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檸檬の叫びが聞こえるか  作者: 高冨さご
さんかじりめ

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3-5 僕らの終点

 それから無言のまましばらく握られていたその手は、最終駅にたどり着いたころようやく離された。ゆっくりと電車が減速される。降りる準備をしようと席を立ちあがると、僕は落ちたままになっていた紙くずを拾い上げる。


「ねえ、それ。貰ってもいい?」

「え? これを、ですか?」


 僕は戸惑いながら、手の中に握られているぺちゃんこの紙を見下ろした。あまりにも無惨すぎるその残骸を、彼女に手渡すのには勇気がいった。僕は慌てて鞄のチャックを開いて、中に入っているノートの新しいページを破って見せた。


「また、作りますよ。新しいの」


 そう言うと、彼女は少しだけ眉をひそめて見せた。なぜそんな顔をするのか理解できない僕に、彼女は優しい声でこう告げた。


「じゃあ、よろしく。先に地面で待ってるね」


 そう言って開いた扉から、先に降りてしまった彼女。それは一体どういうことか。ここで折り紙をして降りろということか。なんて思考が停止している間に、車掌が車両内の確認にやって来た。不審がられる前に降りなくてはと、僕は黄色い鞄を抱え込んだまま急いで彼女の後を追った。少し離れた改札口に向かって行く彼女の背中を追いかけながら、なんだ、先ほどの話のオマージュか。なんてやっと言葉の意味を理解するのであった。


 小さな列車が運んでくれたその先は、思ったよりも大きな駅だった。この電車を利用する客が著しく少ないだけで、目的地は随分と賑わっている。はぐれない様にと必死に黄色い光を追いかけた。


 駅を出ると少し先に、太陽を照り返す真っ青な海が見えた。僕の生まれた街には海がなかったので、久しぶりに見る海に些か感動を覚えた。すると彼女は突然、その方向へと走り出していくではないか。僕はまたしても置いていかれようになって、慌ててその背中を追いかけた。海の向こう遥か先、水平線の奥には何も見えない。地球は本当に丸いのだと気づかされるほどに、広く大きな海だった。


「すごーい! 私、海を見るの、初めてなの!」


 彼女は興奮冷めやらぬ様子でそう言うと、そのまま海沿いへと向かって行った。生憎下りられそうな浜辺などはなく、僕たちと海を遮る大きな堤防が道を塞いでいた。


「ねえ、海って本当にしょっぱいの?」


 自由気ままな彼女に翻弄され続けている僕を振り返りながら問いかける彼女に、僕は肩で息をしながら小さく頷いて返事をした。すると彼女は目を輝かせながら、塀の向こうに隠れてしまった海を懇願しているように両手を合わせる。


「残念。少し味見をしたかったな」


 そう言うと名残惜しそうにしながら、堤防から数メートル離れて僕のいる場所へと戻って来た。僕はふと手首に巻いてある時計を確認した。いつの間にこんな時間が経っていたのか、あと少しで夕暮れを迎える。空腹だった腹の虫はピークを過ぎたのか、もはや気にならなくなっていた。


 彼女は海を見ることを諦め、西に傾きつつある太陽を拝んでいた。大きな瞳がゆっくりと閉じられ、温かな陽の光を全身で受け止める。


「どこへ行こう」


 呟くように問いかけたその声に、僕も同じように返事をした。


「どこまででも」


 その答えが、彼女の元に届いたかどうかは分からない。近くで踏切の鳴る音がしたから。聞こえていなくともいい。振り返ったとて、帰り道は知らないのだ。


「少し、歩きませんか」

「いいよ」


 その日初めての僕からの提案に、彼女はすぐさま返事をした。今までずっと彼女が先頭を切って歩いていたのだが、今度は僕が彼女を誘う方へと変わっていた。黄色い鞄を追う彼女の足音を背後に感じながらも、本当に要るのかどうかを頻繁に振り返っては確認した。


 無言のまま数十分ほど歩いただろうか。堤防を抜けた先に、小さな浜辺が見えてきた。その場所へ下りるためのものなのか、幅の狭い石階段が数段施されているのが見える。近くまで寄ると、期待を込めて彼女の方を振り返った。僕が問いかける間もなく、彼女は自ら飛び込むようにその階段へと歩みを始めた。


 潮風にさらされたその階段は滑りやすく、二人で手を取り合いながら歩いて下りた。浜辺に立つと、彼女はすぐさま波際へと駆け寄っていく。靴の端が濡れるのを横目に見ながら、彼女が両手で海の水を救う姿を見つめていた。少しだけ口に含み、残りの海水を海へと戻す。


「うわー。しょっぱい!」


 そう言いながらも、満足そうに笑っていた。それだけで、ここまで来て良かったと思えた。しばらく彼女が海と戯れている姿を眺めていると、突然頭上から男性の声が降って来た。


「おーい。そこの黄色いの! 青春するのもええけども、もうすぐ日が暮れるから、はよう上がって来いよ~」


 声のした方へと顔をあげると、そこにはキャップをかぶった少し小太りのオジサンがこちらを覗き込んでいた。ご丁寧に注意喚起をしてくれたらしい。小さく頷き返す僕とは違い、彼女は大きく手を振って元気よく感謝の意を述べていた。


 オジサンの気持ちを無下に扱うことは出来ないと、僕たちはすぐさま来た道を戻っていく。下りる時は手を取り合ったが、上がる時はお互い慎重に足元を確認しながら一人ずつ上って行った。


 元々運動の得意でない僕は気を緩めるとそこから真っ逆さまになるような気がして、先に行った彼女を見上げることもせずに亀の様なスピードで這いつくばりながら上って行った。やっとの思いで這い出ると、その先ではまたしても彼女が、僕をからかうような笑い声をあげている。今度は何だと口先を尖らせると、笑いでうっすら涙を浮かべた彼女が、僕の背中を指さした。


「黄色いのだって!」


 彼女が指さすその先を確認しながら、少しだけ頬を赤く染める。


「僕だって、好きでこんな鞄を背負っているんじゃ……」


 そこまで言って、口を紡いだ。彼女は僕の気持ちを知ってか知らずが、未だ笑うのを辞める様子はない。何がそんなにおかしいのか分からないが、彼女の声につられて僕も少しだけ声を出して笑った。二人でしばらく笑いあった後、夕日に照らされた彼女が、柔らかな手のひらを僕の元へと差し出した。


「ありがとう。私、こうやって普通の女子高生をやりたかったんだ。君みたいな、フツーな男の子とさ」


 僕の右手は自然と持ち上がり、行く手を探すようにその掌へと落ち着いた。なんでも受け取ってしまう癖は、今後も治りそうにない。上がり切った体温を奪い去るほどに、彼女の手はひんやりとして心地が良かった。


「普通、ですかね。僕……」

「私から見ればね」


 次第に握り合った掌は熱を帯び、腕までじんわりと汗をかきはじめた。沈みかけた太陽の明かりが、ほてった彼女の頬をより赤く反射させる。あの時掴み損ねた太陽を、やっと捕まえた気がした。


「これから、どうするんですか」


 相変わらず相手の気持ちを汲み取れない真っ直ぐな言葉に、彼女は僕の手をぐっと強く握り返して来た。若干の痛みを覚えながら、僕は少しだけ眉を歪ませる。


「働くよ。不真面目に」

「いいですね」


 彼女は僕の言葉を聞き終えると、そっと掌を離した。縛り付けられていたものから解き放たれた解放感と共に、爽やかな風が僕の温度を少し泥棒して行った。その風になびいた美しい髪の毛と、檸檬の香り。小さな背中を僕に向けたまま、鳥のさえずりが聞こえた。


「君のこと、好きになって良かったよ」


 その答えの代わりに小さく微笑むと、彼女は僕を優しい清涼感で包み込んだ。

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