第3話 初めての依頼
グランベルの東門を抜けると、それまで背中を押すように聞こえていた街の喧騒が、歩みを進めるにつれて少しずつ遠ざかっていった。
門の外には緩やかな起伏を描く街道が延び、その両側には収穫を間近に控えた畑が広がっている。秋の陽射しを浴びた穂が風に合わせて波打ち、畑仕事をする農夫たちの声が、乾いた土の匂いとともに流れてきた。道端には荷車の轍が幾重にも刻まれ、ところどころに残る馬の蹄の跡からも、この道を多くの人々が行き来していることが分かる。
振り返ると、グランベルの城壁が青空を背に大きくそびえていた。
ほんの少し前まで、あの向こう側で冒険者登録をしていたのだと思うと、何だか不思議な気分になる。
王都を離れてから七日間、俺はひたすらグランベルを目指して歩いてきた。
知らない土地を旅すること自体は新鮮だったが、目的地へたどり着くことが最優先で、道中の景色をゆっくり眺める余裕はあまりなかった。
けれど、今日は違う。
初めて自分で選んだ仕事を受け、その目的のために街の外へ向かっている。
腰には十年間使い慣れた剣があり、懐には冒険者の身分を示す小さな木札が収まっている。歩くたびに木札が胸元へ軽く触れ、その感触を確かめるたび、ようやく冒険者になったのだという実感が少しずつ湧いてきた。
もっとも、最初の仕事は魔物討伐でも遺跡探索でもなく、薬草採取なのだが。
「ヒール草、十束か……」
手にした依頼書をもう一度確かめる。
報酬は銀貨一枚と銅貨二十枚。
王宮にいた頃なら、それがどの程度の価値を持つのか、深く考えることもなかっただろう。
けれど、今の俺には宿代も食費も必要で、懐に残っている銀貨三枚と銅貨七枚だけでは、いつまでも暮らしていけない。
そう考えると、薬草採取も決して地味な仕事ではなかった。
何より、自分の力で初めて報酬を得ることになるのだ。
そう思えば、自然と足取りも軽くなる。
依頼書によれば、目的のヒール草はグランベルから徒歩一時間ほどの林に群生しているらしい。
街道を東へ進み、途中の分かれ道から林へ入ればよいと、受付のエレナさんが地図を示しながら教えてくれた。
俺は歩きながら、彼女から渡された薄い植物図鑑を開いた。
紙面には薬草の絵と特徴が細かく描かれている。
ヒール草は、三枚の葉を持ち、その縁が白く、茎には細かな毛が生えている植物だという。
回復薬の材料として広く使われるため需要が高く、冒険者ギルドでも常時採取依頼が出されているらしい。
説明だけを読めば、見つけるのはそれほど難しくなさそうだった。
ところが、図鑑を数枚めくったところで、その考えが少し甘かったことに気づく。
ヒール草によく似た《青苦草》という植物があり、こちらにはほとんど薬効がない。
さらに《眠り草》という植物は、葉の形こそ異なるものの、若い株の頃は見分けがつきにくく、茎から出る汁に素手で触れると手が痺れることもあるという。
同じような緑色の葉を持つ植物が、これほど多いとは思わなかった。
「……エレナさんが、あれだけ注意するわけだ」
昨日までの俺なら、森に生えている草など、せいぜい踏まないように気をつける程度の存在だった。
王宮の庭園には珍しい植物も数多く植えられていたが、その名前や薬効を覚える必要はなく、庭師たちが手入れをする様子を眺めるだけで済んでいた。
しかし、今は違う。
薬草を見分けられなければ依頼は達成できず、間違った植物を採取すれば、誰かの治療に使われる薬にも影響するかもしれない。
そう考えると、葉の形一つにも、これまでとは違う意味があるように思えてきた。
図鑑を閉じて荷物へしまうと、街道の先に小さな林が見え始めた。
緩やかな丘の裾に広がるその林は、遠くから見ると穏やかな緑の塊にしか見えない。けれど、近づくにつれて木々の間には濃淡があり、陽の当たる枝先では葉が黄色く色づき始めていることが分かった。
俺は分かれ道で足を止め、エレナさんに教わった地図と周囲の地形を照らし合わせた。
街道脇の大きな岩。
その向こうに延びる細い踏み跡。
林の入口に立つ、幹の曲がった一本の木。
どれも説明どおりだった。
どうやら、道は間違えていないらしい。
俺は図鑑を取り出しやすい位置へ移し、木々の間へ足を踏み入れた。
◇
林の中へ入ると、外とは空気の質が変わった。
頭上では枝葉が重なり合い、午後の陽射しが細かな光の筋となって地面へ落ちている。踏みしめた落ち葉は柔らかく沈み、その下からは湿った土の匂いが立ち上った。街道を吹き抜けていた秋風も木々に遮られ、代わりに葉擦れの音や小鳥の鳴き声が近くに聞こえてくる。
林の入口付近には人が歩いた跡が残っていた。
採取依頼を受けた冒険者や、薪を集めに来る住民が利用しているのだろう。地面には踏み固められた部分があり、低い枝が折られた跡も見える。
俺はその踏み跡に沿って歩きながら、木の根元や日陰になった斜面へ目を向けた。
ヒール草は湿り気のある場所を好むと、図鑑に書かれていたからだ。
しかし、探し始めてみると、思っていた以上に難しい。
林の中には似たような背丈の草がいくらでも生えていた。細長い葉を持つもの、丸みを帯びた葉を持つもの、茎の途中から小さな葉が分かれているもの。遠目にはどれも同じような緑色に見え、近づいて確かめるたびに図鑑を開き直すことになった。
最初の十分ほどは、これといった成果もなかった。
何度かそれらしい植物を見つけたものの、葉の数が違ったり、縁の色が白くなかったりして、結局は採取せずにその場を離れた。
「……思ったより難しいな」
独り言を漏らしながら、倒木の脇へしゃがみ込む。
苔に覆われた木の根元には雨水が残っているのか、周囲よりも土が黒く湿っていた。落ち葉を指先でそっと寄せると、その下から小さな草が顔を覗かせている。
何気なく図鑑を開き、描かれた絵と見比べた。
三枚の葉が茎の先で広がり、その縁には細い白色の線が走っている。顔を近づけてみると、茎の表面には柔らかな毛が密生していた。
図鑑の絵と、ほとんど同じだ。
「……これか?」
もう一度、葉の形と茎の特徴を確かめる。
間違いない。
ようやく見つけたヒール草を前に、思わず頬が緩んだ。
俺は荷物から小刀を取り出し、エレナさんに教わったとおり、根を残すように茎の少し上へ刃を入れた。
細い茎は小さな抵抗を残して切れ、指先には青い草の匂いが移った。
採取したヒール草を束ね、形を崩さないように袋へ収める。
これで一束。
依頼達成までは、あと九束だ。
けれど、一つ見つけたことで、少しだけ見方が変わった。
先ほどまでは林の中を漫然と眺めていたが、今はヒール草が生えていた場所の特徴が気になってくる。
大きな木の根元、湿った土、直射日光の当たりにくい場所。周囲を見回すと、少し離れた斜面にも似たような環境があることに気づいた。
試しに近づいてみると、そこにも三枚葉の小さな草が生えていた。
今度は図鑑を開く前に、葉の縁が白いことに気づく。
茎の毛を確かめ、慎重に小刀を入れた。
二束目。
それからは、少しずつ採取の要領が分かってきた。
湿った場所を探し、日当たりを確かめ、葉の形を見比べる。
似た植物を見つけても、すぐには触れず、まず図鑑の特徴と照らし合わせる。
何度か繰り返すうちに、それまで同じように見えていた林の緑が、少しずつ異なる形や色を持っていることに気づき始めた。
知らなかったものを観察し、違いを覚え、次に活かす。
剣術の稽古でも、似たような経験があった。初めて木剣を握った頃は、教官の動きなど速すぎて、何が起きているのか分からなかった。
けれど、何度も剣を交えるうちに、肩の動きや足の運び方、重心の移り方が少しずつ見えるようになっていった。
今、俺がしているのも、それと同じことなのかもしれない。
そう考えると、薬草採取もなかなか面白い。
気づけば、袋の中には七束のヒール草が収まっていた。
採取を始めてから、三十分ほどが経っている。
残りは三束。
もう少し探せば、十分に集められそうだった。
俺は袋の口を閉じ、周囲を見回した。
入口付近の草は、ほかの採取者がすでに摘んでしまったのか、目につく場所にはあまり残っていない。けれど、少し奥へ入った斜面には、まだ湿った土が広がっているように見えた。
あそこなら、残りの三束も見つかるかもしれない。
俺は木々の間に残る踏み跡を確かめながら、少しだけ林の奥へ進むことにした。
◇
林の奥へ進むにつれて、足元の様子が少しずつ変わっていった。
入口付近でははっきりしていた踏み跡が途切れがちになり、地面には落ち葉が厚く積もっている。頭上の枝も低く張り出し、木漏れ日は細い筋となって、苔むした岩や倒木の表面を照らしていた。
周囲にはまだ鳥の声が聞こえていたが、人の気配はすっかりなくなっている。
少し入りすぎただろうか。
そう思って立ち止まり、背後を振り返った。
木々の隙間から、先ほど歩いてきた道がかろうじて見える。
戻れなくなるほど奥へ来たわけではないが、これ以上進むのはやめた方がよさそうだった。
エレナさんにも、林の奥へ入りすぎないようにと言われている。
残り三束なら、別の場所を探してもよいだろう。
そう考えて引き返そうとした時、右手の茂みが小さく揺れた。
最初は風かと思った。
けれど、周囲の枝葉はほとんど動いていない。
揺れたのは、その茂みだけだった。
俺は足を止め、無意識に腰の剣へ手を伸ばした。
湿った土の匂いに混じって、何か別の匂いが漂ってくる。
獣の体臭だろうか。
王宮の厩舎で嗅いだ馬の匂いとも、街道で見かけた犬の匂いとも違う、少し生臭いような気配が鼻をかすめた。
耳を澄ませると、茂みの向こうから落ち葉を踏む小さな音が聞こえる。
何かがいる。
そう判断した瞬間、エレナさんの言葉が頭をよぎった。
知らない魔物には近づかないこと。
分からないものには、むやみに触らないこと。
今の俺には、茂みの向こうにいるものが何なのか分からない。
ならば、無理に確かめる必要はないだろう。
俺は剣の柄に手を添えたまま、相手を刺激しないように一歩だけ後ろへ下がった。
落ち葉が靴の下で、かすかに音を立てる。
その瞬間だった。
茂みが大きく揺れ、灰色の影が飛び出してきた。
反射的に身体を引くと、目の前の地面へ四本の脚が着地し、湿った土と枯れ葉が小さく跳ね上がった。
現れたのは、大型の犬によく似た獣だった。
ただし、王都の街角で見かけた犬などとは比べものにならないほど大きい。肩の高さは俺の腰ほどもあり、灰色の毛皮に覆われた身体は筋肉質で、長い口元からは鋭い牙が覗いている。
黄色い瞳が、まっすぐこちらを捉えていた。
喉の奥から低い唸り声が漏れ、開いた口の隙間から生温かい息が白い牙を濡らしている。
図鑑で見た姿が、頭に浮かんだ。
「……グレイウルフ」
低級魔物の一種。
一体であれば、F級冒険者でも討伐可能とされている。
そんな説明を、図鑑で読んだ覚えがある。
けれど、目の前に立つ実物は、紙の上に描かれた絵とはまるで違っていた。
図鑑には牙の長さも、体格も、危険性も記されていたはずだ。
それなのに、実際にこちらへ向けられた黄色い瞳を見た途端、そうした知識がひどく頼りないものに思えてきた。
この獣は、俺を見ている。
単に興味を持っているのではない。
獲物として、こちらを捉えているのだ。
グレイウルフが前脚を少し開き、身体を低く沈めた。
その動きを見た瞬間、背筋を冷たいものが走った。
来る。
そう判断した時には、すでに右手が剣の柄を握っていた。
鞘から刃を引き抜き、左足を半歩引いて構える。
何千回も繰り返してきた動作だった。
刃は滑らかに鞘を走り、身体は考えるより先に、慣れ親しんだ構えへ収まっている。
剣先の高さも、足の開き方も、訓練場で教わったとおりだった。
それなのに、柄を握る掌には汗が滲んでいた。
心臓が、いつもより速く打っている。
呼吸を整えようとしても、吸い込んだ空気が胸の奥まで届かないような感覚があった。
王宮の訓練場で騎士たちと剣を交えた時にも、緊張することはあった。
強い相手を前にすれば、打ち込まれるかもしれないという恐れも感じた。
けれど、あれとは違う。
目の前の獣は、俺が降参しても剣を止めてはくれない。
倒れたからといって、手を差し伸べてもくれない。
失敗すれば、死ぬ。
その事実が、ようやく身体の奥へ染み込んできた。
「……大丈夫だ」
自分へ言い聞かせるように呟く。
十年間、剣を振ってきた。
相手の動きを見て、間合いを測り、必要な場所へ刃を運ぶ。
やるべきことは変わらない。
そう考えた瞬間、グレイウルフが地面を蹴った。
速い。
予想していたよりも、ずっと速かった。
灰色の身体が一気に間合いを詰め、開かれた口の奥に鋭い牙が見えた。
俺は反射的に剣を振り、飛び込んでくる獣の肩口へ刃を合わせたが、相手の勢いを十分に読み切れず、剣先が毛皮を浅く裂いただけで終わってしまった。
グレイウルフは短く唸りながら俺の横を抜け、数歩先へ着地すると、すぐに向き直った。
こちらも剣を構え直す。
最初の攻撃は防げた。
だが、余裕などなかった。
灰色の身体が目の前へ飛び込んできた瞬間、俺は相手の動きを見ていたつもりで、実際には牙ばかりを追っていた。
訓練場なら、教官に叱られていただろう。
相手の武器だけを見るな。
肩と腰を見ろ。
足の運びを見ろ。
何度も言われてきたことなのに、初めて本物の牙を向けられた途端、それができなくなっていた。
グレイウルフが低く唸る。
肩口には細い傷が走っていたが、獣は怯む様子もなく、むしろこちらを警戒するように頭を下げていた。
俺は剣を握り直し、足元の感触を確かめる。
湿った土は訓練場の砂地より柔らかく、落ち葉の下には細い木の根が走っている。
大きく踏み込めば足を取られるかもしれないし、後ろへ下がりすぎれば、背後の倒木に行く手を塞がれる。
剣を振るう場所さえ、いつもの訓練場とは違っていた。
ならば、今できることを一つずつ確かめるしかない。
俺は呼吸を整え、グレイウルフの牙ではなく、肩と前脚へ視線を移した。
獣の身体が、わずかに右へ傾く。
次の瞬間、グレイウルフが再び駆け出した。
今度は正面からではなく、こちらの右側へ回り込むような軌道だった。
頭を低く保ち、左腕へ向けて口を開いていることに気づいた俺は、半歩だけ後ろへ重心を移し、牙の進路へ剣を合わせた。
硬いものが刃へぶつかる甲高い音が響き、衝撃が手首から肘へ伝わってくる。
正面から受け止めれば押し込まれる。
そう判断した俺は剣の角度を変え、噛みつこうとする頭を外側へ流した。
グレイウルフの身体が、わずかに横へ崩れる。
その瞬間、訓練で繰り返してきた動作が自然に身体へ戻ってきた。
左足を踏み込み、腰を回し、相手の肩口へ向けて剣を振り下ろす。
刃が灰色の毛皮を裂き、その下の肉へ深く食い込んだ。
「ギャンッ!」
甲高い悲鳴が林に響いた。
剣を握る手へ、重い抵抗が伝わってくる。
木剣が相手の防具へ当たった時とも、真剣で巻藁を斬った時とも違う感触だった。
刃が生き物の身体を裂き、骨に近い硬い部分へ触れる。
その生々しい手応えに、思わず動きが止まりかけた。
だが、グレイウルフは止まらなかった。
肩口から血を流しながらも、獣は身体を捻ってこちらへ牙を向けた。
痛みによって動きが鈍るどころか、追い詰められたような激しさで再び飛びかかってくる。
俺は咄嗟に身体を横へ逃がした。
鋭い牙が左腕のすぐ脇を通り、袖の布を引っかける。
耳元で布の裂ける音がした。
冷たい空気が左腕へ触れ、破れた袖が風に揺れる。
ほんの少し、避けるのが遅れていたら。
そう考えた途端、喉の奥がひどく乾いた。
傷を負わせても、相手は止まらない。
剣で斬ったからといって、戦いが終わるわけではない。
エレナさんの言葉が、今になってはっきりと理解できた。
魔物は訓練相手のように止まってくれない。
降参もしない。
傷を負っても、襲ってくることがある。
まさに、そのとおりだった。
俺は剣を構え直した。
掌はまだ汗ばんでいるし、心臓も激しく打っている。
恐怖が消えたわけではない。
それでも、少しずつ相手の動きが見えるようになってきた。
グレイウルフは傷ついた肩を庇うように身体を傾け、前脚の位置を何度か変えている。
飛びかかる前には後脚へ力が集まり、重心が低くなる。
獣の動きは人間とは違うが、次の動作へ移る前に身体のどこかへ兆しが現れることは同じだった。
十年間、俺はそうした小さな変化を見逃さないために剣を振ってきた。
相手がどれほど速くても、動き出す前には必ず何かがある。
それを見つければいい。
俺は足を動かし、背後の倒木から少し距離を取った。
グレイウルフが唸り声を上げ、こちらを睨みつける。
その黄色い瞳には、まだ獲物を逃がすまいとする鋭い光があった。
やがて、獣の後脚が地面を強く押した。
来る。
今度は、はっきりと分かった。
俺は相手が飛び込む方向を読み、剣を構えたまま半歩だけ身体をずらした。
グレイウルフの牙が、つい先ほどまで俺の身体があった場所を通り過ぎる。
その瞬間、相手の首筋が無防備になった。
俺は踏み込んだ足で地面を捉え、腰の回転を剣へ伝えた。
振り下ろした刃が、灰色の首筋を深く斬り裂いた。
グレイウルフの身体が大きく傾き、勢いを失ったまま地面へ落ちる。
湿った土が跳ね、落ち葉が舞い上がった。
獣は一度だけ脚を動かしたが、それきり起き上がってこなかった。
◇
しばらくの間、俺は剣を構えたまま動けなかった。
足元には、灰色の毛皮に覆われた大きな身体が横たわっている。
つい先ほどまで、鋭い牙を剥き、低く唸りながらこちらへ飛びかかってきた魔物だった。
けれど、今はもう動かず、湿った落ち葉の上に静かに横たわっている。
それでも、すぐには剣を下ろせなかった。
また突然起き上がってくるのではないか。
そんな考えが頭から離れず、俺は相手の脚や胸元を見つめたまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。
やがて、グレイウルフが完全に動かなくなったことを確かめ、ようやく剣先を下げた。
その途端、身体の奥から力が抜けた。
思っていた以上に呼吸が乱れていたらしい。
大きく息を吸い込むと、湿った土と草の匂いに混じって、かすかな血の匂いが鼻へ届いた。
剣先から赤い雫が落ち、地面へ小さな染みを作っている。
その光景を見た時、ようやく自分が何をしたのか、実感が湧いてきた。
俺は、魔物を倒したのだ。
初めての実戦で、グレイウルフを一体討伐した。
剣術の訓練を始めた頃から、いつか本物の戦いに臨む日が来るのだろうとは思っていた。
王宮の騎士たちから魔物討伐の話を聞くたび、自分もいつか彼らのように剣を振るい、誰かを守ることができるようになりたいと考えていた。
だから、初めて魔物を倒した時には、もっと達成感があるものだと思っていた。
けれど、今の胸の内にあるのは、そんな単純な喜びではなかった。
もちろん、生き残れたことは嬉しい。
相手の動きを読み、訓練で身につけた剣術を実戦で使えたことにも、確かな手応えがあった。
それでも、足元に横たわるグレイウルフを見ると、胸の奥に何とも言えない感覚が残る。
ほんの少し前まで、この生き物は動いていた。
呼吸をし、唸り声を上げ、俺へ牙を向けていた。
俺を殺そうとしていたのだから、戦わなければこちらが死んでいたかもしれない。
その判断が間違っていたとは思わない。
けれど、自分の剣で一つの命を終わらせたという事実は、頭で理解するよりもずっと重く、剣を握る腕の奥に残っていた。
風が木々の間を抜け、頬に浮かんだ汗を冷やしていく。
戦っている間は気づかなかったが、いつの間にか遠くで小鳥が鳴き始めていた。
葉擦れの音も、枝の軋む音も、先ほどまでと何も変わらない。
森は、何事もなかったかのように静けさを取り戻していた。
そのことが、少し不思議だった。
俺にとっては、初めて命を懸けて戦った大きな出来事だった。
けれど、森にとっては、数え切れないほど繰り返されてきた出来事の一つにすぎないのかもしれない。
「……これが、冒険者か」
小さく呟く。
エレナさんが、実戦と訓練は違うと言っていた意味が、ようやく少し分かった気がした。
剣が上手いだけでは足りない。
相手の動きを読み、周囲の地形を確かめ、恐怖の中でも判断しなければならない。
そして、戦いが終わったあとも、その結果を自分で受け止めなければならないのだ。
俺はゆっくりと息を吐き、剣を持ち直した。
刃には、まだ血が付いている。
このまま鞘へ収めるわけにはいかない。
血を拭き取り、刃を確かめてから戻そう。
そう考えて荷物へ手を伸ばし、そこで動きが止まった。
「……あれ?」
袋の中を探る。
図鑑。
依頼書。
小刀。
採取したヒール草。
必要だと思ったものは、一通り入っている。
けれど、肝心のものが見当たらなかった。
「……布がない」
剣の血を拭くための布を、用意していなかった。
王宮では、訓練の後に剣を手入れするための道具が揃っていた。
もちろん、自分で刃を拭くこともあったが、必要なものはいつでも手の届く場所にあった。
それが当たり前だったから、街の外へ持っていくという発想が抜け落ちていたらしい。
俺は剣を手にしたまま、しばらく荷物を見下ろした。
つい先ほどまで命のやり取りをしていたというのに、今度は布一枚がないことで困っている。
何だか、少し可笑しくなってきた。
「……剣を振れるだけじゃ、駄目なんだな」
苦笑しながら、荷物の底から古い手拭いを取り出した。
本来は顔や手を拭くために持ってきたものだが、今はほかに使えそうな布がない。
仕方なくそれを広げ、刃を傷めないように注意しながら、付着した血を丁寧に拭き取っていく。
赤い染みが、布の上に少しずつ広がった。
その色を見ていると、先ほどの戦闘の感触がまた腕に蘇りそうになったが、俺は手を止めず、刃の両面を確かめながら汚れを落とした。
剣の手入れは、十年間の稽古で身についた習慣だ。
ただし、こうして森の中で手入れをするのは初めてだった。
次からは、専用の布を必ず持ってこよう。
それに、必要なら油や簡単な手入れ道具も用意した方がいいかもしれない。
冒険者として覚えなければならないことは、思っていた以上に多そうだった。
刃を確かめ、問題がないことを確認してから剣を鞘へ収める。
ようやく一息ついたところで、今度は足元のグレイウルフが気になった。
魔物を倒したあと、その身体をどうすればよいのだろう。
討伐依頼を受けていたわけではないから、討伐の証明が必要なのかどうかも分からない。
図鑑には、グレイウルフの牙が素材として取引されると書かれていたはずだ。
俺は荷物から図鑑を取り出し、魔物について記された頁を開いた。
確かに、牙は素材として利用されるらしい。
毛皮にも価値があるようだったが、剥ぎ取り方までは詳しく書かれていなかった。
何より、初めて魔物の身体を前にした今の俺には、どこから手をつければよいのか見当もつかない。
無理に解体して、素材を傷めてしまうかもしれない。
それなら、確実に回収できるものだけを持ち帰る方がよいだろう。
俺は小刀を取り出し、グレイウルフの口元へ慎重に手を伸ばした。
牙は思っていた以上に大きく、近くで見ると、その鋭さがよく分かる。
先ほど左袖を裂いたものと同じ牙だと思うと、自然と手元に力が入った。
魔物の身体には、まだわずかな温かさが残っていた。
その感触に一瞬だけ動きが止まりかけたが、俺は小刀を握り直し、図鑑の説明を確かめながら二本の牙を切り取った。
思っていたより手間がかかり、作業を終えた頃には額にうっすらと汗が浮かんでいた。
回収した牙を布で包み、薬草とは別に荷物へ収める。
ほかにも取れる素材はあるのだろう。
けれど、今の俺には、それを正しく扱う知識がない。
「……ギルドで聞けばいいか」
エレナさんなら、こういうことも教えてくれるかもしれない。
もっとも、また準備不足だと呆れられる可能性はある。
そんなことを考えると、少しだけ気が重くなったが、それ以上に、次はきちんとできるようになりたいという気持ちの方が強かった。
俺は最後にグレイウルフの身体へ目を向けた。
灰色の毛皮は、木漏れ日の中で静かに横たわっている。
先ほどまでの恐ろしさは、もう感じられなかった。
けれど、だからといって、何も感じなくなったわけでもない。
俺はしばらくその姿を見つめ、それから静かに立ち上がった。
依頼は、まだ終わっていない。
ヒール草は七束。
残り三束を採取しなければ、ギルドへ戻っても報酬はもらえない。
それに、これ以上林の奥へ進むのは危険だろう。
俺は周囲の地形を確かめ、来た道を引き返すことにした。
◇
林の入口に近づくにつれて、木々の間から差し込む光が少しずつ明るくなっていった。
頭上の枝がまばらになり、足元には再び人の歩いた跡が現れる。遠くで鳥が鳴き、風に揺れた葉が乾いた音を立てるたび、先ほどまで張り詰めていた身体の力が少しずつ抜けていくのを感じた。
それでも、茂みが揺れる音には自然と耳が向いた。
何かが飛び出してくるのではないか。
そんな考えが頭をよぎり、無意識に腰の剣へ手を伸ばしかける。
自分でも少し神経質になっていると思ったが、初めて魔物と戦ったばかりなのだから、仕方がないのかもしれない。
林の浅い場所まで戻ったところで、俺はもう一度ヒール草を探し始めた。
今度は、最初ほど時間がかからなかった。
湿った土の広がる場所を見つけ、木陰になった斜面へ目を向けると、三枚の葉を持つ小さな草がいくつか生えている。
図鑑と照らし合わせ、葉の縁と茎の毛を確かめてから、小刀で慎重に採取した。
八束目。
少し離れた倒木の脇で、九束目。
そして、林の入口近くにある大きな木の根元で、最後の一束を見つけた。
十束目のヒール草を袋へ収めた時、ようやく肩の力が抜けた。
「……よし。これで十束だ」
袋の中身を確かめ、口をしっかりと結ぶ。
朝、ギルドで依頼書を受け取った時には、薬草を集めるだけの仕事だと思っていた。
まさか、その途中で魔物と戦うことになるとは。
剣の血を拭く布も用意していなかったし、魔物の素材をどう扱えばよいのかも知らなかった。
実際にやってみなければ分からないことが、思っていた以上に多い。
それでも、必要な薬草は揃った。
荷物の中には、グレイウルフから回収した二本の牙もある。
初めての依頼としては、ずいぶん盛りだくさんな一日になってしまった。
俺は袋を肩に掛け直し、林の出口へ向かった。
あとは、無事に街へ戻るだけだ。
林を抜けると、午後の陽射しが一気に視界へ広がった。
木々の下にいた時には気づかなかったが、太陽はすでに西へ傾き始めている。畑の上には長い影が落ち、収穫前の穂が柔らかな金色に輝いていた。
街道を吹き抜ける風は、朝よりも少し冷たくなっている。
俺は一度だけ振り返り、先ほどまでいた林を見つめた。
遠くから見れば、そこは穏やかな木立にしか見えない。
木々の間からは鳥の声が聞こえ、枝先の葉が秋風に揺れている。
あの中で命を懸けて戦ったことが、少し信じられないくらいだった。
けれど、左袖にはグレイウルフの牙が残した裂け目があり、荷物の中には二本の牙が収まっている。
あれは、確かに現実だった。
俺は破れた袖を軽く引き寄せ、傷がないことをもう一度確かめた。
幸い、牙は布を裂いただけで、腕には届いていない。
ほんの少し動きが遅れていたら、今頃どうなっていただろう。
そう考えると、背筋に冷たいものが走った。
王宮の訓練場でも、相手の剣を避け損ねることはあった。
けれど、あの場所では、打ち込まれた一撃がそのまま命を奪うことはない。
今日の戦いは違った。
相手の動きを読み違えれば、次の瞬間には牙が身体へ食い込んでいたかもしれない。
その恐ろしさは、剣を鞘へ収めた今も、まだ身体のどこかに残っていた。
それでも、最後には剣を振るうことができた。
恐怖で身体が強張り、思うように動けなくなりかけても、相手の動きを見て、踏み込み、剣を振り下ろした。
あの瞬間、身体が覚えていた動きに助けられたのだと思う。
十年間、何度も繰り返してきた稽古。
それが初めて、実際に自分の命を守ってくれた。
俺は腰に差した剣へ、そっと手を添えた。
使い慣れた柄の感触が、掌に伝わってくる。
朝と何も変わらないはずのその感触が、今は少しだけ違って感じられた。
しばらく林を眺めたあと、俺は前を向いた。
グランベルへ続く街道には、夕方の柔らかな光が降り注いでいる。
俺は荷物を持ち直し、街へ向かって歩き始めた。
◇
しばらく歩くと、遠くにグランベルの城壁が見えてきた。
秋の陽射しを受けた石壁は、朝よりも柔らかな色に染まり、その向こうからは街の喧騒がかすかに聞こえてくる。
あの城壁を出た時、俺は初めての依頼に胸を弾ませていた。
今は、少し疲れている。
腕には剣を振った時の重さが残り、足元の土を踏む感覚も、朝よりはっきりと意識していた。
それでも、街が近づくにつれて、自然と足取りが軽くなっていく。
あの向こうには、冒険者ギルドがある。
受付には、エレナさんもいるはずだ。
ヒール草を十束採取できたことを報告すれば、きっと喜んでくれるだろう。
もっとも、グレイウルフと戦ったことを話したら、どういう顔をするだろうか。
俺は左袖へ目を落とした。
牙に裂かれた布が、歩くたびに風を受けて揺れている。
隠しておいても、すぐに気づかれそうだった。
「……また、怒られるかな」
思わず苦笑する。
初めて会ったばかりだというのに、エレナさんに注意される光景は、妙にはっきりと想像できた。
けれど、不思議と嫌な気分にはならなかった。
グランベルへ着いてから、まだ一日しか経っていない。
それなのに、こうして帰った時のことを考えている。
王都を離れた時には、まったく想像していなかったことだ。
少なくとも、あの街には自分の名前を知っている人がいる。
俺が冒険者として登録したことを覚えていて、依頼を終えれば報告を受けてくれる人がいる。
それだけのことなのに、胸の奥が少し温かくなった。
街道の先に見える城壁を眺めながら、俺は小さく息を吐いた。
その時、ふとエレナさんの言葉が蘇った。
『生きて帰ってくるまでが依頼です。忘れないでくださいね』
あの時は、少し大げさな注意だと思っていた。
けれど、今なら分かる。
ヒール草を十束集めても、まだ依頼は終わっていない。
あの受付へ戻り、無事に帰ってきたことを伝えるまでが、今日の仕事なのだ。
俺は荷物を肩に掛け直した。
袋の中では、採取したヒール草がかすかに擦れ合い、布に包んだグレイウルフの牙が小さく音を立てている。
左袖は破れてしまったが、身体に大きな怪我はない。
夕陽に照らされたグランベルの城壁が、少しずつ近づいてくる。
門の向こうからは、仕事を終えた人々の声が聞こえていた。
俺はその声に耳を傾けながら、歩幅を少しだけ広げた。
初めての依頼で手に入れたものを、エレナさんに見せるために。




