3-4 最後の陽炎
僕たちは教員に見つからない様に身をひそめながら、なんとか学校から抜け出した。行く当てなどないが、とりあえず目の前に来たバスに考えることもせずに乗り込んだ。どこに向かっているのかさえ確認していないが、そのまま終点まで行くことに決めた。バスの窓越しに塾へ向かっているクラスメイトの顔が見える。僕は思わずバスの通路側を向いて、必死に顔を隠していた。気づかれたどうかは分からない。見ていなかったから。
彼女はかつてのクラスメイトを静かに見送ると、ふと僕の大きな鞄を見下ろした。そしてほっと一息ついている僕に、指をさして問いかける。
「ねえ、その鞄には何が入っているの?」
誰よりも目立つ、黄色い鞄。別に置いて来れば良かったものを、そのまま持ってきてしまった。特に面白いものなど入っているはずはない。僕は一応中身を確認しておこうと、鞄を開いて中身を覗き込んではみたが、やはりそこには数冊のノートと筆箱があるだけだ。それを確認すると彼女には見せることなく、そのまま鞄の口を閉じた。
「塾で使うものだよ。今日テストだったし」
自分で言っておいて、その一言に罪悪感を抱いた。彼女に対してではない。自分がしてしまった行いについてだ。出かけに母が何か声をかけていたが、それにも完全に無視をした。さらには塾にもいかずに大切なテストを放り出し、ましてや学校を辞めた子と心中するなどと――。
今までの僕であれば、この先に起こるであろう現実に、呼吸が出来なくなっていたことだろう。脳内会議が開かれこれからどうするべきなのか、世間で正しいと言われる答えを必死に探し求めている頃だ。だがなぜか今は、不思議とそれがない。何一つ焦りはなかった。スムーズに回り出した歯車の動きは、もう止まることはなさそうだ。
終点でバスを降りると、そこは知らない駅の名前だった。こじんまりとした無人駅だったが、風情ある木製の建物で、来たこともないのになぜか懐かしい気持ちになった。
「電車、もうすぐ来るみたい」
「うん」
僕たちはそれぞれの切符を買った。彼女が切符を買っている間、僕は少しだけ来た道を振り返っていた。バスで数十分、揺られていただけだ。そんな恐ろしい程遠くに来ている訳ではないのに、僕の知っている世界はまるで地球の裏側にあるのではないかと思えた。
陽炎が揺れている。その先に一人の女性が僕に手を振っているように見えた。見覚えのある面影に、僕は思わず目を見開いた。
母親が僕を呼びに来たのだ! そう思った僕は、大慌てで駅の中へと駆け戻って行った。ここに入るところを見られてしまった。もう目の前に来ているのではないか。誰もいない駅の中から、半分壊れかけた窓ガラスを恐る恐る覗き込んだ。だがどれだけ目を凝らしてみても、僕が見たその先に人影はなかった。気のせいだったのだろうか。駅の中から出て注意深く周囲を確認したが、やはり誰もいなかった。僕の不安が蜃気楼で幻をみせていたのかもしれない。
まだ戻れる。今なら――。
「電車、来るよ」
「うん」
僕はその蜃気楼に背を向けて、彼女と一緒に列車に乗った。三車両しかない列車の一番後方から乗り込むと、またしても後ろを振り返る。重たい機械音を立てて、自動扉がぴしゃりと閉まった。またしても世界が切り取られた。たった一枚の扉を境に、世界を転々としている気分だ。不思議と、怖くはない。けれど、興奮もなかった。そこにあるのは優しい彼女と、名前のない心の安らぎ。
「誰もいないね」
「うん」
列車の中はがらんとして、静まり返っていた。夏の昼間からこの電車を利用する人は滅多といないらしいが、空調はしっかりと利いており心地がよかった。
長椅子に彼女と二人並んで腰かけた。流れゆく景色をぼんやりと眺めていると、このままどこまででも行けるような気がした。
「お腹空いたね」
「少し」
そう言えばもう昼時かもしれない。本当なら母の作った弁当を、公式が詰められた重たい頭を抱えながら食べ終えていたことだろう。今頃母はどうしているだろうか。突然飛び出して塾にも行っていないとなると、警察を呼ばれているかもしれない。大騒ぎになっていることは目に見えていた。だがその現場で響き渡る焦燥の声は、僕の元には届かなかった。
もしもここで、彼女がやっぱり辞めようと言ったなら。ただ、それだけが怖かった。
僕は何か小腹を満たすものはないかと鞄の中をまさぐって見た。だがあいにくその中に、腹の足しになるようなものは何一つ入っていなかった。こんなに大きな鞄なのに、入っているのはガラクタばかりだ。次にポケットの中に手を入れてみた。チョコレートの一つや二つあるかもしれないと思ったが、あったところで食べられる原型は残していなかったことだろう。
指先に何かが触れた。紙の感覚。チョコレートの銀紙かもしれないと、思い切りその端を持って引っ張り出した。するとその勢いによって弱くなっていた紙の断片が切れて、そのもの自体は電車の床の上に転がり落ちた。
電車の揺れに合わせて左右に揺れるそれを、彼女は静かに見下ろしていた。ポケットの中でつぶされたそれを見て、彼女は静かに口を開いた。
「お花?」
「うん」
彼女はその花を拾うこともせずに、ただそこから眺めていた。僕は破れてしまった一枚の花弁を彼女には見せず、そっとポケットの中へと押し戻す。しばらくそのまま時間が流れ、次の停車駅に着いた時だった。
「君が折ったの?」
「うん」
彼女の質問に、僕は多く語らなかった。本当はこの花について沢山言いたいことがあったのに、出てくるのは単なる同意の頷きばかりだ。誰も乗らない列車の扉が再び閉まる音がすると、彼女は小さな笑みを浮かべて吐息を漏らした。
「……綺麗だね」
「……うん」
その言葉に対して、僕は少し間をおいて返事をした。本当なら、もっと綺麗だったんだ。もっと淡麗な花だったんだ。けれどポケットの中でつぶされたその花は、原型を留めぬほどにぺちゃんこになっている。花かどうかも分からない。まるで道端に落っこちた椿の花を、誰かが踏みつけた後のようだった。
この花は君だ。なんて、口が裂けても言えなかった。沢山折り目が着いた君だから、綺麗な花になるんだよなんて、クサい台詞まで用意していたのに。
すると彼女はしばらくその花を見つめた後、吹き出すような笑い声をあげた。
「檸檬の花はね、白いんだよ」
「え……」
まるですべてを見透かされていたような言葉に、僕は思わず言葉を失った。けれど、どことなく安心した。これが君じゃなくて、良かっただなんて。
「ねえ。前に、私は綺麗な鶴にはなれないのって話をしたでしょう? でもね、一つだけ良いことがあるの。翼の折れた鳥はね、皆みたいに大空を飛べないけれど、地面に落ちてしまった花の美しさを一番に気づくことが出来るのよ。人でも踏み荒らしてしまうその花を、愛おしく見つめるの。それが私」
彼女は踏み荒らされた後の花の残骸を見て、優しい笑みを浮かべていた。僕は太陽に照らされたその鼻先を眺めながら、少しだけ視界を曇らせた。
「空を飛びたいとは思いませんか」
僕の質問に彼女は少し驚いた顔をして、次には悲しそうに笑った。
「そりゃあ、飛びたいさ。けれど自由に飛ぶ羽根はなくなったから。地面を這うことで精いっぱい。君はそんな私のことを、可哀そうだと思うだろうけど」
「思いませんよ」
彼女の言葉にかぶせるように放った自らの声に、自分自身が驚いた。お互い目を丸めて顔を見合わせている。
「なんで君がびっくりしてんのさ」
「それは……」
先程の覇気はなくいつものように言い淀んでいると、彼女は車両内に響き渡る大きな声で笑って見せた。僕は片手で前髪を梳きながら、少し顔を俯かせて言葉を発する。生きてきた中で一番、多くの言葉を連ねたと思う程に。
「僕、羨ましかったんです。誰かに言われた世界を生きるのではなく、与えられた世界でもがいている、あなたのことが。全部与えられている人間に言われたところで恨めしいと思われるかもしれませんが、僕にはあなたが自由に見えました。先程の例を挙げていうなれば、狭い空を飛ぶ僕よりも、広い地上を知っているあなたの方が、ずっと自由だ」
心臓が、爆発しそうだった。顔は燃えるように熱い。明るい車内ではきっと、僕の顔が真っ赤に染まっているところがはっきり見て取れただろう。先程のような笑い声が響く覚悟をしていたが、それはなかった。恐る恐る隣の彼女の顔を確認しようとすると、突然体の横に添えていた手を握られた。
「――っ!」
声にならない悲鳴を上げた僕が肩を揺らしていると、彼女はそれに笑い声をあげた。
「ありがと、ライムくん」
僕は小さく首を縦に振って、手汗で濡れる手のひらをぐっと握り込んだ。




