2-1 『檸檬のおばけ』の本名
「なあ、頼むわ。今回だけ!」
今月この光景を見るのは二度目である。つい先週相田が同じような格好をして僕に全く同じ頼みごとをしてきたばかりだ。今日の日直は黒瀬なのだが、今日という日に限って部活のミーティングがあるらしい。そしてまたしても次の授業は体育で、体育館の鍵係を任されているという訳だ。
黒瀬には世話になっているし、いつもなら二つ返事で了承するのだが、今回ばかりは気が重かった。前回あの場所で『檸檬のおばけ』に出会ったばかりだ。コンビニで痛手を負ったあの日から、僕はレモンの片鱗を見ることですら億劫になっていた。
僕が返事を渋っていると、黒瀬はやむを得ないといった様子である取引を持ち掛けてきた。
「じゃあ、こうしよ! 今度の球技大会、一回だけ俺が出番変わったるわ!」
随分と大きく出たものだ。僕はそれを聞くと、黒瀬の持っていた鍵をひったくった。
「乗った」
「よっしゃ! 覚えとけよ!」
彼は勝手に負け犬のような台詞を吐き捨てた後、大急ぎで教室を飛び出して行った。こんなにも野球に対してまっすぐで熱心な彼がなぜベンチなのか、未だに理解できない。人一倍声は出ているはずなのだが、どうやら野球は声でする競技ではないらしいというのが僕の見解だ。
あれから野良犬の目撃情報はない。いつ出るかも分からない野良犬のために、日直の仕事は増やされたままなのだろうか。そんな苦言を吐きつつも、こういったことは気を許した頃にまた再発するものだと自分に言い聞かした。
そうこうしている間に、僕は先週同様体育館の扉の前に立っている。扉に片耳を当てて、耳を澄ませた。犬の声も聞こえない。人間の声もだ。よし、誰もいない。僕は安心しきって、慣れた手つきで南京錠の鍵を開く。
もう用事は済んだ。教室へ戻ろう。そう思ったのに、なぜか僕の足は一向に向きを変えようとしない。まただ。見ろというのか、この中を。
全くもって気が進まないというのに、僕の右腕は既に体育館の扉に添えられている。僕は導かれるようにして、勢いよくその扉を開いた。
「あ、やっぱり君だ」
僕の予想は、見事に的中した。この前と同じ位置で、『檸檬のお化け』はそこに座っていた。以前と変わらず清涼感溢れる香りが体育館の中に充満している。そしてまたしてもコートの中に、いくつもの教科書を山積みにしているのだ。一体どういうつもりなのだろうか。
僕が何も言わずに彼女の様子を伺っていると、檸檬のおばけは求めていない答えを提示してきた。
「二階の一番右の窓、鍵壊れてんだよね」
僕は思わず言われた方向へと、顔を持ちあげていた。観客スペースの一角である、二階の窓だ。今は閉じられているが、あそこから侵入したとすれば、鍵が閉まっていたとしても彼女がここに居ることになんら不思議なことはない。不思議なことは――ないことはない。
――上ったというのか? あの位置まで? 落っこちたら、大変なことになるぞ!
僕は盛大な心の声をぶち撒けながら、万が一の光景を想像し軽い身震いをした。すると彼女は少しだけ目を細めて一冊の教科書を手に取る。
「君、同じクラスだよね」
そう言いながら彼女の華奢な指が教科書のページをなぞる。パリパリと紙が擦れる音が体育館内に響き渡った。僕は嘘をついても仕方がないので素直に頷いて答えた。
「名前、何て言うの?」
その質問には、あまり答えたくなかった。個人情報なので。そう言って断りたかったが、あいにくその度胸も持ち合わせてはいない。どうせ教えたところで今後関わることなどないだろう。根性の別れと奏して、彼女には本名を明かすことにした。
「青野来夢」
「――青のライム?」
何度か瞬きを繰り返した彼女は、はっきりとした口調で僕の名前を繰り返した。ああ、分かっている。どうせ変わった名前だなんて馬鹿にするつもりだろう。僕がいぶかしげな顔で見ていると、彼女はその口端を釣り上げてにんまりと笑った。
名前をいじられるのは小学生の頃からの鉄板ネタだ。高校に入ってからは苗字で呼ばれることの方が多くなり、僕の本名を知らない人の方が多いので笑われることは少なくなった。だがやはり自分の名前をいじられるのは気分がいいものではない。
僕が代わらず彼女に対して半ば睨みをきかしていると、彼女は勢いよく立ち上がった。そして大きな目をキラキラさせながら、前のめりにこちらへと迫り寄って来たのだ。
「ライム! 君、ライムって言うのね!」
思わず僕は上半身を、背中方向へとのけ反らせた。
――突然、なんなんだ?
どこかの映画で聞いたことのあるような言い方で、彼女は再び僕の名前を何度も呼んだ。何か言われる前に退席してやろうと顔を逸らした瞬間、彼女から衝撃の事実を告げられる。
「アタシ、清田れもんっていうの」
「え?」
思わず声が漏れてしまった。レモン? レモンって言ったのか? まさか、本当に?
僕は聞き間違いでないか確認しようと、先ほどの彼女のように相手の名前を何度か繰り返した。
「清田、レモン? レモン?」
「そう! アタシ、今凄く嬉しいの!」
彼女は舞台女優のように大げさな言葉と動きで感情を表現するように、その場でくるくると回り始めた。
「生まれて初めて出会ったの! 同じ柑橘類に!」
彼女はそう言うと、持っていた教科書を天高く放り投げていた。
――柑橘類じゃなくて、ほ乳類だよ。
僕の口から飛び出しかけた訂正の言葉は、本が地面にたたきつけられる音で遮られた。彼女は未だ明るい笑い声をあげながら、今度はほのかに暖かい日差しが差し込む床に、大の字になって転がっている。
清田れもん。まさか僕の勝手につけたあだ名が、その通りだったとは思わなかった。冗談ではなかろうかと彼女の放り投げた教科書を見てみると、そこには律義に彼女の名前が記されており、確かにその名前が書かれていた。
彼女はしばらく体育館に身をゆだねた後、おもむろに起き上がる。
「気に入ってる? その名前」
「え……」
咄嗟に好きだとは言い返せなかった。するとそれがそのまま彼女には答えと伝わったのか、僕の返事を待つ前に彼女は言葉をかぶせていた。
「アタシは好きよ。君の名前。だって可愛いもん」
可愛い。それは初めて言われた。男に対する誉め言葉とは少し違うのかもしれないが、僕はなぜだか無性に嬉しくなった。気持ちの高ぶりに後押しされるように、僕は無意識で言葉を発していた。まるで口が勝手に動いたようだった。
「僕も、レモンって名前、可愛いと思います」
その言葉に彼女は貶すでもなく笑うでもなく、ただただ安心したように、本当に小さな息を吐いた。
「そっか。ありがと」
ただの御礼の言葉だ。だが僕は、その言葉にどこか寂しさを覚えていた。まるで食べられず捨てられていく、檸檬の切れ端を見た。そんな気分だった。
キーンコーンカーンコーン
二人だけの静寂な空間を切り裂くように、チャイムが体育館全体に鳴り響いた。休憩が終わる合図だ。あと五分程したならば、ここに多くの生徒達がなだれ込んでくるだろう。僕も早々に体操着へ着替え、授業の準備をしなくては。
「いっけなーい。長居しちゃった」
彼女は取って付けたようにそう言うと、素早く鞄の中に教科書を押し込み始めた。
――君もクラスメイトなのだから、ここにいたって何の問題もないんだよ。
そんな気の利いた言葉が僕の口から発せられることなどなく、彼女は背中を丸めながら僕の隣を通り抜けて行った。
本当は、問い詰めたいことが沢山あった。なぜ学校に来ているのに、教室には姿を見せないのか。いつも体育館で何をしているのか。教科書を山積みにしている真の目的は。
だが僕は一番どうでもいいと思っていた言葉を、彼女の背中に問いかけた。
「進路の紙、もう出した?」
すると彼女は駆け出す足を止めて、その場に立ち止まった。そしてゆっくりと、僕の方を振り返る。先ほどまでのあどけなさはそこにはない。刺されるような鋭い眼光で睨まれて、思わず何を言われるのだろうかと身構えた。
「ウルサイな。自由な君とは違うのさ」
彼女は長い舌を突き出して、全力の『あっかんべー』をしてきたのだった。
それだけを言い残すと、彼女は逃げるようにその場を走り去って行く。だんだんと薄れていく檸檬の香りに、僕は空を見るように高い天井を仰いだ。彼女の残した言葉を繰り返し脳内で再生し続けていると、体育館にバレー部員が駆け込んできて我に返った。
僕は大慌て体育館から飛び出すと、丁度男子更衣室の前で黒瀬と鉢合わせた。
「ちょうどえかった。体育やのに、着替え忘れてどないすんねん」
黒瀬が気を利かせて、体操着を持って来てくれたのだ。これで遅刻をせずに済んだ。鍵当番の引き換えで獲得した、球技大会での交代権を相殺されることになるかと思ったが、心の広い黒瀬は何一つ言及して来なかった。
「なあ、青野。黄色いおばけおった?」
体操服から丸い頭を出しながら、彼は軽い口調で僕へ問いかける。少しだけ間を置くと、黒瀬の顔を見ることなく口先だけで答えた。
「いなかったよ。どこにも」
僕は着替えを放り込んだロッカーの扉を、音をたてぬように閉じた。




