詩片の狭間 妖艶かつ直向きに 安寧へ誘う深き森の乙女 中編
「ラーマさま、ラーマさま!
――これは!」
白猿之神威が眼にした、木に留められし書置き……。
それは、彼に絶望を齎すのに十分すぎる言の葉。
『敬虔なる乙女の施しを受けに、彼女の館にて夜を明かすなり』
「な、な、なんて事を……!
ラーマ様は一体どうなさられたと言うのでありまするか!」
王の婚姻。
それは、単なる男女の誓いではない。
國を安寧に導きし存在として、互いに掌を取り合いて生涯寄り添い合う事を、「大いなる真理」へと、「御陰之目合」により誓願する神儀である。
そこまで話すとミチヒメも一息つき、馨しい乳に掌を伸ばす。
「うん、我ながら美味しいわ……!
そう、『御陰之目合』はね、本当はそう言う『神儀』なのよ……。
わたしもね、喪われし國とは言え……王女だったわ。
だからなのよヤチホコくん……。
あの刻、あなたが祝詞を上げ始めたのを聴いて、わたしがあり得ない程狼狽したのは」
ヤチホコはそう言われて彼の刻を想い還す。
そして謝りながら苦笑いを浮かべる。
「……あの刻は、四獣王さま達を救わんが為必死でしたからね……すみません」
ミチヒメは軽く横に首を振る。
彼を見つめる優しげな眼差しに、募る想いを籠めて漏らすミチヒメの吐息。
「良いわ……。
赦してあげる……。
今度、ちゃんと……ううん、なんでもないわ!
続き、話すわね……」
ミチヒメが少々慌てながらも語り始めた先……。
それは、扇爪羅刹乙女の住まう館。
「斯様に素晴らしき館に住まいしとは。
流石は羅刹王の妹である、か」
荘厳かつ繊細な彫刻を施された支柱の立ち並ぶ大広間。
馨しき白檀をあしらった階梯の手摺り。
漂う伽羅の清廉な香り……。
「そんな事無いわよ。
気にしないで楽にして、ね?
あ、ラーマさまも王さまだから慣れているわよね!
どうする?
先に何か食する?
それとも湯浴みして穢れを落とす?」
余りに狼狽したラーマは、出された茶を一瞬吹いてしまう。
「よ、余は……独りで入る故、場所を教えてくれまいか?」
辛うじてそう応えると、底抜けに響き渡る扇爪羅刹乙女の笑い声。
「あっははっ!
もちろんよラーマさま!
だぁってあなた、清廉王女さまって良い女いるんでしょ?
あら、それともアタイの方が素敵に観えちゃった?
なぁんてね!
あっちよ、まっすぐ行って右手の方に在るわ、ごゆっくりどうぞ!」
屈託のない笑顔。
魂の奥底まで染み入り、神も魔も平伏させ魅了する美しい「神威之音声」……。
彼女を彩る一つ一つが、互いの知り得ぬ内に、ラーマの心を艶やかに染め上げてゆく……。
湯浴みを済ませ、大広間の食卓へ座る。
すると、軽く息を弾ませて彼女が近寄って来る。
「さぁどうぞ!
鶏醍醐煮と白麦乃窯焼よ!
とっても美味しいんだから!」
シュールパナカーは、得意満面の笑顔で料理を運んでくる。
「まさか、其方が作りしであるか、この料理」
大きく頷いて満面に咲かせる眩しい笑顔。
「もちろんよ!
だぁって、ここ、アタイしか住んでいないんだもん」
確かに他の使用人などの気配は一切ない。
しかし、「日隠れ闇憚る夜」となれば、魔なる者跋扈するこの森の中に於いて、乙女の独り住まいはあまりに危うきである。
「料理、実に素晴らしきなり!
明日への活力が満ち溢れしなり。
有難き……。
しかし、この森に於いて乙女の独り住まいはあまりに危うい。
今までも……無事でありし、か?」
料理の絶賛に対し何度も頷いてシュールパナカーは喜ぶ。
「ありがとう!
誰かに喜んでもらうのって久々だから、とってもうれしい!」
そして、不思議そうな面持ちを顕す。
「そうよね……なんでかな?
アタイも不思議なんだけど、何も寄ってこないわよ?
此処に来るのは……おこぼれを欲しがる猿くらいね」
一瞬何かが閃きそうになるも、またすぐに靄の中に埋もれて征く……。
一方、書置きに戦慄したヴァナラ・ハヌマーンは、ラーマの気配を探る。
「これは……森の奥……見つけましたぞ!」
彼は枝から枝へ飛ぶように駆け抜けてゆく。
「あそこでありまするか!」
すると、先ほどの様に、館が観えるも、一向に中へ進めない。
「またもや結界でありまするか!
然らば此度は全力を以って、風よ!!」
全力の風を拳に纏い、観えない結界を打ち据える。
「むう!
何と固きものでござりまするか……!
否、諦める訳になど参りませぬ!」
その後も幾度となく打ち据えしも、拳から紅き滴がしたたるのみ。
「これは……並ならぬものでありまするな……!
カム……これも揮う事叶いませぬか!
然らば……観之眼!」
ヴァナラ・ハヌマーンは、出来得る限りの霊力を集めて観えざる結界を探る。
「こ、これは……!
恐らくは……神威であろうと魔であろうと憚りしものなり!」
さらに深く注意深く探る。
「神威でも魔なる存在でも無き者ならば……潜りし事叶いまする……!
ならば……ならば……!
お気づき下され! 英雄王様!!」
彼の裂帛の気合の咆哮が、闇に染まる森中に響き渡る。
観る間に彼は、一匹の純白の大猿へと、神威を脱ぎ捨て堕ちて征く。
(これならば……!
――想った通りでございまする!
ラーマ様、今しばしお待ちを!)
館を目指し白き大猿はひた走る。
程無く辿り着いた館の庭園。
彼に気付いた扇爪羅刹乙女が扉を開ける。
「あら? あなた見かけないお猿さんね。
ちょうど良かったわ、これまだ温かいわよ、どうぞ」
彼女は遺っていた白麦乃窯焼を差し出す。
白き大猿はその馨しさに靡きそうになるも、歯を剥き出しにして吼える。
「ど、どうしたの?
いつも来る子達なら喜んで食べるのに……?」
(こやつ……!
何と言う逃れ難き波動でございまするか!
まさに神威之音声……!
まさかラーマ様は……既に魅了されしでありまするか!
ならば……この乙女……已む無きでござりまする! 覚悟!)
ヴァナラ・ハヌマーンは意を決し、シュールパナカーへ襲い掛かる。
「え? い、いやぁっ!」
不意の出来事に身動き取れず、彼女は悲鳴を上げる。
「危うき! こやつ何を!」
ラーマは想わず大猿を打ち据えてしまう。
翻り跪く様に座り込む大猿。
しかし、今のラーマの眼には、乙女に襲い掛かる凶悪な大猿にしか観えていない。
「ラーマさまもう大丈夫よ、ちょっと驚いただけだから、ね?」
観ると、先ほど跳び掛かられた際に少々引っ掻かれた様で、肩口に数本爪痕が腫れ上がり浮かんでいる。
その傷を観た瞬間、ラーマは弓を引き絞ろうとする。
だが、弓の弦は異様に硬く、如何なラーマでも引き絞れない。
「見逃す故去るが良い!」
ラーマは弓を振り回して威嚇して大猿を追い祓う。
(ラ、ラーマ様……!
常ならばこの『想い』伝わりましょうに……。
已む無きでござりまする!)
背に哀愁を漂わせ、白き大猿は去ってゆく……。
「大丈夫であるか、扇爪羅刹乙女よ」
少々痛みが疾るも、彼女はラーマへ笑顔で応える。
「平気よこれくらい。
でもね……ありがとうラーマさま……!
あんな事はじめてだったから、本当はすごく怖かったの!」
想わず抱きつく彼女。
その身体は恐怖に怯え小刻みに震えている。
「……案ずるでない。
今宵は万難を排し、傍にいるとしよう」
大きく息を吐いて震えが止まる。
見上げるは満面の笑顔。
「本当?
あぁ良かったぁっ!
とてもじゃないけど怖くて眠れないと想ったの……。
優しいね、ラーマさま」
シュールパナカーは、くろとりが囀り詠う音色を奏で、咲き誇る蓮華の如き清廉な笑顔を浮かべる。
かつてない程に鳴り響く……彼の胸の高鳴り。
それは、まさに危急を知らせる早鐘の如く。
「信じられぬ……斯様な程この胸は高まるものであったか……!」
震えの止まった彼女を、ラーマの方から抱きすくめてしまう。
「ラ、ラーマさま?
あぁ、ありがとう、でも、もう平気……あぁっ!」
気付いた刻には……。
ラーマは、彼女の潤んだ可憐な口元へと吸い寄せられていた……。
「――っ!
余、余は今一体何を!?
か、身体が……熱い!
うぐ、っぁぁあああっ!!」
静かに天より降り注ぐ漆黒の法雨。
それは、因果の帰結による堕天の証。
「ラ、ラーマさまぁっ!」
藻掻き苦しむ彼に対し、必死に寄り添うシュールパナカー。
彼の背に浮かび上がる弥満之神威の姿。
「な、なんて圧倒的な神威……!
そう、これがラーマさまの本神……。
ラーマさまは……この神威さまの『顕現』だったのね……!」
その神々しき姿が、天地を翻し変貌してゆく……。
一瞬「真輝銀」に煌いたラーマの髪は、観る間に漆黒を孕んだ真紅に染まり逝く。
「罪業の深さを顕す『蘇芳色』の髪……。
その色も素敵よ、ラーマさま……」
扇爪羅刹乙女は、その禍々しき深紅に想わず見惚れる。
噴き上がる氣力も、朱に塗れた深紅へと変貌してゆく。
静かに開かれし両眼が湛えるは……蘇芳に囲まれし黒銀の瞳。
「凄いわラーマさま!
うちのお兄さまみたいよ、その姿と気勢……。
大丈夫……。
アタイは……ラーマさまがどんな姿になっても、ずっと傍にいてあげるよ……」
混濁した意識の中。
静かに染み入るように侵蝕してくる彼女の囁き。
扇爪羅刹乙女は笑みを湛え、吸い付く様にラーマと身体を重ね合わせて寄り添う。
(……英雄王様……お労しや……!)
庭園の外で地面を叩き、両眼より止め処なく涙を流し響かせる音。
それは、大猿に身を窶したヴァナラ・ハヌマーンの慟哭。
その刻、天空より猛々しく響き渡る怒声。
それは、口調と裏腹に、何者からかの神威之啓示……。
「扇爪羅刹乙女よ、良くぞ成し遂げたな!
誉めてやろう。
褒美として、そいつはオマエの好きにして良いぞ!
『法乃理の顕現』だと?
英雄王ともあろうお方が……ざまぁねぇぜ!」
野卑な高笑いと共に、その気配は消え去ってゆく。
「その声は……『幻者』さま!?
アタイが一体……何をしたって言うの……?
ラーマさま……?
どうしてそうなったのかって……アタイ、全然わからないの。
ごめんね、いやなら謝るよ……。
でもね、アタイはこっちのラーマさまも素敵だと想うよ。
だってね、この姿ならアタイ、ずっと一緒に居られるもん!」
妖艶さを無自覚に孕ませる、驚くも喜び露わな扇爪羅刹乙女の甘美。
その刻、雷鳴が轟いて姿見に映し出される、堕天したラーマの変貌。
「こ、これが……余、である、のかぁっ……!
余は……余は……。
これではまさに魔なる王……!」
絶望に打ちひしがれ、力無く跪く。
その姿は、まさに堕天せし魔王。
傍に寄り添うは……無垢な笑みを湛え自分の総てを認めてくれる乙女。
「ずっと一緒だよ、ラーマさま……。
あのね、はじめて観た刻からね……。
アタイ……大好きになっちゃっていたみたい!」
彼女の純真無垢なる想いが、優しくラーマに絡み付いてゆく……。
(最早……この姿では……。
何を以て『英雄王』などと名乗れるであろうか……!
良い、例えどの様になろうとも……。
彼女ならば……余の傍にいてくれるであろう……。
ならば余は、『幸せ』と言えるのではあるまいか……)
静かに扇爪羅刹乙女を見つめる。
仄かに頬を染めて、両の掌を胸の前で組み、静かに眼を閉じる。
今度は己の想いを籠めて、ラーマは彼女の唇と重なり合った……。




