埃が漂い、どこかで焼いているパンの香りが、階下からかすかに届いていた。
《跳ね鹿亭》で迎える、初めての朝だった。
寝台から足を下ろすと、昨日歩き回った脚に心地よい疲れが残っていた。
右腕にもわずかな張りがあるが、剣を握るのに支障が出るほどではない。
左腕へ目を向けると、昨日グレイウルフの牙に裂かれた袖が、相変わらず情けない姿をしていた。
「……これも、どうにかしないとな」
そう呟いてから、昨夜メルが修繕を申し出てくれたことを思い出した。
初対面だというのに、怪我の心配から服の繕いまで気にかけてくれるとは、ずいぶん世話好きな人だ。
もっとも、今の俺にはありがたい話だった。
替えの服はあるものの、破れたものをそのまま捨てられるほど余裕があるわけではない。
机の上に置いていた財布と冒険者証を確かめ、身支度を整える。
木札に刻まれた《F級》と《アルク》の文字を指先でなぞると、昨日の出来事が少しずつ蘇ってきた。
薬草採取に初めての実戦、そして初めての報酬。
冒険者として過ごした最初の一日は、思っていた以上に慌ただしかった。
今日は、もう少し落ち着いて行動したいところだ。
そう考えながら部屋を出ると、階下から食器の触れ合う音と、聞き覚えのある明るい声が聞こえてきた。
◇
《跳ね鹿亭》の食堂には、すでに数人の客が集まっていた。
窓から差し込む朝日が木製の卓を照らし、厨房では鍋をかき混ぜる音が響いている。焼きたての黒パンと温かなスープの香りが混じり合い、昨夜とはまた違った、穏やかな賑わいが広がっていた。
空いている席を探していると、厨房の方から声が飛んできた。
「あっ、アルク! おはよう!」
振り返ると、大きな盆を抱えたメルが、こちらへ笑顔を向けていた。
明るい亜麻色の髪は昨日と同じように後ろで束ねられ、白いブラウスの袖を肘のあたりまでまくっている。前掛けの紐をきゅっと結んだ腰は細く、そこから豊かな胸元へ続く女性らしい身体の線が、朝の忙しない動きの中でも自然と目を引いた。
彼女は盆に載せた皿を客の卓へ手際よく配ると、軽やかな足取りで近づいてきた。
「よく眠れた? うちの寝台、ちょっと硬いでしょ」
「おはようございます。大丈夫です。昨日は疲れていたので、すぐに眠れました」
「それならよかった。冒険者さんは朝が早い人も多いから、廊下がうるさくなかったかなって思ってたんだ」
「気になりませんでしたよ。むしろ、ぐっすり眠れました」
俺がそう答えると、メルは満足そうに頷いた。
「ふふっ、なら安心。朝ご飯、すぐ持ってくるね!」
彼女が厨房へ戻っていくのを見送り、俺は窓際の空いた卓へ腰を下ろした。
しばらくすると、黒パンと野菜のスープ、それに小さな腸詰めが一本載った皿が運ばれてきた。
「はい、お待たせ! 今朝のスープは野菜がたっぷり入ってるから、ちゃんと食べてね」
「ありがとうございます」
「それと、昨日の服はどうする? 破れたところ、直しておこうか?」
メルの視線が俺の左袖へ向けられた。
「お願いしてもいいですか? 替えの服はあるんですけど、これもまだ使いたいので」
「もちろん! 朝ご飯が終わったら預かるよ。夕方までには何とかなると思う」
「助かります。ありがとうございます」
「もう、昨日からお礼ばっかり言ってるね」
メルは少し呆れたように笑い、卓の端へ手をついた。
「そんなにかしこまらなくていいって。あたし、アルクより少し年上なだけなんだから」
「そうなんですか?」
「十八歳。アルクは?」
「十五です」
「へえ、三つ違いなんだ!」
彼女は少し意外そうに目を丸くしたあと、にっこり笑った。
「じゃあ、あたしの方がお姉さんだね」
そう言って胸を張るメルの姿に、俺は思わず視線を逸らしかけた。
豊かな胸元が前掛けの上からもはっきりと分かり、何気ない仕草のはずなのに、妙に目のやり場に困ってしまう。
そんな俺の反応には気づかなかったらしく、メルは得意げな笑顔を浮かべたまま続けた。
「困ったことがあったら、遠慮なく頼っていいからね!」
「……はい。頼りにしています」
「うん、任せて!」
彼女は嬉しそうに頷くと、厨房から名前を呼ばれ、慌てて振り返った。
「あっ、いけない! じゃあ、ゆっくり食べてね!」
そう言い残し、メルは軽く手を振って厨房へ戻っていった。
その背中を見送りながら、俺は小さく息を吐いた。
どうやら、メルは誰に対してもあんな調子らしい。
明るくて、親しみやすくて、少し世話焼きで。
昨日会ったばかりだというのに、ずいぶん前から知っているような気分にさせられる。
俺は黒パンを一口ちぎり、温かなスープへ浸した。
香草の香りが鼻へ抜け、柔らかくなったパンと野菜の甘みが口の中へ広がる。
昨夜の夕食も美味しかったが、朝の冷えた身体に染み込むスープには、また別のよさがあった。
しかも、この朝食は宿代に含まれている。
昨日、自分で稼いだお金で泊まった宿で、こうして朝食を取っているのだと思うと、何でもない食事が少しだけ特別なものに感じられた。
食事を終える頃には、窓の外の通りもすっかり賑やかになっていた。
俺は食器を片づけに来たメルへ改めて礼を言い、部屋で替えの服に着替えてから、破れた上着を預けた。
「じゃあ、行ってきます」
「はーい! 今日も気をつけてね、アルク!」
入口の方へ向かうと、メルが厨房から顔を出し、明るく手を振ってくれた。
俺も軽く手を上げて応え、朝の光が広がる通りへ踏み出した。
◇
朝の冒険者ギルドは、昨日よりもさらに賑わっていた。
入口の扉を開けると、革鎧の擦れる音や冒険者たちの話し声が一斉に耳へ飛び込んでくる。掲示板の前には何人もの人が集まり、新しく貼り出された依頼書を眺めながら、仲間同士で相談していた。
俺もその輪に加わり、人の肩越しに依頼書を確かめていく。
薬草採取や荷物運搬、下水道の清掃といった仕事に混じって、農地を荒らす角兎の駆除や、森に現れたゴブリンの調査といった依頼も並んでいた。
昨日のグレイウルフとの戦いを思い出すと、魔物に関わる依頼へ少し興味が湧いてくる。
剣術は、少なくとも低級の魔物相手なら通用した。
もちろん、昨日は危ない場面もあったし、エレナさんから注意されたことも忘れてはいない。
それでも、冒険者として経験を積むには、いつまでも薬草採取だけを続けるわけにもいかないだろう。
そんなことを考えながら、俺は一枚の依頼書へ目を向けた。
《ゴブリンの出没調査》。
討伐ではなく調査と書かれているが、森の中でゴブリンに遭遇する可能性はあるらしい。
「ゴブリンか……」
「駄目ですよ」
背後から聞き覚えのある声がした。
振り返ると、書類を数枚抱えたエレナさんが立っていた。
栗色の髪はいつものように後ろでまとめられ、朝の光を受けた銀縁の眼鏡が小さく輝いている。白いブラウスと濃紺のベストをきちんと着こなした姿には、相変わらず落ち着いた雰囲気があった。
「……まだ何も言ってませんけど」
「顔に書いてあります」
「そんなに分かりやすいですか?」
「はい」
迷いのない返事だった。
エレナさんは抱えていた書類を片腕へ持ち替えると、俺が眺めていた依頼書へ視線を向けた。
「昨日初めてグレイウルフと戦った方が、今日はゴブリンですか?」
「討伐じゃなくて、調査ですよ」
「調査中にゴブリンと遭遇したら、どうします?」
「……場合によっては、戦うかもしれません」
「でしょうね」
エレナさんは小さく息を吐き、眼鏡の位置を指先で直した。
怒っているというより、こちらの考えを最初から見抜いていたような表情だ。
「アルクさん。昨日、何をお話ししたか覚えていますか?」
「無理をしないことと、周囲の安全を確かめることです」
「覚えているなら結構です。ですが、今はもう少し別のことを考えた方がよいと思いますよ」
「別のこと、ですか?」
「ご自分の天職についてです」
そう言われ、俺は思わず動きを止めた。
「……闇魔法士」
「そうです」
エレナさんは頷き、俺の顔を見つめた。
「アルクさんは剣術の経験があるようですが、闇魔法については、どのくらい使えるんですか?」
「それが……まだ一度も使ったことがないんです」
正直に答えると、彼女は一瞬だけ目を丸くした。
「一度も?」
「はい。王……いえ、以前は剣の稽古ばかりしていたので」
危うく王宮と言いかけ、慌てて言い直す。
エレナさんは特に気にした様子もなく、少し考えるように首を傾げた。
「なるほど。剣術の適性が高い理由は分かりましたが、それならなおさら、まずは魔法の練習をした方がよさそうですね」
「そうですね。でも、どうすれば闇魔法を使えるんでしょう?」
「それを受付嬢に聞きます?」
「……ですよね」
俺が肩を落とすと、エレナさんは口元に小さな笑みを浮かべた。
「一般的な魔法士なら、天職を得る前から基礎的な魔力操作を学んでいることが多いんです。適性属性が判明したあと、その系統の術式を習得していくのが普通ですね」
「魔法の理論なら、少しは習ったことがあります」
「それなら、基礎はご存じなんですね」
「ただ、実際に使ったことはありません。それに、闇属性の術式なんて、教本にもほとんど載っていませんでした」
そう答えると、エレナさんは少しだけ眉を寄せた。
「闇属性は珍しいですからね。私も詳しい術式までは分かりませんが、まずは魔力を感じ取るところから始めてみてはどうでしょう」
「魔力を感じ取る……」
「ええ。南区に共同訓練場があります。魔法用の区画もあるので、最初はそこで試してみるといいと思いますよ」
エレナさんは近くの受付台へ歩み寄り、書類を置くと、一枚の紙を取り出した。
羽根ペンを手に取り、簡単な道順を書き始める。
彼女が机へ少し身を屈めると、後ろでまとめた栗色の髪が肩先へ落ち、濃紺のベストに包まれた身体の線が柔らかく浮かび上がった。白いブラウスの袖口から覗く細い手首が、紙の上を滑らかに動いている。
俺が何となくその様子を眺めていると、エレナさんは顔を上げた。
「アルクさん?」
「あ、はい」
「聞いていましたか?」
「もちろんです。南区の共同訓練場ですよね」
「そうです。こちらが地図になります」
差し出された紙には、ギルドから訓練場までの道順が分かりやすく描かれていた。
「ありがとうございます。助かります」
「どういたしまして。ただし、魔法の練習は必ず訓練場で行ってくださいね」
「街の外で試すのは駄目ですか?」
何気なく尋ねると、エレナさんはゆっくりと俺を見た。
眼鏡の奥の蜂蜜色の瞳が、静かに細められる。
「……初めて使う魔法を、誰もいない街の外で試すつもりですか?」
「いえ、そういうわけでは……」
「昨日、グレイウルフに襲われたばかりですよね?」
「……訓練場へ行きます」
「よろしい」
エレナさんは満足そうに頷いた。
その表情には、ほんの少しだけ楽しそうな色が混じっている。
どうやら、俺の扱い方を少しずつ覚えられているらしい。
「では、行ってきます」
「はい。無理をせず、少しずつ試してくださいね」
俺が地図を折り畳んで懐へ収めると、エレナさんは柔らかく微笑んだ。
「それと、アルクさん」
「はい?」
「昨日のように、夕方までには無事に戻ってきてくださいね」
その言葉を聞いて、俺は自然と頷いた。
「分かりました。また報告に来ます」
「お待ちしています」
エレナさんの声に見送られ、俺はギルドを後にした。
◇
グランベル南区の共同訓練場は、高い石壁に囲まれた広い施設だった。
周囲には鍛冶屋や武具店が並び、通りには鉄を打つ槌の音が響いている。訓練場の入口には木製の看板が掲げられ、その向こうからは剣を打ち合わせる音や、魔法が標的へ命中する乾いた音が聞こえてきた。
受付で利用料の銅貨五枚を支払うと、係員が空いている魔法用区画を教えてくれた。
財布へ残った硬貨を戻しながら、俺は小さく息を吐いた。
昨日は初めて報酬を得たばかりだというのに、宿代や食事代、そして訓練場の利用料と、思っていた以上にお金が減っていく。
強くなるためにも、どうやら金が必要らしい。
もっとも、ここで魔法を使えるようになれば、今後の依頼にも役立つだろう。
そう考えれば、銅貨五枚は決して無駄な出費ではないはずだ。
案内された区画へ入ると、正面には木製の標的が一つ立っていた。
何度も魔法を受けているのだろう。
表面には焦げ跡や削れた部分が残り、周囲の地面にも小さな窪みがいくつかできている。
隣の区画では、若い魔法士が杖を構え、赤い火球を標的へ向けて放っていた。
火球が木製の標的へ命中すると、乾いた音とともに火花が散り、焦げた木の匂いが風に乗って漂ってくる。
少し離れた場所では、別の魔法士が水の球を浮かべ、何度も標的へ当てる練習をしていた。
魔法を実際に使う人々の姿を見ていると、教本で学んだ知識が急に現実味を帯びてくる。
俺も、あんなふうに魔法を使えるのだろうか。
そんな期待を胸に、区画の隅へ荷物を置き、標的の前へ立った。
「さて……」
右手を前へ差し出し、掌を上へ向ける。
魔法の理論なら、王宮で学んでいる。
まず体内の魔力を感じ取り、それを術式に従って属性へ変換し、外へ放つ。
火属性なら《ファイア》、水属性なら《ウォーター》、風属性なら《ウィンド》。
基礎的な術式は教本にも載っていたし、宮廷魔法士たちが実演する姿も見たことがある。
ただし、闇属性については事情が違った。
王宮の教本には、闇魔法に関する記述がほとんどなかったのだ。
珍しい属性であることは知っているが、具体的にどのような魔法を使えるのか、俺自身にも分からない。
それでも、鑑定晶が示した俺の闇属性適性はEXだった。
最高位とされるSを超える、規格外の適性。
あの文字を見た時、王宮では誰もが驚き、そして恐れた。
だが、今は違う。
ここには俺を闇魔法士だからという理由だけで追い出そうとする人はいないし、試してみることを止める者もいない。
俺はゆっくりと息を吸い、目を閉じた。
最初に意識へ入ってきたのは、自分の呼吸だった。
胸が膨らみ、冷たい朝の空気が肺へ流れ込む。
息を吐くと、肩に入っていた力が少しずつ抜け、足の裏から伝わる地面の硬さがはっきりと感じられた。
隣の区画で魔法が弾ける音が響き、少し離れた場所では誰かが訓練仲間へ声をかけている。
石壁に反響するそれらの音を、俺は一つずつ意識の外へ追いやっていった。
剣術の稽古でも、集中する時には似たようなことをしてきた。
呼吸を整え、余計な力を抜き、身体の動きへ意識を向ける。
けれど、今回は剣を振るためではない。
自分の身体の内側にあるはずの、魔力を探すためだ。
意識をゆっくりと沈めていく。
心臓の鼓動が、胸の奥で静かに響いている。
さらに深く。
呼吸も、周囲の音も、少しずつ遠くなっていく。
やがて、身体の奥に、ひどく静かな場所があることに気づいた。
冷たい。
けれど、氷や冬の風のような冷たさではなかった。
夜の湖へ指先を沈めた時のように、静かで、澄んでいて、どこか心地よい感覚が広がっている。
俺はその感覚へ、恐る恐る意識を向けた。
すると、背筋を冷たいものが走った。
水面だと思っていたものの下に、底が見えない。
どこまでも深く、暗い。
意識を伸ばしても、その先に何があるのか分からなかった。
まるで、夜の湖だと思っていたものが、果ての見えない深淵へとつながっているようだった。
その暗がりは、俺を引き込もうとしているわけではない。
何かを訴えかけてくるわけでもない。
ただ、そこにある。
静かに、深く、どこまでも。
――《深淵への適応》。
鑑定晶に表示された文字が、ふと脳裏をよぎった。
あの時は、その意味を考える余裕などなかった。
けれど今、身体の奥に広がるこの感覚へ触れていると、あの文字が何かを示していたのではないかと思えてくる。
「……これが、闇属性の魔力なのか」
目を閉じたまま、小さく呟いた。
まだ、何も分からない。
ただ一つ確かなのは、今感じ取っているものが、自分の身体の内側に存在しているということだった。
俺はその深い暗がりから、ほんの少しだけ力を引き上げようとした。
冷たい水面へ手を差し入れ、掌ですくい上げるような感覚。
意識に応じて、何かがゆっくりと動いた。
胸の奥から肩へ、そして右腕を通り、指先へ。
冷たい流れが、掌の内側へ集まっていく。
俺は目を開き、差し出した右手を見つめた。
「……出ろ」
特に術式を思い浮かべたわけではない。
ただ、掌へ集まったものを外へ出したいと思った。
その瞬間、右手の先に小さな黒い球体が生まれた。
「……え?」
思わず声が漏れた。
直径十センチほどの、真っ黒な球体だった。
けれど、その黒さは、墨や炭のような色とはどこか違っていた。
表面には光沢も陰影もなく、朝の陽射しを受けているはずなのに、そこだけ光が抜け落ちているように見える。
球体は掌の少し先でゆっくりと揺れ、周囲の明るさから切り離された小さな夜のように浮かんでいた。
俺は息を止めたまま、その光景を見つめた。
初めて使った魔法。
それも、俺の人生を大きく変えた《闇魔法士》という天職の力だ。
王宮では忌避され、危険なものとして扱われた力が、今はこうして自分の目の前にある。
不思議なことに、恐ろしさは感じなかった。
むしろ、胸の奥に広がる静かな魔力と、掌の先で揺れる黒い球体が、どこか自然につながっているように思えた。
「……これが、俺の魔法か」
思わず頬が緩んだ。
剣を初めて握った時とは、まったく違う感覚だった。
あの時は、木剣の重さを支えることすら難しかった。
けれど今、掌の先に浮かんでいるものは、確かに俺自身の内側から生まれた力だった。
しばらく見入っていたが、やがて一つの疑問が浮かんだ。
これを、どう使えばいいのだろう。
俺は正面の標的へ目を向けた。
魔法なのだから、まずは飛ばしてみるのがよさそうだ。
そう考え、掌を標的へ向ける。
「……飛べ」
黒い球体が、ゆっくりと動き始めた。
思ったよりも速度は出ず、空気の中を漂うように進んでいく。
途中でわずかに左右へ揺れたものの、何とか標的の中央へ近づいていった。
そして、黒い球体が木製の標的へ触れた瞬間。
ぽふっ。
柔らかなものが弾けるような、何とも気の抜けた音がした。
黒い球体は、その場であっさりと消えてしまった。
俺はしばらく標的を見つめた。
焦げ跡も、ひび割れも、削れた部分もない。
念のため近づいて表面へ触れてみたが、木材には何の変化も見当たらなかった。
「……弱っ」
思わず声が出た。
闇属性適性EX。
最高位を超える規格外の適性。
さすがに、初めての魔法で標的が粉々になるとまでは思っていなかった。
それでも、せめて何かしらの変化は起こるものだと期待していたのだ。
現実は、ぽふっ、である。
隣の区画では、先ほどの魔法士が放った火球が標的へ命中し、勢いよく火花を散らしていた。
その音を聞きながら、俺はもう一度、自分の標的を見た。
何も起きていない。
「……いや、待てよ」
攻撃力がないからといって、何の効果もないとは限らない。
火魔法なら燃やすことができるし、水魔法なら水を生み出せる。
風魔法なら空気を動かすことができるのだから、闇魔法にも闇魔法なりの性質があるはずだ。
俺は標的の裏側まで確かめたが、やはり変化は見当たらなかった。
どうやら、少なくとも今の使い方では、直接的な攻撃力はほとんどないらしい。
期待していたほど簡単ではなさそうだ。
けれど、不思議と諦める気にはならなかった。
むしろ、あの黒い球体が何なのか、もう少し確かめてみたくなった。
◇
それから一時間ほど、俺は思いつくことを次々と試していた。
最初に試したのは、黒い球体の大きさを変えることだった。
身体の奥にある冷たい魔力へ意識を向け、先ほどよりも多くの力を右手へ集めてみる。
すると、掌の先に生まれた黒い球体は、最初のものより一回り大きくなった。
直径は二十センチほどだろうか。
輪郭は少し不安定だったが、魔力を流し続けている間は、どうにか形を保っている。
俺はそれを標的へ向けて飛ばした。
今度こそ、少しくらい傷がつくかもしれない。
そう期待して見守っていたが、結果は先ほどと大して変わらなかった。
黒い球体は標的へ触れた途端、頼りない音を立てて消えてしまった。
「……大きくしても駄目か」
次に、球体を小さくしてみた。
魔力を一点へ集めるように意識すると、黒い球体は少しずつ縮んでいったが、ある程度小さくなったところで輪郭が乱れ、指先からこぼれるように消えてしまった。
さらに、飛ばす速度を上げようとしたり、二つ同時に生み出そうとしたりもした。
しかし、速く飛ばそうとすれば軌道が乱れ、二つに分けようとすれば、どちらも形を保てなくなる。
どうやら、魔力を感じ取ることと、それを思いどおりに操ることは別らしい。
剣なら、手首の角度や指の力を少し変えるだけで、刃の向きや動きを調整できる。
けれど、魔法にはまだ、その感覚がない。
何となく力を動かすことはできても、細かな調整をしようとすると、途端に思いどおりにならなくなる。
俺は一度手を下ろし、軽く肩を回した。
隣の区画では、先ほどまで火球を放っていた魔法士が休憩に入ったらしく、石壁の向こうから水筒の蓋を開ける音が聞こえてきた。
訓練場の上には午前の陽射しが広がり、石壁に沿って伸びる影が、少しずつ短くなっている。
俺は額の汗を拭い、もう一度右手を前へ出した。
今度は、球体の形を変えてみることにした。
身体の奥から魔力を引き上げ、掌の先へ集める。
生まれた黒い球体を、今度は細長く伸ばそうと意識した。
最初は丸い形を保っていた闇が、ゆっくりと歪み始める。
けれど、思いどおりの形にはならなかった。
輪郭が揺らぎ、端の方が薄く広がっていく。
そのまま形を保とうとした時、俺はふと、標的の見え方が変わっていることに気づいた。
「……あれ?」
黒い球体の向こうにある標的が、先ほどより見えにくい。
球体そのものが視界を遮っているのは当然だが、それだけではなかった。
輪郭が薄く広がった部分では、周囲の光まで弱くなっているように見える。
俺は右手を少し動かし、闇の位置を変えてみた。
すると、標的の輪郭が見えたり、見えなくなったりした。
「……暗くなってる?」
もう一度、闇を広げる。
今度は球体として固めるのではなく、薄く引き伸ばすように意識を向けた。
すると、黒い球体の輪郭がゆっくりと崩れ、煙のようなものが空気の中へ広がり始めた。
黒い靄だった。
それは風に流される普通の煙とは違い、俺が意識を向けた場所へ、ゆっくりと広がっていく。
靄が濃くなるにつれて、正面にあった標的の輪郭が曖昧になり、やがて完全に見えなくなった。
俺は思わず息を呑んだ。
標的が消えたわけではない。
そこにあるはずのものが、闇に覆われて見えなくなっているのだ。
「……これ、もしかして」
俺は少し横へ移動し、黒い靄を別の角度から眺めた。
靄の向こう側は、やはり見えない。
しかし、周囲の地面や石壁には何の変化もなく、黒い靄が広がっている場所だけが、まるで夜の一部を切り取って置いたように暗くなっていた。
直接的な攻撃力はない。
けれど、視界を遮ることはできる。
そう考えた瞬間、昨日のグレイウルフとの戦いが脳裏に浮かんだ。
灰色の毛並み。
こちらを捉えた黄色い瞳。
地面へ爪を立て、後ろ脚へ力を溜めた直後、勢いよく飛びかかってきた姿。
あの時、俺は相手の動きを見極めることに必死だった。
グレイウルフの牙がどこへ向かうのかを読み、剣を振る間合いを測り、わずかな隙を見つけて反撃した。
もし、あの瞬間にこの闇を広げていたら、どうなっていただろう。
相手が俺の姿を見失えば、飛びかかる方向がわずかにずれるかもしれない。
攻撃をためらうかもしれないし、こちらの動きを見失って、反応が遅れるかもしれない。
たとえ一瞬でも、相手の判断が鈍れば。
その間に、剣を振ることができる。
十年間、剣を振り続けてきた俺には、その一瞬がどれほど大きいか分かる。
相手の呼吸が乱れる瞬間。
足の運びが遅れる瞬間。
視線が外れ、構えにわずかな隙が生まれる瞬間。
剣術では、そうした小さな違いが勝敗を分ける。
俺は黒い靄を見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。
「……使えるかもしれない」
胸の奥が、少しずつ高鳴っていく。
闇魔法そのもので敵を倒せなくてもいい。
俺には剣がある。
闇で相手の視界を奪い、その隙を剣で斬る。
もしそれができれば、今までの剣術とは違う、新しい戦い方になるかもしれない。
俺はもう一度、黒い靄を標的の前へ広げた。
陽射しの中で、そこだけがぽっかりと暗くなる。
標的の姿が見えなくなったことを確かめ、俺は腰の剣へ左手を伸ばした。
そして、すぐに問題へ気づいた。
◇
「……あれ?」
左手で剣の柄を握り、鞘から引き抜こうとしたところで、動きが止まった。
剣を抜くこと自体はできる。
けれど、普段とはまるで感覚が違った。
俺は五歳の頃から、ずっと右手で剣を扱ってきた。
柄を握る指の位置も、腕を引く角度も、鞘から刃を滑らせる動きも、今ではほとんど意識する必要がない。
右手であれば、剣を抜いた瞬間に重心が定まり、そのまま次の動作へ自然につなげられる。
しかし、左手ではそうはいかなかった。
柄を握る位置がわずかにずれ、剣を引き抜く角度も定まらない。どうにか鞘から抜いてみたものの、刃の重さが普段とは違う場所へかかり、構えようとすると肩に余計な力が入ってしまう。
俺は左手の剣を見つめた。
同じ剣なのに、まるで初めて握った武器のようだった。
「……これじゃ、まともに戦えないな」
昨日のグレイウルフのように素早く動く相手を、この構えで迎え撃つのは難しいだろう。
俺は一度、黒い靄を消した。
掌の先に集めていた魔力が途切れると、標的を覆っていた闇が薄れ、午前の光が元の明るさを取り戻していく。
剣を右手へ持ち替える。
すると、先ほどまで感じていた違和感が嘘のように消えた。
柄が掌へ自然に収まり、剣先の重さが腕を通じて伝わってくる。
足の位置を少し変えるだけで身体の重心が落ち着き、いつでも踏み込める構えになった。
やはり、剣は右手で扱う方がいい。
それなら、魔法を左手で使えばいいだけだ。
そう考え、俺は左手を標的へ向けた。
「……出ろ」
何も起こらなかった。
「……あれ?」
俺は左の掌を見つめ、指先を少し動かしてみた。
当然ながら、何も変わらない。
右手では、あれほど簡単に生み出せたのに。
首を傾げながら、もう一度意識を身体の奥へ沈める。
冷たい魔力は、確かにそこにあった。
右手で使った時と同じ、夜の湖のような静かな感覚。
その力を左腕へ導こうとすると、魔力はゆっくりと動き始めた。
しかし、右手の時ほど自然には流れてこない。
肩から肘へ、肘から手首へと意識を向けるたび、流れが細くなったり、途切れたりする。
ようやく掌の先に小さな黒い靄が生まれたが、輪郭は不安定で、わずかに揺れたあと、すぐに消えてしまった。
「……難しいな」
もう一度、左手へ魔力を集める。
今度は先ほどよりも少し大きな靄が生まれた。
けれど、右手の剣へ意識を向けた途端、靄は形を失い、空気の中へ溶けるように消えてしまう。
逆に、左手の魔力へ集中すると、今度は右手の剣が疎かになる。
剣先がわずかに下がり、構えの重心が崩れた。
俺は一度息を整え、右手の剣と左手の掌を交互に見た。
剣術適性S。
闇属性適性EX。
どちらも高い適性を持っているはずなのに、同時に使おうとした途端、驚くほど不器用になってしまう。
「……相性、悪くないか?」
思わず呟いた。
剣を使うには右手が必要で、今の俺が魔法を使いやすいのも右手だ。
神様というものがいるのなら、もう少し都合よく能力を配ってくれてもよかったのではないだろうか。
そんなことを考え、俺は小さく苦笑した。
もっとも、適性が高いからといって、最初から何でもできるわけではない。
それは、剣術で嫌というほど知っている。
初めて木剣を握った頃、俺はまともに振ることすらできなかった。
足の位置を意識すれば腕が止まり、腕の動きへ集中すれば重心が崩れる。
教官に何度も直され、同じ失敗を繰り返しながら、少しずつ身体に覚え込ませていった。
今では意識せずにできる動きも、最初からできたわけではない。
俺は右手の剣を握り直した。
左手の掌を標的へ向け、身体の奥にある魔力へ意識を沈める。
冷たい流れが左腕を伝い、指先へ集まっていった。
掌の先に、小さな黒い靄が生まれる。
俺はその形を保とうとしながら、右手の剣をわずかに動かした。
途端に、靄の輪郭が揺らぐ。
次の瞬間には、何事もなかったように消えてしまった。
「……やっぱり駄目か」
もう一度、左手へ意識を向ける。
今度は先ほどよりも少し長く、黒い靄が残った。
けれど、剣先を動かそうとした途端、やはり形が崩れてしまう。
俺は一度剣を下ろし、ゆっくりと息を吐いた。
右手で剣を振ることはできる。
左手で闇を生み出すことも、どうにかできた。
問題は、その二つを同時に扱うことだ。
思っていた以上に難しい。
けれど、何ができないのかは、はっきりした。
「……できないなら、できるようにすればいい」
そう呟いて、俺はもう一度左手を前へ出した。
剣を初めて握った頃も、こうして何度も失敗した。
それなら、今回も同じだ。
俺は右手の剣を構えたまま、左手へ意識を集中した。
冷たい魔力が掌へ集まり、小さな黒い靄が生まれる。
その輪郭はまだ頼りなく、少し気を抜けば消えてしまいそうだった。
俺は呼吸を整え、左手をゆっくりと動かしてみた。
靄が揺れる。
形が崩れかける。
慌てて意識を戻すと、どうにか持ち直した。
「……おっ」
思わず声が漏れた。
ほんのわずかな時間だったが、今度は消えなかった。
俺は左手を止め、掌の先に浮かぶ黒い靄を見つめた。
まだ小さく、輪郭も不安定だ。
それでも、先ほどまではできなかったことが、一つできた。
思わず頬が緩む。
「……よし。もう一回」
今度は、右手の剣を少しだけ動かしてみた。
すると、黒い靄はあっさりと消えてしまった。
「……あ」
俺はしばらく何もなくなった左手を見つめ、それから小さく笑った。
そう簡単にはいかないらしい。
けれど、さっきよりも少しだけ長く魔法を保てたことは確かだった。
もう一度、右手の剣を構える。
左手を前へ出し、身体の奥から魔力を引き上げる。
掌の先に、小さな闇が生まれた。
今度は、すぐには消えなかった。
訓練場の石壁には午後の陽射しが傾き、隣の区画で練習していた魔法士たちが、一人、また一人と片づけを始めていた。
遠くからは剣を打ち合わせる金属音が響き、時折、誰かの掛け声が石壁に反響する。
俺は右手の剣をゆっくりと持ち上げた。
左手の先では、黒い靄が頼りなく揺れている。
剣先をほんの少し動かす。
靄の輪郭が揺らいだ。
消えるかと思ったが、まだ残っている。
「……お」
思わず声が漏れた。
剣を動かしても、闇が消えなかった。
ほんの一瞬。
それでも、初めて二つの力が同時に動いた。
俺は左手の闇を見つめたまま、ゆっくりと口元を緩めた。




