1-3 心霊アパートにお邪魔します
放課後。僕は担任に言われた通り、お使いを実行することにした。というよりも、せざるを得なかった。やっぱり行きませんでした、なんて突き返す度胸など元から持ち合わせてはいないし、よく考えれば行きたくない理由もない。なぜ僕がという疑問はあったが、どうせ誰かがすることだ。ここは恩を売っておく。
しかし、そのお節介もここまでだ。担任から教えてもらった清田という人物の住所を聞いて、僕は驚愕した。なんと、あの超おんぼろアパートの一室だったのだ! (僕の家がおんぼろアパートなので“超”おんぼろアパートと呼ぶことにする。)
超おんぼろアパートを目の前にして、僕は足がすくんだ。ここに入ることを知っていたのなら、あの時素直に受け取ったりはしなかったのに。覆水盆に返らずとはこのことか。
僕は意を決し、折れぬようにと鞄の一番上に乗せておいたプリント類を取り出した。その一枚目には思わず目を覆いたくなる、あの額縁が彩られた白紙の用紙が綴じられていた。
清田というクラスメイト、同じクラスになってから一度も姿を現していない。後から確認すると教室の端に机だけは置かれていたので、確かにクラスメイトであるに違いはなかった。病気か不登校か。理由は定かではないが、このまま学校に来られないとなるとどうなるのだろうか。進路なんてのんきなことを言っていられないのかもしれない。
そんなことより、自分の進路のことを考えろよ、バーカ。
突然の暴言を目の前の進路用紙から告げられた気がして、僕は慌ててプリントの束から顔を逸らした。結局のところは他人事である。
さすがにコンクリート製だったので床が軋むことはなかったが、虫の死骸や蜘蛛の巣だらけで階段を上ることに五分程躊躇した。しかし目的地は二階なので、しぶしぶ階段に足を踏み入れざるを得ない。風で軋む非常階段でないだけありがたいではないかと、なんとか自分を言い聞かせた。
そんなことで恐怖の片鱗から意識を逸らし、僕はようやく目的の部屋の前へとたどり着いた。表札はかすれていてほとんど読めないが、なんとなく『清田』に見えるので間違いないだろう。担任に教えてもらった部屋番号も一致している。
まずは、インターホンを押すべきか。『友達が届けてくれた』という事実を残すためには、やはり直接渡すべきだろう。正直誰にも会いたくないし話もしたくなかったが、しぶしぶインターホンへと手を伸ばした。人差し指がインターホンに触れる寸前、僕はそのまま押し込むことが出来ずにいた。指先が震えていた。一度気持ちを持ち直そうと、インターホンから手を離す。
そっと扉の前で、耳を澄ませてみた。物音一つ聞こえない。まだ外は明るいと言えど、そろそろ日も暮れて来る頃だ。灯りがつく家も、ちらほらあった。その二つのことから考察した結果、導き出された答えはつまり、誰もいないということだ。
誰もいないのならば、仕方がない。僕はきちんと使命を果たそうとしたのだ。後でなぜ会って来なかったのだと、文句を言われる筋合いはなくなった。
といえどもやるべきことはきちんとしておかなければならないので、次こそは素直にインターホンを押すことにした。躊躇していてはいつまで経ってもこのお化け屋敷から抜けられない気がして、思い切って震える指を奥まで一息に押し込んだ。
だがその感覚はあまりにも軽い。カチカチと押す感覚はあるものの、その音が実際に家の中で響いているのかは不明だった。壊れているのかもしれない。だがあいにく扉をノックするまでの勇気は持ち合わせていなかったので、鳴っていたが誰も出てこなかったということにする。
僕はプリントを押し込むためのポストを探した。本当はここに来た時点でポストの存在には気が付いていたが、あえて探したのだ。扉についている小口なポストは、僕がここにたどり着いた時点でとてつもない存在感を放っていた。これ以上入れられる隙間もない程に、様々な封筒が押し込まれている。その封筒に刻まれた『請求』の文字から視線を外し、それが何の手紙なのかはあえて考えないようにした。
扉の近くに他のポストはないかと見渡してみたが、薄汚れた排気口と古びた電気メーターがあるくらいで、それらしいものは何もなかった。
もういい、ここへ押し込んでしまおう。
僕はもうこれ以上押し込まれることがないように、あえて塞がれていると思わざるを得ないポストへと手を伸ばした。
もうこうなれば自棄だ。結局のところ、届けばいいのだ、誰かに。相手に直接渡すことは出来なかったが、届けたことに違いはない。万が一届け出る部屋が間違えていたとしても、親切な人であれば隣人への手紙を届け直すくらいしてくれるだろう。親切な人であれば。大切なことなので二度繰り返した。
他人への期待に思いをはせながら、僕は預かったプリントを今一度握りしめた。一度大きく息を吐くと、思い切りポストの封筒を奥へと押し込み、その代わりにプリントで扉の小口を塞いだ。扉で隔たれた向こう側に、いくつか手紙が落ちる音がした。
ミッション達成するや否や、僕は大急ぎでその場から駆け出す。一度たりとも後ろを振り返ることはせず、あんなに躊躇していた階段をとてつもないスピードで駆け下りた。
我も忘れて走っていると、いつもの曲がり角まで戻って来ていることに気が付く。見慣れた景色にやっと一息ついた僕は、ようやくその場に立ち止まった。高鳴る胸の鼓動を抑えるように、数回大きな深呼吸を繰り返す。そしてホラー映画張りの身動きで、ゆっくりと後ろを振り返った。
超おんぼろマンションから這い出るように現れた、白い服を着た血だらけの髪の長い女性の幽霊が扉の前に――。
あいにく、そんなものはいない。部屋の中から誰かが現れ、プリントを取り込むこともない。超おんぼろアパートの手前で、犬の散歩をしているオジサンが一人、犬の排泄物を拾っているだけだった。
まるで全く別の世界に迷い込んだかのような、壮絶な臨場感を味わった。そして今僕は、迷い込んでいた迷路の入り口へと無事に戻って来たのだ。数秒前には出口を探して途方に暮れている僕が、あの扉の前に立っていたのだということだけを冷静に考えていた。
第六感から近づいてはいけないと言われているような気がして、もう一度足を踏み入れようとは思えなかった。今後担任から何を頼まれても、きっちり断ろうと奮い立つ。たとえそれが理由で、クラスメイトからの注目の的になろうとも。
――いや、それはまずいか?
人というのは数秒前の臨場感を、あっという間に覆すほどの冷静な思考を持ち合わせているものである。
ともかく今はここから去るのが一番だ。僕はいつも通りの坂道へと一歩を踏み出した。今後関わることがない様に、強い願いと覚悟を込めて。




