詩片の狭間 月下の誓い
祈りの間を辞した後、神殿の回廊をさらに進む。夜風は昼間の熱気を奪い去り、肌寒ささえ感じさせた。変わらず遠くで鳴り響く祭囃子は、どこか壊れた蓄音機のように時折旋律を乱し、耳元で囁く砂音と共に、世界の不確かさを強調している。
ヤチホコは、比武の参加者にあてがわれた、離れの入り口の外側に張り出している、板張りの縁に腰を下ろした。隣には、静かに夜空を見上げるスセリがいる。
「……ねぇ、ヤチ。あの空の欠けてる処……本当なら、何があったの?」
スセリが指差す先は、不自然なまでに深い闇が広がっていた。本来なら秋の四辺形が輝いているはずの場所だ。
「……あそこには、大きな四角い星の並びがあったのです。それを旅する刻の道導にしていました……」
「そうなんだ……。やっぱりヤチは、ボクの知らないことをたくさん知ってるんだね」
スセリは夜空の闇を眺め、膝を抱えて寂しげに微笑んだ。まるでいつか自分自身も吸い込まれてしまうのではないかという恐怖を抱いているように観えた。。
「大丈夫ですよ、スセリちゃん。僕が……必ず取り戻します」
ヤチホコは、彼女の細い肩に優しく手を置いた。その瞬間、昼間の「挨拶」の残滓か、それともヤチホコ自身の無意識か――吸い寄せられるように、スセリを強く抱きしめていた。
「……っ、ヤ、ヤチ?」
「ごめん、こうしていると、貴女はここにいる……それを確かな今として観じられますので」
スセリの身体から伝わる微かな鼓動、柔らかさ、生きている実感を伝えてくれる体温。それは管理者の計算式には決して顕れない、「生命の息吹」だ。スセリもまた、頬を染め少し照れながらも、ヤチホコの胸に顔を埋めた。静寂の中、二つの鼓動が優しく奏でる調べを、世界の崩落を伝える「砂の音」が引き裂く。……サラリ。腰かけた板張りの縁が、細かな粒子の感触に変わり、一瞬手が沈みかける――終わらせるものか。
「……ボクも。観じるよ、ヤチの音。すごく速く、強く……そして、あったかい」
「……相変わらず無自覚なのね、あなたは」
背後からかけられた、少し冷ややかながらどこか揶揄うような声に、二人は飛び退くように離れた。観ると月明りに照らされて、輝く深紅の髪をなびかせたミチヒメが立っていた。
「ミ、ミチヒメさん! いつからそこに……」
「ついさっきよ。あなたたちの『熱い想念』に当てられて寝苦しくなっただけ」
呆れたように肩をすくめると、ミチヒメはヤチホコの隣に無造作に腰を下ろした。スセリは山桜の実の様に顔を赤らめ、「何か飲み物を」と、逃げるように部屋の奥へ消えていった。
二人きりになると、ミチヒメは先程までの冗談めかした態度を消し、真剣な眼差しでヤチホコの「左手」を見遣る。
「ヤチホコ……くん。さっきの『貸し』、忘れてないわよね?」
「ええ、もちろん。……僕を立ち直らせてくれて、ありがとうございます」
「感謝なんていいわよ。ただ、これだけは言っておくわ。わたしの取り戻した平和を『嘘』だと言ったあいつら……ジェスターたちの想念は、絶対に許さない」
彼女の拳が、みしりと音を立てる。
「わたしの旅は、とても苦しかったわ。ラーマさまと観た景色も、流した血も、全部が本物よ。それを『謀り事』だなんて言葉で片付けさせるもんですか。……ヤチホコくん、あなたのその左手はきっと、『誤った理』を壊すためのモノよ。なら、わたしは、あなたがその権能振るう為の、『刻を造る』拳になってみせるわ」
ミチヒメはヤチホコの目を真っ直ぐに見据えた。
「明日から向かう『水の試練』。そこであなたが試されるのは、力じゃない。『自分は何者か』という理よ。躊躇えば、あの砂に呑まれる。……迷う暇があったら、わたしの背中を観て。わかった?」
「……はい。頼りにしています、ミチヒメさん」
ヤチホコが応えると、ミチヒメは僅かに口角を上げ、「……エパタイ(バカ)。少しは可愛げがあるじゃない」と呟き、立ち上がった。
去り際、彼女は一度だけ振り返り、消えゆく星座を見上げた。
「……星が消えても、夜が明けないわけじゃないわ。明日の朝、一番にここを発つわよ。準備しておきなさい。……観てて、ラーマさま……」
彼女の背中は、かつて世界を救った英雄としての誇りと、未だ癒えぬ孤独が混ざり合い、月の光よりも気高く、そしてどこか儚く観えた。




