第22倭 前編 神智都に待ち受けし安寧への堕落
其之壱 流転を棄てし安寧の守護神
かつて世界中の智者が集い、真理を論じ数理の深淵を紐解いたと言う、理想之浄土。
国境を越え、足を踏み入れた瞬間、辺りを燻らせる紫煙と、鼻を突くような白檀の香りが出迎える。
「……何? この甘ったるい匂い。頭の奥が……痺れるみたいだよ」
違和感を観じ、雷鳥から降り立ったスセリが眉を顰め、新緑の風をはためかせるが、その風さえもこの空気の中では重く淀んでしまっている。
「明らかに変です。スセリちゃんすぐ戻って。まずは神智都の敬虔転輪聖王さまの下へ参りましょう!」
現在のヤチホコが、紅玉の神瞳を輝かせて祓わんとするも、緩やかにいなされる様に光が霧散する。
(恐らく……この煙には『敵意』が無い。だから祓えない、か……!)
国の東に位置する、学びと探求の中心地――神智都。
彼の「天地を貫きし叡智の聖塔」はそこに存在すると言う。
そこは、地上に存在するあらゆる叡智が齎された場所であり、神の叡智たる「智慧」へと昇華する処と聞く。
紫煙の霧の中、一行が城門を潜り、その先に広がり視界に飛び込んできたのは、予想だにしない黄金の静謐であった。
先に「他化自在天」が放った漆黒の稲妻は、この都の境界線で物理的に押しとどめられていた。
先ほどの紫煙も、残念そうに都を包む法理之城の外側に纏わりつく様に漂っている。
「ヤチホコ殿、あちらが中央の神殿。赴きて、現状を敬虔転輪聖王殿より拝聴致しましょう」
ヒメの声で見遣る先には、石造りの美しい列柱立ち並ぶ神殿が観えた。足を運び中央の間、玉座には、彼のスサノヲの如き幾万の刻を乗り超えた、歴戦の威厳を纏う、一柱の神威が鎮座していた。
『敬虔転輪聖王――カニシカ』
「……どうやら伏犠殿や、ヤチホコ殿の器の造り手、根源の国にて世界を護りしスサノヲ様同様……『記述の檻』より民を護りて幾万の刻を経た『絶対之楯』と言うべき存在と見受けられます」
ヒメが刮目して七絃に瞳を輝かせる。
「……あの方、全く瞬きをしていない!? 一体……?」
ミチヒメがその動作の異変に気付く。観ると彼は生きてはいるが、一つ処を凝視したまま刮目し続けている。
「……来たか。神謡者を顕さんとする、新たなる統治之神威よ」
幾千万の銅鐘が鳴り響くかの様な重層さで、身体を響かせ染み入る様な声色で、彼は語りかけて来た。
「其方の求めし『自由』と言う名の嵐、其は、余が幾万の刻を超えて護り抜きし、『理想之浄土』の、『永遠の安寧の停滞』を動かすに値するものであるか否か。此処に問う。善男子よ、傷つき、疲れ果てた、愛しくもか弱き衆生に、なおも『歩め』と、掌を引き鞭打たんとする事が、其方の想う『正義』であるか?」
其之弐 淫蕩の彼方に見果てぬ幻想 (ゆめ)
ヤチホコが、敬虔転輪聖王の問いに、想い廻らせ応えようとしたその刻。二柱の間、静かに音も無く……紫煙が燻り形を織り成してゆく。
それは、甘やかな芳香を漂わせる幸せの安息の氣力を纏う存在。
「アケィディア! どうしてこの王の結界の中へ!?」
驚くヤチホコに、アケィディアは微睡んだ目つきで穏やかな微笑を湛えて応える。
「私は……あなた達と闘う気なんて……ないわ……。そうよ……。無理に頑張る必要なんて……どこにもありはしないわ……。ただ、安寧の揺り籠に……すべて捧げ身を任せ……永劫の幸福を享受すると……いいわ」
アケィディアは、慈悲の聖母ともとれる表情で、ヤチホコを優しく抱きしめる。
彼女の背後から、やはり静かに二つの影が顕れ、優しく諭す。
「汝等も……常々他者を慮るばかり……。此度こそ、生きとし生けるものとしての本質、我が身を大事にする想いに委ねられよ。」
「貪食」のグーラが、オオトシとミケヒコに対し優しく諭す。
「己を護り愛せ。汝の存在のみが至高なり。すべては汝を生かす糧なり……『自己愛之炎』……!!」
重責より解き放ち、『我が身を愛す』想いの炎。若き王達が、その炎に捕らわれる。グーラの放った揺らめく黄金の焔は、彼らの責を担う想いに、何を差し置いても己を護らんとする記述を「焼き付け」た。
清廉なる守護神、オオトシの周囲に展開されていた、「浄化の深緑」は、汚泥を含んだ水の様に濁り、目に付く不快な黄金の光を放っている。
「私に何かあれば大倭乃国は終わります。さぁ、皆さん、私と共に参りましょう……『終わらない私』の礎になられて下さい……」
捉われし幻想の中、オオトシは部下や民を己の礎として取り込み、巨大な「自己」を形成してゆく……。
闘いに於いて常に先陣を切りしミケヒコも、目覚めし究極の「朱金の大焔」を、己が安寧の為だけに遣う様、「焼き付け」られてしまった。
「……みんな勝手にすればいい。オレは……オレだけを燈すこの火があれば、それで良い……」
万民の為に闘う「想念」は、「己にだけ向ける優しさ」へと堕ちてゆき、外なるすべてを拒み、微睡みの中に沈んでいった。
「わらわが与えしは……すべてのモノの内に秘めた理想の存在……。さぁ、流転より離れ、永久に安寧なる蜜月の日々を……」
「淫蕩」のルクスリアは、乙女達を甘美な幻想へと誘う。
「淫蕩たるわらわが命じます……全ての者へ望みの伴侶との安寧を……『縛愛幻炎』……!!」
優しく燻る薄紅色の煙が、乙女達の「献身」と「敬愛」を、「理想の幻像への執着」へと、その想いの芳香を「燻し換えて」ゆく……。
はためきを止めた翼――スセリ――
それを眼にした途端、スセリの新緑の大凬の翼は、そのはためきを完全に止めてしまう。観えるのは……参殿の日の頃の様に、いやそれ以前の、茶色がかった黒髪の、「闘う必要のないヤチホコ」であった。
彼女はその首に縋りつく。そして彼を怨嗟の念で縛り上げる。
そんな彼女を気にも留めず、ヤチホコは瞬きもせず、何もない虚空を微動だにせず見つめ続けている。
「どこにも行っちゃダメ。あの苛酷で残酷な天へなんて。――行かせないよ二度と。ねぇヤチ……ここにボクと二人、ずっとこのままで……永遠に一緒に居ようね……」
彼女は……ヤチホコの生長も未来も望んでいない。ただ、今のまま、自分だけを見つめてくれればそれで良かった。それはまさに、縛愛と言う名の凍り付いた檻。
銀光覆いし昏い雲――ミチヒメ――
「はぁっはぁっ……これであなたはもう闘えないわ! だからわたしが護ってあげる。そうよ、あなたは闘わなくていい。あなたを傷つける世界なんてどうでも良い。観て! わたしを! わたしが、わたしだけが……あなただけの聖域になってあげるわ……」
両手両足をへし折られ、寝床に縛り付けられたヤチホコに向かってミチヒメは吐露する。「聖女」としての神性も、「導き手」としての使命も、「英雄」としての矜持もかなぐり捨て、ただ自分だけが知るこの檻の中に、彼を世間から隔離して閉じ込めた。
「ゲンブ……! ふふっこれでもう出れないわ……! あぁずっと待ち焦がれていたわ、この刻を」
蕩けるような眼付きでヤチホコを見つめ、昏い悦びを湛えた微笑をミチヒメは浮かべ、衣を引き裂いて彼の胸に顔を埋めた。
しかし彼の瞳は、肌に触れあう感触を確かめる事すらなく、彼女の貪るさまをただただ映していた。
母なる大地への埋葬――キクリ――
「よしよし良い子ね坊や、アタシがずっと面倒観てあげる……わ……!」
首から下を、岩壁に閉じ込められた幼いヤチホコを抱きかかえるキクリ。
彼が吐き出そうと咳込もうと……甲斐甲斐しく乳を飲ませる。
乳を飲ませる彼女の胸元で、幼いヤチホコの瞳は、腐敗した湖沼の底の汚泥のように、暗く沈んで濁っていた。
「どう? 美味しいかしら? しっかり飲んで大きくなって欲しいわ」
窒息して痙攣する彼に気付かずに、なおも自身の豊饒を顕す部分を押し付けながら子守唄を歌う。
「眠れ……眠れ……永久に……アタシの胸の中で……誰にも渡さない……わ!」
波凪いだ大海――ミヅチ――
「ミヅチの水よ猛りて大海となれ! 『沖つ波』!!」
莫大な巨濤が、帆柱に括りつけられたヤチホコを強襲する。
一撃で溺れて失神し、物言わぬ彼に向かって誇らしげに自慢する。
「ねぇ凄いでしょ? ミヅチ、こんなに出来る様になりましたの……!」
反応がないヤチホコに、腹部が減り込むほどに水龍を突撃させる。
「ごぼぉぁっ! あ、あぅうっ……」
「起きましたかぁ? じゃぁもう一度ちゃんと観て欲しいですの、ミヅチがちゃんと出来る処を……」
溺れさせては回復して抱き締める……。
幾度も幾度も、ミヅチは褒められたい一心でヤチホコに披露した。
その様をヤチホコは、虚ろでくすんだ玻璃の玉のような眼差しで、視線を動かすことなく見つめ続けている。
「……動きませんの? 水龍……次はもっときつく当たって欲しいですの……! おにいさま、眠らないでミヅチを観て欲しいですの……」
崇拝から想愛へ――ヒメ――
ヒメの如意宝珠の七絃の輝きでさえ、「ヤチホコを求める根源的な渇望」に染まってゆく。
迸る雷光がヤチホコの胸を撃ち抜く。堪り兼ねて陰しく喀血を吐き出す。
「これがワラワの……想念の大きさでございます……いえ、まだまだこんなものではありませぬ。皆の前ゆえに、如何程我慢を強いられたのでしょうか……」
衣が裂け、撃ち抜かれた胸から激しく真紅を噴き出す彼に、全力の氣力を練り上げ、自神の霊力と直霊して練り上げる。
「ヤチホコ殿。……彼奴等の記述はワラワが詠い直霊いたします。ですからただ……ワラワの膝の上にて休まれて下さいまし……付与快癒呪……」
彼女の膝の上で、彼の瞳は、彼女の造り出した偽りの浄土の蒼穹を、ただ、鏡のように映し返しているだけであった。
その様なヤチホコの状態など一切意に介さず、神威の誇りが支配の欲望と目合い、自ら造り出した完璧なる浄土と言う箱庭の中、物言わず、動かぬ人形の如きヤチホコを慈しみ、愛で、随喜の涙を流しつつ、身体を重ねて徐に抱擁した。
其之参 独白せん魂の永久の抱擁
「みなさん! 戻ってきて下さい……! 目を、目を覚まし……」
優しく包み込むアケィディアの抱擁の腕の中、ヤチホコの意識は紫灰の泥沼――「霊的堕落」の底へと沈み込んでしまっていた。
幾千万の刻を、独り背負ってきた敬虔転輪聖王の「倦怠」の重き圧が、絆を断たれたヤチホコの魂を圧し潰してゆく……。
世界を詠い直霊し護らんと誓約した、「神謡者」としての「覚悟」が、「想い」が、一片、また一片と、散華し剥がれ落ちてゆく。
後に遺されたのは……ただの、あまりに脆弱な独りの少年、「竜輝」。
(……ああ……もう、良いのですね。……ほら……皆さんもきっと……あの方が……幸せ……そう、で……す……)
仲間たちそれぞれが、己の望む「幻想」に呑まれ、偽りの安寧へと堕ちていくのを、アケィディアの微睡みの抱擁の中、彼は……ただ観ている事しかできなかった。
緩やかに真輝銀の長髪が汚泥に塗れ、万象を見抜く筈の紅玉の神瞳から、自然する陽光が消え失せてゆく。
敬虔転輪聖王は、瞬き一つせず、その善男子想いが地に伏せ輝きを喪うさまを、刮目し続け見つめていた。
(……父上……いや、父さん……ごめんなさい。母上……母さん。僕は……救世之神威になんて……なれません……でし、た……)
「……辛いでしょう……痛かったでしょう……怖かったでしょう……? 良いのよ……もう……立たなくても。さぁ……此処で安らかに私と一緒……永久に微睡みましょう……幼子の様に……ねぇ『竜輝』……」
アケィディアの囁きが、ヤチホコの魂を優しく奥深く抱き包む。
統治之神威の境涯、流転之理、そして直霊する権能……。それらすべてが、アケィディアの齎す抱擁と、敬虔転輪聖王の背負いし倦怠に包み込まれ、遥か昔日の幻像の如く霞んでゆく。
そして今、静寂の微睡みの中、静かにヤチホコの瞳が、その帳を……静かに力無く降ろそうとしていた。
最後、誰にも聴き取れない程の、微かな銀色の一粒が堕ちる音だけを遺して……。
――続く――




