第1話 城壁の向こう
「……また減ったな」
街道脇の平たい岩に腰を下ろし、革袋から取り出した硬貨を掌の上に並べると、銀色と赤褐色の小さな円盤が秋の日差しを受けて鈍く光った。指先で一枚ずつ数え直してみたものの、当然ながら枚数が増えるはずもなく、俺は小さく息を吐いた。
銀貨が三枚と、銅貨が十二枚。
王都を出た時には、もう少し余裕があったはずなのだが、七日間の旅を終えようとしている今、手元に残っているのはこれだけだった。
宿に泊まれば減る。
食事をすれば減る。
街道を走る乗合馬車に乗れば、歩かずに済む代わりに、やはり減る。
どれも考えてみれば当たり前のことなのだが、十五年間を王宮で過ごしてきた俺にとって、金というものがこれほど目に見えて減っていく存在だとは、正直なところ実感がなかった。
もちろん、貨幣の価値や流通の仕組みを知らないわけではない。
王宮では経済や税制についても学んできたし、銀貨一枚で何が買えるのかという知識も、それなりに持っているつもりだった。
ただ、知っていることと、自分の懐から実際に金を払うことは、どうやら随分と違うらしい。
王宮では、朝になれば食事が用意され、衣服は使用人が整え、剣の手入れさえ専門の者に任せることができた。
必要なものは誰かが手配し、俺がその代金を気にすることなどほとんどなかったのだから、今思えばずいぶん恵まれた暮らしをしていたものだ。
「……王子って、何も知らなかったんだな」
自分のことなのに、どこか他人を評するような言葉が口からこぼれた。
もっとも、そうしていられたのも一週間前までの話だ。
今の俺は、宿代を払えなければ屋根のある場所で眠ることもできないし、食費を使い切れば腹を空かせたまま歩くことになる。
王宮で教わった知識が役に立たないわけではないが、それだけで生活していけるほど世の中は甘くないのだろう。
硬貨を革袋へ戻しながら、俺は顔を上げた。
街道の両側には、秋の気配を帯び始めた草原が緩やかに広がっている。まだ青さを残した草の間には黄色く色づいた穂が混じり、遠くの丘から吹き下ろしてくる風が、その表面を幾重もの波のように揺らしていた。頭上には薄い雲を浮かべた青空がどこまでも続き、街道沿いに点在する木々も、枝先から少しずつ秋の色へ変わり始めている。
王都を出てから七日。
最初の二日ほどは、自分が自由になったという実感の方が強かった。
朝起きる時間を誰にも決められず、食事の席で背筋を伸ばして銀器の置き方にまで気を配る必要もない。
午後になれば歴史や政治の講義が待っているわけでもなければ、剣術の稽古が終わったあとに、その日の振る舞いについて小言を聞かされることもない。
街道沿いの宿に泊まり、翌朝になれば自分の好きな時間に出発する。
疲れたら道端で休み、腹が減れば持ってきたパンをかじる。
そんな誰にとっても当たり前なのだろうことが、十五年間を王宮で過ごした俺には妙に新鮮だった。
もちろん、王宮での生活が嫌いだったわけではない。
剣術の稽古は好きだったし、学問を教えてくれた教師たちにも世話になった。
広い庭園や静かな書庫には、それなりに愛着もある。
慣れ親しんだ場所を離れることに、寂しさがまったくなかったと言えば嘘になるだろう。
それでも、王都から遠ざかるにつれて胸の奥に広がってきたのは、失ったものへの未練よりも、これから何をしようかという期待の方だった。
街道を行き交う人々も、俺が何者だったのかなど知らない。
荷物を満載した馬車が軋んだ車輪の音を残して通り過ぎ、剣や弓を携えた旅人が軽く会釈をしてすれ違っていく。彼らは俺を見ても足を止めず、頭を下げることもなければ、道を譲ろうともしない。
最初の頃は、その無関心がかえって落ち着かなかった。
王宮では、廊下を歩くだけで使用人たちが頭を下げ、誰かと顔を合わせれば必ず「殿下」と呼ばれた。
俺自身が何かをしたわけでもないのに、第三王子というだけで周囲の人々の態度が変わることを、当たり前のように受け入れていたのだ。
けれど今は違う。
少し埃に汚れた旅装をまとい、肩に荷物を掛け、腰に一本の剣を差した十五歳の少年。それが、今の俺だった。
七日も経つと、誰からも特別扱いされないことが、少しずつ心地よくなってきていた。
「さて……そろそろ行くか」
革袋の紐を固く結び、荷物の中へしまい込む。
節約すれば、あと数日は持つだろう。
ただし、それまでに仕事を見つけなければならない。
待っていれば誰かが必要なものを用意してくれる生活は、もう終わったのだから。
岩から立ち上がって旅装についた砂を払い、肩に掛けた荷物の位置を直したところで、腰の剣が鞘の中で小さく揺れた。
無意識に、その柄へ手を添える。
王宮を出る時、持っていくことを許された剣だった。
装飾を控えた実用的な造りだが、刀身には良質な鋼が使われ、重心も俺の体格に合わせて丁寧に調整されている。
王家の剣術を学ぶために与えられたもので、長年使い続けてきたせいか、柄を握れば今でも自然に指が収まる。
五歳の頃から、毎日のように剣を振ってきた。
最初は木剣を持ち上げるだけでも苦労したし、型を覚えるまでは何度も同じ動きを繰り返した。
成長するにつれて稽古は厳しくなり、模擬戦では身体中に痣を作ったことも一度や二度ではない。
それでも、不思議と剣を握ることが嫌になった記憶はなかった。
少しずつ身体が思い通りに動くようになることも、昨日まで届かなかった一撃が届くようになることも、俺には面白かったのだと思う。
もっとも、十五歳の適性の儀で告げられた天職は、誰もが予想していた《剣士》ではなかった。
《闇魔法士》。
王家にとって異端とされるその天職によって、俺の人生は大きく変わった。
剣術への適性はS。
闇属性への適性はEX。
どちらも普通ではないらしいが、今のところ俺自身には、その意味を十分に理解できていない。
剣術については十年間磨いてきたものがあるものの、闇魔法に至っては、どのような術式を使うのかさえ知らないのだから当然だろう。
これからは魔法を学ぶことになるのだと思う。
それはそれで、少し楽しみでもあった。
これまで触れたことのない力が、自分の中に眠っている。
そう考えると、未知のものを前にした好奇心が湧いてくる。
ただ、だからといって剣を置いてくる気にはなれなかった。
十年間、当たり前のように握ってきたものだ。今さら手放すというのも、どうにも落ち着かない。
「……まあ、魔法を覚えてから考えればいいか」
小さくつぶやき、柄から手を離す。
今すぐ答えを出さなければならないわけではない。
王宮にいた頃とは違い、これから何を学び、どんな道を進むのかは、自分で決めればいいのだから。
そう考えると、少しだけ足取りが軽くなった。
街道の先へ目を向けると、緩やかな丘の向こうに灰色の線が見えていた。
朝方にはまだ遠くの景色に溶け込んでいたそれが、今ははっきりと人工物の輪郭を持っている。
城壁だ。
七日間の旅の目的地、辺境都市グランベルが、ようやく見えてきたのだった。
◇
近づくにつれて、遠くから一本の線にしか見えなかった城壁が、少しずつその大きさを現していった。
高さは十メートルほどだろうか。灰色の石を幾重にも積み重ねた壁が街全体を取り囲み、一定の間隔で設けられた見張り塔には、槍を携えた兵士たちの姿が見える。王都の城壁ほど巨大でも華美でもないが、長い年月をかけて風雨に晒されてきた石肌には、辺境の街を守り続けてきた堅牢さが感じられた。
壁の向こうには赤茶色の屋根が幾重にも重なり、中央付近には教会らしい白い尖塔が空へ伸びている。東側には何本もの煙突から薄い煙が立ち昇っており、風に流された煙が秋の空へゆっくりと溶け込んでいった。
街へ近づくにつれて、街道を行き交う人々の数も増えてきた。
荷車いっぱいに野菜を積んだ農夫が馬を引き、荷駄を連れた旅商人たちが互いに情報を交換している。使い込まれた革鎧を身につけた冒険者らしき一団が、何やら楽しそうに話しながら俺の横を通り過ぎていった。
その中の一人が背負っている大剣に、思わず目が向く。
幅広の刀身にはいくつもの細かな傷があり、柄には何度も巻き直したらしい革紐が見えた。王宮で見慣れていた整った武具とは違うが、実際の戦いで使い続けられてきたことが一目で分かる剣だった。
ああいう剣もあるのか。
少し興味を引かれたものの、見知らぬ相手の武器をじろじろ眺めるのも失礼だろうと思い直し、視線を前へ戻した。
やがて城門の前にできた列へたどり着くと、俺もその最後尾へ並んだ。
大きな荷車が通るたびに乾いた土埃が舞い、馬のいななきや御者の掛け声が重なって聞こえてくる。門の内側からも人々の話し声や車輪の音が絶え間なく響いており、まだ街へ入っていないというのに、その向こうに大勢の人々が暮らしていることが伝わってきた。
王都の城門を通る時には、こうして列に並んだ記憶がほとんどない。
王家の馬車が近づけば門兵が道を空け、必要な確認も護衛の者が済ませてくれていた。
今思えば、それも第三王子という立場があったからこその扱いだったのだろう。
前に並んでいた商人が門兵へ書類を見せ、荷車の中身を確認されている。続いて農夫が短いやり取りを交わし、銅貨を何枚か手渡してから門をくぐっていった。
どうやら、街へ入るには身分の確認と入市税の支払いが必要らしい。
制度としては知っていたが、実際にその手続きをするのは初めてだった。
「次」
門兵に呼ばれ、俺は一歩前へ出た。
「身分証は?」
「ありません」
答えた途端、それまで事務的だった門兵の目がわずかに鋭くなった。
年齢は三十代半ばほどだろうか。日に焼けた顔には細かな皺が刻まれ、使い込まれた革鎧の肩には、何度も補修したらしい跡が残っている。俺の顔を確認したあと、門兵は肩の荷物と腰の剣へ視線を移した。
「どこから来た?」
「王都です」
「目的は?」
「冒険者になるためです」
「歳は?」
「十五です」
「一人か?」
「はい」
質問へ答えているうちに、ようやく自分でも気づいた。
十五歳の少年が、身分証も持たずに王都から一人でやってきたのだ。
しかも、旅装こそ普通だが、腰にはそれなりに立派な剣を差している。
事情を知らなければ、確かに少し怪しく見えるだろう。
門兵が警戒するのも無理はないと思い、俺はなるべく落ち着いた態度で次の質問を待った。
「冒険者登録はまだなんだな?」
「はい。これからギルドへ行くつもりです」
「だったら問題ない。登録すればギルドで身分証を発行してもらえるからな。入市税は銅貨五枚だ」
「五枚ですか……」
思わず、荷物の中にしまった革袋へ視線を落としてしまった。
つい先ほど数えたばかりの銅貨が、もう半分近く減ることになる。
街へ入るだけでこれなのだから、宿を探す頃にはどうなっていることやら。
「どうした、足りないのか?」
「いえ、大丈夫です」
慌てて革袋を取り出し、銅貨を五枚数えて手渡す。
門兵は受け取った硬貨を確認すると、こちらの様子を見て口元をわずかに緩めた。
「ずいぶん名残惜しそうに払うな」
「まだ仕事も決まっていないので、少し気になりまして」
「ははっ、そりゃそうだ。冒険者になりに来たってんなら、早いところ稼げるようにならないとな」
「そのつもりです」
「なら、まずはギルドだな。門を入って大通りをまっすぐ進めば噴水広場がある。そこを右へ曲がれば、剣と盾の看板が見えるはずだ」
「ありがとうございます」
礼を言うと、門兵は軽く顎を引いて応じた。
「ま、頑張れよ。若いからって無茶はするな」
「はい。気をつけます」
思いがけず気遣う言葉までかけられ、俺はもう一度頭を下げてから城門へ向かった。
王宮にいた頃、門兵からこんなふうに話しかけられたことがあっただろうか。
もちろん、兵士たちは皆礼儀正しかった。
けれど、その言葉の多くは第三王子に対するもので、今のように見知らぬ少年の懐具合を気にかけたり、仕事を頑張れと声をかけたりするものではなかった。
どちらがよいという話ではないのだろう。
ただ、今のやり取りは不思議と心に残った。
厚い城壁の下へ足を踏み入れると、頭上を覆う石造りの通路が外の光を遮り、ひんやりとした空気が頬を撫でた。靴音が石壁に反響し、外から聞こえていた人々の声も、一瞬だけ遠くなったように感じられる。
その暗がりを抜けた先で、突然、視界が明るく開けた。
「……おお」
思わず声が漏れた。
目の前には、街道から眺めていた時には想像もできなかったほど、賑やかな街並みが広がっていた。
◇
城門から続く大通りの両側には、二階建てや三階建ての石造りの建物が隙間なく並び、その軒先には赤や黄色、青といった色鮮やかな布が張り出している。石畳の道は大勢の人々に踏み固められ、行き交う荷車の車輪が継ぎ目を越えるたび、乾いた音を響かせていた。
道沿いには大小さまざまな露店が軒を連ね、籠いっぱいに積まれた果物や野菜、色とりどりの布地、木工品や金属製の小物などが所狭しと並べられている。
「安いよ! 朝採れのリンゴだ!」
「北方産の毛皮! 冬支度なら今が買い時だ!」
「旅の兄ちゃん、丈夫な革袋はどうだい!」
商人たちの威勢のよい声が四方から飛び交い、その合間を縫うように子供たちが笑いながら駆け抜けていく。買い物籠を提げた女性が露店の店主と値段を交渉し、荷車を引く男が道を空けるよう声を張り上げると、近くにいた人々が慣れた様子で左右へ分かれていった。
風に乗って、さまざまな匂いが漂ってくる。
焼きたてのパンの香ばしい匂いに、炭火で肉を焼く脂の香り。どこかの店先からは香辛料の刺激的な匂いが流れ、少し離れた場所では、鍛冶屋の炉から立ち昇る煤の匂いが混じっていた。
耳を澄ませば、商人たちの呼び声だけでなく、鉄を叩く甲高い槌音や、荷馬車の軋む音、開け放たれた酒場の扉から漏れてくる男たちの笑い声まで聞こえてくる。
王都とは、ずいぶん違う。
もちろん、王都にも大勢の人々が暮らしていたし、市場へ行けば同じような賑わいを見ることはできただろう。
ただ、俺が普段目にしていた王都の街並みは、王宮を中心に整えられた広い街路や、貴族の屋敷が並ぶ静かな区画がほとんどだった。
建物は美しく整い、街路樹も一定の間隔で植えられ、行き交う馬車までどこか決められた流れに従っているように見えたものだ。
それに比べて、グランベルの街並みは雑多だった。
店の看板は大きさも形もまちまちで、隣り合う建物の高さも揃っていない。石畳の端には荷物が積まれ、商人が客を呼び止め、そのすぐ横では冒険者らしき男たちが大声で笑い合っている。
けれど、その雑多さが妙に生き生きして見えた。
人々がそれぞれの仕事を持ち、暮らしを営み、その一つひとつが重なって街を動かしている。
王宮の窓から眺めていた街の景色とは違い、今はその中に自分も立っているのだと思うと、胸の奥がわずかに弾むような気がした。
ふと、通りの向こうから走ってきた小さな男の子が、俺のすぐ前を横切った。
「こらっ、走るんじゃないよ!」
後ろから母親らしい女性が声を上げると、男の子は振り返って笑い、そのまま人混みの中へ駆けていく。女性は困ったように眉を寄せながらも、どこか慣れた様子でそのあとを追っていった。
俺は思わず、その後ろ姿を目で追った。
王宮の中で、あんなふうに子供が走り回る姿を見ることはほとんどなかった。
もちろん俺自身も、幼い頃から廊下を走るなと何度も注意されてきたものだ。
今なら、少しくらい走っても誰にも叱られないのだろうか。
そんなことを考えて、我ながら妙なところで自由を実感しているものだと、口元が緩んだ。
「そこの兄ちゃん、串焼きどうだい!」
不意に、すぐ横から威勢のよい声が飛んできた。
振り向くと、炭火を使った小さな屋台の前で、恰幅のよい店主が焼き台を囲んでいた。赤く熾った炭の上には、肉と野菜を交互に刺した串が何本も並び、滴り落ちた脂が火に触れるたび、小さな炎とともに香ばしい煙が立ち昇っている。
ちょうど昼を少し過ぎた頃だ。
朝にパンを食べてから随分歩いてきたせいか、その匂いを嗅いだ途端、腹の奥が空腹を思い出したように小さく鳴った。
「焼きたてだよ。一本どうだ?」
「……美味そうですね」
「だろう? こいつは今朝仕入れたばかりの肉だからな。塩と香辛料を効かせてある。旅の途中なら腹も減ってるだろ?」
店主はそう言いながら、焼き台の上の串を器用にひっくり返した。表面に浮いた脂が炭火を受けて音を立て、立ち昇った煙が鼻先をくすぐる。
確かに美味そうだった。
王宮では肉料理など珍しくもなかったが、こうして目の前で焼かれているものを、その場で買って食べるという経験はほとんどない。
しかも、香辛料の匂いが空腹を刺激してくるものだから、思わず財布へ手が伸びそうになる。
「一本、いくらですか?」
「銅貨四枚だ。二本なら七枚にしてやるよ」
銅貨四枚。
思わず頭の中で計算する。
今の所持金は銀貨三枚と銅貨七枚。
ここで串焼きを一本買えば、銅貨は三枚になる。
もちろん銀貨を崩せば済む話ではあるが、これから宿を探し、冒険者登録も済ませなければならない。
そもそも、まだ仕事が決まっていないのだ。
焼き台の上でこんがりと色づいた肉をもう一度眺め、俺は小さく息を吐いた。
「……すみません。また今度にします」
「おう、そうかい。仕事が決まったら食いに来な!」
「はい。その時はぜひ」
店主は気を悪くした様子もなく笑い、次に通りかかった客へ声をかけ始めた。
屋台から離れて歩き出しても、しばらくは香ばしい匂いが鼻の奥に残っていた。
あれは、きっと美味いのだろう。
少しだけ未練を感じながらも、俺は荷物の中にしまった革袋の重さを思い出した。
王宮にいた頃なら、食べたいと思ったものを金額で諦めることなどなかった。
けれど今は、一本の串焼きを買うかどうかさえ、自分で考えて決めなければならない。
それを不便だと感じる一方で、妙に面白くもあった。
仕事をして金を稼いだら、あの串焼きを買ってみよう。
そんな小さな目標が一つ増えたことに気づき、俺は思わず笑ってしまった。
王子だった頃には、考えもしなかったことだ。
大通りをさらに進むと、やがて道幅が広がり、中央に大きな噴水を備えた広場へ出た。
白い石で造られた噴水の周囲には低い縁石が巡らされ、澄んだ水が陽光を受けて細かな光を散らしている。水音は周囲の喧騒に混じりながらも耳に心地よく、広場の端では買い物を終えたらしい人々が腰を下ろし、談笑していた。
噴水の向こうには、武器や防具を身につけた者たちの姿が目立ち始めている。
大きな斧を肩に担いだ男。
弓と矢筒を背負った女性。
長い杖を持ち、深い色の外套をまとった魔法士らしき老人。
その誰もが、王宮で見慣れた騎士たちとは違う装備をしていた。
統一された鎧も、同じ意匠の剣もない。身につけているものはそれぞれ異なり、革鎧の上から金属の胸当てを重ねている者もいれば、軽装のまま短剣を何本も腰に差している者もいる。
彼らの装備を眺めているだけでも、何となく面白かった。
王宮の騎士たちは、決められた規格の武具を使い、統一された訓練を受けていた。
けれど冒険者たちは、自分の戦い方に合わせて装備を選んでいるのだろう。
そう考えると、自然と腰の剣へ意識が向いた。
俺の剣は、王宮で使うことを前提に作られたものだ。
剣術の稽古には申し分ないし、刀身の質も優れている。
けれど、これから冒険者として魔物と戦うことになれば、王宮では考えもしなかった使い方をすることになるのかもしれない。
もっとも、今の俺には実戦経験がない。
剣を振る技術には多少の自信があるものの、それが魔物を相手にどこまで通用するのかは、実際に戦ってみなければ分からないだろう。
そのことに、少しだけ緊張を覚えた。
ただ、不安ばかりではなかった。
これまで学んできた剣術を、王宮の外で試すことができる。
そして、自分でもまだよく分かっていない闇魔法を、これから覚えていくことになる。
そう思うと、知らず知らずのうちに足が速くなっていた。
門兵に教えられた通り、噴水広場を右へ曲がる。
大通りから一本入った道は少し狭くなっていたが、人通りはむしろ多く、剣や槍を携えた者たちが次々と行き交っている。近くの建物からは革をなめす匂いや金属を磨く油の匂いが漂い、店先には冒険者向けらしい丈夫な靴や革袋、縄などが並べられていた。
この辺りには、冒険者を相手に商売をしている店が集まっているのだろう。
いずれ、こうした店にも世話になるのかもしれない。
そんなことを考えながら歩いていると、やがて通りの先に、周囲の建物より一回り大きな木造建築が見えてきた。
石造りの土台の上に太い木材を組み上げた建物で、正面には両開きの大きな扉が設けられている。長年使い込まれてきたのか、扉の表面には細かな傷がいくつも残り、入口の周囲の石畳も、大勢の人々に踏まれて滑らかに磨かれていた。
その上には、交差した剣と盾をかたどった大きな看板が掲げられている。
看板の下に刻まれた文字を、俺はゆっくりと読んだ。
《グランベル冒険者ギルド》。
どうやら、目的地に到着したらしい。
◇
建物の前で足を止めると、開け放たれた窓の向こうから、賑やかな話し声が聞こえてきた。
男たちの豪快な笑い声に、何かを言い争っているような声。時折、硬いものを机へ置く音や、椅子を引く音も混じっている。入口の脇では、鎧を着た二人組が何やら話し込み、その横を大きな荷物を背負った冒険者が慣れた足取りで通り過ぎていった。
その男が肩に担いでいた麻袋の口から、見慣れない獣の毛皮が覗いている。泥に汚れた革鎧には細かな傷がいくつも刻まれ、腰に差した短剣の鞘も、長く使い込まれたものらしかった。
王宮の訓練場では、あまり見かけなかった姿だ。
騎士たちの武具はいつも丁寧に手入れされ、訓練が終われば決められた場所へ戻されていた。けれど、ここに集まる者たちの装備には、実際に魔物と戦い、森や山を歩いてきたのだろうと思わせる痕跡が残っている。
俺は無意識に、自分の腰に差した剣へ目を落とした。
十年間、何度も握ってきた剣だ。
その重さにも、柄の感触にも慣れている。
けれど、目の前を通り過ぎていく冒険者たちを見ていると、自分が知っている剣の世界は、まだほんの一部分なのかもしれないと思えてきた。
「おい、そっちの袋も運んでくれ!」
「待て待て、そいつは俺の獲物だぞ!」
「分かってるって。誰も横取りしねえよ!」
入口の向こうから、そんなやり取りが聞こえてきた。
どうやら、依頼を終えて戻ってきた冒険者たちがいるらしい。続いて何人かの笑い声が上がり、重い荷物を床へ下ろしたような鈍い音が響いた。
思わず、口元が緩む。
その様子が、何だか少し楽しそうに思えた。
もっとも、今の俺はまだ冒険者ですらない。
十五歳で登録できるのかどうかも、詳しい手続きも、ここへ来てから確かめるつもりでいた。
もし登録を断られたら、別の仕事を探さなければならないかもしれない。
そう考えると、さすがに少し緊張する。
所持金は銀貨三枚と銅貨七枚。宿代も食費も、これから必要になる。
先ほど我慢した串焼きのことを思い出すと、いつまでも入口の前で立ち止まっているわけにはいかなかった。
まずは登録できるかどうか、聞いてみよう。
そう思って一歩を踏み出しかけた時、正面の扉が勢いよく開いた。
「だから言っただろ! あの依頼は割に合わねえって!」
「終わってから言うなよ。引き受ける時はお前も賛成してただろうが!」
言い合いながら出てきたのは、革鎧を身につけた二人の男だった。
一人は肩に大きな斧を担ぎ、もう一人は腰に剣を差している。どちらも俺よりずっと年上で、日に焼けた顔には疲れが浮かんでいたが、その声には妙な明るさがあった。
二人は入口の前に立っていた俺に気づくと、少しだけ歩調を緩めた。
「おっと、悪いな」
「いえ」
慌てて道を空けると、斧を担いだ男が俺の腰の剣へちらりと視線を向けた。
「新人か?」
「……はい。これから登録しようと思っているところです」
「そうか。なら、受付で聞いてみな。初めてなら色々教えてくれるはずだ」
「ありがとうございます」
「ま、頑張れよ」
男は軽く手を上げると、連れの男と再び言い合いながら通りを歩いていった。
その後ろ姿を見送り、俺は小さく息を吐いた。
どうやら、思っていたほど怖い場所ではないのかもしれない。
俺は肩に掛けた荷物を持ち直し、使い込まれた木製の扉へ手を掛けた。
分厚い木板には無数の細かな傷が刻まれ、鉄製の取っ手は大勢の人々が触れてきたのだろう、角が滑らかに磨かれている。
その向こうから、また大きな笑い声が聞こえてきた。
今度は何の話をしているのだろう。
どんな人たちがいて、どんな仕事が待っているのだろうか。
そんなことを考えていると、胸の奥にあった緊張が、いつの間にか期待へと変わっていた。
「……よし」
その向こうから聞こえてくる人々の声に、胸を高鳴らせながら、ゆっくりと扉を押し開いた。




