第15話 森の異変
昼を過ぎても、俺たちは森の中を歩いていた。
朝には枝葉の隙間から細い筋となって差し込んでいた陽射しも、森が深くなるにつれて地面まで届きにくくなっていた。頭上で幾重にも重なった葉が風を受けて揺れるたび、湿った森の中を淡い光と影がゆっくりと移動していく。
足元には昨夜の雨を吸った落ち葉が積もり、踏みしめれば柔らかな感触とともに、土や苔、濡れた樹皮の青臭い匂いが微かに立ち上った。
先頭を歩くフィナは、時折足を止めては下草の様子を確かめている。
俺もその後ろを歩きながら、彼女がどこへ目を向けているのか、できるだけ見逃さないようにしていた。
先ほど教えてもらったのは、足跡の形だけではない。
草が倒れている方向や、枝の折れ方、踏み荒らされた土の様子にも、魔物が通った痕跡は残るらしい。
そう言われて改めて見てみると、確かに今まで気づかなかったものが目に入るようになっていた。
「あ、フィナさん。あそこの草、何かが通った跡でしょうか?」
少し先の木の根元を指さすと、フィナが足を止めて振り返った。
「どれどれ?」
彼女は俺の隣へ軽やかに歩み寄り、指さした場所へ腰を落とした。短い金髪が頬にかかり、弓を背中へ回した拍子に革鎧の肩口が小さく軋む。細身ながらもしなやかに鍛えられた身体は、しゃがむ動作にも無駄がなく、森の中では驚くほど自然に見えた。
「うん、よく見つけたね! でも、これはたぶん獣じゃなくて、雨で草が倒れたんだと思う」
「雨、ですか?」
「そう。ほら、こっちの草も同じ向きに倒れてるでしょ? 何かが通ったなら、もっと不揃いになることが多いんだよ」
フィナが指先で草を持ち上げ、根元を見せてくれる。
言われてみれば、確かに周囲の草も似たような方向へ倒れていた。
一本だけを見ていた俺には、そこまで気づかなかった。
「なるほど……。一か所だけじゃなくて、周りも見ないといけないんですね」
「そうそう! いい感じじゃん、アルク!」
フィナは嬉しそうに笑い、立ち上がった。
褒められるほどのことができたわけではない。むしろ、間違いを教えてもらったばかりだ。
それでも、彼女が楽しそうに説明してくれるので、俺も自然と笑みがこぼれた。
「でも、さっきよりはずっといいよ。最初なんて、私が足跡を指さしても『どこですか?』って顔してたもん」
「そんなに分かりやすかったですか?」
「うん、すっごく!」
迷いのない返事に、思わず苦笑する。
少し前を歩いていたリックが振り返り、面白そうに口を挟んだ。
「お前、剣のことなら何でも分かりそうなのにな」
「剣と森では、全然違いますから」
「そりゃそうだ。俺だってフィナほど足跡は読めねえしな」
「でしょ? こういうのは私に任せてよ!」
フィナが得意そうに胸を張ると、リックは「頼りにしてるぜ」と笑って前を向いた。
俺も再び歩き始めたが、先ほど彼女が示してくれた草の倒れ方が気になり、もう一度だけ足元へ目を向けた。
王宮では、相手の剣先や重心の移動を見落とさないよう、何度も繰り返し教えられた。
わずかな動きから次の攻撃を読み取ることは、今では身体に染みついている。
けれど森の中では、同じように注意深く見ているつもりでも、何を手がかりにすればよいのかさえ分からない。
それが少し悔しくもあり、同時に面白くもあった。
剣を覚え始めた頃も、こんなふうに、何もかもが新鮮に見えていたのだろうか。
そんなことを考えながら歩いていると、前方でフィナがひょいと倒木を越えた。
俺もその後に続き、今度は足元ばかり見ないよう、周囲の木々へ視線を巡らせた。
◇
本来なら、俺たちはもう帰路についていてもおかしくなかった。
今日受けた依頼はゴブリン討伐で、最低討伐数は三体。
すでに四体を倒している以上、依頼そのものは達成している。
それでも森の奥へ進んでいるのは、道中で見つけたゴブリンの痕跡が、予想していたより多かったからだ。
ガレスの話では、この辺りでゴブリンが見つかること自体は珍しくないらしい。
だが、短い距離の間に何度も新しい足跡が見つかるのは、少し気になるという。
森の様子を確かめながら進んでいたフィナが、やがて木々の間にできた小さな空地で足を止めた。
「……あれ? ちょっと待って」
いつもの明るい声とは違う、少し低い声だった。
フィナは足元を見つめたまま、ゆっくりとしゃがみ込む。
俺もその視線を追うと、下草が途切れた場所に雨を含んだ黒い土が露出していた。
そこには、人間より小さな裸足に似た跡が幾重にも重なっていた。
ゴブリンの足跡だ。
今なら、それくらいは分かる。
ただ、その数が妙だった。
いくつもの跡が重なり合い、場所によっては何度も踏み荒らされたせいで、土そのものが掘り返されたようになっている。
「うわ……これ、思ってたより多いかも」
フィナはそう呟くと、弓が地面に触れないよう身体の横へずらし、一つひとつの足跡を目で追い始めた。
ガレスも足を止め、俺とリックが周囲を見渡している間に、彼女の隣へ膝をついた。
「何体くらいいる?」
「ちょっと待って。重なってるから……」
フィナはすぐには答えず、指先で足跡の輪郭をなぞりながら、少し離れた場所に残る跡まで確かめていく。
さっきまで楽しそうに俺へ説明していた表情とは違い、今は唇を軽く結び、地面からほとんど目を離さない。
「正確には分からない。同じ奴が何度も通ってるかもしれないし。でも、足の大きさが違うものも混じってる。少なくとも十体以上はいると思う」
「十体以上か……」
リックが低く呟いた。
俺も改めて地面へ目を向ける。
今日戦ったゴブリンは四体だった。
あのときも、ガレスたちがそれぞれの役割を果たしていたからこそ、大きな怪我もなく倒すことができた。
十体以上となれば、同じようにはいかないだろう。
「それに、全部が一度に通った跡じゃないよ」
フィナが少し離れた二つの足跡を示した。
「こっちは古い。昨日より前だと思う。でも、こっちは新しいね。たぶん今日か、遅くても昨日。それに、こっちの方が少し大きい」
俺も隣へしゃがみ、示された場所を見比べた。
最初はどちらも似たような窪みにしか見えなかったが、よく見ると輪郭の残り方が違う。
古いものは縁が崩れて周囲の土に馴染み始めているのに対し、新しい跡は踏み込まれた形が比較的はっきり残っていた。
「……本当だ。こっちの方が新しいですね。それに、指の幅も少し違う」
「そうそう! 分かるようになってきたじゃない」
フィナが顔を上げ、ぱっと笑った。
木々の隙間から落ちた光が彼女の頬を明るく照らし、緑の瞳が嬉しそうに細められる。思いがけず近い距離でその笑顔を向けられ、俺は少しだけ返事に詰まった。
「……言われてから見れば、ですけど」
「それでも朝よりずっといいよ。ほら、ちゃんと覚えてるじゃん!」
「ありがとうございます」
素直に礼を言うと、フィナは満足そうに頷き、再び足跡へ目を戻した。
王宮では、剣の腕を褒められることは珍しくなかった。
けれど、こうして新しく覚えたことを認めてもらえるのは、また違った嬉しさがある。
しかも、自分が知らない世界を当たり前のように歩いている彼女から教わることには、剣術の稽古では味わえなかった楽しさがあった。
フィナが次の足跡へ指を伸ばすと、俺もその先を目で追った。
「ゴブリンが増えているということですか?」
俺が尋ねると、ガレスは地面へ目を向けたまま腕を組んだ。
「その可能性はある。ただ、これだけじゃ何とも言えねえ。別の場所から群れが移動してきたのかもしれんし、この辺りに巣を作ったのかもしれない」
「巣か……」
リックの声から、それまで残っていた軽さが消えた。
腰の剣へ手を伸ばしかけ、すぐに周囲の木々へ視線を走らせる。
「それなら、ギルドに報告した方がよさそうだな」
「ああ。ただ、場所くらいは確認しておきたい」
ガレスは周囲を見渡し、それからフィナへ顔を向けた。
「追えそうか?」
「うん。これだけ痕跡があれば大丈夫だと思う」
「無理はするな。見失ったらそこで終わりだ。深追いする必要はない」
「分かってるって。危なそうなら、すぐ戻るよ」
フィナはいつもの調子で答えたが、立ち上がるときにはすでに弓を手にしていた。
俺はもう一度、地面に刻まれた足跡を見つめた。
十体以上。
もし本当に巣があるのなら、その中にはさらに多くのゴブリンがいるのかもしれない。
そう考えたとき、胸に浮かんだのは不安だけではなかった。
今日の戦いでは、俺の剣は十分に通用した。
相手の動きを読み、間合いを詰め、刃を届かせることができた。
ならば、数が増えた場合はどうなるのだろう。
《ダーク》で視界を奪い、狭い場所へ誘い込めば、一度に相手をする数を減らせるかもしれない。
そんな考えが自然と浮かび、俺は無意識に腰の剣へ触れていた。
「ガレスさん。もし巣が見つかったら、討伐するんですか?」
尋ねると、ガレスはすぐに首を横へ振った。
「しない」
あまりにも迷いのない返事だったので、俺は思わず顔を上げた。
「でも、十体くらいなら――」
「アルク」
静かな声に、言葉が止まった。
ガレスは怒っているわけではなかった。
ただ、こちらへ向けた目は真剣で、先ほどまでの穏やかな表情とは少し違っていた。
「『倒せるかもしれない』と『戦うべき』は別だ」
そう言って、足元の無数の足跡へ視線を落とす。
「ここに十体以上いるとしても、巣の中に何体いるかは分からねえ。上位種が混じってる可能性だってある。そんな相手に、わざわざ四人で突っ込む理由はないだろう?」
「……はい」
「それに、俺たちの依頼はゴブリン討伐だ。もう必要な数は倒してる。これ以上危険を冒してまで戦う必要はねえんだ」
ガレスはそこで一度言葉を切り、森の奥へ目を向けた。
「冒険者は、勝てそうな戦いを見つけるたびに全部やる仕事じゃねえ。依頼を果たして、生きて帰る仕事だ」
その言葉に、俺は返事を忘れてしまった。
王宮で教わった剣術は、相手の動きを読み、隙を見つけ、確実に刃を届かせるための技術だった。
訓練場では、目の前に相手がいれば、どう戦うかを考えればよかった。
けれど、ここでは違う。
ガレスは、戦う前に、その戦いを選ぶべきかどうかを考えている。
「でも、放っておいたら、近くを通る人が危険なんじゃないですか?」
「だから、情報を持ち帰るんだ」
ガレスはそう答えると、地面の足跡を指さした。
「巣の場所と、おおよその数が分かれば、ギルドも動ける。必要なら討伐隊を組むだろうし、近くへ来る冒険者に注意を出すこともできる。俺たちが無理に倒さなくても、できることはあるんだよ」
俺は足元の土へ目を落とした。
十体なら倒せるか。
自分の剣はどこまで通用するか。
さっきまで考えていたのは、そんなことばかりだった。
けれど、もし巣へ踏み込んで、予想以上の数に囲まれたらどうなるだろう。
自分一人なら逃げられたとしても、仲間が同じように動けるとは限らない。
それに、俺が危険を承知で戦いたいと思ったとしても、ガレスたちまで付き合わせてよい理由にはならない。
腰の剣から、そっと手を離した。
「……分かりました。場所を確認して、ギルドへ報告するんですね」
「ああ。それが今の俺たちの仕事だ」
ガレスは短く頷き、再び森の奥へ視線を向けた。
俺もその先を見つめたが、重なり合う木々の向こうに何があるのかは分からなかった。
剣を抜けば、戦える。
けれど、剣を抜かない方がよいときもある。
その判断は、俺がこれまで教わってきたどんな剣技よりも、難しいものに思えた。
◇
それから二十分ほど、俺たちはフィナの案内で森の奥へ進んだ。
地形は少しずつ険しくなり、平坦だった地面には大小の岩が混じるようになっていた。太い木の根が蛇のように地表へ張り出し、ところどころに苔に覆われた岩壁も現れる。
風が抜けにくくなったせいか、肌に触れる空気まで先ほどより湿り、遠くで鳴いていた鳥の声も、いつの間にか聞こえなくなっていた。
途中から、フィナだけが先行することになった。
巣が近い可能性がある以上、四人で不用意に近づくよりも、森での索敵に慣れたフィナが先に様子を確かめた方がよいという、ガレスの判断だった。
「じゃ、ちょっと見てくるね」
フィナは小さく手を振ると、背負っていた弓を手へ移した。
いつもなら、何か一言くらい冗談を言いそうなところだったが、今はそれ以上何も言わなかった。
細い枝を避けながら身を屈め、足元の落ち葉を踏まない場所を選んで進んでいく。身体に沿う革の装備は動きを妨げず、しなやかな脚が木の根を越えるたび、短い金髪が小さく揺れた。
やがて、その姿は木々の向こうへ消えた。
俺たちは少し離れた木陰で待った。
フィナがいなくなると、森は急に静かになったように感じられた。
ガレスは盾を背負ったまま周囲へ視線を走らせ、リックもいつでも剣を抜けるよう、柄へ右手を置いている。俺も二人に倣い、背後の茂みや頭上の枝へ目を向けた。
葉擦れの音に混じって、ときおり水滴が落ちる音が聞こえる。
さっきまでなら、ただの森の音として聞き流していただろう。
けれど今は、何かが動いた音ではないかと、つい耳を澄ませてしまう。
少し離れた場所で小鳥が鳴き、俺は思わずそちらへ顔を向けた。
ガレスは一度だけ同じ方向を見たものの、すぐに視線を戻している。
その落ち着いた様子を見て、俺も静かに息を吐いた。
フィナが戻ってきたのは、それからしばらくしてのことだった。
最初に気づいたのは、木々の間を滑るように動く小さな影だった。
枝を揺らすこともなく近づいてきたその姿がフィナだと分かり、俺はようやく肩の力を抜いた。
けれど、彼女の表情を見た途端、その安心は長く続かなかった。
短い金髪の下で眉がわずかに寄り、手にした弓も背中へ戻していない。
「いた」
フィナが声を抑えて告げた。
ガレスが一歩前へ出る。
「何体だ?」
「見えただけで八。たぶん、もっといる」
「巣か?」
「うん。少し先に岩場があって、その下に大きな穴があるの。何体も出入りしてた。入口の周りも足跡だらけで、中に何体いるかまでは分からない」
フィナはそう言うと、肩越しに自分が戻ってきた方向を振り返った。
「近づけばもう少し分かるかもしれないけど……あれ以上は危ないと思う」
「十分だ」
ガレスの判断は早かった。
「戻るぞ」
リックが頷き、フィナもすぐに弓を背負い直した。
俺も異論はなかった。
少し前までなら、もう少し近くから見てみたいと思ったかもしれない。
けれど今は、フィナがわざわざ足音を消して戻ってきたことも、ガレスが迷わず撤退を決めたことも、軽く考える気にはなれなかった。
巣の場所は確認できた。
おおよその数も分かった。
それをギルドへ持ち帰れば、今日の仕事は十分に果たせる。
俺たちは来た道を引き返し始めた。
そのとき、背後の森で乾いた音がした。
ぱきり、と。
細い枝を何かが踏み折ったような音だった。
ガレスが足を止め、俺たちも続いて動きを止める。
フィナはゆっくり振り返り、ガレスの左手が背中の盾へ伸びた。リックも剣の柄へ手を掛け、俺は木々の間に目を凝らした。
しばらく待っても、何も見えなかった。
「……気のせいか?」
リックが声を潜めた直後、もう一度、枝の折れる音が森の奥から響いた。
今度は、先ほどより近い。
フィナの表情が変わった。
「……何かいる」
「ゴブリンか?」
「分からない。でも、さっきの音……」
彼女は言いかけて口を閉じ、耳を澄ませた。
ガレスは森の奥から目を離さないまま、低い声で告げる。
「走るな。こっちを追ってるかどうかも、まだ分からねえ。普通に歩くぞ」
俺たちは再び歩き始めた。
足元の落ち葉は湿っていて、慎重に踏めばほとんど音を立てない。
けれど、自分の足音が小さくなるほど、背後の森から聞こえるわずかな物音が気になった。
しばらく進んだところで、また枝が折れた。
今度は、右後方だった。
俺は歩調を変えずに視線だけを向けたが、木々の間には暗い影が重なっているばかりで、何も見つけられなかった。
ガレスが歩く速度を少し落とす。
すると、背後の物音も遠ざかった。
再び歩き始めると、少し遅れて落ち葉を踏むような音がついてくる。
偶然とは思えなかった。
何かが一定の距離を保ちながら、俺たちの後を追っている。
そう気づいた途端、首筋を冷たい汗が伝った。
姿が見えれば、相手の武器や間合いを考えられる。けれど、今は何がいるのかさえ分からない。
目の前の敵を見失うことには慣れていない。
まして、最初から姿を見せない相手に、どう備えればよいのだろう。
「……変だね」
フィナが小さく呟いた。
「何がだ?」
「たぶん、ゴブリンじゃない」
ガレスに答えながら、フィナは背負っていた弓を静かに手へ移した。
「音が重いの。ゴブリンなら、もっと軽い足音になると思う。それに、枝の折れ方も……たぶん、身体が大きい」
ガレスが足を止め、今度は背中から盾を外した。
それを見て、リックも剣を抜く。
鞘から滑り出した刃が、薄暗い森の中で鈍く光った。
「アルク、俺の左を頼む。何が出てくるか分からねえからな」
リックは声を落としたまま、俺へ目を向けた。
「分かりました」
「ま、でかい奴だったら、俺が先に驚くかもしれねえけど」
いつもの軽口だったが、リックの視線は茂みの奥から離れなかった。
俺は小さく頷き、彼の左側へ位置を移した。
フィナは矢筒から一本を抜き、弓につがえる。
弦はまだ引かず、俺たちの後方で射線を確保できる場所へ静かに移動した。
俺も剣の柄へ手を掛け、身体を半身にして木々の隙間を見つめた。
最初は何も見えなかった。
風に揺れる葉と、湿った樹皮に覆われた幹。その向こうに沈む暗がりを見つめているうち、少し離れた茂みがゆっくりと揺れた。
風とは違う動きだった。
木と木の間を、大きな影が横切った。
俺は思わず息を止めた。
その影は、先ほど戦ったゴブリンよりも明らかに大きかった。
枝葉に隠れて全身は見えないが、太い幹の向こうを移動するたび、茂みの上部まで大きく揺れている。
ガレスが盾を身体の前へ出した。
そのとき、森の奥から吹いてきた風が、ひどい臭いを運んできた。
獣の体臭と汗、湿った毛皮、それに腐りかけた肉を混ぜ合わせたような、生温かく濁った臭いだった。
思わず呼吸を浅くしたが、それでも喉の奥に不快な味が残る。
フィナが静かに弓を引き始めた。
「ガレス……」
「ああ。いるな」
ガレスは盾の縁から目だけを覗かせ、茂みの奥を見据えている。
俺も剣を抜くべきか迷いながら、右手に力を込めた。
そのとき、低い唸り声が聞こえた。
ゴブリンの甲高い声とは違う。
獣の咆哮を無理やり人の喉から絞り出したような、腹の底へ響く声だった。
茂みが大きく揺れる。
最初に現れたのは、太い腕だった。
緑がかった皮膚の下を太い血管が走り、盛り上がった筋肉が肘から肩へと続いている。
その手には、若木を途中からへし折り、枝だけを削ぎ落としたような棍棒が握られていた。
続いて、巨大な身体が木陰から姿を現した。
身の丈は二メートルを優に超えている。
厚い胸板と丸太のような腕に比べ、頭部は不自然なほど小さく、突き出た下顎からは黄ばんだ牙が覗いていた。
その巨体が一歩進むたび、足元の落ち葉が押し潰され、湿った土へ深い跡が刻まれていく。
小さな目がぎょろりと動き、俺たちの方へ向けられた。
オークは鼻を鳴らし、口の端から粘ついた唾液を垂らしながら、ゆっくりと頭を左右へ振った。
太い首の筋肉が動くたび、喉の奥から低い唸り声が漏れる。
その仕草は、獲物の臭いを嗅ぎ分けている獣を思わせた。
「……オーク」
フィナの声がわずかに硬くなった。
その名前は知っていた。
魔物図鑑でも見たし、王宮で受けた魔物についての講義でも聞いたことがある。
けれど、本物を目の前にすると、知識として覚えていた姿とはまるで違って見えた。
分厚い胸板の奥から響く荒い呼吸。
棍棒を握る指の太さ。
わずかに身体を動かしただけで揺れる肩の筋肉。
あの腕から振り下ろされる一撃を、まともに受け止めることはできないだろう。
剣士として積み上げてきた経験が、戦う前からそう告げていた。
心臓が速く打ち、口の中が乾いていく。
剣の柄を握る右手にはじっとりと汗が滲み、目の前の巨体が呼吸するたびに上下する胸板から、なかなか視線を離せなかった。
怖い。
王宮でどれほど腕の立つ騎士と剣を合わせても、こんな感覚を覚えたことはなかった。
訓練場で失敗しても、命を落とすことはない。
けれど、目の前のオークは違う。
あの棍棒を頭に受ければ、おそらく一撃で終わる。
それでも、俺の目は自然とオークの肩や腕の動きを追っていた。
あの棍棒を、自分は避けられるだろうか。
太い腕から繰り出される攻撃を読み、懐へ踏み込むことはできるのか。
人間とはまるで違う分厚い身体に、自分の剣はどこまで通用するのだろう。
そんな考えが浮かんでくることに、自分でも戸惑った。
手のひらには汗が滲み、胸の鼓動も速いままだ。
それなのに、相手の間合いや剣を届かせる場所を、知らず知らずのうちに探している。
十年間、剣を磨き続けてきた身体は、恐怖を覚えてもなお、目の前の強敵から目を逸らそうとしなかった。
そのとき、少し前のガレスの言葉が頭をよぎった。
『倒せるかもしれない』と『戦うべき』は別だ。
俺は剣の柄を握り直した。
今は一人ではない。
自分が戦ってみたいというだけで、勝手に剣を抜くわけにはいかない。
視線を少し動かすと、ガレスは盾を構えて半歩前へ出ていた。
リックはその右後方で剣を握り、フィナは俺たちより後ろへ下がって、木々の隙間から矢を通せる位置を探している。
俺の右側には苔に覆われた岩があり、後ろには太い木が一本立っている。
逃げるなら来た道だが、全員が一度に走れば互いの邪魔になるかもしれない。
目の前の敵だけでなく、仲間の位置と周囲の地形も確かめる。
ガレスに言われたことを思い出しながら視線を巡らせたものの、これだけの巨体を相手に、どう動けば全員が安全なのかまでは分からなかった。
ガレスがわずかに腰を落とし、盾の角度を変えた。
俺も呼吸を整えようとしたが、胸の鼓動はなかなか静まらない。
オークはすぐには襲いかかってこなかった。
太い棍棒を右手にぶら下げたまま、鼻をひくつかせ、俺たちの方へ顔を向けている。
黄ばんだ牙の隙間から荒い息が漏れ、時折、喉の奥で低く唸った。
その小さな目が、ガレスの盾からリックの剣へと動く。
やがて、俺たちの後方で弓を構えるフィナへ顔を向けたところで、オークは大きく鼻を鳴らした。
ガレスが盾を構えたまま、静かに一歩前へ出る。
リックも剣を握り直し、フィナの弓弦がかすかに軋んだ。
俺は剣を抜かず、オークの肩と腕の動きを見つめた。
次の瞬間、オークが大きく息を吸い込み、太い首を前へ突き出した。
喉の奥から、腹の底へ響くような唸り声が漏れる。
その巨体がわずかに沈み、棍棒を握る右腕の筋肉が盛り上がった。




