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第4話 初めての報酬

 グランベルの東門をくぐる頃には、街の石畳が夕陽を受けて赤みを帯び、仕事を終えた人々が家路を急ぎ始めていた。


 行き交う荷車の車輪が石の継ぎ目を越えるたびに小さく跳ね、通りに面した店先からは夕食の支度をする香ばしい匂いが漂ってくる。昼間は品物を並べていた露店も少しずつ店じまいを始めており、商人たちの呼び声に代わって、仕事帰りの職人や買い物客の話し声が通りを満たしていた。


 俺は人の流れに沿って歩きながら、肩に掛けた荷物の位置を直した。


 袋の中には、今日採取したヒール草が十束と、グレイウルフから回収した牙が二本。


 歩くたびに荷物が背中へ触れ、その重みが、林の中で過ごした時間を思い出させる。


 身体に怪我はないものの、剣を握っていた右腕にはまだわずかな疲れが残っていた。


 左袖の裂け目から夕方の風が入り込むたび、グレイウルフの牙がすぐ脇を通り過ぎた瞬間が蘇る。


 あの時、もう少し避けるのが遅れていたら、今頃こうして歩いてはいられなかったかもしれない。


 そう考えると、行き交う人々の声や、どこかの家から聞こえてくる子どもの笑い声が、妙にありがたく感じられた。


 冒険者ギルドへ戻ると、建物の中は朝よりもずっと賑わっていた。


 依頼を終えた冒険者たちが酒場の卓を囲み、今日の成果を話し合っている。肉の焼ける匂いと酒の香りが混じり合い、木製の杯を打ち合わせる音や、誰かの大きな笑い声が高い天井へ響いていた。


 受付の前にも数人の冒険者が並んでいたが、俺が入口から中へ入ると、奥の受付台にいたエレナさんが顔を上げた。


「お帰りなさい、アルクさん」


 銀縁の眼鏡の奥で蜂蜜色の瞳が柔らかく細められ、彼女は手元の書類を揃えながら微笑んだ。後ろでまとめた栗色の髪が肩先で小さく揺れ、濃紺のベストに包まれた姿は、朝と変わらずきちんとしている。


「ただいま戻りました。依頼の薬草、十束集めてきました」


「それはよかったです。初めての採取依頼、お疲れさまでした」


 そう言いながら、エレナさんは俺の顔を確かめるように見つめた。


「それで、怪我はありませんか?」


「はい。大丈夫です」


「……本当に?」


 少し間を置いて尋ねられ、俺は思わず姿勢を正した。


「本当です。怪我はしていません」


 エレナさんは頷きかけたものの、その視線が俺の左腕へ移ったところで、ふと動きを止めた。


「アルクさん。その袖、どうしたんですか?」


「あ……」


 言われて左腕を見ると、肘の少し上から袖の布が裂け、歩くたびに端がひらひらと揺れていた。


 林の中では怪我がないことを確かめただけで、その後はあまり気にしていなかったが、改めて見るとなかなか目立つ。


「実は、林でグレイウルフに遭遇しまして」


「……グレイウルフ?」


 エレナさんの表情から、先ほどまでの柔らかな笑みが消えた。


 驚いて声を上げることはなかったが、書類の端を揃えていた指先が止まり、眼鏡の奥の瞳が真剣な色を帯びる。


「一体だけだったんですけど、襲われてしまって。避けた時に、牙が袖を引っかけたみたいです」


「少し、腕を見せてもらえますか?」


 俺が頷いて左腕を差し出すと、エレナさんは受付台の向こうから身を乗り出した。白いブラウスと濃紺のベストが描く柔らかな身体の線が目に入ったが、それ以上に、破れた布へ向けられた彼女の視線の鋭さが印象に残った。


 裂け目を確かめると、エレナさんは布の端を指先で軽く持ち上げ、その下の腕へ目を向けた。


「……皮膚には届いていませんね」


「はい。運よく避けられました」


「運だけではなさそうですけど……左腕を狙われたんですね。牙が布を引っかけた時、身体を横へ逃がしましたか?」


「えっ?」


 思わず顔を上げる。


 確かに、グレイウルフが左腕へ噛みつこうとした時、俺は咄嗟に身体を横へ逃がした。


「どうして分かったんですか?」


「裂け方を見ると、そんな感じがしたので」


 エレナさんは何でもないことのように答え、そっと袖から手を離した。


「受付をしていると、色々な状態の冒険者が帰ってきますから。服の傷み方で、ある程度は分かることもあるんですよ」


「そういうものなんですね……」


 感心していると、エレナさんは眼鏡を指先で押し上げ、改めて俺の顔を見た。


「それで、アルクさん。どうしてグレイウルフと戦うことになったんですか?」


「薬草を探して、少し林の奥へ入ったんです。そこで茂みの向こうに何かいると気づいたので、引き返そうとしたんですけど……」


「向こうから出てきた、と?」


「はい。いきなり飛び出してきて、逃げる間もなく襲われました」


 俺が説明すると、エレナさんはしばらく考えるように目を伏せた。


 周囲では冒険者たちの笑い声が響いていたが、彼女は急かすことなく、俺の話を最後まで聞いてくれた。


「危険を感じて引き返そうとしたのなら、その判断は間違っていません。襲われた以上、戦わなければならない場合もありますから」


 その言葉に少し安心しかけたところで、エレナさんは続けた。


「ただし、薬草を探すために林の奥へ入りすぎたのは反省してくださいね。今回の依頼なら、入口に近い場所でも十分に採取できたはずです」


「……はい」


「グレイウルフは比較的低級の魔物ですが、群れで行動することもあります。一体だけだったからといって、ほかにもいないとは限りません」


 そう言われ、背筋が冷たくなった。


 戦っている間は、目の前の一体に集中することで精一杯だった。


 もし、あの茂みの向こうにもう一体潜んでいたら、同じように戦えた自信はない。


「……そこまでは考えていませんでした」


「初めての依頼ですから、知らないことがあるのは当然です。でも、次からは周囲にも気を配ってください。戦いに勝つことより、無事に帰ってくることの方が大切なんです」


 エレナさんの声は落ち着いていたが、最後の言葉には、わずかに力がこもっていた。


 俺はもう一度、自分の左袖へ目を落とした。


 破れた布の向こうに、傷一つない腕が見える。


「……分かりました。次からは気をつけます」


「そうしてください」


 エレナさんは小さく息を吐くと、ようやく表情を緩めた。


「それにしても、怪我がなくて本当によかったです」


 その微笑みを見た時、少しだけ胸の奥が温かくなった。


 怒られたと思っていたが、どうやら本当に心配してくれていたらしい。


 王都を離れてから、俺の身を案じてくれる人に出会うことなど、ほとんどなかった。


 だからなのか、何気ないその一言が、不思議と心に残った。


 エレナさんは俺の様子をもう一度確かめてから、ふと思い出したように腰の剣へ視線を向けた。


「ところで……グレイウルフは、どうしたんですか?」


「倒しました」


「……倒した?」


「はい。剣で」


 エレナさんは一瞬だけ目を丸くした。


「初めての実戦ですよね?」


「そうです」


「それで、グレイウルフを一体?」


「はい」


 彼女は俺の腰にある剣を見つめ、それから少し考えるように首を傾げた。


「……闇魔法士なのに?」


「そこ、毎回確認します?」


 思わず聞き返すと、エレナさんは口元に手を添え、くすりと笑った。


「だって、不思議なんですもの。闇魔法士の方が、初めての実戦で魔法を使わずに魔物を倒してくるなんて」


「俺も、闇魔法士になったのはつい最近ですから」


「そうでしたね」


 エレナさんは楽しそうに微笑んだが、その瞳には、先ほどまでとは違う好奇心のようなものが浮かんでいた。


「でも、剣の扱いには慣れているんですね」


「小さい頃から、ずっと稽古していました」


「なるほど。それなら納得です」


 彼女はそれ以上深く尋ねることなく、受付台の上に依頼書を広げた。


「では、まず依頼の確認をしましょうか。採取したヒール草を見せてください」


     ◇


 採取したヒール草を受付で確認してもらったあと、俺は案内された素材買取所へ向かった。


 ギルドの奥に設けられた買取所には、薬草や魔物の素材を持ち込む冒険者が次々と訪れていた。木箱に詰められた薬草の青い匂いと、革袋から漂う獣の匂いが混じり合い、奥の作業台では係員が大きな秤を使って素材の重さを量っている。


 俺が袋からヒール草を取り出すと、買取担当の男性は慣れた手つきで束を広げ、葉の状態を確かめ始めた。


「ほう、ヒール草か。十束だな」


「はい。今日、初めて採取しました」


「初めてにしては、なかなかいいじゃないか。葉も傷んでいないし、根もきちんと残してきたようだな」


 係員は一本を指先で持ち上げ、茎の切り口を確かめながら頷いた。


「この調子なら問題ない。依頼達成でいいだろう」


「ありがとうございます」


 思わず声が弾んだ。


 林の中で何度も図鑑を開き、似た草を見比べながら集めたものだ。


 専門の係員に問題ないと言われると、ようやく肩の力が抜ける。


 続いて、俺は荷物の中から布に包んだ二本の牙を取り出した。


「あの、それから、これも買い取ってもらえますか?」


 係員は布を開くと、灰色の毛がわずかに残る牙を手に取り、光へかざして状態を確かめた。


「グレイウルフの牙か。自分で倒したのか?」


「はい。薬草を採取していたら襲われまして」


「そうか。で、魔石は?」


「……魔石?」


 聞き慣れない言葉に首を傾げると、係員の手が止まった。


「お前、魔石を取ってこなかったのか?」


「どこにあるんですか?」


 そう尋ねると、係員は一瞬だけ呆れたような顔をしたあと、苦笑した。


「本当に新人なんだな」


「今日、冒険者登録をしたばかりです」


「それなら、先にそう言ってくれ」


 係員は牙を作業台へ置き、奥の棚から魔物の解体について記された簡単な図を取り出した。


「魔物の体内には《魔石》と呼ばれる結晶がある。魔道具の材料なんかに使われるから、種類によってはかなり高く売れるんだ」


 図にはグレイウルフの身体が描かれ、胸のあたりに小さな印がつけられていた。


「グレイウルフなら心臓の近くだ。討伐したあと、胸部を切り開いて回収する。もちろん、周囲に別の魔物がいないか確かめてからだぞ」


「なるほど……」


 俺は図を覗き込み、位置を覚えようとした。


 牙だけでも素材になることは知っていたが、魔石というものがあるとは思わなかった。


「ちなみに、その魔石はいくらくらいで売れるんですか?」


「状態にもよるが、グレイウルフなら銅貨二十枚から三十枚くらいだな」


「……銅貨二十枚?」


 思わず聞き返してしまった。


 銅貨二十枚といえば、今日の依頼報酬に含まれる銅貨と同じ枚数だ。


 エレナさんから聞いた宿の料金なら、一泊してもまだお釣りが残る。


 俺はしばらく作業台の図を見つめ、それから恐る恐る尋ねた。


「……今から取りに戻っても、間に合いますか?」


「やめとけ」


 係員は即座に答えた。


「もう日が暮れる。場所が分かっていても、夕方の森へ新人一人で戻るのは危ないぞ。それに、死骸がまだ残っているとも限らん」


 言われて窓の外を見ると、建物の向こうへ沈みかけた夕陽が、空を濃い橙色に染めていた。


 確かに、今から戻れば林へ着く頃には薄暗くなっているだろう。


「……そうですよね」


「まあ、今回は勉強代だと思っておけ。牙は買い取れるし、初めての依頼で無事に帰ってきたなら上出来だ」


 係員はそう言って牙を秤へ載せ、状態を確認してから買取額を書き込んだ。


 俺はその様子を眺めながら、胸の奥で小さくため息をついた。


 銅貨二十枚以上の魔石を取り逃がしたのは惜しい。


 けれど、知らなかったことを一つ覚えたのだから、次は同じ失敗をしないようにすればいい。


 それに、あの林へ戻るより、今は宿を探す方が大切だ。


 そう考えると、少しだけ気持ちが軽くなった。


 係員から査定を終えたことを告げられ、俺は依頼の確認票と買取票を受け取った。


 これを受付へ持っていけば、いよいよ報酬を受け取れるらしい。


     ◇


 受付へ戻る頃には、ギルドの窓から差し込む夕陽もだいぶ弱くなっていた。


 酒場の方では冒険者たちが夕食を取り始めており、焼いた肉の香りと賑やかな話し声が漂ってくる。受付台の上には小さなランプが灯され、エレナさんの栗色の髪を柔らかな金色に照らしていた。


「お待たせしました、アルクさん。査定は終わりましたか?」


「はい。魔石を取り忘れていたことも分かりました」


「あら……」


 エレナさんは少しだけ目を丸くし、それから困ったように微笑んだ。


「そうでしたか。最初に説明しておけばよかったですね」


「いえ、俺が知らなかっただけですから。次はちゃんと回収します」


「ええ。でも、素材を回収する時も周囲の安全を確かめてくださいね」


「分かりました」


 エレナさんは頷くと、受け取った確認票と買取票を照らし合わせ、手元の帳簿へ丁寧に記入していった。


 細い指先が紙の上を滑り、羽根ペンが小さな音を立てる。仕事中の彼女は無駄な動きがなく、書類を扱う姿にも落ち着いた美しさがあった。


 やがて記入を終えると、エレナさんは引き出しから硬貨を取り出し、受付台の上へ並べた。


「それでは、今回の報酬です。ヒール草の採取依頼が銀貨一枚と銅貨二十枚。グレイウルフの牙二本の買取代が銅貨十二枚ですので、合計で銀貨一枚と銅貨三十二枚になります」


 銀貨が一枚、そして数えられた銅貨が受付台の上へ並べられる。


 小さな金属音が重なるたび、俺は自然とその光景に見入っていた。


「……これが、俺の報酬ですか」


「はい。アルクさんが今日、初めて自分で稼いだお金ですよ」


 エレナさんはそう言って、柔らかく微笑んだ。


 俺は差し出された硬貨を両手で受け取った。


 掌へ触れた銀貨はひんやりとしていて、縁には細かな模様が刻まれている。銅貨を重ねると、金属同士が触れ合う小さな音が鳴り、指先には思っていたよりもしっかりとした重みが残った。


 決して大きな金額ではないのだろう。


 けれど、その硬貨を眺めていると、林の中で湿った土へ膝をつき、何度も図鑑を開き直した時間が思い出された。


 最初のヒール草を見つけた時の嬉しさ。


 グレイウルフの牙を前にした時の恐怖。


 剣を振り、どうにか生き残ったあと、静かな森の中で息を整えたこと。


 そのすべてが、今は掌の上にある小さな硬貨へつながっている。


 俺は銀貨を一枚つまみ上げ、ランプの光へかざした。


 鈍く輝く銀色の表面に、ギルドの灯りが細く映り込む。


「……本当に、俺が稼いだお金なんですね」


 思わず呟くと、エレナさんが楽しそうに目を細めた。


「嬉しいですか?」


「はい」


 俺は銀貨を掌へ戻し、彼女を見た。


「すごく嬉しいです」


 そう答えると、エレナさんは少しだけ驚いたように瞬きをし、それから、いつもより柔らかな笑みを浮かべた。


「そういう顔をされると、受付としても嬉しいですね」


「そうなんですか?」


「ええ。最初の報酬って、皆さんよく覚えているものなんですよ。何年も経ってから、あの時は嬉しかったと話してくださる方もいます」


 彼女はそう言いながら、受付台に残った硬貨の包みを整えた。


 その横顔を見ていると、ふと気になったことがあった。


「エレナさんも、最初の報酬を覚えているんですか?」


 何気なく尋ねたつもりだった。


 けれど、その瞬間、エレナさんの指先がわずかに止まった。


「私は……」


 銀縁の眼鏡の奥で、蜂蜜色の瞳がほんの一瞬だけ遠くを見る。


 何かを思い出したようにも見えたが、次に瞬きをした時には、いつもの穏やかな表情へ戻っていた。


「色々な冒険者の方から、そういうお話を聞きますから」


「なるほど。やっぱり、初めての報酬は特別なんですね」


「そうですね。きっと、アルクさんも忘れないと思いますよ」


 エレナさんは微笑み、俺の手元へ視線を向けた。


 掌の上には、まだ銀貨が一枚載っている。


 王宮では、必要なものは誰かが用意してくれた。


 食事も衣服も、暮らすための部屋も、そこにあるのが当たり前だった。


 けれど、この銀貨は違う。


 誰かから与えられたものではなく、俺が依頼を受け、自分の足で林へ行き、仕事を終えて持ち帰った結果として手に入れたものだ。


 まだ、これだけで暮らしていけるわけではない。


 明日も明後日も、仕事を探さなければならないだろう。


 それでも、これから自分の力で生活していけるかもしれないという、小さな手応えがあった。


 俺は銀貨を大切に財布へ収めた。


「ありがとうございました、エレナさん」


「どういたしまして。初めての依頼、お疲れさまでした」


 そう言ってから、エレナさんは何かを思い出したように顔を上げた。


「そういえば、アルクさん。今夜の宿はもう決めていますか?」


「いえ、まだです。これから探そうと思っていました」


「それなら、ちょうどよかったです」


 彼女は受付台の引き出しから一枚の紙を取り出し、俺の前へ差し出した。


「《跳ね鹿亭》という宿があるんです。ここから歩いて十分ほどのところで、冒険者の方もよく利用されています」


「跳ね鹿亭、ですか?」


「ええ。一泊銅貨十五枚で朝食付きなんですが、ギルド登録者なら銅貨十二枚で泊まれます。お部屋も清潔ですし、食事も美味しいですよ」


 紹介状には、宿の名前と簡単な道順が記されていた。


 俺がそれを受け取ると、エレナさんは少し身を乗り出し、指先で地図の一角を示した。


「ギルドを出て右へ進んで、この角を曲がってください。跳ねる鹿の看板があるので、すぐに分かると思います」


「ありがとうございます。すごく助かります」


 思わず真剣に礼を言うと、エレナさんは少し目を丸くした。


「……そんなに喜んでもらえるなら、紹介した甲斐がありますね」


 そう答えながら、彼女はわずかに視線を逸らし、耳元へ落ちた栗色の髪を指先で整えた。


 いつも落ち着いているエレナさんにしては、少し珍しい仕草だった。


「それでは、今日はゆっくり休んでください。初めての実戦で、思っている以上に疲れているはずですから」


「はい。明日、また来ます」


「お待ちしています」


 エレナさんはそう言って、柔らかく微笑んだ。


 俺はもう一度頭を下げ、紹介状を手にギルドを後にした。


     ◇


 《跳ね鹿亭》は、エレナさんに教えてもらったとおり、ギルドから歩いて十分ほどの場所にあった。


 夕暮れの通りには、仕事帰りの人々が行き交い、店先に吊るされたランプが一つ、また一つと灯り始めていた。石畳の隙間には昼間の陽射しの名残が残っているのか、足元からわずかな温もりが伝わってくる。


 教えられた角を曲がると、通りに面した二階建ての建物が見えた。


 入口の上には、跳ねる鹿を描いた木製の看板が吊るされている。長年風雨にさらされてきたのだろう、看板の縁は少し色褪せていたが、描かれた鹿は今にも飛び出してきそうなほど生き生きとしていた。


 開け放たれた窓からは、煮込んだ肉と香草の温かな匂いが漂ってくる。


 ちょうど夕食の時間なのだろう。


 腹の奥が小さく鳴り、そういえば昼間は携帯食を少し口にしただけだったことを思い出した。


 俺は入口の前で立ち止まり、紹介状を確かめてから扉を開けた。


 中は食堂を兼ねた広間になっていた。


 磨き込まれた木製の卓がいくつか並び、仕事帰りらしい客たちが夕食を取りながら談笑している。壁には古い風景画や小さな飾り棚が掛けられ、奥の厨房からは鍋をかき混ぜる音と、食器の触れ合う軽やかな音が聞こえてきた。


 王宮の食堂のような華やかさはないが、使い込まれた家具や温かな灯りには、不思議と人を落ち着かせるものがあった。


「はーい、いらっしゃい!」


 明るい声が、厨房の方から飛んできた。


 声の主は、料理を載せた大きな盆を手に、厨房の奥から姿を現した。


 年の頃は十八歳くらいだろうか。明るい亜麻色の髪を後ろでざっくりと束ね、白いブラウスの上から前掛けを着けている。快活な笑顔がよく似合う女性で、豊かな胸元から引き締まった腰へ続く身体の線には、日々忙しく働いているらしい健康的な張りが感じられた。


 彼女は盆を片手で支えながら客の卓へ料理を置き、慣れた様子で空いた皿を回収すると、こちらへ向き直った。


「泊まりのお客さん?」


「はい。冒険者ギルドのエレナさんに紹介してもらったんですけど」


「ああ、エレナさんの紹介ね!」


 彼女の表情がぱっと明るくなった。


「それなら、一泊銅貨十二枚で朝ご飯付きだよ。ちょうど部屋も空いてるから、すぐ案内できると思う」


「よかった。助かります」


「じゃあ、こっちへどうぞ!」


 そう言って彼女は受付台の方へ歩き出したが、数歩進んだところでふと足を止めた。


「あれ?」


 振り返った彼女の視線が、俺の左腕へ向けられている。


「その袖、どうしたの?」


「ああ、これですか。今日、魔物と戦った時に少し……」


「えっ、魔物?」


 彼女は驚いたように目を見開き、すぐに俺の左腕を覗き込んだ。


「怪我はしてない? 血は出てない?」


「大丈夫です。服が破れただけなので」


 俺が左腕を軽く動かしてみせると、彼女はほっとしたように息を吐いた。


「もう、びっくりさせないでよ。冒険者さんって、そういうことを平気な顔で言うんだから」


「……すみません」


「謝らなくてもいいけどさ。怪我してたら、ちゃんと言ってよね」


 少し呆れたような口調だったが、その表情には嫌な感じがまったくなかった。


 むしろ、初対面の相手をここまで心配してくれることの方が意外だった。


 彼女は破れた袖をもう一度見てから、何かを思いついたように笑った。


「あ、そうだ。洗濯物があるなら、明日の朝にでも持ってきてね。簡単な破れなら、ついでに直せるから」


「そこまでしてもらえるんですか?」


「もちろん。宿のお客さんなんだから、遠慮しなくていいよ」


 彼女は胸を張ってそう答えたあと、少し照れたように笑った。


「まあ、難しいのはお母さんに頼むことになるけどね」


 その気安い口調につられて、俺も自然と笑みがこぼれた。


「ありがとうございます。助かります」


「どういたしまして!」


 彼女は満足そうに頷くと、受付台の奥から宿帳を取り出した。


「そういえば、まだ名前を聞いてなかったね。あたし、メル。ここの娘なの」


「俺はアルクです。よろしくお願いします」


「アルクね。うん、覚えた!」


 メルはにっこり笑い、宿帳をこちらへ向けた。


「じゃあ、アルク。ここに名前を書いてくれる?」


 初対面だというのに、ずいぶん親しみやすい人だった。


 エレナさんの落ち着いた物腰とはまた違う、明るく気さくな雰囲気がある。宿の中を忙しく動き回りながらも、客一人ひとりへ自然に声をかける姿からは、ここで働くことに慣れている様子が伝わってきた。


 俺が宿帳へ名前を書き込むと、メルはそれを確かめ、棚から鍵を一つ取り出した。


「はい、二階の奥の部屋ね。階段を上がって、右側の一番奥。夕ご飯はまだ食べてない?」


「いえ、まだです」


「だったら、荷物を置いたら下へおいでよ。今日は肉と野菜の煮込みがあるんだ。うちのおすすめ!」


 そう言って、メルは楽しそうに笑った。


 厨房から漂ってくる香りを思い出すと、急に腹が減ってきた。


「それは楽しみです」


「ふふっ、期待してて!」


 メルはそう答えると、厨房から呼ばれた声に振り返った。


「はーい、今行く!」


 明るく返事をしてから、もう一度こちらへ顔を向ける。


「じゃあ、アルク。ゆっくりしてね!」


「はい。ありがとうございます」


 俺が礼を言うと、メルは軽く手を振り、再び厨房の方へ駆けていった。


 その背中を見送りながら、俺は手の中の鍵を確かめた。


 エレナさんに紹介された宿は、どうやら思っていた以上に居心地がよさそうだった。


     ◇


 夕食を終えて二階の部屋へ戻る頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。


 《跳ね鹿亭》の二階にある部屋は、一人用の寝台と小さな机、椅子、それに荷物を置く棚があるだけの、こぢんまりとした造りだった。壁も床も使い込まれた木材でできていたが、きちんと掃除されており、窓辺には洗いたてらしい薄い布のカーテンが掛けられている。


 窓を少し開けると、夜の冷たい空気とともに、下の通りから人々の話し声が聞こえてきた。


 遠くで馬車の車輪が石畳を踏む音が響き、どこかの家の窓から漏れる灯りが、向かいの壁へ淡い四角形を描いている。


 俺は窓を閉め、寝台へ腰を下ろした。


 藁を詰めた寝具は少し硬く、身体を預けると乾いた音を立てて沈んだ。


 王宮で使っていた寝台とは比べものにならないが、今日一日歩き回った身体には、その硬ささえ心地よく感じられた。


「……悪くないな」


 思わず呟く。


 夕食の煮込みも美味しかった。


 柔らかく煮込まれた肉と野菜には香草の香りがよく染み込んでいて、温かな汁を口にするたび、冷えていた身体の奥までじんわりと温まるようだった。


 食堂ではメルが忙しそうに働いていたが、俺が料理を食べ終える頃には、わざわざ卓まで来て「どうだった?」と尋ねてくれた。


 美味しかったと答えると、彼女は自分が褒められたことのように嬉しそうに笑っていた。


 その表情を思い出すと、少しだけ頬が緩む。


 どうやら、この宿では退屈することはなさそうだ。


 俺は荷物を整理し、机の上へ財布と冒険者証を置いた。


 木製の小さな札には、《F級》と《アルク》の文字が刻まれている。


 その隣へ財布を置き、今日受け取った銀貨を一枚取り出した。


 ランプの光を受けて、銀色の表面が鈍く輝く。


 宿代と夕食代を支払ったので、手元の金は少し減っている。


 それでも、初めて自分で稼いだ銀貨が、こうして財布の中に残っている。


 俺は銀貨を指先で転がしてみた。


 硬貨が机に触れ、小さな金属音を立てる。


 たった一枚の銀貨だ。


 けれど、今日の俺には、ずいぶん重みのある一枚だった。


「……明日も、稼がないとな」


 思わず口にしてから、少し笑ってしまった。


 王宮にいた頃には、こんなことを考えたこともなかった。


 けれど、今は宿代も食費も、自分で何とかしなければならない。


 幸い、今日の依頼で少しは稼げた。


 エレナさんに教えてもらった宿も見つかったし、温かな食事にもありつけた。


 まずは上々の一日だったと言っていいだろう。


 俺は銀貨を財布へ戻し、冒険者証と一緒に机の端へ置いた。


 それから寝台へ身体を横たえる。


 天井には木目が走り、ランプの光が小さく揺れていた。階下からは食堂の片づけをする音が聞こえ、しばらくすると、メルらしい明るい声が誰かと話すのがかすかに聞こえてくる。


 その声を聞いていると、不思議と気持ちが落ち着いた。


 明日は、何をしようか。


 薬草採取の依頼をもう一度受けるのもいい。


 今日取り忘れた魔石について、ギルドで詳しく聞いてみるのも悪くないだろう。


 そう考えているうちに、ふと、別のことが頭に浮かんだ。


 《闇魔法士》。


 自分に与えられた天職の名前だ。


 王都でその天職を告げられてから、もう何日も経っている。


 けれど、俺はまだ、闇魔法をまともに使ったことがない。


 魔法士という天職を持っているのに、今日の戦いでも頼ったのは剣だけだった。


 もちろん、剣術が役に立ったことは嬉しい。


 けれど、もしあの時、魔法を使うことができていたらどうだっただろう。


 グレイウルフとの距離を取ることができたかもしれない。


 相手の動きを妨げたり、隙を作ったりすることもできたのだろうか。


 ……いや。


 そもそも、闇魔法で何ができるのかさえ、俺は知らない。


 火魔法なら炎を生み、水魔法なら水を操る。


 それなら、闇魔法は?


 暗闇を作るのだろうか。


 それとも、何か別の力があるのだろうか。


 考えてみても、答えは出なかった。


 王宮で学んだ魔法理論にも、闇属性について詳しい説明はほとんどなかった。


 宮廷魔法士たちが使う術式とも、何かが違うのかもしれない。


 俺は寝台の上で片手を持ち上げ、掌を見つめた。


 昼間、あの掌で剣を握り、グレイウルフと戦った。


 けれど、同じ身体の中に、まだ一度も確かめたことのない力が眠っている。


 そう思うと、不思議な気分だった。


 《闇魔法士》。


 剣士になるはずだった俺に、神が与えた天職。


 その名前を心の中で繰り返してみる。


 不安がないわけではない。


 けれど、今はそれ以上に、どんな魔法なのか知りたいという気持ちが強かった。


「……明日は、魔法について調べてみるか」


 小さく呟き、持ち上げていた手を下ろした。


 グランベルの冒険者ギルドなら、魔法についての資料もあるかもしれない。


 明日になれば、今まで知らなかったことが何か一つくらい分かるだろうか。


 そう考えると、自然と口元が緩んだ。


 今日一日歩き回って、身体はすっかり疲れている。


 それなのに、明日のことを考えると、胸の奥が少し弾むようだった。


 俺はランプの灯りを消し、薄い掛け布を肩まで引き上げた。


 窓の外では、夜風が通りを抜けていく音がしている。遠くの酒場から聞こえる笑い声も、階下で誰かが椅子を動かす音も、今はどこか心地よかった。


 暗闇の中で、俺はもう一度小さく笑った。


 そして、明日を楽しみにしながら、静かに目を閉じた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

アルクの冒険者としての生活が、少しずつ始まりました。

これからの成長を楽しみにしていただけたら嬉しいです。

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