幕間1 受付嬢エレナは、新人冒険者が気にかかる
今回は、受付嬢エレナの視点で描く、初めての幕間です。
アルクが冒険者としての一歩を踏み出した、その傍らで。
彼を見守るエレナは、何を思い、何を感じていたのでしょうか。
本編とは少し違う視点から、二人の物語をお楽しみください。
夕刻を過ぎた冒険者ギルドには、朝とはまるで違う顔がある。
早朝には依頼書を片手に慌ただしく出ていった冒険者たちが、今は一日の仕事を終え、酒場の卓を囲んで思い思いの時間を過ごしていた。厨房から漂う焼いた肉と香草の匂いに、安酒の甘ったるい香りが混じり、誰かが今日倒した魔物について大声で語れば、別の卓から「また話を盛ってやがる」と野次が飛ぶ。笑い声と食器の触れ合う音が高い天井へ昇り、昼間よりもずっと雑然としているのに、不思議とそこには、危険な一日を無事に終えた者たちだけが持つ安堵が満ちていた。
そんな喧騒を聞きながら、エレナは受付の内側で一日の書類を整理していた。
依頼達成報告、素材の買い取り記録、負傷者の報告書、新規登録者の名簿。冒険者ギルドの受付嬢となって三年、毎日のように繰り返してきた仕事である。
細い銀縁眼鏡の奥で蜂蜜色の瞳を動かし、書類の内容を確かめては帳簿へ数字を転記していく。その手際は慣れたもので、周囲でどれほど酔った冒険者が騒いでいようと、普段なら仕事の手が止まることはなかった。
けれど今夜は、先ほどから同じ一行へ何度も視線が戻っていた。
――アルク。十五歳。F級冒険者。適性ジョブ、《闇魔法士》。
登録から、まだ数日しか経っていない新人冒険者の名前だった。
それなのに、ずいぶん長く彼を見ているような気がする。
エレナは小さく眉を寄せ、帳簿の上で止まっていた羽根ペンを動かそうとした。しかし、黒いインクの文字を追っているはずの目には、なぜか昼間の受付で見た少年の姿が浮かんでしまう。
「……エレナ」
横から呼ばれた声にも気づかず、エレナは帳簿へ目を落としたままだった。
「エーレーナ。聞こえてる?」
「えっ?」
ようやく顔を上げると、隣の窓口に座っていたリサが、呆れたような、それでいて何か面白いものでも見つけたような顔でこちらを眺めていた。
赤みを帯びた茶髪を肩の辺りで揃えた、エレナより二つ年上の受付嬢である。普段から明るく人懐こい性格で、冒険者たちにも人気がある一方、同僚のちょっとした変化を見逃さないところがあり、エレナにとっては少々困った相手でもあった。
「珍しいわね。あなたが仕事中にぼんやりするなんて」
「ぼんやりなんてしてないわよ。少し考え事をしていただけ」
「へえ。じゃあ、どうしてさっきから同じところを何度も見てるの?」
「記録を確認していたのよ。間違いがあったら困るでしょう?」
「それはそうだけど、同じ行を四回も確認する必要があるのかしら?」
そう言われて初めて、エレナは自分の指が同じ名前の上で止まっていることに気づいた。
慌てて帳簿を閉じると、リサの口元がゆっくりと持ち上がった。
「……もしかして、例の子?」
「例の子って?」
「ほら。《闇魔法士》なのに剣を下げてる、妙に顔の整った新人君」
「アルクさんのこと?」
反射的に答えてから、エレナはしまったと思った。
案の定、リサの目が楽しそうに細められる。
「あら、名前がすぐ出てくるのね」
「私が登録を担当したんだから、当然でしょう?」
「ふうん。そういうことにしておいてあげる」
「本当にそういうことだから」
少し強い口調になってしまったことを自覚し、エレナは銀縁眼鏡の位置を直した。そんな仕草まで面白かったらしく、リサは口元を手で隠しながら笑っている。
「まあ、気になるのは分かるけどね。登録したその日に一人で森へ行って、グレイウルフと遭遇したんでしょう? それで今日は角兎を三体。なかなか無茶な新人君じゃない」
「だから心配なのよ」
気づけば、エレナはすぐにそう答えていた。
「あの子、剣は確かに使えるみたいだけど、冒険者としては知らないことばかりだもの。最初のグレイウルフでは魔石の取り方すら知らなくて、牙だけ持って帰ってきたでしょう? 装備だって最低限だし、魔法を覚えたばかりなのに自分で色々試しているし……そのくせ本人は、自分がどれだけ危なっかしいか、あまり分かっていないのよ」
話しているうちに、次々と言葉が出てきた。
初めて受付に現れた時の、どこか世間知らずな様子。
冒険者として必要な知識を説明すると、真剣な顔で一つひとつ頷いていたこと。
グレイウルフの牙を持ち帰った時には、自分が魔石のことを知らなかったと気づき、少し困ったように笑っていたこと。
その一方で、剣の扱いについて尋ねると、十五歳の少年とは思えない落ち着きを見せることがある。
あの不思議な落差を、エレナはまだうまく説明できずにいた。
「……ふうん」
「何?」
「別に。ただ、ずいぶんよく見てるなあと思って」
リサは頬杖をつき、意味ありげに微笑んだ。
「新人全員がどんな装備で、どんな魔法を練習してるかまで覚えてる?」
「それは……担当した冒険者のことは、できるだけ把握しておきたいもの」
「昨日なんて、東門の方を何回見た?」
「見てないわよ」
「見てたわよ。私、隣にいたもの」
「時計を確認していただけよ」
「時計は反対側にあるけど?」
「……リサ」
「はいはい。もうからかわないから、そんな顔しないで」
そう言いながらも、リサの肩はまだ小さく揺れていた。
エレナは軽く息を吐き、閉じた帳簿の端を揃える。白いブラウスの袖口を整え、乱れてもいない栗色の髪を指先で確かめてから、もう一度仕事へ戻ろうとした。
心配しているだけ。
それは嘘ではない。
三年間、冒険者ギルドの受付に座っていれば、新人冒険者が命を落とすこともあると嫌でも知ることになる。
最初の依頼で帰らなくなる者がいる。何度か成功を重ね、自分ならやれると思い始めた頃に、身の丈に合わない依頼へ手を出す者もいる。
昨日までこの受付で笑っていた人間の名前に、死亡を示す線を引かなければならなかったことも、一度や二度ではなかった。
そのたびに、エレナは考える。
もう少し強く注意していれば、別の依頼を勧めていれば、装備の不備に気づいていれば、あの冒険者は今もこの受付へ戻ってきてくれたのだろうか。
けれど、冒険者の命を受付嬢がすべて守れるわけではない。依頼を受けるのも、魔物と戦うのも、最後に自分の命を守るのも、冒険者自身なのだ。
頭では分かっていても、書類に記された名前を消すたびに胸の奥へ残るものは、そう簡単には薄れてくれなかった。
だから、新人には慎重になる。
ましてアルクのような少年は、余計に危なっかしかった。
剣の腕は明らかに新人の域ではない。それでいて、冒険者としての知識は驚くほど乏しく、《闇魔法士》として高い適性を持ちながら、魔法については基礎から学んだ経験すらないらしい。
何より彼は、失敗すると立ち止まるのではなく、どうすれば上手くいくのかを考え始める。
今日の角兎討伐でもそうだった。
広く展開した《ダーク》で自分まで相手を見失ったから、次は範囲を狭めてみたという。
上手くいかなければ考え、また試す。
その姿勢自体は、決して悪いものではない。むしろ、エレナには眩しくさえ映った。
目の前の失敗をただ恐れるのではなく、次に進むための手がかりとして受け止める。アルクが今日の出来事を説明する時、その瞳には不思議なほど真っ直ぐな光が宿っていた。
だからこそ、怖いのだ。
自分の工夫で一つ壁を越えられる人間ほど、次の壁にも手を伸ばしたくなる。そして冒険者の世界では、その壁の向こうに必ず安全な足場があるとは限らない。
アルクには、そのことを知ってほしかった。
できれば、取り返しのつかない失敗をする前に。
「でもさ」
ふいに、リサの声が少しだけ穏やかになった。
「今日、あの子が帰ってきた時のエレナ、すごく嬉しそうだったよ」
「……そう?」
「うん。扉が開いてアルク君が入ってきた瞬間、顔が変わったもの」
今度はからかう調子ではなく、リサはあっさりと頷いた。
そう言われて、エレナは今日の夕方を思い出した。
西へ傾いた陽光が高い窓から差し込み、ギルドの広間を橙色に染め始めた頃だった。
冒険者たちが次々と帰還し、受付が忙しくなり始める時間帯である。エレナは依頼達成の報告を受けながら、何度か入口へ目を向けていた。
別に、誰かを待っていたわけではない。
ただ、森へ出かけた新人が、そろそろ戻ってきてもよい時間だと思っていただけだ。
そう自分に言い聞かせながら、何度目か分からないほど入口へ視線を向けた時、ちょうどギルドの大扉が開いた。
逆光の中に、黒髪の少年が立っていた。
森を歩いてきたのだろう。服には土埃がつき、靴にも草と泥が付着している。それでも、旅装に大きな破れはなく、腰にはいつもの剣が下がっていた。
歩き方にも不自然なところはなく、顔にも腕にも目立つ傷は見当たらない。
――よかった。怪我はなさそうね。
そう確かめた瞬間、胸の奥で一日中細く張っていた糸が、ふっと緩んだ。
無事に帰ってきた。
ただそれだけのことが、思いがけないほど嬉しかった。
アルクがこちらに気づき、いつもの少し控えめな笑顔を浮かべた時には、エレナも自然と微笑み返していた。
あの瞬間の安堵を、今でもはっきりと覚えている。
「……無事に帰ってきたからよ」
「うん」
「受付として、当然でしょう?」
「うんうん」
「その返事、やめて」
リサがくすりと笑う。
「まあ、十五歳じゃねえ。エレナからしたら、弟みたいなものか」
弟。
その言葉を聞いた瞬間、エレナはわずかに目を伏せた。
胸の奥へ、小さな棘が引っかかったような気がしたのだ。
弟のようなもの。
そう考えれば、確かに説明はつく。
放っておけない。無茶をしないか気になる。きちんと食べているのか、宿では眠れているのか、装備は足りているのか。報酬を無駄遣いしていないか、危険な依頼を選ぼうとしていないか。
気づけば、そんなことばかり考えている。
年下の、危なっかしい新人。
だから世話を焼きたくなる。
そういうことなのだろう。
「……そうね。まだ十五歳だもの」
エレナは静かに答えた。
けれど、その言葉は胸の中へ落ちていかず、水面へ置いた木の葉のように、どこか頼りなく浮かんだままだった。
リサはそれ以上何も言わず、仕事へ戻っていった。
エレナも再び帳簿を開き、残っていた書類の確認を始める。
窓の外では夕暮れの最後の光が薄れ、ギルドの壁に灯されたランプが、磨き込まれた受付台へ柔らかな光を落としていた。
羽根ペンを走らせる音が、酒場の喧騒に紛れていく。
それでも、先ほどリサに言われた言葉だけは、いつまでも耳の奥に残っていた。
◇
仕事を終えて自宅へ戻る頃には、グランベルの街はすっかり夜の色へ沈んでいた。
大通りではまだ酒場や食堂の明かりが並び、仕事帰りの職人たちが笑いながら歩いている。店先では最後の客を送り出す声が響き、石造りの建物の間を抜ける夜風には、焼きたてのパンと煮込み料理の匂いがかすかに混じっていた。
けれど、一本裏通りへ入れば人通りは急に少なくなる。
エレナの靴音が石畳に規則正しく響き、軒先のランプが風に揺れるたび、足元に伸びた影が長くなったり短くなったりした。
ギルドから歩いて十五分ほどの場所にある集合住宅が、彼女の住まいだった。
一階には穏やかな老夫婦が暮らしており、エレナは二階の一室を借りている。受付嬢として働き始めた頃から住んでいる部屋で、今ではすっかり馴染みのある場所になっていた。
木製の階段を上り、鍵を開ける。
「ただいま」
もちろん返事はない。
それでも、一人暮らしを始めた頃からの癖で、帰れば自然と口にしてしまう。
ランプへ火を灯すと、淡い橙色の光が小さな部屋を満たした。
窓際の鉢植え。小さな机と二脚の椅子。壁際の衣装棚。そして、きちんと整えられた寝台。
華美なものは何もないが、清潔に整えられた室内には、持ち主の几帳面な性格がよく表れていた。窓辺には小さな花が飾られ、机の隅には読みかけの本が伏せられている。
エレナにとってここは、仕事場で張りつめていたものをようやく解ける、自分だけの場所だった。
「……今日も一日、終わったわね」
誰に聞かせるでもなく呟き、エレナは銀縁眼鏡を外して机へ置いた。
眼鏡を外すと、普段は知的で落ち着いた印象を与える蜂蜜色の瞳が、少し柔らかな表情を見せる。続いて後ろでまとめていた栗色の髪をほどけば、肩より下まで伸びた髪がさらりと背中へ流れ落ちた。
鏡の前に立ち、髪を軽く指で梳く。
昼間の自分とは、少し違う顔がそこにあった。
冒険者たちの相談に応じ、時には危険な依頼を受けようとする新人を厳しく諭し、どれほど忙しくても穏やかな笑顔を忘れない受付嬢。
けれど今は、誰かに微笑みかける必要もなければ、頼れる先輩として振る舞う必要もない。
エレナは小さく息を吐き、制服の留め具を外した。
濃紺のベストを脱ぎ、白いブラウスをほどいていくと、一日中きちんとした姿勢を保っていた肩から、ようやく力が抜けていく。
受付に座っている時には制服に隠れているが、エレナの身体は細身というわけではない。女性らしい丸みのある胸元から腰へかけては柔らかな曲線を描き、それに対して日々よく歩くため腰回りや脚には適度な張りがある。華奢というよりは、しなやかで健康的な美しさを備えた身体つきだった。
鏡に映る自分の姿を一瞥し、エレナは軽く肩を回した。
一日中受付に座っていると、思っている以上に腰や肩が凝るものだった。時折、街を散歩したり身体を動かしたりしているものの、仕事を終えた後には、こうして身体を伸ばす時間が欠かせない。
「……少し、肩が凝ったかしら」
首を傾けると、張っていた筋が小さく伸びた。
浴室には、帰宅時間に合わせて頼んでおいた湯が、まだ十分な熱を保っていた。
この部屋を選んだ理由の一つが、小さいながらも一人でゆっくり浸かれる浴槽があることだった。
湯気の満ちた浴室へ入り、足先からゆっくりと湯へ沈めていく。
じんわりとした熱が足首から膝へ伝わり、腰を沈める頃には、一日中身体に残っていた緊張が少しずつほどけ始めた。
「はぁ……」
思わず長い息が漏れる。
浴槽の縁へ背を預け、目を閉じる。
水面が身体の動きに合わせてゆるく揺れ、壁に置いたランプの光を細かく砕いていた。湯気の向こうでは石壁の輪郭が淡くぼやけ、外の物音も遠くなり、静かな水音だけが耳に届いてくる。
湯へ身体を沈めれば、豊かな胸元の輪郭は水面に半ば隠れ、長い栗色の髪が濡れた肌へ張りついた。肩まで湯に浸かろうと少し姿勢を変えると、胸元が水面にゆるやかな丸みを描き、揺れる湯の中へ再び沈んでいく。鎖骨を伝った雫が小さな波紋を広げ、濡れた髪が白い肩へ寄り添った。
エレナは両手で湯をすくい、肩へそっと流した。
温かな湯が首筋から背中へ伝わるたびに、一日中張りつめていたものが少しずつ溶けていく。昼間はどれほど忙しくても崩さなかった表情も、今は誰に見られることもなく、自然と緩んでいた。
普段なら、こうして湯に浸かっているうちに、仕事のことなど自然と忘れてしまう。
明日の朝食は何にしようか。
読みかけの本を少し進めようか。
休みの日には、久しぶりに街の市場でも覗いてみようか。
そんな取り留めのないことを考えながら、一日の疲れを洗い流すのがいつもの習慣だった。
けれど今夜は、目を閉じると別のものが浮かんでくる。
「……弟、か」
ぽつりと口にした声が、狭い浴室に小さく響いた。
リサに言われた言葉だった。
アルクは十五歳。
自分より五つも年下で、冒険者になったばかりの少年である。
世間知らずで、放っておけばどこまで無茶をするのか分からない。そのくせ剣を持たせれば新人とは思えない動きをし、時折、ひどく大人びた目をする。
初めて会った日のことを思い出した。
身分証を持っていなかった。
姓も名乗らなかった。
家族について尋ねた時には、ほんの一瞬だけ表情が曇った。
その変化はごくわずかなものだったが、エレナは見逃さなかった。
受付嬢として多くの冒険者を見てきた経験がある。人には、触れられたくない過去があるものだ。
だから、それ以上は聞かなかった。
けれど、あの時からだったのかもしれない。
どうにも放っておけないと思い始めたのは。
「……それなら、やっぱり普通でしょう」
自分へ言い聞かせるように呟き、エレナは両手ですくった湯を頬へ当てた。
少し熱めの湯が肌を包み、耳の辺りまでじんわりと温まる。
心配しているだけ。
新人が無事に帰ってくれば安心するし、少しずつ成長していく姿を見れば嬉しくなる。それは受付嬢として当然の感情であり、ごく自然なことのはずだった。
そう思ったところで、ふいに今日の受付での出来事が蘇った。
角兎の討伐報告を聞き、角と魔石を確認し、報酬を精算した。
最初のグレイウルフでは魔石を取り忘れていた少年が、今度はきちんと三つの魔石を持ち帰っていたものだから、思わず笑ってしまった。
『今日は忘れませんでしたね』
そう声をかけると、アルクは少し照れくさそうに笑っていた。
その笑顔が、なぜか妙に印象に残っている。
そして最後に、冒険者証を返した時。
伸びてきたアルクの指先と、自分の指が触れた。
本当に、ほんの一瞬だった。
毎日何十人もの冒険者へ依頼書を渡し、報酬を払い、冒険者証を返している。手が触れることなど珍しくもないし、そのたびに何かを感じていたら仕事にならない。
それなのに。
どうして、今になって思い出したのだろう。
エレナは湯の中から右手を持ち上げ、自分の指先へ目を落とした。
水滴が指から掌へ流れ、手首を伝って落ちていく。
当然、そこには何も残っていない。
けれど、少年の指先が触れた瞬間の感覚だけは、不思議なほど鮮明に思い出せた。
「……何を気にしてるのよ、私」
呆れたように呟いて、もう一度湯へ手を沈める。
その時、ふと気づいた。
自分は、あの瞬間のことを思い出すたびに、少しだけ嬉しくなっている。
それは、仕事を終えた時の安堵とも、後輩の成長を見守る喜びとも違う、もっと個人的な感情だった。
エレナは小さく息を吐いた。
二十歳にもなって、恋愛について何も知らないわけではない。
過去には男性と付き合ったこともあるし、誰かと親しくなり、その人の言葉や仕草に心を動かされた経験もある。
だから、自分の中に生まれた感情が、どのようなものへ育っていく可能性を持っているのか、まったく想像できないわけではなかった。
むしろ、少し分かってしまうからこそ、困るのだ。
「……まさかね」
思わず苦笑が漏れた。
相手は十五歳の新人冒険者で、自分は彼の登録を担当した受付嬢である。
彼にはまだ、冒険者として学ばなければならないことが山ほどある。剣の腕がどれほど優れていようと、危険を見極める経験も、仲間と協力して戦う知識も、これから身につけていかなければならない。
そんな少年を相手に、自分は何を考えているのだろう。
エレナは肩まで湯へ沈み、目を閉じた。
湯気の向こうでランプの炎が揺れている。
けれど、閉じた瞼の裏に浮かんだのは、今日の夕方、無事に帰ってきた少年の姿だった。
泥のついた旅装。
腰に下げた剣。
そして、こちらへ向けられた穏やかな笑顔。
不意に胸の奥が温かくなる。
それは湯の熱とは少し違う、もっと静かな温もりだった。
エレナは目を開け、天井へ視線を向けた。
「……困った子ね、本当に」
口にした言葉とは裏腹に、唇には小さな笑みが浮かんでいた。
どうやら、自分が思っていた以上に、あの少年のことを気にかけているらしい。
けれど、今はそれでいい。
無理に何かを決める必要もなければ、名前をつける必要もない。
ただ、明日も無事に帰ってきてほしい。
今の自分にとっては、それが一番大切なことだった。
◇
湯から上がると、エレナは柔らかな布で髪の水気を取り、薄手の寝衣へ着替えた。
身体を締めつけていた制服とは違い、ゆったりとした布地が肩から腰へ自然に落ちる。髪をほどいたまま窓辺へ歩くと、夜風が濡れた毛先をそっと揺らした。
窓の外には、グランベルの静かな夜景が広がっていた。
遠くの大通りにはまだ明かりが残っているものの、住宅街の家々は次第に眠りにつき始めている。屋根の向こうには淡い月が浮かび、石畳へ落ちる光が、昼間とは違う穏やかな街の表情を作り出していた。
エレナは窓を少しだけ開け、夜の空気を吸い込んだ。
ひんやりとした風が火照った頬を撫でる。
昼間、冒険者たちの前では決して見せない、少し気の抜けた表情のまま、しばらく月を眺めていた。
明日、アルクは東部森林へ向かう。
目的は、ゴブリンの討伐。
E級以上が推奨される依頼だが、アルクはC級冒険者のガレスが率いるパーティーに同行することになっている。D級のリックとE級のフィナも、普段からガレスと行動を共にしている冒険者たちだ。
彼らなら、アルクを安心して任せられる。
そう思っていたからこそ、今回の討伐依頼では、ギルドからガレスに協力をお願いしていた。経験の浅い冒険者が参加する場合には、実戦での指導も引き受けてもらえるように。
もっとも、今朝アルクがその依頼書を持ってきた時には、少し驚いた。
まだ冒険者になって数日しか経っていないのに、もう次の魔物へ挑もうとしている。
相変わらず、じっとしていられない子なのだと思った。
けれど、話を聞いてみれば、ただ強い魔物と戦いたいわけではなかった。自分の力で生きていくために、知らないことを覚え、できないことを一つずつ減らしていきたいのだという。
その言葉を聞いた時、エレナは少しだけ嬉しくなった。
無茶をするなと注意したい気持ちはもちろんある。それでも、彼が前へ進もうとすることまで否定したくはなかった。
だから、ガレスたちを紹介した。
あとは、彼らがアルクを受け入れてくれるかどうかだったが、幸いガレスは彼の話を聞き、同行を認めてくれた。
エレナは、その時のことを思い出して小さく微笑んだ。
ガレスは見た目こそ厳ついものの、新人の命を軽く扱うような男ではない。むしろ、危険な行動には厳しく注意し、無理だと判断すれば引き返すこともできる。だからこそ、安心して任せられるのだ。
仲間の動きを知り、役割を理解し、時には誰かに背中を預けることを覚える。その経験は、これから冒険者として生きていくアルクにとって、きっと大切なものになるだろう。
頭では、そう分かっている。
それでも、明日のことを考えると、胸の奥には小さな不安が残っていた。
ガレスたちを信頼していないわけではない。
ただ、あの少年は、少し目を離すと何を試し始めるか分からないのだ。
《ダーク》が人型の魔物にも通用するのか。
どこまで範囲を絞ればよいのか。
剣と魔法をどう組み合わせれば、もっと上手く戦えるのか。
きっと、そんなことを考えているに違いない。
そして上手くいけば、またあの顔をするのだろう。
自分で見つけた答えを説明する時の、少しだけ誇らしげな表情。
普段はどこか落ち着いているくせに、新しいことを覚えた時だけ、年相応の少年らしさが顔を覗かせる。
あの笑顔を見ると、エレナはどうしても嬉しくなってしまう。
「……本当に、手がかかるんだから」
誰もいない部屋で呟くと、思わず笑みがこぼれた。
窓を閉め、寝台へ腰を下ろす。
柔らかな寝具が身体を受け止め、長い一日の終わりを告げるように、静かな疲労が手足へ広がっていった。
枕元のランプを少し暗くすると、窓から差し込む月明かりが寝台の端を淡く照らした。
エレナは横になり、薄い掛布を胸元まで引き上げる。
昼間はきちんと整えていた指先も、今は掛布の上で静かに休み、真っ直ぐに伸ばしていた背筋も、柔らかな寝具へ自然に沈んでいく。
こうして一人で眠る夜は、決して嫌いではなかった。
受付の仕事は忙しいけれど、やりがいがある。ギルドの仲間たちとも良い関係を築いているし、こうして温かな寝台で安心して眠れる今の暮らしにも、不満はなかった。
それでも時折、ふとした瞬間に思うことがある。
もし、自分の帰りを待ってくれる人がいたなら。
あるいは、誰かが帰ってくることを、当たり前のように待てる日々があったなら。
そんな暮らしも、悪くないのかもしれない。
エレナは静かに目を閉じた。
過去に付き合った男性たちのことを、嫌な思い出として覚えているわけではない。楽しい時間もあったし、心を通わせたと思えた瞬間もあった。
けれど、誰かの帰りをこれほど気にかけたことがあっただろうか。
仕事の合間に何度も入口を見て、無事な姿を確かめるまで落ち着かず、帰ってきた時の笑顔を夜になっても思い出す。
そんなことは、少なくとも最近の自分にはなかった。
胸の奥に、小さな波紋が広がる。
エレナは掛布の上へ右手を出し、そっと指を開いた。
今日、冒険者証を返した時に触れた指先。
あれほど何気ない出来事だったのに、なぜ今も覚えているのだろう。
ふと、昼間のアルクの顔が浮かんだ。
こちらの説明を真剣に聞いていた時の、少し大人びた横顔。
新しい魔法の使い方を話していた時の、少年らしい笑顔。
そして、無事に帰還したことを報告する時の、穏やかな声。
エレナは自分の指をゆっくりと握った。
今はまだ、守ってあげたい新人冒険者。
そう思っている。
けれど、いつかあの少年が成長し、もっと多くの経験を積んだなら。
その時、自分は彼をどんな目で見るのだろう。
そんな考えが浮かび、エレナは小さく目を見開いた。
「……もう」
自分でも呆れるような声が漏れた。
まだ冒険者になったばかりの少年の、何年も先の姿を想像してどうするのだろう。
エレナは寝返りを打ち、窓の方へ顔を向けた。
薄いカーテンが夜風に揺れ、月明かりが床の上をゆっくりと移ろっている。
明日の朝になれば、またいつもの一日が始まる。
髪をまとめ、銀縁眼鏡をかけ、制服に袖を通す。
受付台の向こうでは、いつものように冒険者たちが依頼書を選び、報酬の相談をし、危険な仕事へ出かけていく。
その中には、あの黒髪の少年もいるだろう。
エレナはきっと、いつもと同じように微笑みかける。
無理をしないようにと注意し、必要なことを説明して、彼を送り出す。
それだけだ。
今は、それだけでいい。
胸の奥に芽生えた小さな感情が、この先どのようなものへ育っていくのかは、まだ分からない。
けれど、もしそれが今までとは違う何かだったとしても、急いで答えを出す必要はないのだろう。
エレナはゆっくりと息を吐き、掛布を肩まで引き上げた。
明日の夕方。
外が橙色に染まり始める頃になれば、自分はきっと何度も入口を見る。
そしてギルドの大扉が開くたび、仕事を続けながら、無意識にその向こうを探すのだろう。
泥で汚れた旅装と、腰に下げた剣。
まだ冒険者になったばかりの、あの黒髪の少年を。
そうして無事な姿を見つけたら、きっとまた胸の奥に張っていたものがほどける。
その時、自分がどんな顔をしているのか。
エレナには、少しだけ想像がついていた。
きっと、安心した顔をしている。
そしてたぶん、本人が思っている以上に嬉しそうな顔をしているのだろう。
「……明日も、ちゃんと帰ってきてね。アルクさん」
小さな声は、誰にも届かないまま静かな寝室へ溶けていった。
窓の向こうでは、月がグランベルの街を淡く照らしている。
エレナは目を閉じ、明日の朝に備えて眠りへ身を委ねた。
その胸の奥には、まだ名前をつけるには早すぎる、小さな温もりが残っていた。
今はただ、その温もりを大切にしていたかった。
幕間1をお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、いつもアルクを迎える受付嬢エレナの視点から、二人の日常を描いてみました。
アルクの知らないところで、彼を見つめる人々にも、それぞれの想いや物語があります。
これからも本編の合間に、そんな彼女たちの素顔を少しずつお届けできればと思います。
引き続き、アルクたちの物語をお楽しみいただければ嬉しいです。




