花散(二)
あまりに唐突な初瀬の言葉に、杯に酒を注ごうとしていた橘花の手が、ぴたりと止まった。
怪訝そうな橘花の顔を見ながら、初瀬は話を続けた。
「あの二人の消息を調べていくうちに、いろいろわかってきたのだが、じつは、桜の出生には重大な疑惑があるのだ。これは、大津宮では公然の秘密になっていたことらしいのだが……。咲耶は、風花兄上を産んだときの一回しか、出産をしていないというのだ」
初瀬は、そこで言葉を切って橘花の反応を伺った。
橘花は、ことさら驚いた様子もなく、無言で杯に酒を注ぐ。それから、初瀬の顔を見て小さくうなずいた。
やはり知っていたか。
初瀬は、橘花の情報収集能力にあらためて感心しながら、話を続けた。
「にもかかわらず、桜は咲耶の娘で、風花兄上とは実の兄妹だということになっている。俺は、そこに父上の策謀と誤算があったと思っている」
初瀬は、橘花が注いだ酒を飲み干してから、その推理を披露した。
「結論から言うと、桜は、咲耶と父上の子ではなく、八花内親王が密かに産んだという娘だと思う。そして彼女は、早世した咲耶の後添いとして、父上が迎えた妻だった。父上は、人目を憚らなければならない彼女を、死んだ咲耶とすり替えたのだ。大津宮は都から離れた宮だから、父上のはかりごとはうまく運ぶはずだった。ところが、母上の命を受けて大津宮の内情を探りに来た舎人に、彼女は『桜』と名乗り『自分は帝の娘だ』と言ってしまった。これは想像だが、父上が彼女を『さくや』と呼んでいたものを『さくら』と聞き違え、まだ幼かった彼女は自分が帝の娘だと思っていたのではないか。なんにせよ、父上にとって、これは誤算だった。対応に窮した父上は、咲耶は不在で、桜は咲耶の娘だと嘘をついた。これは、じつは母の菜香皇后が見抜いていたのだが、その後、桜は一人二役をこなすことになったのだ。夫である帝と、義理の息子である風花兄上の両方から愛された彼女が、どんな気持ちだったか。俺には、想像もできないがな……と、つまらぬ話しを聞かせてしまったな」
いいえ、と答えてから、橘花は深いため息をひとつ落とした。
「私は、桜の身体からいつも優しい花の匂いがしていたことを知っているわ。挙体芳香といってね、あの人は何日も沐浴をしなくても、その身体が発する芳香のおかげで香を炊きしめる必要がなかった。桜が『衣通姫』と呼ばれた本当の理由は、それなのよ」
橘花が何を言い出したのか、初瀬は理解に苦しんだ。
その話と初瀬の話とが、どう関係するのだろうか。
「私の知る限り、そんな珍しい体質を持つ人間は、かの大唐国の伝説にかろうじて見出せるくらいのものだわ。なのに、同じ体質を持ち、同じ名前で呼ばれた人物が、同じ時代のこの国にもうひとりいたのよ」
橘花の話が、意外な展開を見せてきた。
「衣通……咲耶か」
初瀬が告げたその名に、橘花は軽いうなずきで応じる。
「咲耶を直接知っている人は、とても少ないの。でも、咲耶は香を炊かなくてもいい香りがしていたと、お父さまも風花兄さんも言っていた。だって、元はといえば、『衣通姫』というのは咲耶のための称号だったのだから」
橘花は、しばし沈黙する。そこから先を、話すかどうか思案しているのだろう。
やがて、橘花は何かを思い切ったように、初瀬の顔を正面から見つめた。
「兄さんの推理は、半分は正しいけど、そもそも出発点が違うと思うの。お父様の妻として入内した当時の咲耶を知る人は、彼女が十歳程度の幼女に見えたというわ。それは見まちがいだということになっているけど、もし彼女が見かけどおりの年齢だったとしたら、ちょうど勘定が合う人物がいるでしょう」
「八花内親王の娘か。しかし、それでは……」
桜はいったい誰なのだ、と言いかけて、初瀬は愕然とした。
行き場がなく、無理な解釈をこじつけた情報の断片が、すべてぴたりと収まる明確な答えがそこにあった。
「そうか、そういうことか。だが、信じられない……そんなことが」
橘花は、憂いを含んだ表情で、静かに話を続けた。
「お父様が大津宮を建造したのも、賀茂斎院を復活させたのも、すべては彼女のためだったのよ。どんなことをしてでも、お父様が守りたかった人。誰もがそうかもしれないと思いながら、誰もそれを口にできなかった人。八花内親王がお父様との不義密通によって懐妊し、世間の目を憚りながら産んだ娘。彼女の名前は、さくら。私たちの、いちばん上の姉よ」
初瀬は、杯の酒を煽った。
それでは、桜は……。
実の父親と結ばれて、そして、自分が生んだ息子とも結ばれたというのか。
喉を焼く酒の苦い味が、口に残った。
橘花も酒に口をつけたが、半分ほど飲み残して杯を置いた。
「でも、本当のところは、もう誰にもわからない。それにね……」
そして、遠くを見るような視線を妹背の桜に向けると、まるで誰かに言い聞かせるように言葉を継いだ。
「あの二人にとってそれは、どうでもいいことなのだと思う。風花兄さんと桜は、本当に愛し合っていたのよ。それが、ただひとつだけの真実なのだわ」
初瀬は、今夜の酒では酔えそうもないなと思った。
もし橘花の推理が正しければ、史書は間違いの上に嘘を糊塗したものになってしまう。
だが……。
たしかに、すべてを説明できる見立てではある。なのに、なにかが違う、と直感するのだ。俺も橘花も、絶望的に真実から遠のかされている。そんな気がした。
満月が雲間から姿を現し、その白い光が辺りを照らした。
初瀬の耳に、『未熟者どもが』と嗤う、父の声が聞こえたような気がした。
初瀬は、妹背の桜を見やった。
あの夜、衣通桜はそこにいた。まるで、天女か花神のように。見たものすべてを魅了せずにいられない、魔性をその身にまとって。
初瀬もまた、一目でその虜になった。
しかし、見つめあう風花と桜の間には、何人も入り込む余地などないと理解できてしまったのだ。
だから、身を引いた。それだけのことだ。
そして、その代わりに俺は……。
花冷えの夜風が、初瀬と橘花の間を吹きぬけた。
桜の花びらが一片舞ってきて、杯の酒にふわりと浮かんだ。
初瀬は、妹背の桜を見上げる艶やかな女の残像に語りかける。
「衣通桜、そなたはいったい……」
そのとき、初瀬の視界が真っ暗になった。
柔らかな掌が、初瀬の目をふさいでいた。
そして、まるで少女のような、その声がした。
「だぁれ、だ……」




