第13話 四匹のゴブリン
最初のゴブリンを見つけたのは、森へ入って一時間ほど経った頃だった。
正確には、俺が見つけたわけではない。
先頭を歩いていたフィナが、音もなく片手を上げたのだ。
それまで一定の速さで進んでいた彼女の足がぴたりと止まり、後ろに続いていたガレスとリックも、ほとんど同時に動きを止める。
俺も慌てて足を止めると、湿った落ち葉を踏みしめる音が消え、木々の間を抜ける風と、どこか遠くで鳴いている鳥の声だけが耳に残った。
フィナは振り返らないまま、ゆっくりと指を四本立てた。
それから、前方の茂みを示す。
四体。
さっき見つけた足跡の数と同じだ。
俺は近くの太い木の幹へ身体を寄せ、枝葉の隙間から慎重にその先を覗いた。
けれど、視界に入るのは苔の生えた倒木と、腰ほどの高さまで伸びた灌木ばかりで、その奥に並ぶ木々も薄暗い森の景色に溶け込んでいる。
どこにいるのか、まるで分からない。
フィナが示した方向を頼りに、もう一度目を凝らす。
すると、倒木の向こうで何かが動いた。
最初に見えたのは、くすんだ緑色の腕だった。続いて、茂みの陰から不釣り合いに大きな頭が現れ、汚れた腰布を巻いた小柄な身体が姿を見せる。
人間の子供ほどの背丈しかないが、長い腕と曲がった背中、尖った耳は人間のものではない。
図鑑で何度も見た姿と重なり、ようやくそれがゴブリンなのだと分かった。
全部で四体。一体は錆びた剣を持ち、二体は粗末な棍棒、残る一体は短い槍を手にしている。
どうやら何かを漁っているらしく、一体が地面へしゃがみ込むと、隣のゴブリンが甲高い声を上げてその肩を小突いた。
押された方が振り返って歯を剥き出しにすると、ほかの二体が耳障りな笑い声を上げる。
その仕草を見た瞬間、胸の奥に奇妙な違和感が生まれた。
知識としてなら、ゴブリンのことは知っていた。
人里近くにも現れる低級の魔物で、集団で行動し、ときには人間を襲う危険な存在だということも、王宮で読んだ書物に記されていた。
けれど、目の前にいる本物は、紙の上に描かれた挿絵とはまるで違う。
腕があり、脚があり、武器を持ち、仲間同士で何かを話している。
黄ばんだ歯を覗かせて笑う口元や、粗末な武器を握る手の動きには、どこか人間を思わせるものがあった。
一方で、くすんだ緑色の皮膚には黒ずんだ汚れがこびりつき、濁った瞳には獣じみた光が宿っている。
風向きが変わると、腐った食べ物と獣の体臭が混ざり合ったような臭いまで漂ってきた。
人に似ている。
それなのに、明らかに人間ではない。
角兎やグレイウルフと向き合ったときには感じなかった重さが、胸の奥へゆっくりと沈んでいく。
これから俺は、初めて人に近い形をしたものを斬るかもしれない。
そう意識した途端、剣の柄に添えていた右手へ、知らず力が入っていた。
ガレスがこちらへ目を向けた。
俺の様子に気づいたのかどうかは分からないが、彼は何も言わず、俺たちを少し後ろへ下がらせると、フィナとリックへ視線を送った。
「フィナ」
「四。周囲には今のところ他はいない」
「リック」
「右から回れる」
交わされた言葉は、それだけだった。
フィナは弓を手にしたまま、茂みの陰へ身体を寄せる。短い金髪が頬にかかると、彼女はそれを指先でそっと耳へ掛け、獲物から目を離さずに矢を一本抜き取った。
街道ではリックの冗談に笑っていた彼女の表情から、今は柔らかさが消えている。細身の身体を低く構え、弓を持つ左腕を静かに伸ばす姿には、先ほど森の痕跡を調べていたときと同じ、研ぎ澄まされた集中が感じられた。
リックも腰を落とし、木々の陰を選びながら右側へ移動していく。
ガレスは二人の位置を確かめると、最後に俺を振り返った。
「アルクは俺の後ろだ」
「戦わないんですか?」
「最初は見ろ」
思わず反論しかけた。
自分の剣が魔物相手にも通用するのか、試してみたいという気持ちはある。
王宮で剣を握り続けた十年間が、外の世界でも意味を持つのか確かめたかった。
けれど、ここは訓練場ではない。
森へ入ってから、俺が気づけなかった危険をガレスは何度も見つけ、フィナは落ち葉に残された小さな足跡から魔物の数まで読み取ってみせた。
今も三人は、ほとんど言葉を交わさずに戦う準備を整えている。
それに、森では自分一人の判断で動かない。
昨日、エレナと交わした約束もある。
「分かりました」
俺が頷くと、ガレスは背中の円盾を外して左腕へ固定した。
「行くぞ」
低い声が落ちた瞬間、森の空気が張り詰めた。
最初に動いたのはフィナだった。
弓を引き絞る彼女の右腕がわずかに引かれ、弦を離れた指先が軽く跳ねる。
乾いた音が耳へ届いたときには、矢はすでに木々の間を抜け、倒木のそばにいたゴブリンへ向かっていた。
「ギャアッ!」
矢が肩へ突き刺さり、甲高い悲鳴が森の静けさを切り裂く。
残る三体が一斉に立ち上がった。
その混乱へ、ガレスが正面から走り込む。
重い円盾を構えているとは思えないほど、踏み込みに迷いがなかった。
棍棒を振り上げたゴブリンが叫びながら殴りかかると、ガレスは盾をわずかに傾けて受け、鈍い衝突音とともに棍棒の軌道を外へ逸らす。
相手の身体が流れ、胸元が無防備になる。
剣を振るえば倒せる。
そう思ったのに、ガレスは反撃しなかった。
盾を構えたまま一歩前へ出て、隣から襲いかかろうとしていたもう一体の注意まで自分へ引きつける。
二体のゴブリンが彼へ向かって武器を振り上げ、その視線が正面の大きな盾へ集まった。
そのとき、ガレスの右側からリックが飛び込んだ。
木の幹を回り込むように現れたリックは、敵の背後へ大きく回るのではなく、ガレスが盾で作ったわずかな隙へ滑り込んでいた。
長剣が低い軌道を描き、棍棒を持つゴブリンの太腿を斬り裂く。
傷を負った脚から力が抜け、ゴブリンの身体が前のめりに傾いた。
リックはその動きを見逃さず、さらに一歩踏み込んで二撃目を喉へ叩き込む。
ゴブリンが地面へ倒れた。
ほとんど同時に、再び弓弦が鳴る。
フィナの二本目の矢は、最初に肩を射抜かれたゴブリンの胸へ深々と突き刺さった。
短い悲鳴を残し、その身体も湿った落ち葉の上へ崩れ落ちる。
戦いが始まってから、まだほとんど時間が経っていない。
ガレスは敵の攻撃を受け止め、リックが動ける場所を作っていた。
リックはその隙へ迷わず踏み込み、フィナは二人の動きを妨げない位置から確実に矢を通している。
誰も派手な技など使っていない。
それなのに、四体いたはずの敵が、瞬く間に二体へ減っていた。
これが、パーティーで戦うということなのか。
「アルク!」
ガレスの声が飛び、見入っていた意識が現実へ引き戻された。
槍を持った一体が戦いの外側を大きく回り込み、ガレスとリックの横を抜けてこちらへ向かってくる。
考えるより先に、身体が動いていた。
鞘から剣を抜くと、ゴブリンもこちらを敵と認めたらしく、短い槍の穂先を俺へ向けた。くすんだ緑色の顔が歪み、黄ばんだ歯の隙間から唾液が飛ぶ。
その瞬間、周囲の音が遠ざかった。
森も、ガレスも、リックも、フィナも意識の外へ薄れていき、視界には相手の肩と槍の穂先だけが残る。
踏み込む脚の向き。腰の捻り。槍を支える腕の位置。
相手が何をしようとしているのか、考えるまでもなく分かった。
――遅い。
突き出された槍の穂先が胸へ迫るのに合わせ、俺は半歩だけ身体をずらした。
冷たい鉄の先端が脇を抜けていく感覚を確かめながら、避けた勢いを殺さずに剣を下から跳ね上げ、槍を握る手首へ刃を走らせる。
「ギィッ!」
悲鳴とともに指から力が抜け、槍が落ち葉の上へ転がった。
武器を失ったゴブリンが身体を引こうとする。
けれど、その動きも見えていた。
俺は相手が後ろへ下がるより早く間合いを詰め、手首を斬り上げた勢いから剣を返した。
狙うのは首筋。
刃が肉へ食い込んだ。
訓練用の木剣でも、藁束でもない。
皮膚を裂き、肉を断ち、硬いものに触れた刃がわずかな抵抗を返す。
その生々しい重さが剣を通じて掌へ伝わり、次の瞬間、ゴブリンの身体が俺の足元へ崩れ落ちた。
戦いとしては、難しい相手ではなかった。
槍の動きも、踏み込みも、王宮で相手にしてきた剣術指南役たちとは比べものにならないほど単純だった。
相手の攻撃を見切り、武器を奪い、急所を斬る。十年間繰り返してきた訓練が、身体を迷いなく動かしていた。
けれど、倒れたゴブリンを見下ろした途端、胸の奥に重たいものが戻ってきた。
赤い血が落ち葉の上へ広がっている。
ついさっきまで、あの手は槍を握っていた。
俺へ向かって歯を剥き出しにし、甲高い声を上げていた口は、今は半ば開いたまま動かない。
初めて、人の形をしたものを斬った。
頭では、ゴブリンが人間を襲う魔物だと理解している。
倒さなければこちらが傷ついていたかもしれないし、剣を振るった判断が間違っていたとも思わない。
それでも、刃が肉へ食い込んだ感触だけは、妙にはっきりと掌に残っていた。
俺は剣を構えたまま、倒れた相手を見下ろしていた。
「まだだ!」
ガレスの怒声が森に響いた。
はっと顔を上げる。
最後の一体が、ガレスの盾を避けて横へ走り抜けていた。
狙っているのは俺ではない。
少し離れた場所で弓を構え直しているフィナだ。
棍棒を握ったゴブリンは、背の低い灌木を蹴散らしながら彼女へ迫っている。
ガレスが追おうとしたが、倒れた仲間の身体が足元にあり、すぐには進路を変えられない。
リックも別の位置にいて、間に入るには距離があった。
俺は反射的に走り出しかけた。
けれど、フィナとの間には木の根が張り出した地面と低い茂みがあり、剣を持って駆けつけても間に合わない。
ゴブリンは俺の斜め前を駆け抜け、すでにフィナへ向かって棍棒を振り上げようとしていた。
フィナも迫ってくる敵に気づいている。
短い金髪を揺らして素早く半歩下がり、腰の矢筒へ手を伸ばす。
弓を持つ左腕はすでに敵へ向いているが、矢を番えて弦を引き切るより、棍棒を振り上げたゴブリンが距離を詰める方がわずかに速い。
剣は届かない。
だが、あの距離なら。
俺は右手の剣を構えたまま、左手をゴブリンへ向けた。
訓練場で何度も繰り返したように、身体の奥から魔力を引き上げ、掌の先へ集める。
敵を倒す必要はない。
フィナが矢を放つまで、ほんの一瞬だけ視界を奪えばいい。
「《ダーク》!」
左手の先に生まれた黒い靄が、細く伸びるように前方へ滑った。
周囲へ広がろうとする闇を意識で抑え込み、拳二つ分ほどの大きさに留めながら、ゴブリンの顔へ向けて動かす。
棍棒を振り上げたゴブリンの目の前へ、黒い靄が重なった。
「ギャッ!?」
突然視界を奪われたゴブリンが、驚いたように足を止める。
棍棒は狙いを失い、何もない空間へ向かって乱暴に振り下ろされた。
その一瞬に、フィナが動いた。
しなやかな身体を低く沈め、棍棒の届く範囲から横へ逃れながら、矢を番えた弦を一息に引き絞る。
細い指先が離れる直前、彼女の澄んだ瞳は、闇に覆われた顔ではなく、その下にある胸元を正確に捉えていた。
弓弦が鳴る。
放たれた矢が黒い闇の下を抜け、ゴブリンの胸へ深く突き刺さった。
ゴブリンの身体が大きく仰け反り、振り上げていた棍棒が手から滑り落ちる。
続いて小柄な身体が後ろへ倒れ、湿った地面に鈍い音を立てた。
今度こそ、戦いは終わった。
俺は左手へ流していた魔力を止めた。
ゴブリンの顔を覆っていた黒い靄が、輪郭を失って空気へ溶けるように消えていく。
右手にはまだ剣を握っていたが、魔法を操っている間は、その剣を振るう余裕などなかった。
剣と魔法を同時に扱うには、今の俺ではまだ難しい。
それでも、間に合った。
俺は伸ばしていた左手をゆっくり下ろし、フィナへ視線を向けた。
彼女は倒れたゴブリンへ矢を向けたまま、しばらく動かなかった。
やがて敵が起き上がらないことを確認すると、ようやく弓を下ろす。
その横顔を見て、俺も長く息を吐いた。
荒い呼吸の向こうから、戦いが始まる前にも聞こえていた鳥の声が戻ってくる。風が枝葉を揺らし、木々の間を抜ける空気が頬を撫でた。
ほんの少し前まで命を奪い合っていた場所なのに、森は何事もなかったかのように静けさを取り戻していた。
ガレスが周囲を見回し、茂みの向こうまで確認してから、ようやく盾を下ろした。
「終わりだ」
その言葉を聞いて、肩へ入っていた力が抜けていく。
フィナは倒れたゴブリンをもう一度確認すると、弓を手にしたままこちらへ歩いてきた。
先ほどまで鋭く引き締まっていた表情には、いつもの明るさが戻り始めている。頬にかかった短い金髪を指先で払い、少しだけ乱れた呼吸を整えながら、彼女は俺の前で足を止めた。
「今の、闇魔法?」
「はい」
「何したの?」
「目の前だけ暗くしました。正確には、顔の周りを」
「へえ……」
フィナは倒れたゴブリンへ視線を向け、それから俺を見上げた。
「面白いね、それ」
「攻撃力はないですけど」
「攻撃力?」
彼女は何を言っているのか分からないという顔で首を傾げた。
「私が撃つ時間、作ってくれたじゃん」
あまりにも当然のように言われて、今度は俺が黙ってしまった。
フィナはそんな俺を見て、不思議そうに瞬きをする。
「だって、あのままだったら矢を番える前に殴られてたかもしれないし。急に真っ暗になったから、あいつ、こっちを見失ったでしょ?」
「……はい」
「おかげで落ち着いて狙えたよ。ありがと、アルク」
そう言って、彼女はにっこりと笑った。
森の木漏れ日が短い金髪を柔らかく照らし、緊張から解放された頬にはほんのりと赤みが差している。弓を抱えるように持った細い腕も、先ほどまでの張り詰めた動きとは違って自然に力が抜けていた。
間近で向けられたその笑顔に、俺は一瞬、返事を忘れた。
フィナが無事だったことへの安堵もあるのだろう。けれど、こうしてまっすぐに礼を言われると、思っていた以上に嬉しい。
「……役に立てたなら、よかったです」
「うん。すごく助かった」
フィナは嬉しそうに頷いた。
その言葉を聞きながら、俺は自分の左手へ目を落とした。
今のゴブリンを倒したのは、俺ではなくフィナの矢だった。
けれど、あの一瞬の闇がなければ、彼女は落ち着いて狙うことができなかったかもしれない。
攻撃力のない魔法にも、こんな使い方があるのか。
「……そういう使い方もあるんですね」
「今さら?」
フィナが楽しそうに笑った。
つられるように俺も笑うと、彼女は少し得意げに胸を張り、手にした弓を軽く持ち上げてみせた。
「次も頼りにしてるからね」
「はい。俺も、フィナの弓を頼りにしてます」
「ふふっ。任せて!」
弾むような返事とともに、フィナはもう一度笑顔を見せた。
その向こうで、リックが倒れたゴブリンの武器を確かめながら、こちらへ目を向けていた。
「おいおい、二人でいい感じに決めやがって。俺だってちゃんと働いたんだからな?」
「分かってるよ。リックもお疲れさま」
「なんか扱いが軽くねえか?」
フィナがくすくすと笑い、リックは不満そうに肩をすくめる。
ほんの少し前まで命を奪い合っていたとは思えないほど、二人のやり取りはいつもどおりだった。
その声を聞いているうちに、張り詰めていた胸の奥がようやく緩んでいく。
けれど、俺の手にはまだ、ゴブリンを斬ったときの感触が残っていた。
何気なく右手を開くと、剣の柄を握っていた掌に汗が滲んでいる。
その手を見つめていたとき、ふと視線を感じた。
少し離れた場所で、ガレスがこちらを見ていた。
木々の間から差し込む午後の日差しが、その肩に掛かった盾の縁を鈍く照らしている。
俺が顔を上げると、ガレスの視線は剣を握った右手から、いつの間にか下ろしていた左手へと移った。
何かを確かめるような、ほんの短い間があった。
けれど、俺と目が合うと、ガレスはいつもの落ち着いた表情に戻り、口元をわずかに緩めた。
「いい腕だな、アルク」
「ありがとうございます」
「闇魔法も、うまく使った」
思いがけず褒められ、俺は少し照れくさくなった。
フィナに礼を言われたときとはまた違う嬉しさが、胸の奥に広がっていく。
ガレスはそんな俺を見て小さく頷くと、背中へ盾を戻しながら、いつもの調子でリックへ声をかけた。
「よし、まずはこいつらを片づけるぞ」
その声にリックが軽く手を上げ、フィナも弓を抱え直して歩き出す。
俺も剣を鞘へ収め、三人の後を追った。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
アルクの冒険は、まだ始まったばかりです。
続きも読んでみたいと思っていただけたら、ブックマークしていただけると嬉しいです。
これからもよろしくお願いします!




