詩片の狭間 妖艶かつ直向きに 安寧へ誘う深き森の乙女 後編
幾度目の朝を迎えただろうか。
ダンダカの森の樹々達を、撫でる様に優しく陽光が照らす。
(良き朝である……。
此処は安寧と平和のみで満たされしなり……)
「あ、起きましたぁ?
朝餉、出来てますよ、さぁどうぞ!」
扇爪羅刹乙女は、朗らかな笑顔で料理を運んでくる。
あれから彼女の願いもあり、常に同衾して夜を明かしている。
「そ、そう言う事は、ね……。
きちんと『御陰之目合』の神議を経てからよ!
ちゃぁんとね、契りを結んでからが良いと、アタイそう想うの」
良く熟れた山桜の実の様に、顔中を朱に染めた彼女の宣言。
身体を重ね合わせない彼女に対し、一層強まり募る想い。
これで良い、そう想い廻らせ彼女を抱き寄せるラーマ。
「あっ……もう、そんなに熱い『想い』で抱かれたら……。
アタイも儀まで待てな……あぁっ!
だ、駄目よラーマさまぁっ……」
強く抱きしめられて求められる。
シュールパナカーは、言葉と裏腹に溢れる喜びを隠せない。
「……そなたと共に歩みて、世界を纏め上げるのも良きかもしれぬ」
嬉しそうでありながらも、苦しみに耐え兼ね、総てから心を閉ざしたラーマの退廃。
「アタイはね、とってもうれしいよ。
ラーマさまにね、こうやって想い籠めて力いっぱい抱き締めてもらえて……。
でも、ね、ラーマさま、とっても悲しそう……。
アタイといると……苦しいの?」
無垢なる想いで尋ねるシュールパナカーの心配。
「その様な事はない。
ただ、其方の美しき笑顔を観る度に……。
何ゆえか解らぬが、疼く想いありし。
ただそれだけなり」
解り兼ねるも、何らかを観じ取りしラーマの告白。
「……事ある度に、頬を撫でては吹き抜けてゆく風。
そして、先に追い祓った刻の、白き大猿を打ち据えた掌の感触……。
何ゆえかは解り兼ねるが……。
強く余の心を揺さぶりしなり」
シュールパナカーは意を決し、ラーマに尋ねる。
「あのね、一つ聴くけどね……。
ラーマさま、『清廉王女』さまのことは……もう良いの?」
その言葉を聴いた瞬間、ラーマの両の眼から止め処なく涙が流れ落ちる。
「シータ……!
何ゆえかは解らぬが……。
その名を聴きし傍から、流れ落つる涙が止まらぬ」
彼の言葉を聴いて愕然とするシュールパナカー。
彼女は、自身に並みならぬ権能が、知らずの内に備わっている事に気付く。
「そっかぁ……。
アタイ、なんかずるしていたんだね……。
ラーマさまが、自分の『想い』でアタイの事を好きになってくれた訳じゃ……。
そうじゃ、なかったんだね……」
躊躇いを涙へと流し、彼女はラーマをそっと押し退ける。
「あっはは、だめだよラーマさま!
だぁってあなたには、あなたには……。
シータさまって良い女いるんだもん……!
……っ……っ!」
必死で笑みを繕って伝えるシュールパナカーの吐露。
最後の方は……嗚咽に変わり最早言葉の体を成さずも、彼女は懸命に伝える。
「……森の外へ出てみて!
そのくらいアタイから離れたら……。
きっとね、何が大切なのか、想い……出せるよ……っ」
シュールパナカーは、咽びを堪えてそこまで伝えきると、耐え兼ねて背中を向けて泣き崩れる。
「森の外……。
しかしそなたを置いて離れるは……」
「エパタイッ《ばかぁっ》!
あ、あんたなんか、キライ、キライになったのよ今から!
お願いだから……っ、アタイ悲しいから……っ、だから……っ!」
彼女に出来得る精一杯のラーマの擁護。
泣きじゃくる彼女の背中越しに送る、最後の抱擁……。
「……有難き……。
何ゆえかは解り兼ねるが……そう想い抱きしなり」
振り向きざま平手に構える彼女。
ラーマは閉眼し静かに立ち尽くす。
唇に齎される柔らかな感触。
そして、籠められた言葉に尽くせぬ程の熱い想い……。
ラーマが再び眼を開けた刻……。
彼女の姿は幻のように消え去ってゆく。
(アタイも……ありがとうラーマさま……。
良い夢観れたよ……。
夢でも良いから、また逢おうね……。
本当はね、とってもとっても大好きだよ……)
最後に齎された、彼女の胸の内に宿る想念。
王としては過ちであったが、真寧なる想いの交歓であった……。
そう想いを廻らして、ラーマは彼女の余情を見つめる。
一度静かに閉眼し、しばらくして徐に眼を開き、意を決して背を向け歩み始める。
(……森の外に出た位で……。
一体何が変わると言うのであろうか……?)
そう想ってラーマが森から踏み出た瞬間……。
全身を包んでいた霞が晴れ渡り、陽光が天より降り注ぎ彼を照らす。
魂の底より劈き身体を貫く想い。
今まで行いし事が、克明に頭の内に黄泉還る。
「な、なんと愚かなり……!
あの白き大猿は……大猿は……!
そしてあろう事か清廉王女を忘れしとは……!
故のこの姿……まさに因果の帰結なり……」
頭の霞が晴れ渡り、自身の振る舞いに愕然とする。
そこへ彼目掛けて突進してくる白き大猿。
(ラーマ様!
良くぞお戻りになられました!)
何となくだが、大猿はとても嬉しそうな気がする。
「……恐らくはヴァナラ・ハヌマーンよ、すまぬ!
待たせたである……。
斯様な姿になりしも、『想念』直霊されん!」
大猿は畏まって片膝をついて跪く。
その姿に自責と感謝を抱いてラーマは大きく頷く。
「――『大いなる真理』よ!
此処に敬虔なる、忠義に篤き神威あり。
我が身命を賭して、彼に『神威之力』を、再び授け給え!!」
天を仰ぎ絶唱するラーマの祈願。
すると、彼の身体から「魔王」と翻った弥満之神威が
浮かび上がり、齎される神威之啓示。
「……我が『法乃理の顕現』、英雄王……。
この祈願成就せん後、其方は純然たる民衆へとその身を窶し、我がアヴァ・ターラより外れるが、構わぬのであるか……?」
己の魂の有り様……。
「直霊」を知り驚愕するも、力強い声でラーマは応える。
「……そうか、余は、あなた様のアヴァ・ターラでありしか……。
一向に構わぬ!
むしろ、斯様な事でこの忠臣の想いに応え得るならば、それ即ち僥倖なり!」
降り注がれる青蓮華の花吹雪。
「大いなる真理」より齎された利益により、ラーマが持ち得た権能が彼より引き剥がされ、再び崇高かつ清廉な神威へと、鮮やかに翻り直霊してゆく。
同時に身体を引き裂かんばかりに貫く、筆舌に尽くし難い激痛。
「ぐっぁぁあああっ!」
「眞理乃命脈」が逆流し、すべてが外へ流れ出てゆく。
身体中の血の管、経絡が、収穫されし作物の根の様に引き抜かれてゆく。
全身から紅の霧を噴き上げる凄絶なる光景。
眼にして思わず息を呑む大猿。
涙ながらに必死にラーマを抱きかかえ、悲痛な雄叫びを上げる。
(ラーマさまっ! 某の為等に斯様な辛苦など……!
何卒、何卒お止めくだされっ!!)
「あ、案ずるで……ない!
其処に……直霊せよ!
白猿之神威!!」
絶唱と共に吐き出される夥しい朱き滴。
それでもなお、ラーマは大猿へ微笑み返す。
そして満身創痍で立ち上がり、祈りを強行する。
「……良くぞ想い決めしなり。
それでこそ我がアヴァ・ターラなり……」
ラーマの頭の内に響く、弥満之神威からの最後の賞賛。
神魔翻りしラーマの神威が、ヴァナラ・ハヌマーンへと宿り直霊してゆく。
同時にラーマも魔王より元の姿に翻る。
だが同時に、途轍もなく大きな空隙が彼の内に広がってゆく。
そして、言い顕し様もない絶望的な喪失感に見舞われる。
彼に権能を注ぎ込まれし大猿は、観る間に神威の姿、ヴァナラ・ハヌマーンへと直霊される。
ヴィシュ=ヌの神威を譲り受け、今新たに産まれ直霊せんが如き凄まじい氣力が迸る。
「こ、これは……!
なんと! 英雄王様!
あなた様に宿りし真なる権能……。
そのすべてを某へと宿らせて下さりましたか!
筆舌に尽くし難き、身に余る光栄でございまする……!」
その姿を眼にして、ラーマは心底安堵を顕す。
よろけながらもヴァナラ・ハヌマーンの元へ歩み寄り、涙ながらに抱きしめる。
「すまぬ、すまぬ、本当にすまぬ!
余もまた……。
愚かに惑う一個の民衆なり!
この身より、恐らくは宿りし神威喪えど、我が想念は不滅なり!
この想い如何で、喪いし神威など……神威など……超えてみせよう!」
己への自責を籠め、紅い滴が落ちる程、拳を握り締めるラーマの決意。
「ラ、ラーマ様……!
然らば道すがらの露払いは某にお任せを!
あなた様より授かりしこの神威。
必ずやお役に立ててみせましょう!」
彼の齎すその言の葉一つ。
それだけで、見渡す限りが浄化の旋風により祓い清められてゆく。
その様を観て、ラーマは喜び露わに深く頷く。
「余は……。
神威ならぬ民として、己の過ちも罪も認め、背負わん。
その上で総てを超克せん事……。
此処に大いなる真理へと誓い奉らん!」
天を見据え高らかに宣言するラーマの誓願。
「そして……。
余に対し、真寧なる想いを寄せんとする『すべての者』。
その一切を護る為に遣う事も、此処にて重ねて誓わん!」
ラーマの想いの籠った誓いの絶唱。
響き渡る音声。
応える様に煌き瞬く虚空。
総てを喪った筈のラーマ。
一瞬だけだが、彼の髪が究極の霊力を顕す真輝銀に輝く。
「おぉ!
――授かりしこの『神威之力』。
我が王の、真寧なる想念徹さんが為に尽くす事……。
「大いなる真理」に対し、某も此処に誓いましょう!」
彼が「想い」で白銀に輝かせた髪に、希望を確信してヴァナラ・ハヌマーンは叫ぶ。
「いざ参ろう!
敬虔転輪聖王殿より『金剛法輪』を借り受け、遥かなる先の世へ!」
力強く宣言するラーマ。
一瞬だけ、ダンダカの森へ振り還り、募る想いと共に静かに見つめる。
(扇爪羅刹乙女よ……。
そなたに対するこの『想い』。
それは……そなたの権能によるものだけでは無きしなり。
故……余の胸の内にのみ、大切に抱きておきしなり……)
森が一瞬だけ嬉しそうに騒めくのを、ラーマだけが観じ取る。
(今度は想い揺れる事無く、其方の料理堪能せん事も……。
此処に密かに誓おう……。
直向きで無垢なれど……妖艶で離れ難き乙女よ……)
揺蕩う想い、惑う心、過ちを犯す様……。
それ等すべてを認めた上で、「善かれの想い」で歩む……。
それこそ、自由意思により己を磨いて征く事だと、ラーマは悟る。
「惑い、誤れど、再び歩み出せば……良いのであるな!」
ラーマは、確信を以って力強く不敵な笑みを浮かべる。
「恐らくは……。
完璧なる存在など、この地上にはおりませぬ故。
いえ、恐らくは遥か彼方、天の上であろうとも同様かと想われまする」
深々と頷くヴァナラ・ハヌマーンの相槌。
「余が彼の刻より戻るまで、シータの行方を探す事、頼みしなり!」
全てを聴かされて驚きを隠せないミチヒメ。
「ラーマお兄さま……。
まさか、お兄さまがそんな……。
そして今の話だと……。
今でもその扇爪羅刹乙女さんの事を……っ……」
言いかけたミチヒメの口を、ラーマはそっと掌で塞ぐ。
「其処は言の葉に顕せぬ事なり。
故……其方も、この可憐なる花弁より、言の葉を漏らさぬよう願いしなり」
目配せをして頭を下げるラーマ。
(そっか……そうよ、ね。
『想う』だけなら……誰も困らないものね……)
「解ったわラーマお兄さま。
これ『も』、ふたりだけの秘密ね……!」
目配せして微笑み返すミチヒメ。
彼女の笑顔の眩しさに呼び起こされる、森に住まいし清廉かつ妖艶な乙女の笑顔。
その胸の内を締め付ける愛おしさをラーマは想い還し、ミチヒメに重ね合わせて見つめてしまう……。
「……お兄さま?
乙女はね、『自分以外の誰かを想っている事』には……。
とっても聡いから……気を付けてね!」
少しだけ揶揄う様なミチヒメの笑顔。
ラーマはその眩しさに救われる想いを抱く。
(これも……胸の内に秘めておかねばならぬかもしれぬ、な……)
「なぁにお兄さまったら、だらしない顔して!」
「せんなき事なり。
案ずる事など……っ!」
今度はラーマが行動を止められる。
それは、想いの籠もったミチヒメの抱擁。
「何でも教えてね……。
わたしは……『わたしも』……。
お兄さまの総てを知っても……。
変わらず大好きでいられるから!」
ラーマの胸中を爽やかな風が吹き抜けてゆく。
途端、彼の心は、鎧を脱ぎ捨てた様に軽くなる。
「有難き……!
これならば如何なる者にも後れは取らないであろう。
雷鳥、いざ魔の島へ!」
王都を超えて更なる南、絆を深めた一行は、美しく朱に染める空を翔け抜け、ランカーを目指してゆく。




