1-2 無茶ぶりという名のお使い
「なあ、青野ー。昨日のプリント、もう書いたー?」
語尾をだらしなく伸ばしながら、黒瀬は僕に話しかけてきた。何のことだか察しはついていたが、あえてとぼけるように返事をしてみた。
「昨日のプリント?」
すると黒瀬は何も躊躇することなく、的確な答えをぶつけて来る。
「進路のやつ」
「ああ、あれね」
僕は最初の問いに対する答えを濁しながら、適当な返事をしてみせた。あの紙は未だ鞄の淵に張り付いたままである。提出期限ぎりぎりまで、おそらく重たい腰が上がることはないだろう。それを考えることさえも億劫になり、忙しなく次の授業の準備をする動作をしてみたところ、黒瀬には何一つ僕の意図が伝わらなかったらしい。彼は引き続き進路の話を持ち出した。
「昨日、帰っておかんにプロ野球選手になりたいって言ったら、アホ言わんとさっさと就職せえ! って怒られた」
だろうね。思わず口をついて出て来そうだった言葉を、僕は間一髪飲み込んだ。一言一句変えることなく彼に伝えると、さすがに可哀そうだと思ったのだ。なので、相槌程度の返答で済ませておいた。
「そっか。残念だね」
「就職って言ってもなあ。何の仕事すればええか、ようわからへん」
その意見には僕も同感だ。憧れている仕事なんてない。資格を取ってまで働くような仕事ではなく、ただ毎日会社に行って帰って、飯食って寝られたらそれでいい。毎日特別なことは必要ない。なんて、現在必死に汗水たらして働いている大人達への当てつけに聞こえるだろうか。
そんな中途半端なことしか考えていなかったので、このありさまだ。就きたい職業どころか、行きたい大学すら皆目見当がつかない。若いのだからこれからどうにでもなると言う人もいるが、高校三年生の僕にとって進路というのは一生を左右するものに思えていた。だからこそ、土壇場になっても決めきれない自分を恥じていたのだ。
両親は真面目に勉強していれば特に文句を言って来なかった。故に何かにならなければならないという責任は負ってはいないが、今にしてみれば逆に道筋たててくれている親は何と親切なことかと感心する。
「青野、ちょっといいか」
突然教室に現れた学級担任の先生に呼ばれた僕は、口から心臓が飛び出たのではないかと思った。出てはいなかった。クラスにいた全員が自分のことを凝視しているように思えて、気が気ではない。
「何やらかしたんや」
黒瀬が隣で僕をひけらかしているが、それに反応出来るほどの心の余裕はすでになかった。とにもかくにも、僕は直立のまま膝を折らずして担任の元へと駆けつけた。
「は、はい……」
一体何を言われるのだろうか。今朝宿題はきちんと出したはずだ。日直でもなければ、委員会の予定もないはず。授業以外で名前を呼ばれることなんてなかった僕にとって、これは緊急事態以外の何物でもなかった。これから来るであろう災難に身構えていると、担任は僕に随分と分厚いプリント類を差し出して来た。
「ちょっとお使い、頼まれてくれんか」
「え……」
なんだ、ただの手伝いか。それならそうと早く言ってくれ。
怒られるわけではなかったと、ほっと胸をなでおろす。それと同時に疑問と不満が同時に湧き上がって来た。なぜ僕が指名されたのだろう。今日の日直を呼べばいいのに。
苦情に似た心の声を内に秘めながら、僕は極力真顔を保つために唇をかみしめた。
「清田の家、近いだろ」
担任から発せられた聞き覚えのない名前に、僕はかすかに首を傾げた。
清田……? 果たして誰のことだろうか。このクラスにそんな名前の奴はいない。いたとすれば、出席番号順で並ぶ席は――黒瀬の前。あいにくそこには、角刈りの橘高が座っている。
「当分来てなくて、渡すプリント類が溜まっていてな。先生も会いに行くつもりなんだが、なんていうか、アレだ。友達が来てくれたら、アイツも喜ぶだろ」
そう言われて僕はようやくその口を、数センチ単位で動かした。
友達……?
見たことも会ったこともない人物だ。クラスメイトというだけでこんな陰気な生徒を友達呼ばわりされて、相手もさぞ迷惑ではなかろうか。
担任はそんなことなど我関せず、プリントを差し出す手を頑なに引き下げようとはしなかった。思わず右手を持ち上げてしまったものだから、目的地を探し戸惑う指先をプリントにたどり着かせることしか出来ない。
それを了承という形で受け取った担任は、安心したように一息ついてプリントから潔く手を離した。
「ありがとな」
彼はそう言うと、教室から逃げるかの如く足早に次の授業へと向かって行く。わずかな休憩にわざわざ言いにくるとは、余程僕に受け取ってもらいたかったのだろう。
――断れない性分で良かったな。
心の中で捨てセリフを吐きながら汗ばんたワイシャツの背中を見送ると、僕はいそいそと自分の席へと戻って行った。
「なあ、なんやった?」
黒瀬の声に、周りにいたクラスメイトも多少気になる様子でこちらを振り返る。
――こっちを見るなよ、馴れ馴れしい。
だがそんな言葉を口にする勇気など、微塵もない。僕はめちゃくちゃに吃音をあげながら、なんとか言葉を紡いだ。
「べ、別に……。ちょ、ちょ、ちょっと、連絡事項」
「なんやそれ。つまらんのー」
黒瀬は至極残念そうにしながら、椅子をガタガタと揺らした。人の不幸を嘲笑った報いだ。そう言わんばかりに、全体重を預けていた椅子が見事に彼を裏切り、真後ろへとひっくり返って行ったのだった。
僕に集中していた視線は、あっという間に黒瀬によって引きはがされる。教室中に笑い声が響き渡った。背中を強打してもがいている友人の無事よりも、僕に注がれていた視線が彼に移ったことへの安心感がはるかに大きかったことは、彼には内緒にしておこうと思う。




