第9話 新人アルク
グランベルへ戻った頃には、西へ傾いた太陽が城壁を橙色に染めていた。
東門をくぐると、朝とは違う街の匂いが鼻をくすぐった。市場では店じまいの準備が始まり、売れ残った野菜を安く売る声が石畳の通りに響いている。酒場の開け放たれた扉からは肉を焼く脂の匂いが漂い、仕事を終えた職人たちが、煤や木屑を服につけたまま連れ立って歩いていた。
荷車の車輪が石畳を軋ませながら通り過ぎ、夕暮れの光を浴びた建物の壁には、人々の長い影が重なっている。朝はこれから仕事へ向かう人々の足音で満ちていた街が、今は一日の終わりを迎える穏やかな賑わいに包まれていた。
俺は行き交う人々を避けながら、冒険者ギルドへ向かって歩いていた。
腰に結びつけた革袋が、歩くたびに小さく揺れる。中には今日仕留めた角兎三体分の魔石と角が入っており、時折、魔石同士が触れ合う乾いた音が聞こえてきた。
朝、街を出た時には、依頼を無事に終えられるかどうか、そればかりを考えていた。
今は、腰に感じる革袋の重みが、今日一日を確かに自分の力で過ごしたことを教えてくれている。
もっとも、無事に終えられたからといって、すべてが順調だったわけではない。
一体目の角兎には、自分で生み出した闇のせいで相手を見失い、危うく角を突き立てられるところだった。
三体目との戦いでも、魔法の制御が思いどおりにならず、革鎧の脇を角がかすめている。
それでも、最後には闇魔法を使って相手の動きを乱し、剣で仕留めることができた。
左手を軽く握ると、掌の奥に、魔力を流した時の冷たい感覚が蘇る。
俺はその手を一度見つめてから、前方へ視線を戻した。
通りの先には、冒険者ギルドの建物が見えていた。
朝、依頼を受けて出てきた時と同じ建物のはずなのに、今はその扉が、少し違って見える。
俺は石段を上がり、賑やかな声が漏れてくる扉を押し開けた。
◇
夕方の冒険者ギルドは、朝よりもさらに騒がしかった。
依頼を終えた冒険者たちが併設された酒場へ集まり、木の杯を打ち合わせている。今日倒した魔物について大げさな身振りで話す者もいれば、受付でもらった報酬を数えながら、明日の依頼について相談している者もいた。
焼いた肉と麦酒の匂いが入り混じり、笑い声や椅子を引く音が広い室内へ絶え間なく響いている。
その賑わいの中を抜けて受付へ向かおうとした時、横から野太い声が飛んできた。
「おい、坊主」
俺は足を止め、声のした方へ顔を向けた。
酒場の丸テーブルを囲んでいた三人組の一人が、こちらへ向かって大きな手を上げている。
昨日も見かけた冒険者たちで、革鎧の上からでも分かるほど肩幅の広い大男と、椅子の背へ弓を立てかけた痩せた男、それに壁際へ短槍を置いている若い男だった。
「俺ですか?」
「他に坊主がいるか?」
大男は面白そうに口元を歪め、手にした木杯を軽く持ち上げた。
思わず周囲を見渡してみたが、確かに近くにいる冒険者の中では、俺が一番若そうだった。
「何でしょう?」
「お前、昨日グレイウルフを倒した新人だろ?」
いきなりそう言われ、俺は少し驚いた。
昨日の依頼を終えた時、討伐したことは受付で報告している。
けれど、直接話した覚えのない冒険者にまで知られているとは思わなかった。
「そうですけど……どうして知っているんですか?」
「ギルドで噂になってたんだよ。登録したばかりの新人が、一人でグレイウルフを倒したってな」
「一体だけですけど」
「一体でも、登録したばかりの新人が一人でやるもんじゃねえよ」
大男が呆れたように言うと、隣の弓使いも杯を置いてこちらを見た。
「普通はもう少し簡単な依頼から始めるもんだ。腕に覚えがあるのか、それとも怖いもの知らずなのか、どっちだ?」
「……剣には、それなりに自信があります」
「ほう?」
大男の視線が、俺の腰に下げた剣へ移った。
「やっぱり剣士か?」
「いえ、闇魔法士です」
三人の動きが、ぴたりと止まった。
大男は杯を口元へ運びかけた姿勢のまま俺を見つめ、弓使いは片眉を上げる。
短槍使いの若者に至っては、何か聞き間違えたのかとでも言いたげに首を傾げていた。
「……何だって?」
「闇魔法士です」
「その剣は?」
「使います」
「魔法士なのにか?」
予想どおりの質問に、俺は思わず小さく息を吐いた。
「……皆さん、そこを聞くんですね」
一瞬の沈黙のあと、三人が揃って笑い出した。
「そりゃ聞くだろ! 魔法士がそんな立派な剣をぶら下げてりゃ、誰だって気になるってもんだ」
「しかも闇魔法士だろ? 俺は初めて会ったぞ」
弓使いが興味深そうに俺の顔を覗き込む一方、短槍使いは腰の剣へ目を向けたまま、不思議そうに尋ねてきた。
「でも、剣に自信があるってことは、昔から習ってたんだろ?」
「はい。五歳の頃から、十年くらいです」
「十年?」
若者が思わず身を乗り出した。
「お前、いくつだよ?」
「十五です」
「五歳からずっと剣を振ってたのか? どんな家だよ、それ」
「……まあ、ちょっと厳しい家で」
さすがに王家ですとは言えず、曖昧に答える。
すると大男は、何か納得したように顎を撫でながら、俺の立ち姿へ視線を移した。
「なるほどな。確かに、ただ剣を持ってるだけの奴とは少し違うみてえだ」
「分かるんですか?」
「多少はな。剣を抜かなくても、立ち方や重心の置き方には癖が出るもんだ」
大男はそう言ってから、面白そうに口元を歪めた。
「昨日も受付の連中が話してたぞ。剣だけなら妙に出来る新人が来たってな」
「そんな話まで回るんですか?」
「ギルドじゃ新人の話は結構回るぞ。特に、死にそうな奴の話はな」
「……俺、死にそうに見えます?」
「登録したばかりで一人で森へ行って、グレイウルフと戦った奴だぞ。候補には入るだろ」
隣で弓使いが肩を揺らして笑い、短槍使いも苦笑しながら頷いている。
反論したかったが、今日の角兎との戦いを思い出すと、あまり強くは言い返せなかった。
「で、今日は何をやってきたんだ?」
大男が木杯を置き、俺の腰の革袋へ目を向ける。
「角兎を三体です」
「そりゃ普通だな」
あまりにもあっさりと言われ、俺は少し拍子抜けした。
昨日のグレイウルフとは違い、角兎三体程度では、特に驚くような成果ではないらしい。
大男はすでに杯へ手を伸ばしており、弓使いも何事もなかったように料理の皿から干し肉をつまんでいる。
短槍使いだけが「初めてなら上出来じゃないか」と笑ってくれたが、その言い方にも大げさな称賛はなかった。
俺は三人の様子を眺めながら、不思議な気持ちになった。
王宮では、剣が上達しても、礼法を覚えても、王族として身につけて当然のことだと言われてきた。
反対に、闇魔法士という適性が判明した時には、それまで積み重ねてきたものとは別のところで、俺の価値が決められてしまった。
けれど、目の前の三人は、俺がどんな家に生まれたのかも知らない。
角兎三体の討伐は、新人冒険者として普通の成果。
グレイウルフを一人で倒したことは、少し危なっかしい。
剣を十年習ってきたと聞けば驚くし、魔法士なのに剣を持っていれば不思議がる。
彼らはただ、目の前の俺を見て、思ったことを口にしているだけだった。
大男が木杯を傾けると、麦酒の泡が口髭につき、隣の弓使いがそれを指さして笑った。
そんな何気ないやり取りを見ているうちに、胸の奥にあった小さな緊張が、いつの間にかほどけていた。
普通だと言われたことが、こんなにも心地よいとは思わなかった。
「まあ、焦るなよ」
大男が杯を置き、先ほどより少し落ち着いた声で言った。
「最初からちょっと戦える奴が、一番危ねえんだ」
「……どうしてですか?」
「できることと、できないことの境目が分かってねえからだよ。腕があると、何とかなると思っちまう。で、気づいた時には逃げられなくなってる」
その言葉を聞いた瞬間、今日の最初の戦いが頭をよぎった。
闇で角兎を覆った時、魔法が発動したことに気を取られ、相手の姿を見失ってしまった。
剣の腕には自信があったが、見えない相手に対しては、いつものように身体を動かすことができなかった。
剣が使えることと、冒険者として危険を切り抜けられることは、必ずしも同じではない。
「……気をつけます」
「おう。それがいい」
大男は満足そうに頷き、木杯を軽く持ち上げた。
「死ぬなよ、新人」
ぶっきらぼうな言い方だったが、その声には、からかいだけではないものが混じっていた。
「ありがとうございます」
俺が小さく頭を下げると、大男は照れくさそうに鼻を鳴らし、また杯へ口をつけた。
受付へ向かって歩き出すと、背後から三人の話し声が聞こえてくる。
「でも、初日でグレイウルフなら、剣は一度見てみてえな」
「そのうち訓練場で会うだろ」
「その時は俺も見に行こうかな」
俺は振り返らなかったが、酒場の笑い声に紛れて聞こえてきたその言葉が、なぜだか嬉しくて、自然と口元が緩んでいた。
◇
「何かいいことがありました?」
受付へ着くなり、エレナにそう言われた。
顔を上げると、栗色の髪を後ろでまとめた彼女が、受付台の向こうからこちらを見つめていた。銀縁の眼鏡の奥では、蜂蜜色の瞳が柔らかく細められ、口元にはいつもの穏やかな笑みが浮かんでいる。
「そんな顔をしていますか?」
「していますよ。ギルドへ入ってきた時から、ずいぶん嬉しそうでした」
どうやら、思っていた以上に顔へ出ていたらしい。
俺は少し気恥ずかしくなりながら、腰から革袋を外して受付台へ置いた。
「さっき、冒険者の人たちに声をかけられたんです」
「ええ、見ていました。ずいぶん楽しそうでしたね」
「俺の剣を、一度見てみたいって言われました」
「それで嬉しかったんですか?」
「……はい」
口に出してみると、少し子供っぽい気がした。
けれど、エレナはからかうことなく、どこか安心したように表情を和らげた。
「そうですか。それは良かったですね」
彼女が微笑むと、受付の窓から差し込む夕陽が栗色の髪を淡く照らし、頬の輪郭に柔らかな光を添えた。
俺はその表情を見て、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
「それでは、今日の成果を確認しますね」
エレナは受付台に置かれた革袋へ手を伸ばした。
白いブラウスの袖口から覗く細い手首が、夕方の光を受けている。濃紺のベストは豊かな胸元から引き締まった腰へ自然に沿い、清潔感のある制服姿には、落ち着いた大人の女性らしい美しさがあった。
けれど、彼女の動作には、見た目の柔らかさとは少し違う無駄のなさがある。
袋を引き寄せる手つきも、素材を取り出す動きも、迷いなく滑らかだった。
俺がそんなことを考えている間に、エレナは角と魔石を一つずつ丁寧に並べていった。
「角が三本。それから魔石が三つ……ちゃんと揃っていますね」
「はい」
「今日は忘れませんでしたね」
眼鏡の奥の瞳が、少しだけ楽しそうに細められる。
「一回失敗したので」
「ちゃんと覚えていて偉いです」
「……子供扱いしてません?」
「十五歳ですから」
あまりにも自然に返され、俺は思わず口を開いた。
「エレナさんはいく――」
そこで、言葉を止めた。
初日に似たようなことを尋ね、彼女を少し怒らせてしまったことを思い出したのだ。
エレナは素材を確認する手を止め、ゆっくりと顔を上げた。
「……アルクさん?」
「はい」
「今、何を言おうとしました?」
「いえ、何でもありません」
「本当ですか?」
眼鏡の奥から向けられる視線が、妙に鋭い。
俺が黙っていると、彼女は少しだけ首を傾げ、口元に意味ありげな笑みを浮かべた。
「学習しましたね」
「一回失敗したので」
先ほどと同じ言葉を返した。
一拍の間があった。
それから、エレナが吹き出した。
「ふふっ……もう、アルクさんったら」
彼女は慌てて口元へ手を当てたが、一度こぼれた笑いは簡単には収まらないらしい。肩を小さく揺らしながら笑ううちに、まとめていた栗色の髪が一筋だけ頬へ落ち、眼鏡の奥の瞳が、いつもよりずっと柔らかく細められた。
受付に座っている時の、誰に対しても丁寧な笑顔とは違う。
少し無防備で、年相応の女性らしい、自然な笑い方だった。
俺は思わず、その顔を見つめてしまった。
普段から綺麗な人だとは思っていたが、こうして笑うと、いつもの落ち着いた雰囲気が少し変わって見える。
頬へ落ちた髪を指先で耳にかけると、普段は眼鏡の陰に隠れている目元がよく見えた。笑った余韻を残した頬はわずかに赤みを帯び、唇の端には、まだ楽しそうな笑みが残っている。
その何気ない仕草が妙に綺麗で、俺は目を逸らすタイミングを失ってしまった。
「……アルクさん?」
「え?」
「どうしました?」
気づけば、エレナが不思議そうにこちらを見ていた。
「いえ、何でもないです」
「本当に?」
「はい」
少し慌てて視線を逸らすと、エレナは首を傾げたものの、それ以上は追及してこなかった。
代わりに、机の上の書類を整え、いつもの受付嬢らしい落ち着いた表情へ戻る。
その変化を見ていると、先ほどの笑顔が、何か特別なものだったように思えてしまった。
「さて、素材の確認は終わりました。角も魔石も、状態は問題ありませんね」
エレナはそう言って書類へ記入を始めたが、ふと手を止めた。
視線が、俺の身体の右側へ向けられている。
「……アルクさん」
「はい?」
「その革鎧、どうしたんですか?」
彼女の目が、脇の辺りで止まっていた。
そこには、三体目の角兎との戦いでついた細い擦り傷が残っている。
革の表面がわずかに削れているだけで、装備として使えなくなるほどではない。
「ああ、これですか。角兎の角が少しかすめただけです」
「……かすめた?」
エレナの声が、わずかに低くなった。
顔を上げると、先ほどまで柔らかく笑っていた彼女の表情が変わっていた。
「怪我はありませんか?」
「大丈夫です。鎧の表面を擦っただけなので」
「本当に?」
「はい。身体には当たっていません」
エレナはすぐには答えず、受付台越しに少し身を乗り出した。
細い指先が鎧の傷を示し、彼女の視線がその周囲を確かめるように動く。近づいた拍子に栗色の髪が肩からわずかに滑り、ほのかに石鹸のような清潔な香りが漂ってきた。
白いブラウスの襟元から伸びる首筋は細く、身を屈めたことで濃紺のベストが描く柔らかな曲線が、普段より少し近くに感じられた。
思いがけず距離が縮まり、俺は一瞬、どこへ視線を向ければよいのか分からなくなった。
けれど、エレナはそんな俺の様子には気づかず、真剣に傷を確認している。
「……そうですか。身体に当たっていないなら、ひとまず安心です」
彼女は小さく息をつき、ようやく身体を戻した。
「でも、角兎の角は見た目以上に危険なんですよ。勢いよく突進されたら、革鎧を貫くことだってありますから」
「はい。気をつけます」
「それで、どうしてこんな傷がついたんですか?」
俺は少し考えてから、今日の戦いについて説明することにした。
「実は、闇魔法を使ってみたんです」
エレナの眉が、わずかに動いた。
「……アルクさん」
「でも、聞いてください。ちゃんと考えて使ったんです」
俺が慌てて付け加えると、エレナは小さく息を吐き、続きを促すように頷いた。
「最初は、闇を広げすぎて失敗しました。でも、昼に木陰で休んでいた時、小さくすればいいんじゃないかと思いついたんです」
「小さく、ですか?」
「はい。角兎の身体全部を隠すんじゃなくて、顔だけを覆うように」
エレナは少し驚いたように目を見開いた。
「なるほど……。それで、うまくいったんですか?」
「……半分くらいです」
「半分?」
「狙いが少しずれて、顔全体を覆えなかったんです。それで、片目側だけでも塞ごうと思って」
俺がそう説明すると、エレナは眼鏡を指先で押し上げ、真剣な表情で続きを待った。
「角兎の突進が少し横へずれたので、そこで魔法を消して剣へ切り替えました。でも、切り替える時に一瞬遅れてしまって……それで、角が鎧をかすめたんです」
「……そういうことだったんですね」
エレナは小さく頷いた。
「魔法を消したあと、相手の動きは見えていたんですか?」
「はい。闇を小さくしていたので、身体の動きは見失いませんでした」
「それなら、最初の時よりずっと良くなっていますね」
思いがけず褒められ、俺は少し嬉しくなった。
「それに、狙いが外れた時、無理に魔法を維持しようとしなかったのも良い判断だったと思います」
「……そうですか?」
「はい。自分の思いどおりにならない状況で、最初の考えに固執しなかったのでしょう? それは、実戦ではとても大切なことです」
エレナはそう言ってから、少しだけ表情を引き締めた。
「ただし、今回は相手が角兎だったから、その判断が間に合ったとも言えます。もっと速い魔物や、予想外の動きをする相手だったら、同じ方法が通用するとは限りません」
「……はい」
「新しいことを試すのは悪くありません。でも、試すことに夢中になって、危険を見落とさないでくださいね」
その言葉に、先ほどの大男の忠告が重なった。
最初から少し戦える者ほど、自分にできることとできないことの境目を見誤りやすい。
俺は剣を十年間振るってきたが、魔法についてはまだ覚え始めたばかりだ。
その違いを忘れてはいけないのだろう。
「分かりました。次は、もっと余裕のある状況で試すようにします」
「……本当に分かってます?」
エレナが、じっとこちらを見る。
「分かってますよ」
「アルクさんは、一度できると思うと、その場ですぐ次を試したくなるみたいですから」
「まだ会って数日ですよ?」
「十分分かりました」
「そんなにですか?」
「そんなにです」
きっぱりと言われ、俺は返す言葉を失った。
エレナはそんな俺の顔を見て、今度は小さく笑った。
「でも、今日の工夫は良かったと思いますよ」
そう言って、彼女は眼鏡の奥から穏やかな視線を向けてきた。
「アルクさんは、剣を使うことを諦めたくないんですよね?」
「……はい」
思わず、背筋が伸びた。
王宮を出るきっかけになったのは、闇魔法士という適性だった。
けれど、それまで十年間磨いてきた剣を捨てようとは思わなかった。
今でも、その気持ちは変わっていない。
「だったら、焦らずに続けてください。今日できたことを、明日も同じようにできるようにする。そうやって、一つずつ確かなものにしていけばいいんです」
エレナの声は、いつものように穏やかだった。
けれど、その言葉には、ただ慰めているだけではない、不思議な確かさがあった。
俺はしばらく彼女を見つめ、それから小さく頷いた。
「……はい。ありがとうございます」
「どういたしまして」
エレナは柔らかく微笑み、再び書類へ視線を落とした。
◇
「それでは、報酬をお渡ししますね」
エレナは精算用の書類を確認すると、受付台の上へ銀貨を二枚並べた。
「角兎三体の討伐報酬、銀貨二枚です。依頼はこれで達成になります」
「ありがとうございます」
俺が銀貨を受け取ると、硬貨は掌の中で小さく触れ合い、澄んだ金属音を立てた。
今日一日を費やして得た銀貨の重みは、朝、街を出た時にはまだ手の中になかったものだ。
「角と魔石の買い取りについても、確認してきますね。少しお待ちください」
エレナはそう言って素材をまとめ、奥の係員へ声をかけた。
その間、俺は受付台の脇へ目を向けた。
隣の窓口では、泥のついた革鎧を着た冒険者が、依頼の達成報告をしている。さらに奥では、二人組の冒険者が地図を広げ、明日向かう場所について相談していた。
誰もが、それぞれの一日を終え、次の一日へ向けて動いている。
俺も、その中の一人なのだと思うと、少し不思議な気持ちになった。
「お待たせしました」
エレナが戻ってきた。
「角と魔石の買い取りも終わりました。こちらが買い取り分になります」
彼女は精算書と硬貨を受付台へ並べ、俺が確認するのを待ってから、書類を丁寧に揃えた。
「それから、こちらもお返ししますね」
エレナは俺の冒険者証を手に取り、受付台越しに差し出した。
「今日の依頼達成は、きちんと記録しておきました」
「ありがとうございます」
俺は右手を伸ばし、冒険者証を受け取ろうとした。
その時だった。
冒険者証の端を支えていたエレナの指先に、俺の指が触れた。
ほんのわずかな接触だった。
けれど、思っていたよりも柔らかく、温かな感触が指先へ伝わってきた瞬間、胸の奥が不意に跳ねた。
俺は反射的に顔を上げた。
すぐ目の前には、エレナの穏やかな顔があった。
彼女はいつものように微笑んでいる。
ただ、俺が顔を上げたのとほとんど同じ瞬間、エレナもわずかに視線を動かしたように見えた。
蜂蜜色の瞳が、ほんの一瞬だけ俺の目を捉える。
それだけのことなのに、なぜか視線を外すことができなかった。
指先に残る温かさが、妙にはっきりと意識へ浮かんでくる。
剣を握る時には、手の中の感触を確かめることに慣れている。
柄の硬さや重み、掌へ伝わる振動なら、目を閉じていても分かる。
けれど、今の感触は、それらとはまるで違っていた。
ただ偶然、指が触れただけなのに、胸の奥が落ち着かない。
エレナは冒険者証から指を離し、いつもと変わらない仕草で手を引いた。
「……こちらで、今日の手続きはすべて終わりです」
声も、表情も、普段とほとんど変わらなかった。
ただ、書類を揃えるために伸ばした指先が、一度だけ机の上で止まったように見えた。
それが本当にそうだったのか、それとも俺が妙に意識していたせいなのかは分からない。
「……はい。ありがとうございます」
ようやく返事をすると、自分の声が少し硬くなっていることに気づいた。
エレナはそんな俺を見て、不思議そうに首を傾げた。
「アルクさん?」
「はい?」
「どうかしました?」
「い、いえ。何でもありません」
慌てて答えると、エレナは小さく瞬きをしたあと、いつもの柔らかな笑みを浮かべた。
「そうですか」
彼女はそれ以上何も尋ねず、受付台の上に置かれた書類へ視線を戻した。
その落ち着いた様子を見ていると、妙に動揺しているのは自分だけなのだと思えて、少し恥ずかしくなった。
俺は冒険者証を鞄へしまおうとしたが、なぜか指先の感覚が気になり、いつもより少し手間取ってしまった。
革の鞄の口を開き、冒険者証を収める。
その間にも、先ほど触れた指先には、かすかな温かさが残っているような気がした。
俺はそっと手を握り、何でもないことだと言い聞かせるように息を整えた。
「それでは、今日はゆっくり休んでくださいね」
エレナの声が、いつもと変わらない穏やかさで響いた。
「はい。そうします」
「明日も依頼を受けるつもりですか?」
「まだ決めていませんけど……たぶん、何か探してみようと思います」
「そうですか。でしたら、無理のない依頼を選んでくださいね」
彼女はそこで少しだけ声を和らげた。
「昨日より今日、今日より明日。少しずつ、できることを増やしていけばいいんですから」
その言葉に、俺は自然と頷いた。
今日の草原で見つけた方法も、まだ完成したものではない。
けれど、焦らずに繰り返していけば、いつかもっと自然に剣と魔法を扱えるようになるかもしれない。
「……はい。ありがとうございました、エレナさん」
「どういたしまして。お疲れさまでした、アルクさん」
エレナが微笑む。
その笑顔を見た時、俺は先ほどの指先の感触を、また思い出してしまった。
慌てて小さく頭を下げ、冒険者証と報酬がきちんとしまわれていることを確かめてから、受付を離れた。
◇
ギルドの中には、相変わらず賑やかな声が満ちていた。
酒場の方では、先ほどの三人組がまだ何かを話している。
大男が豪快に笑い、弓使いが呆れたように肩をすくめる。その横では、短槍使いが杯を片手に何かを言い返し、また三人の笑い声が重なった。
少し離れたテーブルでは、数人の冒険者が地図を囲んでいた。
「明日はこっちの道から入ろうぜ」
「いや、そっちは足場が悪い。荷物を持って歩くなら、南側から回った方がいいだろ」
「だったら、先に偵察だけしておくか?」
互いに意見を交わしながら、明日の行動を決めているらしい。
俺はその様子を横目で眺めながら、自然と足を緩めた。
これまで受けた依頼は、どれも一人で行ってきた。
剣を振るう時も、魔法を使う時も、判断するのは自分だけだった。
けれど、こうして誰かと相談しながら依頼へ向かう冒険者たちもいる。
地図を指さしていた男が何かを言うと、向かいの仲間が首を振った。すると、隣にいた女が二人の間へ身を乗り出し、別の道を指でなぞり始める。
どうやら、まだ意見はまとまらないらしい。
それでも、誰も席を立とうとはしなかった。
俺はその光景をもう少し眺めていたかったが、いつまでもここにいるわけにもいかない。
出口へ向かいかけたところで、ふと受付の方へ視線が向いた。
エレナはすでに次の冒険者へ応対していた。
書類へ目を落とし、相手の話を聞きながら時折頷いている。栗色の髪が肩の動きに合わせてわずかに揺れ、銀縁の眼鏡が窓から差し込む夕陽を受けて小さく光っていた。
先ほどまで俺と話していた時と同じ、穏やかな表情だった。
俺は何気なく右手の指先を擦り合わせた。
冒険者証を受け取った時の、あの一瞬の温かさが蘇る。
「……」
何となく落ち着かなくなり、俺は手を下ろした。
エレナは顔を上げることなく、次の冒険者の話を聞いている。
俺はそれ以上振り返らず、ギルドの扉を押し開けた。
外へ出ると、夕暮れのグランベルは柔らかな橙色の光に包まれていた。
通りには夕食の支度を始める家々の煙が立ち上り、どこかから焼きたてのパンの匂いが漂ってくる。行き交う人々の声も、昼間より少し落ち着いたものに変わっていた。
そういえば、メルにも昼食のお礼を言わなければならない。
黒パンと干し肉、それから、包みの下に隠されていた小さな干し果物。
あの甘さを思い出しながら、俺は宿のある通りへ向かった。
背後でギルドの扉が閉まる。
俺は通りの向こうにともり始めた宿屋の灯りへ目を向けた。
その時、背後から賑やかな声が聞こえ、数人の冒険者たちが俺の横を通り過ぎていった。
「おい、明日は遅れるなよ!」
「分かってるって。お前こそ寝坊するなよ!」
笑いながら言葉を交わす彼らの背中を、俺はしばらく見送った。
あんなふうに、誰かと肩を並べて依頼へ向かうのも、悪くないのかもしれない。
やがて人混みの向こうへ姿が消えると、俺は再び宿へ向かって歩き始めた。
夕暮れの通りには、今日もたくさんの人々が行き交っていた。




