第17話 連携の刃
傷ついた脚で地面を蹴り、オークの巨体が再び動き出した。
脇腹から流れる血が腰に巻いた獣皮を濡らし、荒い鼻息に合わせて黄ばんだ牙の間から唾液が飛び散る。
右手に握られた棍棒は地面を擦るほど低く構えられていたが、その先端が湿った落ち葉を巻き上げる勢いを見れば、振り抜かれたときの威力は想像できた。
オークの細い目が、俺を捉えている。
先ほど左脇腹を斬ったときの、分厚い筋肉を裂く重い手応えが右手に残っていた。
胸元には反撃をかすめられた痛みもあるが、その痛みのおかげで、相手の間合いへ安易に踏み込む気にはなれなかった。
「アルク、右へ開け! 引きつけすぎるなよ!」
ガレスの声に従い、俺はオークに向かって右側へ足を運んだ。
正面には盾を構えたガレスがいる。
反対側にはリックが剣を低く構え、フィナは俺たちより後方、少し右寄りの木の傍らで弓を引き絞っていた。
俺が動くと、オークも鼻を鳴らしながら身体をこちらへ向けようとする。
その動きを遮るように、ガレスが正面から踏み込んだ。
「こっちだ!」
盾の縁が棍棒の側面を叩いた。
オークはガレスへ向き直り、右手の棍棒を横へ振り抜く。
ガレスは正面から受け止めず、左足を引きながら盾を斜めに傾け、棍棒の勢いを横へ逃がした。
金属を擦る鈍い音とともに棍棒が盾の表面を滑り、ガレスの身体が後方へ押し戻される。
その勢いに引かれて、オークの右肩が大きく流れた。
そこへ、フィナの矢が飛んだ。
鋭い弦音に反応したオークは、空いている左腕を跳ね上げて顔を庇う。
矢じりは分厚い前腕へ突き刺さったものの、筋肉の厚さに阻まれ、深くは入らなかった。
だが、顔を覆った腕とガレスの盾に注意が向いたことで、反対側から近づくリックへの反応が遅れた。
リックは低く構えた剣を身体の横へ置いたまま、オークの右脚の外側へ踏み込んだ。
大きく振りかぶることなく、足の踏み込みと腰の回転だけで膝の横へ刃を走らせる。
厚い皮膚が裂け、巨体を支えていた右脚がわずかに沈んだ。
「グォオッ!」
オークが怒声を上げ、リックのいる側へ上体を捻る。
しかし、リックはすでに剣を引き、オークの後方へ抜けていた。
傷ついた右脚で踏ん張ろうとした巨体が、そちらへ不格好に傾く。
俺はその動きを、反対側から見ていた。
棍棒を握る右腕はガレスへの攻撃を振り抜いた直後で、まだ構え直せていない。
左腕は顔を庇うために上がっていたが、リックへ反応して上体を右へ捻ったことで、俺の前にある左脇腹が大きく開いた。
そこには、先ほど俺がつけた傷がある。
オークがこちらへ向き直るには、傷ついた右脚を踏み直し、捻った上体を戻さなければならない。
その間なら、剣が届く。
俺はオークの左側から間合いを詰めた。
湿った落ち葉を踏み抜き、右足を前へ送りながら腰を回す。
相手の身体へ深く入り込みすぎないよう距離を調整し、先ほどの傷へ向けて剣を横薙ぎに走らせた。
切っ先が裂けた皮膚へ入り込む。
厚い筋肉が刃を押し返してきたが、一度傷をつけた場所だけに、先ほどよりも深く剣が通った。
重い抵抗を振り抜くと、オークの巨体がびくりと震え、左脇腹から新たな血が噴き出した。
そこで俺は剣を引いた。
さらに斬り込めそうな場所は見えていたが、二撃目は狙わない。
踏み込んだ足で地面を押し、身体を後方へ運びながら間合いを外す。
直後、オークが左腕を振り払った。
俺のいた場所を太い腕が薙ぎ払い、風を切る低い音が耳元を通り過ぎる。
今度は、かすりもしなかった。
「いいぞ、アルク!」
ガレスの声が響いた。
俺は剣を構え直しながら、小さく息を吐いた。
斬撃の手応えは確かにあった。
けれど、それ以上に、相手の反撃を見越して下がれたことが嬉しかった。
剣を届かせるだけなら、これまでの鍛錬でもできた。
だが今は、ガレスの盾とリックの剣、フィナの矢が作った隙を使い、そのあと仲間の動きを妨げずに退くことができた。
ガレスはすでに盾を構え直し、リックも次の機会をうかがっている。
後方のフィナは、俺が間合いを外したのを確かめると、弓先をわずかに動かした。
木漏れ日を受けた短い金髪が頬にかかり、緑の瞳はオークの肩と腕の動きを追っている。
身体に沿う革鎧に包まれたしなやかな姿勢は、足元の木の根を避けながらも少しも崩れず、細い腰を捻るようにして次の射線を探していた。
俺が一瞬だけ視線を向けると、フィナは弓を構えたまま、小さく頷いた。
その直後、オークの咆哮が森を震わせた。
「ブォオオオオッ!」
傷ついた巨体が大きく仰け反り、右手の棍棒を力任せに振り回し始める。
今度は、近づく相手を狙って振るというより、周囲で動くものを手当たり次第に薙ぎ払っているようだった。
棍棒を振り切った勢いで身体が傾いても、太い足で地面を踏み荒らし、無理やり次の一撃へつなげてくる。
「下がれ!」
ガレスの声に、俺たちは一斉に距離を取った。
棍棒の先端が近くの木へ直撃し、乾いた破裂音が響き渡る。
樹皮が大きく抉れ、幹全体が激しく揺れたかと思うと、頭上から葉と細い枝が雨のように降り注いだ。
舞い上がった木屑が頬をかすめ、湿った土に混じって青臭い樹液の匂いが漂う。
あの一撃をまともに受ければ、盾を構えていても無事では済まないだろう。
ガレスも正面から受け止めようとはせず、棍棒の届くぎりぎりの距離を保ちながら相手の動きを見ていた。
リックが右脚を狙って近づこうとしても、オークは棍棒を振り回しながら身体ごと向きを変えるため、簡単には懐へ入れない。
フィナの矢が肩や腕へ当たっても、興奮した巨体を止めるほどの効果はなかった。
「くそっ、近寄れねえ!」
リックが剣を構えたまま吐き捨てる。
「無理に入るな!」
ガレスの声は落ち着いていたが、盾を持つ左腕は先ほどよりわずかに下がっていた。
額から流れた汗が顎を伝い、荒い呼吸の合間に何度も足場を確かめている。
最初の一撃から、あの重い棍棒を何度も受け流してきたのだ。
いくら技術があっても、身体への負担は大きいはずだった。
俺は剣を構えたまま、オークの動きを追った。
攻撃の軌道そのものは読める。
だが、あれほど大きな棍棒を無造作に振り回されると、近づくための間合いが生まれない。
力を正面から止めるのは難しい。
ならば、こちらを見失わせればどうだろう。
その考えが浮かんだとき、左手の指先がわずかに動いた。
「ガレスさん!」
「何だ!」
「《ダーク》を使います。あいつの視界を奪えれば、隙を作れるはずです!」
ガレスが盾越しにこちらへ目を向けた。
「どれくらい効く?」
「完全に覆えれば、数秒は見えなくできると思います」
「十分だ。だが、急に見えなくなれば暴れるぞ。全員が離れたところで使え!」
「はい!」
ガレスはすぐにリックとフィナへ声を飛ばし、二人も距離を取った。
俺も少し後退し、ガレスの右後方へ位置を移した。
ガレスは正面から相手の注意を引きながら、俺との距離が開きすぎないように足を運んでいる。
その背中を見ながら、俺は右手の剣を構え直し、左手を開いた。
《ダーク》は、対象の視界を黒い靄で覆う魔法だ。
魔物の動きを止める力はないが、目の前の相手を見失わせることはできる。
実際に効果があれば、棍棒を振り回すオークへ無理に近づく必要もなくなるはずだった。
左の掌を相手へ向け、体内の魔力を集め始める。
そこで、微かな違和感を覚えた。
右手には剣がある。
左手を前へ伸ばそうとすると、普段の剣の構えよりも肩が開き、剣先がわずかに外へ流れた。
足の位置を直して身体の軸を戻そうとしたが、今度は左の掌がオークの顔から逸れてしまう。
剣を片手で扱うこと自体は難しくない。
けれど、魔法を放つための姿勢と、剣で相手の攻撃に備える姿勢は、思っていたほど自然には重ならなかった。
俺は左手を少し下げ、右肩を戻した。
これなら剣を振れる。
そう思って魔力へ意識を向けると、今度は掌へ集めていた力の流れが乱れた。
オークの肩を見る。
腰の動きを追う。
棍棒がどちらへ振られるかを確かめながら、左手へ魔力を集め直す。
しかし、相手の動きに意識を向けるたび、掌に集まりかけた魔力が薄くなる。
逆に魔力の流れを整えようとすると、目の前のオークの動きが一瞬、意識の外へ押し出されてしまう。
剣を振るときには、足の置き方や腰の回転を一つずつ考えることなどない。
幼い頃から何度も繰り返してきた動きは、相手の肩が動いた瞬間には身体の方が先に反応する。
だが、魔法は違った。
掌へ魔力を集め、対象を捉え、術式を発動させる。その一つひとつを、まだ意識して行わなければならない。
左手の指先へ魔力が集まり始めたとき、オークの足音が不意に近くなった。
「アルク!」
ガレスの声が響いた。
顔を上げた瞬間、背筋が冷たくなった。
オークが、こちらへ向かっている。
ガレスの正面で棍棒を振り回していたはずなのに、いつの間にか身体をこちらへ向け、俺との距離を詰めていた。
最初の動きを見落とした。
ガレスは俺の左前方から追うように動いているが、オークの巨体がこちらへ踏み込む方が速い。
右肩が引かれ、棍棒が腰の高さまで持ち上がった。
横薙ぎだと分かったときには、すでに間合いの内側へ入られていた。
俺は咄嗟に左手を引き、剣を両手で握り直そうとした。
しかし、魔力を集めていた意識がすぐには切り替わらず、開いた肩も普段の位置へ戻りきらない。
剣先がわずかに遅れた。
棍棒が迫る。
避けきれない。
そう悟った瞬間、左前方からガレスが飛び込んできた。
俺のすぐ前を横切るように身体を滑り込ませ、盾をオークの棍棒へ差し出す。
凄まじい衝撃音が響いた。
「ぐっ……!」
ガレスの身体が大きく押し込まれ、片膝が湿った地面へ沈んだ。
盾を持つ左腕が震え、靴の下で土が深く抉れている。
十分に角度をつけて受け流す余裕がなかったのか、棍棒の力をほとんどそのまま受け止めたように見えた。
「ガレスさん!」
俺が駆け寄ろうとした瞬間、鋭い声が飛んできた。
「俺を見るな! 敵を見ろ!」
思わず足が止まった。
オークはまだ目の前にいる。
ガレスが盾で攻撃を受け止めてくれたから、俺は無事だった。
それだけのことで、次の一撃が来れば、今度は彼が耐えられないかもしれない。
盾の向こうで、オークが棍棒を引き戻し始めている。
俺は左手を上げた。
剣を構え直すことは考えない。
今は魔法を放つことだけに集中する。
左の掌をオークの顔へ向け、体内に散りかけていた魔力を一気に集めた。
先ほどまで乱れていた流れが、余計な動作をやめた途端、掌へ滑らかに集まってくる。
「《ダーク》!」
左手から溢れた黒い靄が、オークの頭部へまとわりついた。
鼻先から目元へ、さらに頭の周囲へと黒い靄が広がり、巨体の顔をすっぽりと覆い隠す。
突然視界を奪われたオークが、喉の奥から甲高い唸り声を漏らした。
大きな頭を振っても靄は離れず、棍棒を握った右腕が手当たり次第に振り回される。
「離れろ!」
ガレスが盾を構えたまま後退し、俺もその右側から間合いを外した。
リックもオークから距離を取り、フィナも後方の木陰へ身を寄せる。
棍棒が空を切り、近くの木へ激突した。
幹が裂け、木屑が飛び散ったが、今度は誰もその間合いに入っていない。
黒い靄に包まれたオークは、足元を確かめるように何度も踏み直しながら、見えない相手へ棍棒を振り続けていた。
「効いてる!」
木陰からフィナの声が響いた。
俺は左手を向けたまま、その光景を見つめた。
剣では止められなかった巨体が、たった一つの魔法で攻撃する相手を見失っている。
ガレスもリックも、棍棒の間合いへ無理に踏み込まずに済んでいた。
《ダーク》は通用する。
その確かな手応えが胸に広がった。
ならば、視界を奪っているうちに剣で攻撃すればいい。
俺は左手を下ろし、魔力の流れを止めた。
同時に右手の剣を持ち直し、左手を柄へ添えようとする。
だが、身体が思ったようには動かなかった。
魔法へ向けていた意識を剣へ戻し、開いていた肩を戻し、足の位置を整える。
普段なら考えるまでもなくできる動作なのに、今は一つ終えてから次へ移るようなぎこちなさがあった。
その間にも、時間は流れている。
先に動いたのはリックだった。
棍棒が遠ざかった瞬間を見計らい、傷ついた右脚へ踏み込む。
低い位置から剣を走らせ、膝の外側に重なった傷をさらに深くすると、すぐに右後方へ抜けていった。
オークの巨体が右へ傾く。
その動きで右肩が一瞬止まったところへ、フィナの矢が飛んだ。
後方の木陰から放たれた矢は、オークの右肩へ深く突き刺さった。
彼女は俺たちの位置を確かめながら射線を選び、剣を振るう仲間の身体を避けて矢を通している。
俺がようやく剣を構え直したときには、オークの顔を覆っていた黒い靄が薄れ始めていた。
魔法は成功した。
仲間も、その隙を使って攻撃できた。
それなのに、魔法を使った俺自身は、まだ一度も剣を振れていない。
オークは右脚を傷つけられて大きくよろめき、右肩へ刺さった矢を気にするように上体を捩っている。
その姿を見た瞬間、胸の奥に焦りが生まれた。
せっかく作った隙を、このまま無駄にしたくない。
俺にも、まだ斬れる場所が見えている。
その思いに押され、普段より深く地面を蹴った。
「アルク、待て!」
ガレスの声が聞こえた。
けれど、もう身体は動き始めていた。
俺はオークに向かって、斜めに踏み込んだ。
傷ついた右脚へ体重を戻そうとしているため、巨体の反対側は一瞬、動きが遅れている。
棍棒を握る右腕も、先ほどの矢を受けて動きが鈍ったように見えた。
今なら、深い一撃を入れられる。
俺は首へつながる左肩の付け根を狙い、踏み込みと同時に剣を振り下ろした。
刃がオークの分厚い左肩へ食い込んだ。
筋肉を裂く重い手応えが柄を通して伝わり、さらに押し込もうとしたところで、刃が硬いものに当たって止まった。
骨に届いたのかもしれない。俺はすぐに剣を引こうとしたが、深く食い込んだ刃は思うように動かず、柄を握る両手へ嫌な抵抗が返ってきた。
そのとき、オークの顔を覆っていた黒い靄が消えた。
細い目が開き、至近距離で俺を捉える。
血と獣臭の混じった荒い息が顔へ吹きかかり、次の瞬間には、棍棒を握る右腕が動き始めていた。
オークが右肩を引き、上体を捻る。
身体の正面を横切るように、俺のいる左側へ棍棒を振り抜くつもりだ。
剣を手放せば、まだ間に合うかもしれない。
そう考えたはずなのに、俺の指は反射的に柄を握り締めていた。
幼い頃から何度も繰り返してきた鍛錬のせいか、剣を失うことへの抵抗が、危険を避ける判断よりも先に身体を動かしてしまう。
俺は右足を後ろへ引き、剣を抜こうとした。
刃が肩の筋肉に引っかかり、手首へ重い抵抗が返ってくる。
腰を落として後方へ体重を移し、柄を強く引くと、ようやく刃が血を散らして抜けた。
だが、オークの棍棒はすでに振り出されていた。
俺は剣を引き寄せながら地面を蹴り、後方へ跳んだ。
棍棒の太い柄が目の前を横切り、その先端が迫ってくるのを見て、さらに身体を引こうとする。
わずかに、間に合わなかった。
棍棒の先端が左肩をかすめ、重い衝撃が身体を横へ弾いた。
まともに受けたわけではないが、振り抜かれる勢いの一部を受けただけで足が地面を離れ、剣を握ったまま身体が宙へ浮く。
視界の中で木々と空が入れ替わり、次の瞬間、背中から湿った落ち葉の上へ叩きつけられた。
肺の空気が一気に押し出され、息を吸おうとしても胸が動かなかった。
左肩から背中へ焼けるような痛みが走り、頭の奥で鈍い音が響いている。
湿った落ち葉と土の匂いが鼻を満たし、目の前では枝葉がゆっくりと揺れていた。
誰かが俺の名前を呼んでいる。
近くで剣と棍棒がぶつかる音がした。
それでも身体がすぐには動かず、何度か浅い息を繰り返してから、ようやく胸へ空気が入ってきた。
「……っ、は……!」
喉の奥がひりつき、咳き込むたびに左肩へ痛みが響く。
右手には、まだ剣があった。
握り締めた指を開こうとすると、掌が汗で濡れていることに気づいた。
俺は奥歯を噛み、膝を立てた。
地面へ剣を突きそうになり、寸前で思いとどまる。
幼い頃、剣先を傷めるなと指南役に何度も叱られたことが、こんなときまで身体に残っているらしい。
左手を地面へつこうとした瞬間、肩に鋭い痛みが走った。
思わず息を詰め、右膝へ体重を移しながら、どうにか上体を起こす。
顔を上げると、ガレスがオークの正面へ戻っていた。
盾で棍棒の軌道を逸らしながら、俺の方へ近づかせないようにしている。
リックはオークの右脚を狙っては離れ、ガレスへ向かう攻撃の機会を減らそうとしていた。
フィナも後方から矢を放ち、棍棒を振り上げるたびに肩や腕を狙っている。
三人とも、俺の方を見ている余裕はない。
それでも、俺が倒れた場所へオークを近づけないように戦ってくれていた。
剣を握る右手に、知らず力がこもった。
自分の遅れを取り返そうとして、また一人で踏み込んでしまった。
さっきは、ガレスの声を聞いて止まれたのに。
俺は立ち上がろうとして、左肩の痛みに顔をしかめた。
「アルク! 動けるか!」
ガレスの声が飛んでくる。
「動けます!」
返事をすると、リックがこちらへ一瞬だけ顔を向けた。
「無茶すんなよ! 今度こそ本当に死ぬぞ!」
「……すみません!」
「謝るのはあとだ! 剣が振れるなら戻ってこい!」
ガレスが盾を構え直しながら叫ぶ。
「ただし、今度は勝手に行くな!」
「はい!」
俺は左肩をかばいながら、慎重に足を踏み出した。
痛みは残っている。
左腕を高く上げると、肩の奥が鋭く疼いた。
けれど、剣を構えることはできる。
右手を中心に柄を握り、左手は無理のない位置へ添えた。
オークも無傷ではなかった。
左脇腹には俺がつけた傷が重なり、右脚にはリックの剣による深い傷がいくつも走っている。
右肩にはフィナの矢が刺さり、左肩には俺が斬りつけた傷から血が流れていた。
巨体は依然として恐ろしいが、踏み込むたびに傷ついた右脚がわずかに遅れる。
その遅れを補うように身体を捩るため、棍棒を振る動きにも、最初にはなかった大きな隙が生まれていた。
俺はガレスの右後方へ戻った。
リックは反対側で剣を構え、フィナは後方の木々の間から、三人の位置を確かめながら弓を引いている。
「ガレスさん」
「何だ!」
「次は、ちゃんと合わせます」
ガレスは一瞬だけこちらへ目を向けた。
何か叱られるかと思ったが、彼は短く頷いただけだった。
「なら、あいつを倒しきるぞ!」
「……はい!」
「リック、まだいけるか!」
「問題ない!」
「フィナ、矢は!」
「あと六本!」
フィナの声はいつもより少し高かったが、弓を構える手に乱れはなかった。
彼女は俺の左肩へ一瞬だけ目を向け、眉を寄せた。
何か言いかけるように唇が動いたものの、すぐにオークへ視線を戻し、矢をつがえ直す。
その横顔を見て、俺も剣を握り直した。
今は、戦いを終わらせることが先だ。
「よし。今度こそ終わらせるぞ!」
ガレスが盾を構え直した。
オークは低く唸りながら、傷ついた右脚を引きずるようにしてこちらへ向かってくる。
棍棒を振る力そのものは、まだ衰えていない。
けれど、右肩を持ち上げるたびに矢の刺さった場所が引きつれるのか、腕の動きがわずかに鈍っていた。
ガレスが正面から距離を詰める。
オークはそれに反応し、棍棒を頭上へ持ち上げた。
俺は相手の肩を見ながら、左側にいるリックの位置を確かめた。
リックは傷ついた右脚の外側へ回り、剣を低く構えている。
フィナは後方の木の傍らで弓を引き絞り、オークの右手へ狙いを定めていた。
棍棒が振り下ろされる。
ガレスは盾で受け止めようとはせず、正面から左へ大きく身体を開いた。
勢いのついた棍棒が地面へめり込み、湿った土と落ち葉が激しく跳ね上がる。
オークが棍棒を引き抜こうとした瞬間、フィナの矢が飛んだ。
狙い澄まされた矢じりが、棍棒を握る右手の甲へ突き刺さる。
「グォオッ!」
オークが反射的に右腕を引き、棍棒の柄を握り直そうとする。
その一瞬に、リックが動いた。
傷ついた右脚の外側から踏み込み、剣を膝裏へ深く走らせる。
すでに何度も傷を負っていた脚が大きく崩れ、オークの巨体が右へ傾いた。
リックは剣を引き、オークの後方へ抜ける。
その動きを追おうとしたオークだったが、右脚が体重を支えられず、上体だけが不格好に捻られた。
俺は反対側から、その隙を見ていた。
ガレスは正面から退いた位置にいる。リックはオークの後方へ離れ、俺の側からの進路には誰もいない。
棍棒を握る右腕は、地面へ打ち込んだあとでまだ十分に持ち上がっていない。
右脚が崩れたことで、首の左側が大きく開いていた。
「アルク!」
ガレスの声が響く。
俺はすでに、踏み込む場所を見定めていた。
左肩にはまだ痛みがある。
無理に腕を振り上げれば、剣筋が乱れるかもしれない。
だからこそ、肩の力だけに頼らない。
足裏で地面を捉え、その力を膝から腰へ伝え、身体全体の回転へ剣を乗せる。
王宮で何千回、何万回と繰り返してきた動きだった。
刃がオークの首の左側へ入った。
分厚い皮膚を裂き、その下の筋肉へ食い込む。
硬い抵抗が柄を通して伝わってきたが、俺は無理に押し込まず、剣筋が崩れる前に刃を引いた。
オークがこちらへ向こうとする。
しかし、傷ついた右脚が動かず、巨体が大きくよろめいた。
俺は一歩退き、反撃に備えて剣を構え直した。
その間に、ガレスが正面から再び踏み込んだ。
左へ避けた位置からオークの胸元へ盾を押し当て、倒れかけた巨体をさらに右へ押し崩す。
棍棒を持つ右腕はまだ十分に上がらず、オークは盾を押し返そうとしても、傷ついた右脚で踏ん張れない。
リックはオークの後方で剣を構え、脚が動けばすぐに斬り込める位置を保っていた。
俺の目の前には、先ほどつけた首筋の傷がある。
同じ場所へ、もう一度。
俺は足の位置を変え、剣を握る角度をわずかに修正した。
オークの右肩が動く。
棍棒を振ろうとしている。
だが、ガレスの盾が胸元を押さえ、巨体の向きを変えさせない。
棍棒を持つ右腕も、地面から持ち上げる途中で動きが止まっていた。
今なら、二撃目を入れても退路を塞がれない。
俺は地面を蹴った。
肩へ痛みが走る。
それでも、無理に力を込めず、踏み込みの力を腰へつなぎ、身体の回転で剣を走らせる。
二撃目の刃が、最初の傷を深く切り開いた。
オークの巨体が大きく震えた。
棍棒を握っていた指から力が抜け、太い木の塊が湿った地面へ落ちる。
重い音が響き、足元の落ち葉が跳ねた。
それでも俺は追撃せず、すぐに後方へ下がった。
剣を構えたまま、オークの動きを見つめる。
巨体は二歩ほどよろめき、首元から流れた血が胸を伝って、汚れた獣皮を濃く染めていった。
左手が何かを掴もうとするように持ち上がる。
だが、その腕も途中で力を失い、ゆっくりと垂れ下がった。
オークの膝が折れる。
巨体が前へ傾き、そのまま湿った地面へ倒れ込んだ。
重い身体が落ちた衝撃で土が震え、周囲の落ち葉がわずかに跳ね上がる。
森の中へ、急に静けさが戻った。
けれど、俺たちはすぐには武器を下ろさなかった。
ガレスが盾を構えたまま近づき、倒れたオークの反応を確かめる。
リックも剣を下げずに反対側へ回り、フィナは少し離れた場所で矢をつがえたまま、周囲の森へ視線を走らせていた。
俺も剣を構えたまま、オークの胸が動いていないことを確かめた。
先ほどまであれほど激しく動いていた巨体が、今は濡れた落ち葉の上でぴくりとも動かない。
やがてガレスが、ゆっくりと息を吐いた。
「終わった」
ガレスが盾を下ろし、大きく息を吐いた。
その言葉を聞いた途端、張り詰めていたものがほどけ、俺もようやく剣先を下げた。
荒い呼吸を繰り返すたび、汗と土と血、それにオークの獣臭が混じった空気が肺へ流れ込んでくる。
左肩は痛むし、腕もひどく重い。
それでも、胸の奥には熱いものが込み上げていた。
目の前には、オークの巨体が横たわっている。
あれほど恐ろしかった魔物が、もう動かない。
俺たちは、勝ったのだ。
「やったな、アルク!」
リックが満面の笑みで歩いてきた。
「最後の一撃、見事だったぜ!」
「リックさんが脚を止めてくれたおかげです」
「おう、そうだろそうだろ!」
リックは得意げに胸を張ったが、俺の左肩へ目を向けると、少しだけ眉を寄せた。
「……ま、無事でよかったぜ」
そう言って、俺の右肩を軽く叩く。
フィナも弓を下ろして近づいてきた。
「アルク、肩は大丈夫?」
「痛みはありますけど、動かせます」
「動かせるのと、怪我してないのは違うよ」
彼女はそう言って眉を寄せ、俺の肩へ手を伸ばしかけた。
けれど、触れれば痛むと思ったのか、指先が革鎧の手前で止まる。
その仕草を見て、俺は思わず言葉に詰まった。
普段は笑顔で話しかけてくれるフィナが、今は真剣な表情で俺の怪我を確かめようとしている。顔を上げると、思っていたより近くに彼女の緑の瞳があり、胸の奥がわずかに落ち着かなくなった。
「……本当に、大丈夫です」
少し遅れて答えると、フィナは俺の顔をじっと見つめた。
「そういう顔じゃないけどなあ」
困ったように笑ったあと、彼女はガレスへ目を向けた。
「ガレス、アルクの肩、ちゃんと見た方がいいよ」
「ああ。分かってる」
ガレスが近づいてきた。
「よくやったな、アルク」
「ありがとうございます」
「最後の動きはよかった。ちゃんと周りが見えてたぞ」
そう言って、ガレスは俺の右肩をぽんと叩いた。
その短い言葉が、妙に嬉しかった。
剣を振ることには慣れている。
けれど、仲間と力を合わせて強敵を倒すのは、これまでの稽古とはまるで違う経験だった。
ガレスの盾が攻撃を受け止め、リックの剣が脚を削り、フィナの矢が動きを封じた。
そして最後に、俺の剣が首を捉えた。
誰か一人でも欠けていたら、こうして立っていられたか分からない。
それでも、俺たちは勝った。
俺は血のついた剣を見下ろした。
刃には、オークの血が黒く残っている。
この剣は、確かに通用した。
《ダーク》も、オークの視界を奪った。
だが、二つを同時に使おうとした途端、身体も意識も思うように動かなくなった。
魔法に集中すれば剣が遅れ、剣へ戻ろうとすれば切り替えに時間がかかる。
「……難しいな」
思わず呟くと、ガレスがこちらを見た。
「何がだ?」
「剣と魔法です。両方使えれば、もっと戦えると思ったんですけど……」
俺が右手の剣と左の掌を見比べると、ガレスは小さく笑った。
「そりゃ、いきなりは無理だろ。剣だって、最初から今みたいに振れたわけじゃないんだろ?」
「……確かに」
思わず苦笑した。
五歳で初めて木剣を握った頃、足の運びも、柄の握り方も、何度も繰り返し直された。
今では考えずにできる動きも、一つひとつ身体へ覚え込ませてきたものだ。
剣には十年を費やしてきた。
魔法は、まだ使い始めたばかりだ。
同じように扱えなくても、不思議ではない。
俺が頷くと、ガレスはそれ以上何も言わず、倒れたオークへ目を向けた。
俺ももう一度、左の掌を見つめる。
ただ、それでも一つだけ分かったことがある。
《ダーク》は使える。
剣も使える。
ならば問題は、その間にある。
今の俺には、二つをどうつなげればいいのか、まだ分からない。
けれど、何が足りないのかは見えてきた。
倒れたオークの周囲には、戦いで抉られた土や折れた枝が散らばっていた。
夕方へ近づいた森の光が木々の隙間から斜めに差し込み、踏み荒らされた地面に長い影を落としている。薄い光を受けた剣の刃には、拭われていない血が黒く残っていた。
その刃を見つめていると、胸の奥が再び熱くなってくる。
あれほどの強敵を、仲間たちと力を合わせて倒した。
その興奮は、まだ身体の中に残っていた。
けれど、今感じている高揚は、それだけではない。
剣と魔法。
この二つを、本当に使いこなせるようになったら。
その先には、どんな戦い方が待っているのだろう。
俺は剣を握り直した。
左肩にはまだ痛みが残っている。それなのに、口元が緩むのを抑えられなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
アルクも少しずつ、冒険者としての一歩を踏み出しています。
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