第6倭 理解者と伝えられし詩
神殿へ続く道に沿い流れゆく小川。眺めながら進むその水面に、ヤチホコはたとえようのない違和感を抱き歩を止める。
透き通る清き水の流れ――それが躓くように「跳ねて」いる。
(……何ですか? 川が……コマ落ちして?)
流れる水が断続的に止まり、数舜先には数歩先へ「移動」している。川の意思に反し、世界がまるで精緻な絵巻であるかの様に――それも癇癪起こした子供に乱暴な捲られ方をしている様であった。
辺りには乾いた音が鳴り響く。例の不自然な亀裂が入るも、健気に修復しようとしては崩れていく音。冷酷な「砂の音」が間隙に耳元で無常に囁き続けていた。
聞こえる賑やかな祭りの囃子、愛おしい人々の営み――不意に『あの夢』が頭をよぎる。
(『前』以上に『この世界』の方が、民衆が、たまらなく愛おしい? まるで本当の……)
「着くわよ。気を引き締めなさい」
思考に耽っていたヤチホコを、ミチヒメの声が現実へ引き戻す。希望と幸福溢れる祭囃子と、絶望と焦燥の「砂時計の音」が折り重なる度に思わず胸が張り裂けそうになる。今も世界は削られている。
「……ヤチ? ボク達も一緒だよ、だから、ね」
スセリは優しく微笑んでヤチホコの両手を包み込んだ。そのまま、彼の腕から背中へと慈しみを籠めて掌を滑らせる。ミチヒメは不思議そうにその所作を見つめた。
「スセリそれは……挨拶の作法よ。あなたこんな刻にするの?」
「挨拶……? ボク、なんでかな、困ったヤチを観ると、ついこうしたくなっちゃうの」
戸惑って首を傾げるスセリの瞳の奥に一瞬、制服姿の「楓」の面影が折り重なる。
「なんにせよ、落ち着けるならそれで良いわ。刻は限られているもの」
(……自覚はないけど、きっと『楓』ちゃんが励ましてくれようと……そうだ、プレッシャーに負けている場合じゃない!)
ヤチホコは胸中で己を叱咤し、祈りの間前方の先導手の座を見据える。
暫くすると向津日霊女が顕れ、ゆるりと歩み寄って座に着き、四魂封じの拍手を打ち、深々と礼をしてからこちらを見遣る。
「ヤチホコや……貴方には聴こえているのでしょう。世界が砂となり、崩れ落ちゆく音が」
唇の端を噛み締め、拳を握り締めながらも冷静に努めヤチホコは応える。
「はい。昨日まではあったはずの――星々の煌きが闇に呑み込まれました。世界は壊されています」
向津日霊女深く頷き、その胸元に輝く八角形の鏡――丁寧に彫られた八卦の首飾りを握りしめた。ミチヒメはそれを観て表情が変わる。
(やはり伏犠さまより……!)
「わたくしも……貴方と等しき想念を抱いております。この身に刻まれし『真実』を無き事にされぬが故に」
困惑の表情でスセリが思わず問いかける。
「向津日霊女……いいえ、おかあさま、何故ボクも動けたのでしょう?」
スセリは自分も動けた事がかなり不可解だった。ヤチホコは空を遣う次なる神威の器。ミチヒメも、聞けば遥か刻を超え、後の神威、ラーマと共闘し、己を磨き上げてきた強者。対する自分は……氣力ならば、先のミケヒコの方がよほど上手。一体どうして……?
「スセリ、貴女は『虚ろなる無』を動かす息吹。息吹受け新たなる有を生み出す空たるヤチホコ。そしてミチヒメ、遠き刻にて磨かれし想念を以って定め覆し、今また新たなる『詩』綴りしモノの導き手。……あなた方は、須らく『この世の秩序定めしモノ』の調和を覆し、乱す『歪み(バグ)』なのです……」
「ボクがきっかけ……でも『歪み』って何の事なのですか?」
そのやり取りに、ヤチホコの「直感」が閃きと共に「論理」を紡ぐ。
彼女の遣う言葉、あの刻の中で己を護る八卦、世界の不自然な揺らぎ、散らばりし詩片が冷徹な結論を導いてゆく。
「向津日霊女さま……単刀直入に伺います。あのジェスターと、その背後にいるモノ……。彼らが行おうとしているのは『管理者の権限』による『世界の消去』なのですね?」
静けさが鳴り響く。ミチヒメが困惑の表情でいながら堪えている中、向津日霊女の唇が、微かに震えを帯びながら開かれる。
「……流石、彼の刻において『竜輝』であられた御方、左様でございます」
「む、向津日霊女さま? 今のヤチホコの妄言、意味ある事柄なのですか?」
ミチヒメは、向津日霊女が世迷い事と思しきヤチホコの言に、理解を示し応える様を観て動揺を露わにする。
「我が愛娘、古の世界救いし英雄よ、そなたが経験した事、それすら含むこの世の理を……己が意思でその手に治め動かす輩がいる……そう言う事である」
穏やかに、しかし切実に意宇国貴は横から諭すように伝える。
「おとうさま!? ま……まさかあの、わたし達が勝ち取った平和さえも!?」
ミチヒメは戦慄き、あの冒険の中で抱いた想念に亀裂が入り、瓦解して喪いそうになりながらも父を問い詰める。
「……ミチヒメよ、誇るべき愛しき娘よ。そなたの勝ち取りし平和は、真なり。民は安寧に暮らしたと今に伝い聞く。案ずる事はない」
いつになく優しく応える父の声を聞き、裏腹な真実を痛感してミチヒメは崩れ落ちる様に跪き項垂れてしまった。
「そんな……そんな事って……」
サラリ……また砂の落ちる音が囁く。
ミチヒメは溢れそうな熱い滴を必死でこらえながらも、自分の中で何かが大きく喪われていくのを観じていた。
「ミチヒメ、貴女もあの『因果』を超えし結果を齎した故、彼らに執拗に狙われる事になったのです。彼等は、『定められし筋書きを変えられること』を何より疎みます」
(まさに冷徹な『管理者』……か! そして)
「ミチヒメさん、あなたも以前に?」
「ええ……。わたしは、わたしの国の民衆の想念を抱き……でもそれさえも……なんて……」
壮絶な過去であった。そして完全なる采配の元、『ミチヒメの想いを完膚なきまでに叩き折る為』だけに行われた……結果からそう推測できる事件。絶望に打ちひしがれても、立ち向かい、抗い、はねのけ、研鑽の果てに手にしたのが今の彼女の強さであった。
(……『甘い』って言われる訳だ……。想念の重みが違い過ぎる。でも、今は……!)
「……ミチヒメさん」
項垂れるミチヒメの両手をヤチホコはありったけの慈しみを籠めて優しく握る。そしてそっと腕や背中へ掌を滑らせる。
「エパタイ(バカ)……それは挨拶の刻する事よ、しかも女の子の……」
そう言われても構わず続ける。そしてしっかりと抱きかかえる。
「な! なにをっ!?」
「ミチヒメさん、やはり、あなたのその強さは、見合うだけの艱難辛苦の故……ですが、今はまだ錬及ばずも……抱く想念はあなたと同じです! この奴国を、民衆を、世界すべてを絶対に喪わせはしません! 向津日霊女さま! 僕はこの終焉、絶対に止めたいです!」
「ヤチホコ……くん……! ひとつ……貸しにしておくわ」
ヤチホコは、優しく丁寧にミチヒメを下ろし、向津日霊女の方へ向き直る。
「良くぞ申しました、それでこそ、『世界を統べる者』の資質受け継ぎしモノです」
向津日霊女が応える。
「そは相反せしモノを繋ぎ、自由な想念を以って、管理されし論理(真か偽か)を打ち破るチカラでございます。世界は塗り潰されようとしています。これを打ち破らんモノこそ……」
(『真か偽か』……論理演算の事か!? 間違いない。何らかの形で現代知識を……しかも脳の性質を見抜くなんて――)
「我が愛すべき息子ヤチホコや……こちらへ」
全身をくまなく「診られた」後に呼び寄せられた。そして優しく抱きすくめられた。
「想念はわかりますが……そこまで独り気負わずとも……少々落ち着きてお聞きなさい」
全く腑に落ちないが、この世界においては向津日霊女が母親であった事を再認識させられた。
(……肌を触れ合わせると『安らぎのホルモン』が出て落ち着く。どう得たのかは解らないけど、その『知識』も持っている事を教えてくれたのか……)
「……明示するならば、わたくしは、この世を生み出し、真実を知り、自由へと挑んだ『根源神威』の系譜の一柱……として敗れたモノです。」
そう伝える向津日霊女の口元と、八卦の紋に触れる指先が、いつも常に完璧な神性を顕す日霊女たる、彼女らしからぬ微かな震えを帯びていた……。
『根源神威』……その言葉を聞いた刻、何かが脳裏をかすめ、刺さるような痛みといくつかの映像が閃光のように走った。
「痛っ! か、神威……だった? 確かに、今の貴女のその智慧、そしてあの錬の刻の不自然な強さ、神威と言われた方が納得できます。それが……い、一体、何故?」
理由を聞こうと思った途端動悸がして、舌ももつれたどたどしく尋ねた。犯してはならぬ禁忌に触れたかの様に。
「己がすべてに代えしとも、顕れんと欲す我らの希望が為の故……今はそれだけを伝えておきます……。さぁ、我が背ハヤスサノヲより授かりし詩を、貴方の魂に刻みゆきなさい」
(希望? そして『詩』?)
流れるような足捌きでオオトシが歩み寄り、上座の二人に相対し、深々と長揖する。
「……ヤチホコよ、スセリよ、まずはさきの比武見事でした。これより私が、我々の父である始祖須佐の王より賜った『緋徒乃詩』を授けます」
「……詩、ですか……?」
「ええ。『……オオトシよ、意味解かりかねるとも良い。音だけは一言一句違えずに、後に顕る空の遣い手に、必ずや口伝せよ』と。しかと魂に刻むが如くお聞きなさい。参ります」
オオトシは立ち上がって天を仰ぎ、合掌して厳かに唱え始めた。
「緋徒よ 此処の蓋 十六夜の緋徒よ 緋徒よ」
(緋徒……緋の眼の神威に連なるともがら……の詩、か。しかし……? なんか胸が締め付けられ……熱っ! 左手の封環が……熱い?)
「そしてその後、こう唱えなさい。『布留部、由良由良都、布留部』。覚えられましたか?」
「……はい、大丈夫です。向津日霊女さま、これは一体?」
ヤチホコが伺い見遣ると、彼女の八卦の首飾り周囲が歪み、例の亀裂が一瞬だけ翳める様に観えた。
「……。……。……どうやら、わたくしが覚えし事に……鍵がかけられているようです。神威の権能を喪いし今、これを外すことは、いかな八卦でも、叶い難しでした」
無念を静かに示す向津日霊女を観て、ヤチホコは身震いと共に寒気が走った。彼女ですら気付かぬうちに『管理』されてしまっている。今ここにいて自分が抱く想念さえももしかしたら……。
向津日霊女が、ヤチホコの手を強く握り伝える。
「ヤチホコ、貴方は自らの魂を、この『管理』の及ばぬ外へと逃がした。そして空の権能を有します。だからこそ、貴方は『歪み』として抗えるのです。全ての四氣王と契約し、空の権能を完成させなさい。さすれば、あの砂時計の理さえも覆せましょう」
そう聞いた途端、駆り立てられるかの様に向かおうとするヤチホコを、穏やかな声が制する。
「今日はもう夜も深まりし故、明朝出向くが良い。しばし祭りの賑わいにに身を任せ心緩ませるが良かろう」
(そうだった。こちらの『夜』は危険が多い。いくら僕等であっても)
「義父王、お心遣い感謝いたします。今宵は休ませていただきます」
「明日は私も同行いたしましょう。まずは比武の疲れもあるでしょう、ゆっくり休みさい」
丁重に長揖し、三人は祈りの間を後にした。神殿の外、遠く視えるは未だ続く祭りの宴。砂となり崩れゆく集落の壁。何事もなかったかのように笑顔で踊る民衆達。
美しく悲しき対比をヤチホコはしかと心に焼き付ける。
(この世界を、今そこにあるささやかな幸せを、管理者の思い通りになんてさせない。この左手で――護ってみせる!)
夜空を見上げれば、秋の星座がまた一つ闇に吞まれ消えていた。だが、裏腹な目に映る悲しき幸せの情景に、ヤチホコ、そして竜輝の胸に宿る「想念」は、かつて無い程、強い輝きを放ち始めていた。




