1-6 『檸檬のおばけ』の正体
それから一週間ほど経過した、五月半ばのことだった。今日は僕にとって、とんでもない凶日である。なんたって、二ヶ月に一度回ってくる日直の日なのだ。黒板の端にはでかでかとした文字で『青野』と刻まれている。ただでさえ出席番号が二番目でひやひやしているというのに。ちなみに、僕の前には相田がいる。
「という訳でさ、俺昼行かないといけねえから。体育館の鍵開け、頼んでいい?」
同日日直となった相田から、先ほど告げられた言葉だ。彼は運動神経抜群で愛想もいい。まさにクラスの人気者といった人間で、どこからも引っ張りだこなのだ。
彼が駆り出される代わりに周ってくる日直業は、決まって影の薄い僕の仕事だ。だからと言ってなんでも引き受ける訳にもいかないのだが、相田はそれを見越してか僕の最も苦手とする職員室に鍵を借りに行くという一大イベントを代わりにこなしていた。さらにはこうしてこれ見よがしに、机の上に差し出されている状況なのだ。ここまでされておいて、つっけんどんに扱う訳にはいかない。
僕は無言で頷いて答えると、相田は地蔵を前にしているのかと思う程に両手を合わせ、深くお辞儀し拝んで見せた。全く、人の機嫌を取るのが上手い奴である。
元々開きっぱなしの体育館扉だったが、一度休憩中に野良犬が入り込んだとかで鍵が閉められるようになった。次の授業が体育の場合、昼休憩中に鍵を開くのが日直の仕事の一つだ。
茶色の毛、少し折れ曲がった耳、右足だけ靴下を履いているような白い足。ちなみに日直が体育館前でその野良犬に遭遇したらどうすればいいのか、については教えてもらっていない。対策が打たれているようで、打たれていない無駄とも思われる作業。しかし学校の決まりだからと言われれば、生徒は安易に断ることが出来ないのだ。学生とは不憫な生き物である。
そして僕は今日、その体育館で出会うはずのない存在と鉢合わせすることとなるのである。
棟の離れた体育館へとつながる渡り廊下を進む。もう少ししたら、全校参加の球技大会が行われる予定だ。こういう時、なぜか決まってバレーボールなことが多い。どんなスポーツであれ苦手なことに変わりないが、バレーボール独特の隣の人との間にボールが飛んできた時の『お任せします』感が僕は苦手だ。取りに行こうと前のめりになると遭遇し、結局どちらもボールを取らないということが発生する。それにバレーボール部の一人が声を荒げて、
「どっちでもいいから、取りに行けよ!」
と言ってくる。なので最初から僕は取らないことに決めている。棒人間のようにそこに立ち、ただローテーションで自分が抜ける番を今か今かと待ち望んでいるのである。それ故に好成績を狙っているバレー部員からは嫌煙されているため、僕の属するチームは初戦敗退で終わるだろう。頼むからトーナメント戦であってくれと、心の底から願っている。
そんなことを考えている間に、体育館の扉の前へとたどり着いた。扉を閉めている簡易的な鍵の上に、さらなる重厚な南京錠がかけられている。僕は相田から受け継いだ鍵を手に取ると、南京錠の中へと差し込んだ。金属同士がぶつかる音と同時に、分厚い錠が開く音がした。
「あ」
その音に合わせて、何者かの声が聞こえた。まさか、本当に野良犬が迷い込んでいたというのだろうか。しかし、思い起こすと、どうやらそれは『ワン』ではないようだった。
確かにあれは、人の声だ。僕は慌てて周囲を見渡した。誰か来たのだろうかと思ったが、周りに人影はない。だとしたら体育館の中から? きっちり鍵も閉めているというのに、そんなことはあり得るのだろうか。閉じ込められた生徒か。はたまた――幽霊か。学校の怪談にありがちな体育館倉庫に出て来るおばけだろうか。
まさか、そんな、まさかだ。檸檬のおばけに引き続き、学校の怪談だって? たまったもんじゃない!
僕は顔をしかめながら、南京錠を鍵入れの箱へと放り込んだ。
日直の仕事は鍵を開けるだけで、中まで確認する必要はない。さあ、もう戻ろう。何も知らなかったことにするのだ。
僕は一歩踏み出して、完全にその場に硬直してしまった。それは金縛りのように動けなくなったからではない。己の好奇心に負けてしまったのだ。
見るな、見るなと言われれば、無性に見たくなるもの。鶴の恩返しに出て来る主人公になったつもりで、僕は中を覗き見ることにしたのであった。
扉の方へ振り返ると、出来るだけ物音を立てないようにゆっくりと忍び寄った。一呼吸入れた後、古びた扉に手をかける。心臓がものすごいスピードで脈打っている。この扉を開いた先に、見えてはいけないものが立っていたらどうしようか。もしかしたら、あの超おんぼろアパートにいた幽霊が、そこにいたりして。
そう考えていると、あれほど興味津々で追いかけていた物体がものすごく恐ろしいものに思えて来た。まさか仕返しではなかろうか。仕返しって、僕は何も恨まれることはしていないのだが。立ち入っただけで、癪に障ったのかもしれない。心霊スポットに立ち入る人間を毛嫌いするような感じで、訪れただけで目を付けられたとか。
やっぱり行くんじゃなかったな、あんな所。
勝手な被害妄想による自己嫌悪に陥りながら、僕は意を決し扉をスライドさせた。横開きの扉が数センチ開いて、僕はその隙間から中を覗き込む。その隙間から見えたのは――。
幽霊ではなかった。けれど、異様なものに違いはなかった。
明らかな有機物。大量の教科書の山が、そこにはあった。しかもそれは、見覚えのある絵柄ばかり。自分と同じ学年が使っているものだと、すぐに気が付いた。
なぜこんなところに。誰かの置き忘れだろうか。
ここは運動をする場所であって、滅多と教科書が陳列されることなどない。あるとするならば、入学説明会の際に教科書購入で用意されているくらいか。
そう思いながらさらに数センチ開き、扉は既に頭一つ分押し込むことが出来る程度には開いていた。息を殺したままゆっくりと顔を隙間に押し込み、体育館内を見渡してみる。教科書の山の他に、古い尽くされたスクールバックが置き去りにされている。一体いつから使っているのか、底は擦り切れて十円玉程度の穴が空いていた。他にも気になる場所を見渡してみたが、人らしきものは発見できない。そこで僕は、ひとつの真実にたどり着く。
――ああ、やっぱりおばけじゃないか。
そう、その体育館に残るほのかな香りを感じ取ってしまったのだ。いつもの古臭い埃交じりの匂いではなく、清涼感溢れるあの香りを。口の中が唾液で満たされるあの果実を彷彿とさせる匂いが、かすかにその場に残っていた。そう、僕はコレを知っている。
ついに、本物が来たぞ。
とことん誘われ続けた僕だ。もうこうなったら後戻りなど出来ない。こうなったら全ての真実を解き明かすまで、ここを離れないぞ!
突然名探偵になったつもりになって、その場に残された証拠品へと忍び足で近づいて行った。素手で触って大丈夫だろうか、なんて可笑しな不安まで抱きながら、残されたままの教科書に触れようとした。その時だった。
「なあんだ、ビックリした」
「――っ!」
突如人の声が聞こえた。僕は伸ばしていた手を慌てて引っ込める。
――ビックリしただと? それは、こっちの台詞だ!
心の中でだけ壮大な叫び声をあげた僕は高鳴る鼓動を抑えつつ、声のした方へと視線を投げた。今の声は間違いなく僕が幽霊だと勘繰っていた相手の声に違いない。人間を驚かせる幽霊が驚いていては元も子もないのだが、つまるところ相手は幽霊ではないらしい。
僕は生きている人間に大いに化かされたという訳だ。よく祖母が言っていた。『生きている人間が一番怖いのだ』と。いやそれはまた別の話だ。また今度にする。
「先生かと思っちゃった」
声の主は、分厚い遮光カーテンの隙間から顔を覗かせた。
「……っ」
声には出なかったが、僕はその日三度に渡る大きな衝撃を受けていた。一度目は体育館扉の前で、二度目は幽霊の声が聞こえた時。どちらも背筋を凍らせるような戦慄に近かったのだが、三度目はどちらかといえば興奮という言葉がしっくりときた。
二つに結った長い黄色の髪の毛を揺らしながら、彼女は現れた。同じ制服ということは、少なくともここの生徒に関わり合いがあるのだろう。生徒そのものなのかもしれない。以前嗅いだことのある清涼感溢れる香りがどんどんとこちらに迫って来た。僕はこみあげてきた唾液を飲み込みながら、彼女をじっと見つめる。
『檸檬のお化け』の正体は、同じ学校の女子高生だった。だがあまりにも学生らしくない異質な姿は、人を化かすという意味でお化けでも違いないかもしれないと、その時の僕は勝手に解釈していた。
彼女は置き去りにしていた荷物の元へ戻り、積み上げていた教科書を鞄の中へと押し込んでいく。その様子を黙ってみていると、彼女はふと何かに気が付いた様子で僕の方を振り返った。
「ねえ、これ入れてくれたの、君?」
彼女は鞄の中から一枚の紙を取り出した。それは何枚かに綴られたプリントの表紙を飾っていた、見たくもなかったあの紙だ。四角い枠の中には、いまだ何も書かれていない。
僕は嘘をついても仕方がないので、正直に頷いて返事をした。
「そっか、ありがと」
彼女の軽いお礼を最後に、話は終わった。『檸檬のお化け』はスクールバックを背中に背負うと、堂々と開いた扉から外へ出て、そのまま姿を消したのだった。
「何? レモンイエローの髪の毛をした女の子?」
突然何を言い出すのだと思うだろう。おそらく黒瀬も全く同じことを思った。今彼が発した言葉は、僕が彼に問いかけた言葉そのものだからだ。
「その子が体育館にいたって?」
「うん」
「昼間の誰もいない体育館に?」
「うん」
黒瀬は入念に確認するように何度も同じ質問を繰り返した。今は体育の授業中である。球技大会に向けてバレーボールの練習真っ盛りだ。ローテーションの順番待ちの間に、黒瀬につい先ほどあったことを報告した。黒瀬は人当たりがいいので、友達も多い。もしかしたら彼女のことも知っているのではないかと思ったのだ。すると黒瀬はとんでもないことを言いだした。
「それな、幽霊やで」
「え?」
僕は眉間に深いしわを寄せて黒瀬の顔を見た。対する黒瀬はいたって真剣な眼差しで話している。
「この学校からバスに乗って西方向に進むと、桜が咲いとる土手が見えて来るやろ。そこを過ぎたあたりに公園があんねん。コンビニの近くやで。その先にな、ふっるいアパートがあって。そこにな、出んねんて。黄色い幽霊!」
黄色い幽霊。イコール『檸檬のお化け』だ。彼女が超おんぼろアパートに出没することは既に把握済みである。その決定的な証拠の紙きれを、僕の目の前に差し出して来たのだから。
僕はそういう事を聞きたかったのではないと、真面目に返事をした。
「からかわないでよ。清田さんのアパートでしょ」
僕がそう言うと、黒瀬は坊主頭を掻きながら舌を出し、照れた様子で笑って見せた。
「なんや、知っとんやったら最初からそう言えや」
そう、『檸檬のおばけ』のは、クラスメイトの清田という女子生徒だった。幽霊が出そうなアパートから本物のおばけが登場するとは、何のひねりもない展開である。僕が勝手におばけ呼ばわりしているだけなのだが、偶然というものは必然に重なるものである。
どうやら黒瀬は彼女のことを知っているらしく、別に促した訳ではないが饒舌に話し始めた。
「清田はな、見た目通りの不良生徒や。なかなかおらんやろ、あんな頭。染めて来いゆうても全然直さへんし、いよいよ学校にも来うへんようになってしもた。なんでも学校来ずに、知らんオッサンとホテル行って金もろうとるとか」
黒瀬の言葉に、以前盗み聞きした女子の噂話を思い出す。
「へえ、彼女が」
僕は知らなかったふりをして、淡白な返事をした。彼女の行っていることがどういう事だか理解はしているつもりだ。だからこそ生々しい光景を想像しないように、極力話を膨らまさない配慮をしたのだった。年頃の男子というのはこういった内容に興味を抱きやすいものである。しかしながらもっぱら僕には無縁の話なので、深い話になるととことんついていけない。
一部からは僕が同性愛者なのではと騒がれているが、話しについていけないのは僕が男の子を好きだからではないことは改めて公言しておく。未経験の領域に容易く足を踏み入れ、なんとなくその流れに身を投じてしまうことが嫌だからだ。
僕がその話に興味を示していないことを察してか、黒瀬はすぐさま違う噂話を引っ張り出して来た。
「そう言えば、危ない連中とつるんどるって話もあんねんて。どっかの組の男が彼氏で、それ繋がりだとかって。喧嘩売ると全部の指持っていかれるらしいで」
「指って……。何で勝手にけじめ付けられるんだよ」
そのツッコミに関して、黒瀬からの返答はなかった。ちょうど良くローテーションが回って来て、黒瀬は僕へ言葉の続きを告げることなくコートの中へと入って行ってしまったからだ。
彼女の荷物が置かれていた場所には今、太いポールが立てられ、空間を横断するように網目状のネットが引かれていた。暖かな西日が差し込む僕たちのコートと、人工的な蛍光灯に照らされる彼女が隠れていた場所。ネットを挟んだ両サイドでは、住んでいる世界が違う。そんな風にも見えた。




