第2話 冒険者ギルドの受付嬢
冒険者ギルドの重い木製の扉を押し開けた瞬間、幾重にも重なった人々の話し声と、その中でもひときわ大きな男たちの笑い声が、熱を帯びた空気とともに流れ込んできた。
「だから言っただろ! あそこは三人じゃ無理だって!」
「うるせえ、あと少しだったんだよ!」
「その『あと少し』で死にかけた奴が何言ってんだ!」
入口近くの卓を囲んだ男たちが、酒の入った木杯を片手に言い合っている。どうやら依頼の最中に何かあったらしいが、険悪な雰囲気というわけでもなく、一人が大声で笑い出すと、ほかの二人もつられるように笑い始めた。
昼間から酒を飲んでいることにも驚いたが、それ以上に、周囲の誰も彼らの騒ぎを気にしていないことが新鮮だった。
王宮であれば、これほど大きな声で話しているだけでも、誰かが注意に来ただろう。
けれど、ここではそれが当たり前の光景らしい。
建物の右手には酒場が併設され、木製の卓がいくつも並んでいた。焼いた肉の香ばしい匂いに、酒と革製品の匂いが混じり、奥の厨房からは食器を重ねる音が聞こえてくる。
左手の壁には大きな掲示板が設けられ、大小さまざまな依頼書が、隙間を埋めるように貼り出されていた。その前では数人の冒険者が腕を組み、紙に書かれた内容を指差しながら何やら相談している。
正面には長い受付台があり、その向こうでは職員たちが忙しそうに書類を扱っていた。
思っていたより、ずっと賑やかな場所だった。
視線を巡らせると、金属鎧を着込んだ大男が大剣を壁へ立てかけ、その隣では自分の背丈ほどもある斧を背負った女性が、仲間と笑いながら話している。窓際には長い杖を抱えた老人が座り、少し離れた場所では、頭の上に獣の耳を覗かせた青年が弓の弦を確かめていた。
装備も年齢も、種族さえ異なる人々が、同じ建物の中で思い思いに過ごしている。
王宮では、まず目にすることのなかった光景だ。
騎士たちが集まる訓練場にも活気はあったが、そこには規律があり、誰が何をするのかも、ある程度決まっていた。
ここには、それがない。
依頼を終えた者が酒を飲み、これから出発する者が装備を確かめ、受付では新しい仕事について交渉が行われている。誰もが自分の目的を持って動いており、その雑多な賑わいが、不思議と心地よく感じられた。
そんな光景に気を取られて入口で立ち止まっていると、近くの席にいた男たちがこちらへ目を向けた。
「お、見ない顔だな。新人か?」
「たぶんな。あの顔見ろよ、完全に圧倒されてるぞ」
「俺も最初はあんなだったかな」
どうやら、思っていたことが顔に出ていたらしい。
全部聞こえているのだが、わざわざ反論するほどのことでもない。
俺は何も聞こえなかったふりをして、受付へ向かうことにした。
ところが、三つ並んだ受付の前まで来たところで、今度はどこへ行けばよいのか分からなくなった。
王宮であれば、誰かに用事を伝えれば担当者が案内してくれる。
だが、ここでは誰も俺の事情など知らないし、そもそも冒険者登録をどの窓口で受け付けているのかさえ分からない。
掲示板の方へ行くべきだろうかと考えながら周囲を見回していると、中央の受付から声がかかった。
「こちら、空いていますよ」
落ち着いた、よく通る声だった。
酒場の笑い声や冒険者たちの話し声が絶えない中でも、その声は不思議とはっきり耳に届いた。
振り向くと、受付台の向こうで一人の女性がこちらを見ていた。
年齢は二十歳くらいだろうか。
栗色の髪を後ろで緩くまとめ、白いブラウスに濃紺のベストを合わせた、清潔感のある制服姿だった。整った顔立ちには大人びた落ち着きがあり、細い銀縁眼鏡の奥では、蜂蜜色を思わせる柔らかな瞳がこちらへ向けられている。
彼女は手元の書類を揃えると、俺が近づきやすいように受付台の上を片づけ、穏やかな笑みを浮かべた。
「あ、はい。ありがとうございます」
促されるまま受付へ向かうと、女性は椅子に座ったまま、わずかに背筋を伸ばした。
その姿勢が妙に綺麗だった。
制服のベストは女性らしい柔らかな身体の線に自然に沿っていたが、細く締まった腰から背中へ続く姿勢には、どこか無駄のない印象がある。単に礼儀正しいというだけではなく、身体の重心がきちんと定まっているような、不思議な安定感があった。
もっとも、剣術の稽古で人の立ち姿を見る癖がついている俺だから、そんなことが気になったのかもしれない。
胸元には、《エレナ》と刻まれた銀色の名札が留められていた。
「初めて見る方ですね。グランベルには最近いらしたんですか?」
「はい。今日、着いたばかりです」
「そうでしたか。でしたら、冒険者登録でしょうか?」
「お願いします」
「かしこまりました」
エレナと名乗るその女性は、慣れた手つきで一枚の用紙を取り出した。
受付台の上に置かれた書類はきちんと整理され、インク壺や筆記具も使いやすい位置に揃えられている。忙しそうな周囲の職員たちとは対照的に、彼女の動作にはどこか余裕があり、それを見ているうちに、こちらまで少し落ち着いてきた。
「それでは、いくつか確認させていただきますね。まず、お名前をお願いします」
「アルクです」
そう答えるまでに、ほんのわずかな間があった。
王宮であれば、アルク・レイフォードと名乗っていた。
十五年間、当たり前のように使ってきた名前だ。王族としての正式な名を告げることは、礼法の講義でも繰り返し教えられてきた。
けれど、今の俺にその家名を名乗る理由はない。
昨日までとは違い、ここでは誰も俺を第三王子として扱わない。
むしろ、その方が都合がよかった。
エレナは俺の短い返答を聞くと、特に不思議がる様子もなく、用紙へ名前を書き込んだ。
「アルクさんですね。年齢はおいくつですか?」
「十五歳です」
さらさらと紙の上を走っていたペンが、そこで止まった。
「……十五歳、ですか?」
「はい」
エレナは顔を上げ、眼鏡の奥から改めて俺を見つめた。
先ほどまでの穏やかな表情は変わらないものの、蜂蜜色の瞳には少しばかり驚きが浮かんでいる。
「王都からいらしたとおっしゃいましたが、お一人で?」
「そうです」
「それは……なかなか大変だったでしょう」
彼女の視線が、俺の肩に掛けた荷物へ移った。
続いて、七日間の旅で汚れた靴、使い込まれた旅装、そして腰に差した剣へと向けられる。
その視線は短く、じろじろと見られているような不快さはなかった。
けれど、必要なものを一通り確かめられたような気がした。
「十五歳なら、冒険者登録に問題はありません。ただ、初めての街へ一人で来て、そのまま冒険者になろうという方は、それほど多くありませんので」
「そうなんですね」
「ええ。失礼ですが、ご家族は?」
思いがけない質問に、少しだけ言葉が詰まった。
家族はいる。
父も母も、兄たちも、今も王宮で暮らしているはずだ。
ただ、あの場所へ戻ることはできない。
昨日まで当然のようにそこにあったものが、今は自分とは無関係になってしまったようで、どう答えればよいのか分からなかった。
「……今は、いません」
曖昧な返答になってしまった。
エレナは一瞬だけ俺の顔を見た。
銀縁眼鏡の奥の瞳が、何かを確かめるようにわずかに細められる。
けれど、彼女はそれ以上尋ねなかった。
「分かりました。では、次に天職を教えていただけますか?」
「《闇魔法士》です」
ペン先が止まった。
ほんの一瞬のことだった。
近くの受付では冒険者が報酬について話しており、酒場の方からは相変わらず大きな笑い声が聞こえてくる。窓から差し込む午後の光も、木製の受付台の上に落ちた影も、何一つ変わっていない。
それなのに、俺には周囲の音が少し遠くなったように感じられた。
大神殿で《闇魔法士》という天職が告げられた時の、あの沈黙が頭をよぎったのだ。
驚きと戸惑い。
そして、得体の知れないものを見るような視線。
王宮を出ることになった理由も、結局はそこにあった。
「……《闇魔法士》、ですね?」
エレナが静かに確認した。
「はい」
俺が頷くと、彼女はもう一度だけ俺の顔を見て、それから手元の用紙へ視線を戻した。
さらさらと、ペンが紙の上を走る。
《闇魔法士》。
彼女はその文字を書き終えると、何事もなかったかのように次の欄へペン先を移した。
思わず、その手元を見つめてしまった。
「あの……それだけですか?」
「と、言いますと?」
エレナが顔を上げた。
「珍しくないんですか? 《闇魔法士》って」
「珍しいと思いますよ。少なくとも、私は同じ天職の方を担当したことがありません」
そう答える彼女の声は、相変わらず落ち着いていた。
驚いていないわけではないのだろう。
けれど、そこに嫌悪や恐れのようなものは感じられなかった。
「……怖くはないんですか?」
口にしてから、少し後悔した。
初対面の相手に、いきなり何を聞いているのだろう。
けれど、エレナは笑わなかった。
彼女は手にしていたペンを静かに置くと、こちらへ身体を向け直した。
「アルクさん」
「はい」
「冒険者ギルドが確認するのは、天職の名前だけではありません」
銀縁眼鏡の奥から、蜂蜜色の瞳がまっすぐこちらを見つめる。
その視線は柔らかかったが、不思議と揺るぎないものを感じさせた。
「どんな依頼を受け、どう達成したか。規則を守っているか。そして、きちんと生きて帰ってきたか。冒険者として大切なのは、そういうことです」
彼女は少しだけ表情を和らげた。
「《闇魔法士》だからという理由だけで、登録を断る規則はありませんよ」
あまりにも当たり前のことのように言われた。
そのせいで、すぐには返事が出なかった。
一週間前、同じ天職を告げられた俺は、王宮で危険な存在として扱われた。
何かをしたわけではない。
誰かを傷つけたわけでもない。
それでも、未知の力を持っているというだけで、十五年間暮らしてきた場所を離れることになった。
けれど、目の前の女性は違う。
俺が《闇魔法士》だと知っても、最初に声をかけてくれた時と同じように接している。
何か特別なことをしてくれたわけではない。
ただ、冒険者になりたいという俺の申し出を、当たり前のように受け付けてくれただけだ。
それなのに、胸の奥に残っていた小さなわだかまりが、少しだけ軽くなったような気がした。
「……ありがとうございます」
思わず口にすると、エレナはわずかに首を傾げた。
「お礼を言われるようなことは、まだ何もしていませんよ?」
「いえ。それでも、ありがとうございます」
俺がもう一度そう言うと、彼女は少し不思議そうに目を瞬かせ、それから柔らかく微笑んだ。
「どういたしまして。では、登録の続きをしましょうか」
「はい」
エレナが再びペンを取る。
その何気ない動作を見ているうちに、ようやく自分が少し緊張していたことに気づいた。
王宮を出てから一週間。
知らない土地を歩き、知らない人々と話すことにも、少しずつ慣れてきたつもりだった。
けれど、《闇魔法士》という言葉を口にする時だけは、まだどこか身構えてしまうらしい。
それが、今は少しだけ可笑しかった。
「それにしても、《闇魔法士》ですか。魔法士系の天職なのは間違いないんですよね?」
「たぶん、そうだと思います」
「……たぶん?」
エレナの眉が、わずかに上がった。
「俺も、一週間前に分かったばかりなので。実は、闇魔法についてはほとんど知らないんです」
「なるほど……。それは、なかなか珍しい事情ですね」
彼女は小さく頷き、何かを考えるようにペンの軸へ指を添えた。
その時、エレナの視線が俺の腰へ向いた。
「ところで、剣も使うんですか?」
「はい。五歳の頃から習っていました」
「十年間、ですか?」
「そうなりますね。剣術適性はSでした」
今度は、はっきりと動きが止まった。
「……S?」
「はい」
エレナは少し驚いたように目を見開き、それから改めて俺の剣へ視線を向けた。
その目つきが、先ほどまでとはわずかに違っていた。
単に武器を見ているのではなく、柄の擦れ方や鞘の傷、腰に下げた位置まで確かめているように感じられたのだ。
やがて、その視線が俺の手元へ移る。
剣術の稽古でできた掌の硬い部分に気づいたのか、エレナの瞳がわずかに細められた。
「《闇魔法士》で、剣術適性S……」
「俺も、そこは不思議なんです」
「そうでしょうね」
彼女は小さく息を吐いた。
その表情には、先ほどの驚きとは違う、何かを考え込むような色が浮かんでいる。
けれど、それも長くは続かなかった。
「アルクさん」
「はい」
「登録前から、かなり変わった方ですね」
「……褒めてます?」
「まだ判断していません」
あまりにも真面目な顔で言われたので、返事に困ってしまった。
けれど、眼鏡の奥の瞳には笑みが浮かんでおり、口元もほんの少しだけ緩んでいる。
どうやら、悪い意味だけではないらしい。
俺が苦笑すると、エレナもつられるように小さく笑った。
その笑顔を見て、初めて受付へ来た時に感じていた緊張が、すっかり薄れていることに気づいた。
◇
冒険者登録の手続きが進むと、エレナは受付台の下から一枚の説明書を取り出した。
そこには、冒険者のランクと依頼の種類が簡潔にまとめられていた。
「冒険者にはランクがありまして、最下位のF級から、E、D、C、B、A、そして最高位のS級まであります。新規登録の方は、原則としてF級からの開始になります」
「なるほど。実績を積めば、上のランクへ進めるんですね」
「はい。ただし、単純に依頼の数をこなせばよいというわけではありません。達成内容や信頼性も評価の対象になります」
エレナは説明書の一部を指先で示した。
綺麗に整えられた爪が紙の上を滑り、彼女の指がF級の欄で止まる。
「F級で受けられるのは、採取、運搬、街周辺の害獣駆除などですね。魔物討伐の依頼もありますが、最初から受けることはおすすめしません」
「どうしてです?」
思わず尋ねると、エレナは俺の顔を見た。
「アルクさんは、実戦経験がありますか?」
その質問に、すぐには答えられなかった。
剣術の訓練なら、十年間続けてきた。
模擬戦も数え切れないほど経験しているし、王宮の騎士たちを相手に、何度も剣を交えてきた。
けれど、それはあくまで訓練だった。
相手は同じ人間であり、決められた規則の中で剣を振るっていた。
危険な攻撃を受けることはあっても、相手が本気でこちらを殺そうとしているわけではない。
魔物との戦闘は、きっと違う。
「……ありません」
正直に答えると、エレナは小さく頷いた。
「でしたら、なおさらです」
それまで柔らかく微笑んでいた彼女の表情が、少しだけ引き締まった。
「訓練と実戦は違います。どれだけ剣が上手でも、初めて魔物を前にした時、身体が動かなくなる人はいます。逆に、恐怖で周囲が見えなくなって、必要以上に前へ出てしまう人もいます」
その言葉には、不思議な重みがあった。
ただ知識として説明しているのではなく、実際にそうした場面を見てきた人間の言葉のように聞こえた。
「そんなに違うものなんですか?」
「違います」
返事に迷いはなかった。
エレナは受付台の上で両手を重ね、落ち着いた声で続けた。
「魔物は訓練相手のように止まってくれません。降参もしませんし、傷を負っても襲ってくることがあります。何より、相手はこちらを殺すつもりで向かってくるんです」
酒場の方からは、相変わらず冒険者たちの笑い声が聞こえていた。
けれど、その言葉だけは妙にはっきりと耳に残った。
俺は無意識に、腰の剣へ視線を落とした。
王宮では、何度も剣を振ってきた。
教官から厳しい指導を受け、騎士たちとの模擬戦では、打ち込まれて砂の上に転がったこともある。
それでも、稽古が終われば相手は手を差し伸べてくれたし、怪我をすれば治療を受けられた。
その当たり前が、魔物との戦いにはないのだろう。
剣術適性がSだからといって、実戦で必ず勝てるわけではない。
考えてみれば当然のことなのに、俺はまだ、その違いを本当の意味では理解していなかったのかもしれない。
「……分かりました。最初から無理をするつもりはありません」
俺がそう答えると、エレナの表情が少し和らいだ。
「それならよかったです。剣術適性がSというのは素晴らしいことですが、だからこそ、焦らず経験を積んでくださいね」
「はい」
「というわけで、今日は採取依頼をおすすめします」
「採取、ですか?」
「ええ。薬草採取です」
思っていたより、ずいぶん地味な仕事だった。
冒険者といえば、魔物と戦い、危険な場所を探索し、時には古い遺跡から貴重な品を持ち帰るような仕事を想像していた。
もちろん、採取も立派な仕事なのだろう。
それは分かっている。
けれど、十年間剣を振り続けてきた身としては、少しばかり拍子抜けしたのも事実だった。
そんなことを考えていると、エレナが眼鏡の奥で目を細めた。
「今、地味だと思いましたね?」
「……少しだけ」
「新人さんは、皆さんそうおっしゃいます」
彼女は困ったように笑いながら、受付台の下から一枚の依頼書を取り出した。
「ですが、薬草採取も立派な冒険者の仕事です。目的地までの道を確認して、時間を管理し、必要な植物を見分ける。魔物の痕跡にも気を配らなければなりませんし、天候や地形によっては、採取そのものが難しくなることもあります」
そう言いながら、エレナは依頼書をこちらへ差し出した。
「剣を振る以外にも、冒険者が覚えなければならないことはたくさんあります。最初は、そうしたことを一つずつ身につけていく方がいいと思いますよ」
受け取った紙には、《ヒール草採取》と書かれていた。
必要数は十束。
報酬は銀貨一枚と銅貨二十枚。
依頼内容を読みながら、思わず報酬の欄へ目が向いた。
銀貨一枚。
今の俺にとっては、決して小さな金額ではない。
王宮にいた頃なら、銀貨一枚が生活にどれほど影響するのか、考えたこともなかっただろう。
けれど、七日間の旅を終えた今は違う。
宿代も食費も、これからは自分で稼がなければならない。
そう考えると、薬草採取という仕事が急に魅力的に見えてきた。
「これ、やります」
俺が依頼書を持ち上げると、エレナは少し驚いたように瞬きをした。
「即決ですね」
「お金がないので」
「……宿は、もう決まっていますか?」
「まだです」
「お食事は?」
「朝、パンを食べました」
「……ちなみに、今の所持金を伺っても?」
「銀貨三枚と、銅貨七枚です」
エレナは数秒間、何も言わなかった。
やがて、額へ指先を当て、小さく息を吐く。
「アルクさん」
「はい」
「よく王都からここまで来られましたね」
「俺もそう思います」
「褒めていません」
真顔で返されてしまった。
けれど、今度は俺も少し笑ってしまった。
王宮では、生活費の心配をする必要などなかった。
食事は用意され、部屋は整えられ、衣服も必要なものが揃っていた。
それが今では、銀貨一枚の報酬に喜び、宿代をどうするか考えている。
ずいぶん大きな変化だ。
もっとも、そんな生活を自分で選んだのだから、文句を言うつもりはない。
むしろ、何もかもが初めてで、少し面白いとさえ感じていた。
エレナはそんな俺を見て、何か言いたそうに唇を開いたが、結局は小さく首を振っただけだった。
「……とりあえず、宿を紹介しておきますね」
そう言って、彼女は新しい紙を取り出した。
ペンを走らせる横顔は、先ほどまでと変わらず落ち着いている。栗色の髪が耳元でわずかに揺れ、銀縁眼鏡の細い縁が窓からの光を受けて小さく輝いた。
書き終えると、エレナは紙をこちらへ向けた。
「ここなら、比較的安くて安全です。冒険者の利用も多い宿なので、初めての方でも過ごしやすいと思います」
「ありがとうございます。助かります」
「それから、今日の採取場所なら東門から出てください。街道を進んだ先に林がありますが、あまり奥へ入りすぎないこと。日が傾く前には森を出るようにしてくださいね」
エレナは依頼書の簡単な地図を指でなぞり、採取場所の位置を示した。
指先の動きは迷いがなく、道の分岐や注意すべき場所についても、地図を見るまでもなく説明してくれる。
どうやら、グランベル周辺の地理にも詳しいらしい。
「分かりました」
「あと、知らない魔物には近づかないこと。知らない植物を口にしないこと。洞窟を見つけても、興味本位で入らないこと。分からないものには、むやみに触らないこと」
「……ずいぶん念入りですね」
「新人さんには、これくらい言っておかないと心配なんです」
エレナは真面目な顔でそう答えた。
確かに、冒険者としての経験がないのは事実だ。
けれど、ここまで細かく注意されると、少しだけ子供扱いされているような気もする。
「一応、十五歳なんですけど」
「十五歳は、私から見れば十分子供ですよ」
あっさりと言われてしまった。
エレナはどこか楽しそうに微笑んでいる。
その笑顔には、年上の女性らしい余裕があった。
確かに、落ち着いた雰囲気からして、俺よりは何歳か年上なのだろう。
けれど、そう言われるほど年齢が離れているようにも見えない。
「エレナさんは、いくつなんですか?」
何気なく尋ねた瞬間、彼女の笑顔が止まった。
蜂蜜色の瞳が、銀縁眼鏡の奥でゆっくりと細められる。
「……アルクさん」
「はい」
「女性に年齢を尋ねるものではありませんよ」
穏やかな声だった。
けれど、先ほどまでとは少し違う、妙な迫力があった。
「あ……すみません」
そういえば、王宮の礼法教師にも似たようなことを教わった気がする。
すっかり忘れていた。
エレナはしばらく俺を見つめていたが、やがて小さく息を吐くと、呆れたように微笑んだ。
「まったく……。剣術適性Sで、闇魔法士で、一人で王都から来た十五歳の新人さん。しかも、女性への気遣いはまだまだ勉強が必要みたいですね」
「……返す言葉もありません」
俺が素直に頭を下げると、エレナはとうとう声を立てて笑った。
それまでの落ち着いた微笑みとは違う、少しだけ無邪気な笑い方だった。
目尻が柔らかく下がり、眼鏡の奥の瞳が楽しそうに細められる。
その表情を見て、俺もつられるように笑ってしまった。
初めて会ったばかりの相手なのに、妙に話しやすい人だった。
王宮で接してきた侍女たちは、どれほど親しくなっても、俺を第三王子として扱っていた。
けれど、エレナは違う。
俺が何を言っても、必要以上に気を遣うことはないし、間違ったことをすれば、こうして遠慮なく注意してくれる。
そのことが、今の俺には何より新鮮だった。
◇
登録の最後に、エレナは受付台の下から小さな木札を取り出した。
掌に収まるほどの大きさで、表面には簡素な文字が刻まれている。
《F》。
そして、その下には《アルク》という名前があった。
エレナは木札の表面を確かめると、こちらへ向き直った。
「お待たせしました。これで登録は完了です」
彼女は木札を俺の前へ差し出し、柔らかく微笑んだ。
「本日から、アルクさんはF級冒険者です。ようこそ、グランベル冒険者ギルドへ」
俺は差し出された木札を受け取った。
木の表面にはわずかな凹凸があり、指先でなぞると、刻まれた文字の溝が感じられる。装飾らしい装飾もなく、ずいぶん簡素なものだった。
王宮にいた頃、身につけていた王族の紋章とは比べものにならない。
けれど、その小さな木札を眺めていると、不思議と胸の奥が温かくなった。
アルク。
刻まれているのは、それだけだ。
家名も、第三王子という身分もない。
ここでは、俺が何者だったかなど関係なく、一人の新人冒険者として扱われる。
そのことが、今は何より嬉しかった。
「……ありがとうございます」
木札を握りながらそう言うと、エレナは少しだけ首を傾げた。
「今日は、何度もお礼を言ってくださいますね」
エレナが少しおかしそうに言った。
「そうですか?」
「ええ。でも、悪い気はしません」
彼女はそう言って、穏やかに微笑んだ。
その笑顔を見ていると、ここへ来てよかったと思えた。
俺もつられて笑いながら、木札を大切に懐へしまった。
エレナはその様子を見届けると、もう一枚の紙を差し出してきた。
「こちらが依頼書です。ヒール草は葉が三枚で、縁が白く、茎に細かな毛があります。似た植物もありますので、必ず確認してくださいね」
「分かりました」
「それから、採取する時は根を残すようにしてください。次に採る人のためにも、大切なことですから」
俺は依頼書を受け取り、記された植物の特徴を確かめた。
王宮の庭園でも薬草について学んだことはあるが、実際に野山で採取した経験はない。
似た植物を見分けるには、思っている以上に注意が必要なのだろう。
「では、行ってきます」
依頼書をしまい、受付台から離れようとした時だった。
「アルクさん」
呼び止められて振り返る。
エレナは椅子からわずかに身を乗り出し、こちらを見ていた。
栗色の髪が肩の近くで柔らかく揺れ、銀縁眼鏡の奥の瞳には、先ほどまでの冗談めいた色がなかった。
「生きて帰ってくるまでが依頼です。忘れないでくださいね」
穏やかな声だった。
けれど、その言葉には、妙な重みがあった。
思わず、エレナの顔を見つめる。
彼女は微笑んでいなかった。
ほんの少し前まで、俺の年齢をからかうように笑っていた人だ。
それなのに、今はまるで、これから向かう先に何が待っているのかを知っているような表情をしている。
薬草を採りに行くだけなのに、少し大げさではないだろうか。
そんな考えが頭をよぎったが、口には出さなかった。
彼女が冗談で言っているのではないことくらい、俺にも分かったからだ。
「はい。必ず戻ってきます」
そう答えると、エレナはようやく表情を和らげた。
「それなら、安心です。お気をつけて」
柔らかな笑顔に見送られ、俺は受付台を離れた。
ギルドの中は、相変わらず賑やかだった。
酒場では冒険者たちが大声で笑い、掲示板の前では数人の男たちが依頼書を囲んで何やら相談している。受付では別の職員が忙しそうに書類をめくり、報酬を受け取ったらしい若い冒険者が、嬉しそうに仲間の肩を叩いていた。
その横を通り過ぎながら、俺はふと、彼らの装備へ目を向けた。
泥のついた革靴。
擦り切れた外套。
刃こぼれを修繕した跡のある剣。
ここにいる者たちは、皆、それぞれの仕事を終えて戻ってきたのだろう。
俺も、夕方にはあの受付へ戻ってくる。
そう思いながら懐の木札に触れると、自然と口元が緩んだ。
初めての依頼は、ヒール草の採取。
報酬は銀貨一枚と銅貨二十枚。
今の俺にとっては、宿代と食費を賄うための大切な収入だ。
俺は木札をしまい直すと、ギルドの扉へ向かった。
◇
外へ出ると、午後の陽光が石畳を明るく照らしていた。
グランベルの大通りには相変わらず大勢の人々が行き交い、商人たちの呼び声が賑やかに響いている。近くの露店からは焼いた肉の香ばしい匂いが漂い、通りの向こうでは荷車を引く馬がゆっくりと歩いていた。
その匂いに、思わず足が止まりかける。
そういえば、朝からパンしか食べていなかった。
露店の軒先では、串に刺した肉が炭火の上でじゅうじゅうと音を立てている。焼き色のついた表面から脂が滴り、香辛料の匂いが風に乗って流れてきた。
……うまそうだ。
けれど、今は我慢するしかない。
依頼を終えて報酬を受け取ったら、一つくらい買ってもいいかもしれない。
そう考えると、自然と足取りが軽くなった。
俺は露店から視線を引き剥がし、東門へ向かって歩き出した。
通りを進むにつれて、商店の数が少しずつ減り、代わりに荷車や旅装の人々が目につくようになってきた。
大きな荷物を背負った商人。
馬を引く旅人。
そして、武器を携えた冒険者たち。
その中に混じって歩いていると、腰に差した剣の重さが、いつもより少しだけ意識された。
王宮の訓練場では、何度も剣を振ってきた。
けれど、今日向かうのは、木剣を打ち合わせる訓練場ではない。
街の外に広がる、まだ一度も足を踏み入れたことのない林だ。
薬草を採るだけの仕事とはいえ、知らない土地を一人で歩くことには、それなりの緊張がある。
それでも、不思議と怖さはなかった。
むしろ、初めての仕事を自分の手でやり遂げたいという気持ちの方が強かった。
やがて、大通りの先に東門が見えてきた。
開かれた城門の向こうには、緩やかな丘へ続く街道が伸びている。その両側には畑が広がり、さらに遠くには、深い緑に覆われた林が見えた。
あそこが、今日の仕事場なのだろう。
俺は歩みを緩め、しばらくその景色を眺めた。
穏やかな午後の陽射しの下、畑を渡る風が遠くの木々を揺らしている。街道を進む荷車の車輪が小さく軋み、門の近くでは衛兵たちが旅人と短い言葉を交わしていた。
見慣れない街の、見慣れない景色。
けれど、そこに立っていることが、少しずつ自然に感じられるようになっていた。
ふと、エレナの言葉が頭をよぎる。
『生きて帰ってくるまでが依頼です。忘れないでくださいね』
俺は門の向こうに広がる街道へ視線を戻した。
あれほど真剣な顔で注意されたのだから、油断はしない方がいいのだろう。
「……分かってますよ、エレナさん」
誰に聞かせるでもなく、そうつぶやいた。
それから俺は、腰の剣を確かめ、城門へ向かって歩き出した。
午後の風が頬を撫で、遠くの林が陽光を受けて静かに揺れている。
初めての依頼。
その先に何が待っているのかは、まだ分からない。
けれど、今はただ、あの林へ行ってみたかった。
俺は少しだけ歩幅を広げ、グランベルの東門をくぐった。




