第16話 初めての格上
オークの巨体が沈んだ次の瞬間、足元の土が大きく跳ね上がった。
「散れ!」
ガレスの声が響くのと、オークが地面を蹴るのはほとんど同時だった。
俺は反射的に右へ跳び、リックは反対側へ身体を開いた。
後方にいたフィナも弓を抱えるようにして木々の間へ退き、ガレスだけが盾を構えて正面に残る。
あれほど大きな身体が、どうしてこれほど速く動けるのか。
最初の一歩で湿った土を深く抉り、二歩目には上体を前へ倒しながら加速する。
足元の落ち葉が激しく舞い上がり、重い足音が森の静けさを踏み潰していく。
十数歩はあったはずの距離が瞬く間に縮まり、俺が剣を抜き終える頃には、オークの太い右腕が頭上へ持ち上がっていた。
右肩が大きく上がり、それにつれて上体が後ろへ反る。
左脚を踏み込みながら腰を捻る動きから、棍棒を真上から振り下ろすつもりなのだと分かった。
軌道は見える。
けれど、その一撃を自分の剣で受け止められるとは到底思えなかった。
「ガレスさん!」
声を上げたときには、すでに棍棒が振り下ろされていた。
ガレスは盾を真正面へ向けず、わずかに斜めへ傾けた。
右足を引いて後ろ脚へ重心を移し、棍棒の勢いを横へ逃がそうとする。
王宮で剣を交えた騎士たちも、力の強い相手に対しては同じように身体を使っていた。
相手の力を正面から受けず、軌道をずらしながら衝撃を逃がす。理にかなった受け方だ。
それでも、棍棒が盾へ激突した瞬間、ガレスの膝が深く沈んだ。
大木を巨大な槌で叩いたような鈍い音が響き、盾の表面を滑った棍棒が横へ流れる。
衝撃の大部分は逃がしたはずなのに、残った力だけでガレスの身体が後方へ押し戻された。
靴底が湿った土を削り、二本の深い筋を残す。
「ぐっ……!」
ガレスの口から苦しげな声が漏れた。
ゴブリンの棍棒を受けていたときとは、まるで違う。
あのときのガレスは、相手の攻撃を盾で受け止めてもほとんど姿勢を崩さなかった。
今は違う。
正しい角度で受け、重心を落とし、衝撃を逃がしてなお、身体を支えるだけで精一杯に見える。
「ガレス!」
リックが剣を構えて踏み出しかけた。
「大丈夫だ! フィナ、射て!」
ガレスが盾を構え直しながら叫ぶ。
すでに弓を引き絞っていたフィナが、わずかに狙いを修正した。
木々の隙間から落ちる光が短い金髪を照らし、弓弦を引く腕がしなやかに伸びている。普段は笑みを絶やさない緑の瞳が、今はオークの顔だけを見据えていた。
ガレスの盾が少し下がり、射線が開く。
その瞬間、フィナの指が離れた。
鋭い弦音とともに放たれた矢が、オークの顔へ一直線に飛ぶ。
オークは咄嗟に頭を振った。
矢じりは目を外れたものの、左の頬を浅く裂き、そのまま後方の幹へ突き立った。
緑がかった皮膚に赤い筋が走り、オークが顔を背けて低く唸った。
その動きを見た瞬間、俺の視線は自然と右の脇腹へ向かっていた。
棍棒を振り下ろした直後で、右腕はまだ低い位置にある。
顔を背けたことでこちらへの注意も薄れ、今なら懐へ入り込める。
あと一歩踏み込めば、剣が届く。
そう判断した身体は、すでに前へ動き始めていた。
「アルク、待て!」
ガレスの声が飛んだ。
踏み出しかけた右足を、寸前で止める。
オークの脇腹には、まだ隙があった。
けれど、ガレスの盾の向こうでは、棍棒を持つ右腕が再び動き始めている。
俺が飛び込めば、相手が暴れたときにガレスの退路を塞ぐかもしれない。
左側にはリックがいて、後方からはフィナが弓を構えている。
自分の剣が届く場所だけを見ていた。
俺は前へ傾いた重心を戻し、抜いた剣を中段へ構え直した。
「よく止まった」
ガレスはそれだけ言うと、すぐにオークへ向き直った。
思わず彼の背中を見つめる。
王宮では、剣を振らずに踏みとどまったことで褒められた記憶はない。
けれど、今のガレスの声には、俺が何をしようとしたのかを理解したうえで、それを止めたことへの確かな評価があった。
胸の奥に小さな驚きが残ったが、考えている暇はなかった。
オークが棍棒を持ち直し、荒い息を吐きながらこちらを向く。
「全員、少し下がれ!」
ガレスの指示に従い、俺たちは距離を取った。
オークはすぐには追ってこなかった。
頬を流れる血を気にするように頭を振り、鼻を鳴らしながら、太い棍棒の先端を地面へ擦りつけている。
ガレスは盾を構えたまま、ゆっくりと後退した。
「フィナ、右へ抜けられるか?」
「うん。少し先に斜面があるよ。その向こうは木が密集してるから、あの身体じゃ追いにくいと思う」
フィナは弓を手にしたまま右側の木々へ視線を走らせ、短く答えた。頬にかかった金髪を払う余裕もないのか、そのまま顎をわずかに動かして斜面の方向を示す。
「そこまでどれくらいだ?」
「走ればすぐ。でも、今走ったら追ってくると思う」
「ああ。背中を見せるのは危険だな」
ガレスはオークの動きを確かめながら頷いた。
オークは傷ついた頬から血を流していたが、動きが鈍った様子はない。
むしろ、先ほどより荒い呼吸を繰り返し、棍棒を握る右手に力を込めている。
「逃げるにしても、まず動きを止める必要がある。リック、左へ回れ。アルクは右だ」
「了解」
リックは短く答え、剣を低く構えながら左側へ移動した。
俺もガレスの右後方へ位置を変える。
「俺が正面を受ける。リックが先に入って、アルクは一拍待て。二人同時に懐へ入るなよ」
「分かってる。片方が入ったら、片方は外だな」
「ああ。まとめて薙ぎ払われるのが一番まずい」
ガレスはそこで一度、俺へ視線を向けた。
「アルク。お前の剣なら傷はつけられるだろう。だが、一撃入れたら必ず下がれ。倒そうとするな。傷を入れるだけでいい」
「……はい」
剣士としては、少し不思議な指示だった。
相手の隙を見つけたなら、そこへ踏み込み、次の攻撃を許さずに仕留める。
それが王宮で教わってきた戦い方の基本だった。
けれど、先ほどの棍棒を見たあとでは、深追いの危険も理解できる。
リックが左へ入る。
その間、俺は右で待つ。
リックが離れ、フィナの矢が相手の注意を逸らしたところで、俺が剣を届かせる。
それぞれの動きが重ならなければ、オークの巨体にも隙を作れるはずだった。
「フィナは後方から援護してくれ。射線が塞がったら無理に射つな」
「分かってる。みんなも、矢が飛ぶときは気をつけてね」
フィナはそう言って小さく頷き、足元の木の根を避けながら少し右へ移動した。
革鎧に包まれた細身の身体が木々の間を滑るように動き、弓を引くための空間を確保する。
いつもなら明るい声で何か冗談を言いそうなところだが、今は必要なことだけを伝え、すぐにオークへ視線を戻していた。
その姿を見ていると、先ほどまで足跡の見方を教えてくれていた彼女が、同じ人物とは思えないほど頼もしく感じられた。
「行くぞ」
ガレスが盾の縁を剣で軽く叩いた。
「おい、でかいの! こっちだ!」
金属の響きに反応したオークが、低く唸りながらガレスへ向き直る。
太い右肩が持ち上がり、棍棒を腰の高さまで引いた。
今度は横薙ぎだ。
ガレスは盾を立てながら一歩踏み込み、棍棒が最大まで加速する前に間合いを潰した。
それでも衝撃は大きかった。
棍棒が盾の縁を叩き、ガレスの身体が横へ流される。
左腕に固定された盾が軋み、踏み込んだ足元から湿った土が跳ねた。
「リック!」
ガレスの声が響くより早く、リックは動いていた。
低く構えた剣を身体の横へ置いたまま、棍棒を振り切ったオークの左側から懐へ入り込む。
深く踏み込みすぎず、相手が振り向く前に太腿へ鋭く斬りつけると、剣を引き戻す勢いを利用して、そのまま斜め後方へ抜けた。
オークが怒声を上げ、傷ついた脚を引きながらリックを追おうとする。
だが、リックはすでに棍棒の届きにくい位置へ移動していた。
模擬戦で剣を交えたとき、リックの攻撃は俺にも読むことができた。
けれど今、彼がどこへ抜けるのかは、攻撃が終わるまで分からなかった。
剣を当てることだけでなく、そのあと自分がどこへ立つべきかまで考えている。
リックが離れたことで、オークの右側に空間が生まれた。
そのとき、フィナの矢が飛んだ。
今度は顔ではなく、肩を狙った一射だった。
リックが離れたことで開いた射線を通り、矢じりがオークの分厚い肉へ突き刺さる。
オークは大きく身を捩り、矢の刺さった肩を気にするように上体を振った。
フィナはすでに次の矢へ手を伸ばしていた。
木漏れ日を受けた金髪が揺れ、緑の瞳はオークの動きを追っている。弓を引く腕はしなやかに伸び、革鎧に包まれた身体は、次の射撃へ備えてわずかに重心を落としていた。
普段はあれほど表情豊かに笑う彼女が、今はほとんど言葉を発しない。
その横顔を見た瞬間、俺は改めて、フィナが経験を積んだ冒険者なのだと感じた。
「アルク!」
ガレスの声が飛んだ。
俺は地面を蹴った。
相手は肩へ刺さった矢を気にして上体を捻っており、棍棒を持つ右腕もまだ元の位置へ戻っていない。
そこが隙だった。
濡れた落ち葉を踏み抜き、右足を前へ送る。
足裏が柔らかな土へ沈む感触を確かめながら、左足で地面を押し、その力を腰へ伝えた。
狙うのは脇腹。
オークは鎧を身につけていないが、分厚い筋肉に覆われた肩や胸を正面から斬っても、十分な傷を与えられるとは限らない。
肋骨の下なら、まだ刃を通しやすいはずだ。
俺は深く踏み込みすぎないよう間合いを調整し、腰の回転へ剣を乗せた。
横薙ぎに走らせた刃が、緑がかった皮膚へ触れる。
その瞬間、予想していた以上の抵抗が手へ返ってきた。
硬い。
厚い皮膚を裂いた先で、さらに密度の高い筋肉が刃を押し返してくる。
剣が途中で止まりかけ、柄を握る手首に重い負荷がかかった。
それでも俺は肩だけで押し込まず、踏み込んだ足から腰へ伝えた力を最後まで使い、身体の回転に合わせて剣を振り抜いた。
刃が肉を裂く感触が手に伝わり、赤い血が横へ飛び散った。
「ブォオオオオッ!」
オークの咆哮が森に響き渡る。
巨体がこちらへ向き、太い左腕が持ち上がった。
ガレスの言葉が頭をよぎる。
一度斬ったら、必ず下がれ。
俺は二撃目を狙わず、すぐに後方へ跳んだ。
その直後、オークの左腕が横殴りに振られた。
拳の軌道は見えていた。
十分に距離を取ったつもりだった。
けれど、腕の外側が革鎧の胸元をわずかにかすめた瞬間、身体へ強い衝撃が走った。
「っ……!」
上体が大きく崩れ、足元の濡れた落ち葉が滑った。
まともに殴られたわけではない。
それなのに、胸の奥まで鈍い痛みが響き、息が一瞬詰まる。
俺は咄嗟に左足を後ろへ出し、片手を地面へついて転倒を避けた。
湿った土の匂いが急に近くなり、指先に冷たい泥が触れる。
顔を上げると、オークは傷ついた脇腹を左手で押さえていた。
緑がかった皮膚の間から血が流れ、腰に巻いた汚れた獣皮を赤く染めている。
俺の剣は通った。
だが、もしもう一撃を狙っていたら、今の腕をまともに受けていただろう。
拳そのものを避けても、触れただけでこれほどの衝撃がある。
あの棍棒を受ければどうなるか、考えるまでもなかった。
「アルク、下がれ!」
ガレスの声に従い、俺はすぐに距離を取った。
リックが剣を構えながら、こちらへ一瞬だけ目を向ける。
「おい、大丈夫か!」
「はい! かすっただけです!」
「ならいい。無茶すんなよ!」
いつもの軽口はなかったが、その声を聞いて、俺はようやく息を整えることができた。
ガレスはすでに盾を構え直し、オークの正面へ立っている。
フィナも後方で矢をつがえ、俺たちの動きを確かめながら射る機会をうかがっていた。
俺は剣を構え直した。
右手には、先ほど肉を斬った感触がまだ残っている。
胸元には鈍い痛みがあり、息を深く吸うと革鎧の下がわずかに疼いた。
それでも、最初にオークを見たときとは違っていた。
相手の攻撃には大きな予備動作があり、剣を届かせる隙もある。
そして、その隙は俺一人で作ったものではなかった。
ガレスが棍棒を受け、リックが脚を斬り、フィナが肩へ矢を射る。
その一つひとつの動きが重なったからこそ、俺は脇腹へ剣を届かせることができた。
「ガレスさん」
オークから目を離さないまま、俺は声をかけた。
「何だ?」
「俺の剣、通ります」
一瞬の間があった。
それからガレスが、盾の向こうでわずかに笑ったのが見えた。
「ああ。見りゃ分かる」
オークが低く唸り、傷ついた脇腹を押さえていた左手をゆっくりと離した。
指の間には赤い血が付着している。
「だからって、一人で倒そうとするなよ」
ガレスは盾を構え直しながら言った。
「分かってます」
「今度は本当だろうな?」
俺は剣を握り直し、迷わず頷いた。
「はい。今度は本当に」
ガレスはそれ以上何も言わず、盾をわずかに持ち上げた。
左側ではリックが剣を低く構え、オークの脚の動きを見ている。
後方ではフィナが次の矢をつがえ、俺たち三人の位置を確かめながら、静かに弓を引き絞っていた。
俺も剣先を下げすぎないよう注意しながら、足元の濡れた土を踏み直した。
オークは脇腹から血を流したまま、荒い呼吸を繰り返している。
黄ばんだ牙の隙間から唾液が垂れ、肩の筋肉が呼吸に合わせて大きく上下した。
やがて、傷口から離した左手を握り締めると、喉の奥から低い唸り声を漏らした。
棍棒を握る右手に力がこもり、太い指が木の表面へ深く食い込む。
俺たちの間を、湿った風が吹き抜けた。
その風が落ち葉を舞い上げたとき、オークが傷ついた脚を踏み込み、再び巨体を前へ傾けた。




