プロローグ 王子、闇魔法士になる
十年間、剣を振り続けてきた。
五歳の頃に初めて木剣を握ってから、王宮の訓練場で幾度となく剣を振り、騎士たちに教えを請い、少しずつ技を磨いてきた。
剣士の家系として知られるレイフォード王家に生まれた俺が、いつか父や兄たちと同じように剣の道を歩むことを、周囲の誰もが疑っていなかったし、俺自身もそれが当然なのだと思っていた。
けれど、十五歳の誕生日に行われた《天職の儀》で、神から与えられた天職は《闇魔法士》だった。
剣士でも騎士でもなく、王家の記録にもほとんど例のない、未知の天職。
その結果が何を意味するのか、あの時の俺にはまだ分かっていなかった。
ただ一つ確かなのは、あの日を境に、それまで当たり前だと思っていた人生が大きく変わってしまったということだ。
もっとも、今にして思えば、俺の人生は最初から少し変わっていたのかもしれない。
何しろ、俺には前世の記憶があるのだから。
◇
自分が一度死んでいることに、いつ気づいたのかは覚えていない。
物心がついた頃には、今とは違う世界で生きていた記憶が頭の片隅にあり、目の前に広がる景色が、かつて自分の知っていたものとは異なっていることを、何となく理解していた。
とはいえ、前世の記憶はひどく曖昧なものだった。
どんな家に住み、誰と暮らし、どのような仕事をしていたのか。
思い出そうとしても、霧の向こうにある景色を眺めているようで、細かなことまでは分からない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
前の世界には、魔法がなかった。
少なくとも俺が知る限り、人間が何もない空間から炎を生み出したり、風を操ったりすることはなかったし、街道を行き交う人々が魔物に襲われるようなこともなかった。
だから、幼い頃の俺にとって、この世界は何もかもが新鮮だった。
王宮の窓から見上げた空には、時折、大きな翼を広げた魔獣が飛んでいた。城壁の向こうでは騎士たちが街道を守り、王宮の訓練場では宮廷魔法士が杖の先から炎や氷を生み出していた。
初めて魔法士の訓練を見学した時には、目の前で火球が生まれ、それが標的へ向かって飛んでいく光景に、しばらく声も出なかったことを覚えている。
乾いた破裂音とともに赤い火花が散り、熱を帯びた風が頬を撫でた時、魔法というものが本当に存在するのだと、ようやく実感したものだった。
そんな剣と魔法の世界に生まれた俺は、どういうわけか王子だった。
アルク・レイフォード。
レイフォード王国第三王子。それが、この世界で与えられた俺の名前と立場だ。
父は国王、母は王妃。五歳年上の第一王子をはじめ、俺には二人の兄がいる。
前世でどんな人生を送っていたにせよ、王族だったことだけはまずないだろう。
幼い頃は、自分の部屋に侍女が出入りすることにも、食事のたびに何人もの使用人が動き回ることにも、どうにも落ち着かないものを感じていた。
けれど、人間というものは不思議なほど環境に慣れる。
十歳になる頃には、朝になれば侍女が部屋を訪れ、廊下を歩けば使用人たちが頭を下げることにも、ほとんど違和感を覚えなくなっていた。
ただし、王子だからといって、好き勝手に暮らせたわけではない。
むしろ、自由に使える時間は驚くほど少なかった。
朝は剣術の稽古から始まり、午前中には歴史や政治を学ぶ。
昼食を挟めば、午後には算術、地理、外交、礼法といった講義が続き、時には魔法理論や軍学まで教え込まれた。
王族として必要な教養だと言われれば、その通りなのだろう。
けれど、前世で学校というものを経験していた記憶がある俺から見ても、なかなか容赦のない教育だったと思う。
そんな毎日の中で、俺が一番楽しみにしていたのが剣術の稽古だった。
王宮の東側には、王族と近衛騎士が使用する広い訓練場がある。
白い石壁に囲まれた敷地には細かな砂が敷き詰められ、朝になると何十人もの騎士たちが集まってくる。まだ空気の冷たい時間帯から掛け声と剣戟の音が響き始め、日が高くなる頃には、踏み込みによって舞い上がった砂が陽光の中を漂っていた。
幼い頃の俺は、その光景を眺めるのが好きだった。
騎士たちが木剣を打ち合わせるたびに乾いた音が響き、相手の攻撃を受け流した剣が、次の瞬間には鋭く振り下ろされる。力任せに見える一撃にも細かな技術があり、ほんのわずかな足の運びによって、剣の届く距離が変わる。
初めて木剣を握った五歳の頃には、そんなことは何も分からなかった。
子供用に作られた小さな剣でさえ、思っていたより重く、何度も振っているうちに腕が疲れてしまったものだ。
それでも、教官に教わった構えを繰り返し、少しずつ身体の使い方を覚えていくことが、俺には面白かった。
昨日はうまくできなかった踏み込みが、今日は少しだけ滑らかになる。
力任せに振っていた剣が、身体の動きに合わせて自然に走るようになる。
そんな小さな変化を実感するたびに、もっと上達したいと思った。
王宮では、何をするにも第三王子という立場がついて回った。
食事の作法も、人との話し方も、歩く時の姿勢さえ、王族としてふさわしい振る舞いを求められる。
けれど、訓練場で剣を握っている間は違った。
どれほど身分が高くても、踏み込みが甘ければ剣は届かないし、構えが崩れれば簡単に打ち込まれる。
相手が騎士であろうと教官であろうと、剣を交えている時には、自分の未熟さを隠すことなどできなかった。
それが、俺には心地よかったのだと思う。
「アルク殿下は、剣の才をお持ちです」
長年騎士たちを指導してきた教官から、そう言われた日のことは今でも覚えている。
嬉しくなった俺は、その日の夕食で父に稽古の様子を話した。
すると父は、満足そうに頷いた。
「当然だ。レイフォードの王族だからな」
その時は、ただ褒めてもらえたのだと思っていた。
けれど、父がその言葉に込めていた意味を、俺はまだ十分に理解していなかったのだろう。
レイフォード王家は、古くから剣士の家系として知られている。
建国王が一本の剣を手に周辺諸国を平定したという伝説は、王国の歴史を学ぶ者なら誰もが知っている話であり、歴代の王族にも《剣士》や《騎士》といった天職を授かる者が多かった。
父もまた、《剣士》の上位職である《剣豪》の天職を持ち、若い頃には自ら戦場へ立った経験があるらしい。
兄たちも幼い頃から剣術に優れ、十三歳になる頃には王国騎士団の訓練へ参加していた。
王家に生まれ、十年間剣を学んできた俺も、当然その道を歩むのだろう。
周囲がそう考えるのも、無理はなかった。
そして俺自身も、十五歳になるまでは、それを疑ったことがなかった。
◇
《天職の儀》が行われた日の朝、王都の大神殿には澄んだ鐘の音が響いていた。
高い天井を支える白い石柱が左右に並び、その間に設けられた細長い窓から、朝の光が斜めに差し込んでいる。磨き上げられた石床にはステンドグラスの色鮮やかな光が落ち、赤や青、金色の模様を描いていた。
祭壇の周囲では白い祭服をまとった神官たちが準備を進め、香炉から立ち昇る淡い煙が、天井の高い空間へゆっくりと広がっている。
その中央に置かれていたのは、人の背丈ほどもある透明な水晶だった。
《鑑定晶》。
十五歳になった者が神から授かる天職と、その適性を確認するための魔道具だ。
この世界では、天職によって、その人物がどの分野に優れた資質を持つのかが明らかになる。
《剣士》なら剣術、《魔法士》なら魔法、《鍛冶師》なら鍛冶といった具合に、それぞれの才能に応じた天職が与えられる。
もちろん、天職が人生のすべてを決めるわけではないが、その後の成長や進む道に大きな影響を与えることは間違いなかった。
俺の後方には、父と母、兄たちが並んでいる。
さらに王国の重臣たちまで列席しており、ただ一人の天職を確認するために、ずいぶん大勢が集まったものだと感じた。
もっとも、王族の天職は国の将来にも関わる。
俺自身に王位を継ぐつもりがあるかどうかとは別に、第三王子としてどのような力を持つのかは、王国にとって重要なことなのだろう。
「アルク・レイフォード殿下」
祭壇の脇に立っていた神官長が、静かな声で俺を呼んだ。
「鑑定晶へ手をお触れください」
「はい」
俺は祭壇の前へ進み、右手を水晶へ伸ばした。
不思議と、緊張はそれほどなかった。
何年も剣を振り続けてきたし、教官からも才能があると言われている。
王家が代々剣に関する天職を授かってきたことを考えれば、自分も同じ道を歩むのだろうという思いに、疑いを挟む余地はほとんどなかった。
掌が水晶の表面へ触れる。
磨かれた石のような、ひんやりとした感触が伝わってきた。
その直後、水晶の奥に小さな光が灯った。
最初は蝋燭の炎ほどの淡い輝きだったものが、ゆっくりと広がり、透明だった水晶の内部を満たしていく。光は白から青へと変わり、幾重にも重なった色が水晶の奥で渦を巻くように揺れ始めた。
やがて、その青い光が薄れていった。
次に現れた色を見て、俺は思わず目を細めた。
黒だった。
水晶の中心に小さな染みのようなものが生まれ、それが周囲の光を呑み込むように広がっていく。透明だったはずの内部が、墨を流し込んだ水のようにゆっくりと暗く染まり、やがて水晶全体が深い闇を宿した。
背後で、誰かが息を呑む音がした。
それまで静かに儀式を見守っていた重臣たちの間から、小さなざわめきが起こる。
「これは……」
神官長は水晶を見つめたまま、しばらく言葉を続けなかった。
俺も掌を触れたまま、黒く染まった鑑定晶を眺めていた。
光を反射するはずの水晶が、まるで夜そのものを閉じ込めたように暗い。その奥には何かがゆっくりと流れているようにも見えたが、目を凝らしても、はっきりとした形を捉えることはできなかった。
やがて黒い水晶の表面に、淡い文字が浮かび上がった。
《天職――闇魔法士》
「……魔法士?」
思わず声が漏れた。
剣士ではない。
騎士でもない。
十年間、剣を学んできた俺に与えられたのは、聞き慣れない闇属性の魔法士という天職だった。
魔法理論の講義を受けたことはあるものの、実際に魔法を使った経験などほとんどない。
まして、闇魔法については古い記録にわずかな記述が残されている程度で、具体的にどのような術式があるのかさえ知らなかった。
どうして俺が、その天職を授かったのだろう。
疑問に思いながら後ろを振り返ると、父の顔から、儀式が始まる前まであった穏やかな表情が消えていた。
その隣では母が胸元で両手を重ね、何かを確かめるように鑑定晶を見つめている。兄たちも互いに視線を交わしていたが、誰も言葉を発しようとはしなかった。
「続けよ」
父の低い声が、静まり返った神殿に響いた。
神官長は我に返ったように小さく頭を下げ、鑑定晶へ手を添えた。
「では、続いて適性を確認いたします」
水晶の内部で再び光が揺れ始める。
天職とは別に、その人物が持つ技能や魔法属性への適性も確認される。
天職と適性は必ずしも一致するわけではなく、天職とは異なる分野に優れた才能を持つ者もいるという。
最初に浮かび上がったのは、剣術に関する表示だった。
《剣術適性――S》
その文字を見た瞬間、神官長が目を見開いた。
背後からも驚きの声が上がり、先ほどとは違う種類のざわめきが神殿の中へ広がっていく。
俺自身も驚いた。
Sという評価は、通常の適性の中でも最高位に近いものだと聞いている。
これまで剣を学んできたことが無駄ではなかったのだと思うと、胸の奥に小さな安堵が広がった。
天職は《闇魔法士》だった。
けれど、剣術への適性まで失われたわけではない。
十年間、何度も剣を振り、教官に叱られ、少しずつ身につけてきた技術が、これからも自分の中に残っている。
そのことが、思っていた以上に嬉しかった。
魔法士としてどのような道を歩むことになるのかは分からないが、剣を握ることまで諦める必要はないのかもしれない。
そう考えると、先ほどまで胸の奥にあった戸惑いが、少しだけ和らいだ。
しかし、鑑定はまだ終わっていなかった。
水晶の表面に新たな文字が浮かび、魔法属性への適性が順番に示されていく。
火、水、風、土はいずれも低く、光属性に至っては皆無という結果だった。
魔法士という天職を授かったわりには、ずいぶん偏った適性だなと思いながら表示を追っていると、最後に闇属性の文字が現れた。
その瞬間、水晶の黒が一段と濃くなった。
まるで内部に広がっていた闇が、さらに深い場所へ沈んでいくようだった。周囲の光を吸い込んでいるのではないかと思うほど、水晶の表面は暗く、そこに浮かび上がる文字だけが不自然なほど鮮明に輝いている。
《闇属性適性――EX》
先ほどまで続いていたざわめきが、途絶えた。
神官長は鑑定晶を見つめたまま動かず、その表情には驚きだけでなく、明らかな困惑が浮かんでいた。
EX。
通常の尺度では測ることのできない、規格外の適性。
講義でその存在について聞いたことはあったが、実際に目にするのは初めてだった。
剣術適性Sが示された時には、周囲から驚きと称賛の声が上がった。
けれど、闇属性適性EXという結果を前にした今、神殿の中には、誰もが言葉を探しているような沈黙が広がっていた。
その違いが、俺には少し気になった。
どちらも高い適性を示しているはずなのに、どうしてこれほど反応が違うのだろう。
そんな疑問を抱いた時、水晶の下部に、それまでとは異なる文字がゆっくりと現れた。
《固有技能――深淵への適応》
「《深淵への適応》……?」
神官長が、かすれた声でその名を読み上げた。
俺も表示を見つめたが、何を意味しているのか分からなかった。
「神官長。それは、どのような技能なのですか?」
俺が尋ねると、神官長はしばらく鑑定晶を見つめ、それからゆっくりと首を振った。
「……申し訳ございません、殿下。私にも分かりません」
その返答には、隠し事をしているような気配はなかった。
むしろ、長年儀式を執り行ってきた自分にも理解できない結果を前に、どう説明すればよいのか分からずにいるようだった。
大神殿の神官長でさえ知らない技能。
本来なら、俺はその事実に強い興味を覚えただろう。
前世の記憶を持つ俺にとって、この世界の魔法や未知の能力は、幼い頃から好奇心を刺激するものだった。
闇魔法という聞き慣れない力が自分に備わっているのなら、それを調べ、どのようなことができるのか確かめてみたいという気持ちもあった。
けれど、その時は素直に喜ぶことができなかった。
背後から向けられる視線が、明らかに変わっていたからだ。
驚きだけではない。
戸惑いと、警戒。
そして、その奥にある、得体の知れないものへの恐れ。
俺が何かをしたわけではない。
ただ、鑑定晶に手を触れただけだ。
それなのに、つい先ほどまで第三王子として見守られていた自分が、まるで別の存在になってしまったように感じられた。
掌の下では、黒く染まった水晶が静かに光を失い始めていた。
俺はゆっくりと手を離し、冷たくなった指先を握りしめた。
◇
その日の夕方、俺は父の執務室へ呼ばれた。
王宮の西側に位置する執務室は、重厚な木製の扉と高い天井を備えた広い部屋だった。壁際には王国各地の地図や書類棚が並び、大きな窓から差し込む西日が、磨かれた床の上に長い光の帯を作っている。
幼い頃から何度も訪れた場所だった。
剣術の稽古で褒められた時も、学問の成績がよかった時も、父はこの部屋で俺の話を聞いてくれた。
忙しい時には短い言葉を返すだけのこともあったが、それでも、ここへ呼ばれることが必ずしも嫌なことだったわけではない。
けれど、その日は違った。
執務机の向こうには父が座り、その脇には宰相と王国騎士団長が控えていた。
母の姿はない。
兄たちもいなかった。
それだけで、これが家族としての話ではないのだと分かった。
「アルク」
父が俺の名を呼んだ。
昼間の儀式から、まだ数時間しか経っていない。
それなのに、執務机の向こうに座る父の姿が、ひどく遠く感じられた。
「お前の天職について、神殿と協議した」
「はい」
「《闇魔法士》という天職は、王家の記録にもほとんど例がない。神殿に残る資料を調べても、詳細は分からなかったそうだ」
父の声は落ち着いていた。
怒っている様子も、感情を押し殺しているような様子もない。ただ、王国に関わる重要な案件について、必要な事実を一つずつ確認しているような話し方だった。
「ですが、剣術適性はSでした」
俺は思わず口を開いた。
「天職が《闇魔法士》でも、剣を続けることはできます。これまで通り訓練を重ねれば、きっと――」
「問題はそこではない」
父の声が、俺の言葉を遮った。
強い口調ではなかったが、それ以上の説明を許さない響きがあった。
「闇属性は、古くから禁術や呪術との関わりが深いとされている。まして、適性EXなどという例は神殿にも記録がない」
「でも、適性が高いこと自体は、悪いことではないでしょう?」
「それが何を意味するのか分かっていればな」
父は机の上に置かれた書類へ視線を落とし、それから再び俺を見た。
「《深淵への適応》についても同じだ。神殿は、その技能がどのような作用を持つのか確認できなかった。危険性を否定することもできないと言っている」
窓の外では、夕日が王宮の庭園を赤く染め始めていた。
遠くの木々が風に揺れ、その影が窓枠を越えて床の上をゆっくりと動いている。いつもなら穏やかに感じられるその景色が、今は妙に冷たく見えた。
「……分からないから、危険なんですか?」
自分でも、少し子供じみた質問だと思った。
けれど、ほかに何を言えばよいのか分からなかった。
俺はまだ、闇魔法を一度も使っていない。
誰かを傷つけたこともなければ、禁術に手を出したこともない。
ただ、神殿の水晶が示した結果によって、危険かもしれない存在として扱われている。
「王家は、分からないものを抱えたままにしておける立場ではない」
父は静かに答えた。
「国王には、国を守る責任がある。たとえ可能性にすぎなくとも、王国に重大な危険を及ぼすおそれがあるなら、見過ごすわけにはいかない」
その言葉を聞いて、俺はようやく理解した。
今、目の前にいるのは父ではない。
国王なのだ。
俺が幼い頃に剣術の上達を喜んでくれた父親ではなく、王国の利益と安全を守るために判断を下す、一国の統治者だった。
その理屈が、まったく分からないわけではない。
王族として政治や軍学を学んできた以上、国家を治める者が個人の感情だけで物事を決められないことくらいは理解している。
けれど、理解できることと、納得できることは違う。
俺はまだ十五歳だった。
しかも、つい数時間前まで、いつもと変わらず剣を学び、王宮で暮らしていたのだ。
「それで……俺をどうするのですか?」
思っていたよりも、落ち着いた声が出た。
父はすぐには答えなかった。
机の上に組んでいた両手へ視線を落とし、短い沈黙のあと、ゆっくりと顔を上げる。
「王位継承権を剥奪する」
その言葉を聞いた時、胸の奥に小さな痛みが走った。
もっとも、まったく予想していなかったわけではない。
俺には二人の兄がいる。
もともと王位を継ぐ可能性は高くなかったし、自分が王になりたいと強く望んでいたわけでもない。
だから、王位継承権を失うという決定だけなら、時間をかければ受け入れられたと思う。
けれど、父の言葉はそこで終わらなかった。
「そして、王宮を出てもらう」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「……出る、とは?」
「明朝、王都を発て。必要最低限の旅支度と当面の生活費は用意させる」
父の声は変わらなかった。
まるで、地方へ赴任する家臣に命令を下しているかのような、静かで事務的な口調だった。
俺はしばらく、その言葉を頭の中で繰り返していた。
王宮を出る。
明日の朝には、ここを離れる。
十五年間暮らしてきた場所から、いなくなる。
意味を理解するにつれて、胸の奥に冷たいものが広がっていった。
「待ってください。俺は、何もしていません」
「分かっている」
「それなら、どうして……」
「何かが起きてからでは遅い」
静かな声だった。
怒鳴られた方が、まだよかったのかもしれない。
父は感情に任せて俺を追い出そうとしているわけではない。
神殿と協議し、王国への影響を考え、その結果として、この判断を下したのだろう。
だからこそ、言葉を重ねても決定が変わることはないのだと分かった。
執務室の中には、しばらく沈黙が続いた。
窓の外からは、庭園の木々を揺らす風の音がかすかに聞こえてくる。遠くで鐘が鳴り、王宮の一日が終わりへ向かっていることを告げていた。
いつもなら、このあと夕食の時間になる。
食堂へ行けば、母や兄たちがいて、侍女たちが料理を運んでくる。
そんな当たり前だった光景が、急に遠いものに思えた。
「……母上は?」
ようやく絞り出した問いに、父の視線がほんのわずかに揺れた。
「すでに伝えてある」
「兄上たちは?」
「同じだ」
「二人は、何と……」
「アルク」
父が俺の名を呼んだ。
それ以上、聞くなという意味だった。
俺は口を閉じた。
胸の中にあるものが怒りなのか、悲しみなのか、自分でもよく分からなかった。
父の判断が国王として正しいのかどうか、今の俺には答えを出せない。
けれど、どれほど理屈を重ねたところで、変わらないことが一つだけあった。
俺は、何もしていない。
それなのに、十五年間暮らしてきた場所を、明日には出ていかなければならない。
自分の家だと思っていた場所が、たった一日で、そうではなくなってしまったのだ。
俺は深く頭を下げ、父の執務室をあとにした。
重い扉が背後で閉まると、廊下にはいつもと変わらない静けさが広がっていた。
壁に並ぶ燭台にはすでに火が灯され、赤みを帯びた光が磨かれた床へ細長く伸びている。遠くから使用人たちの足音が聞こえ、夕食の準備を知らせる鐘の音が、石造りの廊下を静かに伝わってきた。
王宮は、何も変わっていなかった。
変わってしまったのは、俺の方だった。
◇
翌朝、王都の空には薄い雲が広がっていた。
まだ日が昇りきらない時間帯の街は、昼間の賑わいが嘘のように静かだった。石畳の大通りには朝露が残り、家々の屋根からは朝食の支度を始めたのだろう、細い煙がゆっくりと立ち昇っている。遠くからパンを焼く香ばしい匂いが漂い、店先の木戸を開ける音や荷車を引く馬の蹄音が、冷たい朝の空気の中に響いていた。
俺は小さな荷物を肩に掛け、腰に一本の剣を差して歩いていた。
王宮から持ち出すことを許されたのは、数着の着替えと旅に必要な道具、それに当面の生活費として渡された少しばかりの金だった。
剣だけは、これまで使い続けてきたものをそのまま持ってきている。
荷物は驚くほど軽かった。
十五年間暮らしてきた場所を離れるというのに、自分の手で運べるものはこれだけなのか。
そんなことを考えながら肩紐を直すと、荷物の中で金貨や銀貨が小さく触れ合う音がした。
昨夜は、ほとんど眠れなかった。
荷物をまとめている間も、父の言葉が何度も頭をよぎった。
『何かが起きてからでは遅い』
父が国王として何を恐れ、あの決断を下したのか。
王族として学んできた知識を総動員すれば、その理屈を理解することはできるのかもしれない。
けれど、息子として納得できるかと問われれば、答えは違った。
今はまだ、父を許せるとも、憎んでいるとも言えない。
ただ、昨日まで当たり前だった暮らしが、もう戻らないのだということだけは分かっていた。
そんなことを考えているうちに、王都の城門が見えてきた。
朝の光を受けた石壁は淡い灰色に輝き、その上では王国の旗が静かにはためいている。門の向こうには緩やかな丘へ続く街道が伸び、遠くの景色は薄い朝靄に包まれていた。
門をくぐる前に、俺は一度だけ振り返った。
建物の屋根が幾重にも重なる向こうに、王城の尖塔が見える。
朝靄の中に浮かぶその姿は、いつもと変わらず美しかった。あの城のどこかには、昨日まで使っていた部屋があり、読みかけの書物も、稽古のあとに手入れをしていた木剣も、そのまま残されているのだろう。
ふと、幼い頃に母と歩いた庭園を思い出した。
あの頃は、城の外にどんな世界が広がっているのか、深く考えたこともなかった。
剣術の稽古を終えれば食事が用意され、翌朝になれば、また決められた時間に教官が待っている。
それが自分の暮らしであり、これからも続いていくものだと思っていた。
胸の奥が、少しだけ締めつけられた。
王宮で過ごした十五年間が、すべて嫌だったわけではない。
厳しい教育も、窮屈な決まりごともあったが、楽しかったことや、大切に思っていたものも確かにある。
それらを簡単に忘れることなど、できそうになかった。
しばらく王城を眺めてから、俺は静かに息を吐いた。
そして、前を向く。
城門の外には、まだ見たことのない景色が広がっていた。
行き先は、昨夜のうちに決めてある。
グランベル。
王都から離れた地方都市で、大きな冒険者ギルドがある街だ。
王都から十分に距離があり、第三王子だった俺の顔を知る者も少ないだろう。そこでなら、身分を隠して新しい生活を始められるかもしれない。
そして、冒険者として生きていく。
王宮にいた頃、冒険者たちの話を聞くのは好きだった。
未知の土地を旅し、魔物と戦い、時には古い遺跡を探索する。騎士たちが語るそんな話に、胸を躍らせたことは一度や二度ではない。
もっとも、実際の冒険者の暮らしが、聞いていた話ほど華やかなものではないことくらいは分かっている。
魔物との戦いには危険が伴うし、依頼を受けて報酬を得なければ、食事にも宿にも困ることになるだろう。
それでも、俺には十年間磨いてきた剣術がある。
腰に差した剣へ手を伸ばすと、使い慣れた柄が掌に馴染んだ。
《天職の儀》で与えられたのは、《闇魔法士》という未知の天職だった。
剣士になるものと信じていた俺にとって、それは今でも戸惑いの残る結果だ。
けれど、剣術への適性がSだったことまで、消えてしまったわけではない。
それに、闇属性への適性はEX。
神殿の記録にもほとんど例がないという、その力が何を意味するのかは分からない。
《深淵への適応》という固有技能についても、今の俺には何の手掛かりもなかった。
ただ、もし闇魔法を使えるようになれば、これまでの剣術とは違う戦い方ができるのだろうか。
そんな考えが浮かび、俺は思わず剣の柄を握り直した。
剣と魔法。
どちらか一つを選ばなければならないと、誰が決めたのだろう。
もちろん、今の俺には魔法の使い方すら分からない。剣術が実戦でどこまで通用するのかも、まだ試したことがなかった。
けれど、それならこれから学べばいい。
そう思うと、不思議なことに、少しだけ胸が高鳴った。
王宮にいた頃は、学ぶことも、会う相手も、日々の予定も、ほとんどが決められていた。
剣術の稽古だけは自分から望んで続けてきたが、それ以外のことを自由に選べる機会は多くなかった。
今は違う。
明日の食事も、今夜泊まる場所も、自分で考えなければならない。
何かを間違えても、代わりに責任を取ってくれる者はいないだろう。
それは少し恐ろしいことだった。
けれど、同時に、今まで知らなかった世界を自分の目で確かめられるということでもある。
俺は改めて、城門の外へ目を向けた。
朝靄の向こうへ伸びる街道を、数台の荷馬車がゆっくりと進んでいる。
旅装の男が一人、門番に軽く手を上げて通り過ぎ、その後ろを大きな荷物を背負った若い冒険者らしい二人組が、楽しそうに話しながら歩いていった。
あの人たちは、どこへ向かうのだろう。
どんな依頼を受け、どんな景色を見てきたのだろうか。
そんなことを考えているうちに、いつの間にか、俺は彼らの背中を目で追っていた。
昨日までの俺なら、王宮の窓から眺めるだけだったかもしれない。
けれど、今は違う。
あの道を、自分の足で歩いていける。
「……行くか」
誰に言うでもなくつぶやき、俺は城門の外へ一歩を踏み出した。
朝の風が頬を撫で、草の匂いを運んでくる。王都の外へ続く街道には、遠くの丘の向こうから昇り始めた太陽が、淡い光を落としていた。
歩き出すと、腰の剣が歩調に合わせて小さく揺れた。
その重さを感じながら、俺は前を行く冒険者たちの背中を追うように、少しだけ歩幅を広げた。
王子としての人生は、ここで終わった。
けれど、アルクとしての人生は、まだ始まったばかりなのだ。
お読みいただき、ありがとうございます。
王子という立場を離れたアルクが、剣と闇魔法を携えて新しい人生を歩み始める物語です。
彼の成長を、長く見守っていただければ嬉しいです。




