詩片の狭間 妖艶かつ直向きに 安寧へ誘う深き森の乙女 前編
陽光が齎す階梯に沿って、ゆるぎなく飛翔する天之鳥船・雷鳥。
その絶対の翼の揺籃の中、静かに漏らすラーマの吐露。
「余の不甲斐なさ、また一つ聴いてくれても良いであろうか……?」
いつになく自信無い素振りで口を開くラーマ。
ミチヒメは彼に対し微笑みを湛え、そっと小さな手で彼の逞しい掌を包む。
「あの森で、わたし達は互いにすべてを曝け出した魂の兄妹です。
『お兄さま』、あなたの『妹』であるわたしに、秘めし出来事、教えて欲しいわ……」
ラーマへの慈しみを籠めたミチヒメの哀願。
「忝き。
我が魂の妹 (いもうと)ミチヒメよ。
然らば聴いてくれ。
あれは余が絶望と共に我が難攻不落乃都城より逃げし刻……」
彼の刻のラーマの告白を想い還し、感慨深くミチヒメは語る。
「……本当にこの刻は驚いたわ。
まさかあの英雄王さまが清廉王女さま以外の乙女にあそこまで揺らぐなんて……。
あ、もう一杯、お代わり、入れて来るわね」
話すのを一刻止め、ミチヒメは新しい「馨しい乳」を注ぎにゆく。
「おまたせ。どう? お口に合うかしら?」
ヤチホコは徐に一口含む。
すると、彼女の籠められた想いと共に馨しい香り、芳醇な牛の乳の甘みが口腔内を満たしてゆく。
「この一杯も最高です、ミチヒメさん」
彼女は嬉しそうに、野山に咲き誇る山桜のような笑顔を咲かせ、ヤチホコの隣に座り身を寄せる。
「良かった!
そう言ってもらえると、本当にとっても嬉しい、わ……。
でね、この後……」
ミチヒメは軽く息を吸い込み、少しだけ声を潜めて続きを話し出す。
その出来事も、ダンダカの森で起きた事だと言う……。
語られ始める先程の続きの物語。
ハヌマーン、ラーマ、そしてミチヒメを乗せて音も無く軽快に飛翔する雷鳥の船内。
彼女は静かにラーマが語り出すのを待っている。
「……これから打ち明けし出来事は……
まさにそのダンダカの森にての事なり」
大きく息を吸い込み、静かにラーマは語り始める。
それは、彼が自身の王都を棄てた刻の事……。
燃え盛る漆黒の獄炎。
立ち昇る闇と悪しき煙。
飛び交う民衆の悲鳴。
身命を賭して道を切り拓く兵士達……。
「ならぬ!
決して余より先逝く事など……断じて……!」
ヴァナラ・ハヌマーンは、唇の端から紅い滴が流れ落ちるのも構わず、彼の掌を引いて混沌の中を飛ぶように駆け抜けて征く。
「後生でござりまする!
あなた様が遺りしならば、難攻不落乃都城も豊饒乃大地自体も、いつか必ず奪還叶いまする!」
「城には我が妻シータがまだ遺っておる!」
ラーマの絶叫に静かに彼は応える。
「……案ずる事はありませぬ……!
彼奴等の狙いは、清廉王女様が天啓之贈与として授かりし、『大凬』の氣力でございまする!
彼の者は、その『大凬』によりて、自身の内なる『虚空』目覚めさせんと目論んでいるのでございまする!」
奇しくも、羅刹王であるラーヴァナと掌を取り合い、この國を強襲せん存在もまた「虚空」の遣い手であると言う。
「……故の、すぐさま『輪を廻らせん』事はなき……で、あるか……」
必死に駆け抜けながらも、僅かに笑みを受かべヴァナラ・ハヌマーンは振り向く。
「……今はまず御身を。
何しろ彼奴等の背後に控えるは……。
『綴られし叙事詩』をも『書き換える』存在でござりまする。
故の今……。
あまりに多勢に無勢でござりまする。
今はシータ様が齎せし『神威之啓示』を第一に!」
ラーマの妻シータに齎された「神威之啓示」……。
それは……。
『遥かなる 先世に住まう乙女こそ
民の希望 聖乙女なり』……。
「しかし白猿之神威よ。
ただの民衆たる余が如何にして刻を超える事を……」
彼は力強い笑みを浮かべ応える。
「ご心配ありませぬ!
この森を北へ抜けし先に在る、『天地を貫きし叡智の聖塔』……。
その聖塔を要する國の王こそ、孤高の神威、『敬虔転輪聖王』様でござりまする」
ヴァナラ・ハヌマーンが言うには、彼の持つ「金剛法輪」。
その秘められし権能にて、遥かなる先世の聖塔と感応叶うならば……。
刻を超え征く「神威之力」を得られるらしい。
「ならば……。
民の為、そして我が愛すべき清廉王女の為……。
ヴァナラ・ハヌマーンよ、カニシカ殿の元へいざ参ろう!」
ヴァナラ・ハヌマーンは力強く頷き、王城を抜け森へ深く入ってゆく。
「……此処ならば追手も来ますまい。
すでにこの森は、『日隠れ闇憚る夜』に呑まれ闇の中でござりまする。
近くの集落より食を頂いて参りまする。
しばしお待ちあれ……」
音も無く姿を消した彼は、木々の上を跳ぶように駆け抜けて征く。
「……すべて喪いし、か……。
民も、城も、國も……シータさえも……」
刻が経つ程に、重く圧し掛かってくる喪失の事実。
ラーマは、近くの木に凭れ掛かり力無く蹲る。
暫く刻が流れただろうか……。
見渡す限りすでに「日隠れ闇憚る夜」の闇に覆われている……。
火を焚かねば……。
闇に巣食い跋扈する魔達が、容赦なく襲い掛かって来るであろう。
「……遅いであるな……」
ラーマは火を焚く事も忘れ、闇の中、ひたすら自国の最後を想い浮かべ浸っている。
(……すべてうまくいっていた……。
余には忠実なる兵士達と……最も信頼の置ける美しくも勇猛なる……?
……わ、解らぬ……?
確かに今、『最も信頼の置ける』……そう想いし筈。
それは一体……誰の事であろうか……?
そしてこの、あまりに兵士の少なき事……。
我が豊饒乃大地は、斯様な小国であったろうか……?)
湧き上がりし様々な疑問。
しかし今のラーマにそれらを紐解く術はない……。
「アタイが応えてあげても良いわよ……」
静かに顕れる漆黒の造影。それは魔の証。
「流石であるな。
今まさに掌をかける最良の刻である……。
名を申すが良い」
すると静かに慈愛之月光に照らされ顕れる、一人の乙女。
「……魔ではない……?
いや、まさに魔である、か……!」
妖艶さと清廉さを併せ持つ、得も言われぬ微笑を湛える乙女。
彼女は静かにラーマへと歩み寄る。
「アタイはね……扇爪羅刹乙女って言うの。
今は日隠れ闇憚る夜よ?
民衆が此処に居るのはとても危ないわ。
……還る処、無いの……?」
その潤いを湛えた艶やかで可憐な唇が奏でる音色は……。
あろう事か「神威之音声」。
彼女の口伝に奏でられし美しき旋律は、天上に住まう迦陵頻伽の囀り。
ラーマは想わず耳も心も傾けてしまう。
「……如何にも。
今しがた還る処喪いしなり……。
魔なる王、『羅刹王』に襲われ、すべてを喪いしなり」
聴くや否や扇爪羅刹乙女は両の掌で口を覆い驚き露わにする。
「そんな、まさか……!
アタイの『お兄さま』がそんな事をするなんて……!」
ラーマはその言葉を聴いて瞬時に我に還り、厳しい表情で弓を構える。
先の略奪と蹂躙の惨状を想い描き、彼は怒りを籠めて弓を引き絞る。
千の弦が折り重なるような、幾重にも鳴り響く音を奏で、弓は宿りし力を極限まで練り上げて征く……。
知らずの内に彼の眼に、熱き滴が浮かび上がる。
「……あやつの妹 (いもうと)であったか!
ならば乙女と言えど、許すまじ!」
シュールパナカーは、静かに両の掌を胸の前で組み、眼を閉じて跪く。
「……アタイは知らなかったけど……。
アンタの苦しみ、悲しみ、怒り……。
その執念……痛いほど伝わってくるわ。
良いわ。
アタイで良ければ……。
その『執念』振り翳してカタキ討ちの相手にしても……。
うん、良いわよ……。
アンタのその『執念』……。
とってもかっこいいもの……。
ホントはとっても怖いけど……でもね、ちょっとうれしい……」
ラーマの怒りが鎮め直霊されてゆく……。
(こやつ、本当に魔であるか……?
まさに……『聖乙女』の如き清廉なる想念!
それにこの佇まい……。
この世界に、斯様に身も心も美しき乙女が存在するとは……)
静かに弓を降ろしたラーマの苦笑。
「余の負けなり……。
今宵は其方の申す通り……。
民衆の身には危うき闇を去ろう。
そして、どこぞの民家に宿を頼むとしよう」
咲き誇るような笑顔を湛えた扇爪羅刹乙女の囁き。
「其れだったらアタイのお家へおいでよ!
ちょうど夕餉をする処だったから、一緒に食べよ!」
屈託のない笑顔、真っすぐな瞳。
粗野な言葉遣いであっても、いや、故に猶更観じる魂の気品。
(魔である……神威である……。
それすらも、『大いなる真理』の高みより見下ろすならば……。
他愛もなき事なのであろうか……)
とてもではないが、彼のラーヴァナの血族とは想い難い。
いや、彼も本来は筋をきちんと通す、「武を重んずる魔王」だと聴き及んでいる。
(黒幕と掌を取り合う……ではなく……。
『取り合わされし』……である、か……?)
いつまで待てども還らぬヴァナラ・ハヌマーンへ、羊皮紙に一筆認める。
木に小刀で留めた後、ラーマは彼女についてゆく事にする。
(羅刹王の真意……。
あるならば知り得し好機やもしれぬ。
そして如何様に鑑みても、この乙女、悪しき存在と想い得ぬ……)




