1ー1 僕ってこういう奴
「では締め切りまでに提出すること」
「はーい」
教員の言葉と同時にチャイムが鳴った。本日僕に与えられた使命は、何事もなくここで終了。なんて少し大げさだったかもしれない。ただ学校が終わっただけだ。
前から後ろへと白い紙が回される。教室の隅でその紙を受け取った僕は、内容を確認するでもなく無言で後ろの席へと送り付けた。ちらりと視線を落とした先に見えたのは、白いA4用紙の中央付近、紙の半分ほどを埋め尽くす長方形の額縁だった。
その中に彩られる世界は、十人十色だ。今日これを持ち帰った学生は、それぞれ自分が進む道に心躍らせ汚れたペンをとるのだろう。幼稚園児でも短冊に書くくらいだ。なんらむつかしい事ではない。
将来の夢。僕には、それがなかった。昔はあったのかもしれない。いや、実際にはあった。幼稚園で配られた卒園文集には、汚い文字で『かめんらいだー』と書いてある。小学校や中学校での卒業文集は、まだ記憶に新しい。確か『会社員』と書いた。なんだそのつまらない夢は、と誰かに言われた覚えがある。生憎誰に言われたのかは、覚えていない。興味がないから。
保育士になりたい、学校の先生になりたい。隣の席でいつか『先生』と呼ばれるであろうご立派な人間たちが、立ち話をしている。僕はそれを小耳にはさみながら、白紙の用紙を鞄の中へと押し込んだ。
歴史の勉強をしていて、しみじみと思う。時代は変わったと。ここは教科書に羅列されるだけの江戸時代ではない。身分の縛りもなければ、性別に縛られることさえもなくなった。坂本龍馬が現世に転生すれば、両手をあげて闊歩するに違いない。家庭環境によってスタート地点に違いはあるだろうが、努力すれば必ず夢は叶うようにできているらしい。公園で暮らしていた人間が二億円の印税を得られるのだ。何があっても、おかしくはないのかもしれない。
さてここで、難関大学も首をひねらせる難問を取り上げる。
――僕はこの額縁に、一体何を描こうか。
戦闘機の模写なんてしたら、こっぴどく叱られるだろうか。……ま、そんな度胸何てないんだけど。
高校三年生の春。誰もが冬に訪れるビッグイベントに向けて、本腰入れ直し勉学に励んでいた。将来の夢がなくとも偏差値の高い大学を目指し、努力を重ねている者も少なからずいる。進学校である本校では卒業後にそのまま就職するのはほんの一握りで、専門学校でもいいから進学してくれ、と教員たちは血眼になって生徒達に誘い文句をかけて来る。
何にそんな焦りや憤りを感じているのだろう。あいにく僕に『先生』と呼ばれる時代は来ないので分かってはやれない。だが、少しばかり貢献はしている。その先生たちが頭を抱える原因となる生徒として、僕に白羽の矢が当たることは今後一切ないからだ。心ここになしであったとしても、言われた通りの大学に進学すると言った陰気な生徒に大人たちは興味がない。昨年度最後に行われた三者懇談では、今まで生きてきて一番褒められたくらいだ。成績は別として、こんな手のかからない人間は他にいない。
男なんだから自分の意見を持ってしっかりしろ、と言っていた祖父は、今ではセクハラジジイと呼ばれる部類になっている。令和の時代になる前に天国に旅立ったことは、彼にとってある意味救済のひとさじであったのかもしれない。
何も考えず、ただぼんやりと。入れる大学に、入れたらいいなあ。そんな呑気に身構えている人間は、このクラスで僕くらいだろう。否、もう一人いたかもしれない。
「なあ、青野。俺さ、野球選手になりたいんやけど、そう言うのって、どうやって書いたらええん?」
隣の席の黒瀬が、訛交じりに僕へ問いかけて来た。
「さあ。推薦貰ったら、いいんじゃない?」
「なるほど。じゃあ推薦欲しいって書いたら、それ貰えるん?」
「いや、そうとはならないと思うけど。というか、黒瀬。この学校の野球部って、地区大会緒戦敗退チームだよね。黒瀬のポジションは?」
「ベンチ」
「うわー。望み薄ー」
僕はそんな冗談を言いながらも、こいつは真面目に就職するんだろうな、なんて考えていた。
高校から友達になった黒瀬は、親の都合で地方からこっちに引っ越してきたばかりだったという。入学初日、同じクラスで隣の席になった。積極的でコミュ力お化けの黒瀬から声をかけられ、いつのまにか高校三年間ずっと同じクラスだ。しかも何度席替えをしても、いつも席は隣同士。黒瀬の策略か、はたまた神様のいたずらか。
あまりにも僕らがずっと一緒にいるもんだから、周囲からは芳しくない噂をたてられている。
「アイツらデキてるらしいぜ!」
あいにく僕の恋愛対象は女性であるので、そのご期待には沿えそうにない。万が一でもその話が広まってしまえば、彼女どころか女性にさえ相手にされなくなる。そうなっては困るので、一応否定はしておいた。
しかし僕の心配事など露ほど知らぬ黒瀬は、廊下にも響き渡る声でこう反発した。
「ええやろ! 悪いか!」
こうして人生一度も、女性と付き合ったことのない男子高校生が出来上がったという訳である。まあ、それもすべては黒瀬のせいという訳ではない。彼女が欲しいと思いつつ、女性と一緒に行動するということに恐れを抱いて嫌煙していたのは僕自身だからだ。
ここまで話して分かって貰えたとは思うが、僕はこんな黒瀬とは相対して目立つことが得意ではない。ただ毎日登校しては、極力日の目を浴びぬよう必死に息を殺して生きている。授業中に教員から問題を当てられることほど怖いものはない。全クラスメイトが僕に注目する。そんなことは、耐えられない。宿題も忘れたことはないし、テストで満点をとったり、赤点をとったりすることもない。誰にも触れられず、誰の記憶にも残らない。面倒ごとに巻き込まれるより、変わらない日々を淡々と過ごしていたい。沢山の人材に埋もれる、超のつく凡人。僕ってそういう奴。
帰宅の準備を終えると、早々に席を立った。帰宅部の僕に課せられし次の使命は、無事に家にたどり着くことだ。そして昨日発売されたゲームを、少しでも進めておくこと。
……いや待てよ。今日は宿題が、たんまりあるんだった。だが僕は一刻も早く国を救い、王女を助けなければならないのだ。もう現実世界の方を、放り出してしまおうか。
――おいおい、冷静になれよ。宿題を忘れただなんて見え透いた嘘は、ここ数十年したことはない。さらには後から提出の為だけに職員室に趣くだなんて、考えただけで悍ましい。生徒どころか先生たちから注目を浴びるだなんて。よし、やっぱり宿題が先。
心の中で自問自答を繰り返している最中、女子たちの噂話が小耳に入る。聞いていませんよ、というふりをして案外コソコソ話というものは聞かれているものだ。だからと言ってそれを誰かに話すことはないので、心配ご無用である。いや、黒瀬には話すかもしれない。でもアイツ。誰にも言うなよ、と言うと本当に言わない奴なので、そこで話は終息する。
「昨日、見たんだ。あの子。学校の近くで」
「マジ? 本物?」
「本物だよ。あの髪色、間違いようがないって。アタシらと同じ制服着てたし」
「え、なんで? 昨日学校、来てたっけ?」
「来てない」
「用もないのに制服着てんの?」
「相手の趣味じゃない? 制服希望のオジサン多いし」
「やっぱ、そういうことしてるんだ。同じ制服で、辞めて欲しいんだけど」
「だよね。アタシらまでそう言う目で見られるじゃん。てか、なんでアレに客つくの? 普通にブスじゃない? 化粧でごまかしてるだけでしょ。あんな二重、絶対作り物!」
「まじ? でもこの三年間、毎日アイプチし続けるアンタが言うなら、間違いないか!」
「うるさいなー! 高校卒業したら、整形するんだってば!」
「いいじゃん。しちゃえ、しちゃえー」
女子の会話は、時々怖い。僕は散々話を盗み聞きしておきながら、通りすがりの生徒Aを演じたまま、その場を通り過ぎた。
正直どうでもいい内容ではあったが、噂されている対象のことが少しばかり気になった。遠くから見て判るほどだ。一体どれほど派手な髪色をしているのだろうか。
地毛で茶色い生徒は、うちのクラスにも割と多くいる。学生なのだから黒髪でいなさい、だなんてアイデンティティをわざわざ潰しにかかる学校は、どうかしていると思う。まあTPOはある程度わきまえなければならない立場であるため、限度というものがあるのだろうが。
あいにく僕は生まれ持って天性の黒髪なので、そう言ったことは無縁の世界だ。結局はこれすら、他人事なのである。
僕は帰りのバスに乗った。このバスに乗るのも、これが最後の年となる。桜が咲く並木道を横目に、来年はこうして眺めることはないのだと、身勝手な感傷に浸っていた。
バスを降りて少し坂を上ったところが、僕の家だ。家と言っても一軒家じゃない。薄汚れたアパートの一室。ベランダも狭く、夏になると蝉がよく死んでいる。台所も人一人が立っておくのがやっとで、自室はわずか四畳半の和室だ。そんな手狭な部屋の半分を、巨大な勉強机が陣取っている。大きければ大きい程に格好良いという謎の拘りを持つ、祖父からの入学祝いだった。今思えばこんなに大きなものは必要ないのだが、当時の僕はなんだかんだ気に入っていて今でもこうして使っているという訳だ。なんせ机が広いがため、物を出していても邪魔にならない。つまりは、案外ずぼらだってこと。
こんなに狭い家に住んでいて、引っ越したいと思わなかったかと問われると、今までに数回程はある、が答えだ。小学校の頃に大きなエントランスのあるマンションに住んでいる友人を訪ねた時には、なぜこんなにも住む世界が違うのか不思議に思った。通学路にある新築一戸建ての広い庭のある家を目にすると、庭でくつろぐ己の姿を想像しては指をくわえていたりする。
だが今ではそう言った願望は疾うに捨てた。将来的にはそうなればいいや、くらいには思っている。なぜかと言うと、願望に任せて母に引っ越そうよ、と軽々しく言った経験があるからだ。母は心底悲しそうな顔をして、僕へ謝罪の言葉を放った。子どもながらに申し訳ないと思った記憶がある。だがそれから一週間は、言うんじゃなかったと思い知らされた。過去の不平不満をあれこれ聞かされて、家にいることがこんなにも億劫になるとは思わなかった。
両親もそれなりに苦労してきたのだと知ると同時に、小学三年生の僕は夢というのは叶うものと叶わないものってのがあるんだと学んだ。
もうすぐすると、僕のおんぼろアパートが見えて来る。たてつきの悪い古い家だと思うが、実はそれよりもっと古いアパートが存在する。僕のアパートから坂を下り、突き当りのT字路を反対方向へ進んだ先だ。一体いつからそこに建っているのか、どんな人が暮らしているのか。全くもって情報がない。幽霊でも出そうな錆着いた非常階段が、風に揺られてぎしぎしと音を立てている。ありゃ、地震がくれば一発だ。僕の家も無事ではすまないだろうけど。
見ているだけで気分の悪いアパートを思い出すのはやめ、半分まで上った坂道に力強くもう一歩を踏み出した時だった。
太陽が、僕の隣を駆け抜けて行った。
「―――っ」
僕は咄嗟に振り返る。坂道を下って輝く光は、あっという間に遠くに行って姿を消した。風が吹いて、桜の花びらが宙に舞った。けれどそこに残されたかすかな香りは、今でも忘れはしない。
じわりと口の中に唾液が広がる。黄色と言うより鮮やかで、白というより温かく、少しだけまぶしさを感じるその色を、きっと誰しも知っている。そしてその名前を聞くだけで、容易に想像できるだろう。
「レモンイエロー」
柑橘の中でも特段爽やかな色合いの塊が、僕の隣を過ぎ去って行ったのだ。――檸檬の香りだけを残して。
僕は思う。アレは、『檸檬のおばけ』だ。




