3-3② されどゴミ
勢いよく扉を開くと、その風に誘われるようにして置きっぱなしにしていたぐしゃぐしゃの紙きれが足元へと飛んできた。柔らかいだけでなく、随分と軽いようだ。天使の羽根ってこんな感じなのかな、なんてガラにもない事を考えながら、今晩にはゴミと化すであろう紙切れに手を伸ばした時だった。
全身に、鳥肌が立つのが分かった。指先が、震えた。視界がぼやけて、足元に無数の雨が降り注ぐ。僕は思わずその場に座り込んで、その紙を拾い上げた。そして紙を透かせるようにして煌々と輝く蛍光灯へと照らした。
――オウセ。夏の終わり。約束の場所で。
そこに刻まれた、檸檬からの最後のメッセージだった。まるでちびた鉛筆を無理やりこすりつけたようなその文字は、あまりにも薄くて儚かった。僕はその紙を握りしめたまま、思わず部屋を飛び出した。階段から転げ落ちそうになりながら、リビングにも出向かずそのまま玄関に直行した。母の声が聞こえた気がする。だが僕は、振り返らなかった。
重たい荷物を背にしたまま、全力疾走で坂道を下った。自分の足が追い付けない程のスピードに、僕は足をもつらせる。そのまま見事に転倒し、左ひざを強打した。あまりの痛みに蹲りながらも歯を食いしばり、王女を助ける勇者になった気分でなんとか足に力を込める。
「古傷がひらいちまったじゃねえか」
一度言ってみたかった台詞を独り言のようにこぼし、痛みに耐えながら立ち上がって前へと進んだ。走り去るバスを横目に確認しながら、僕は裏道を通っていつもの場所へと向かった。かつて知らない顔をした彼女が歩いていた道だ。怖くて振り返ることが出来なかった道を、僕はたった一人で走り続ける。あの日遠く離れてしまった、小さな背中を追いかけるように。一秒でも追いつけるように。
しばらくすると街路樹が見えてきた。傍らの道路には大きな文字で『通学路 注意』と書かれている。その文字の上を無我夢中で横断した僕は、目の前に迫る古びた門の中へと飛び込んだ。
明日始業式があるために部活は休みなのか、生徒の姿は全くなかった。教員は学生が休みでも働かなければならない職業のようで、職員室には人影がちらほら見える。幼稚園児の帽子よりも目立つ黄色い鞄をお腹の中に隠しながら、見つからない様に必死に身を屈ませた。どうやら誰一人僕の存在には気が付いていないらしい。普段から気配を消す訓練をしておいて良かった、と身勝手に自分を褒め称えた。
体育館へと向かう道を進む間も鼓動は鳴りやまなかった。今世最大の大泥棒にでもなったような気分で、僕は周囲に注意を払いながら先へと進む。
五分程の道のりを三倍の時間かけて歩いただろうか。ようやく目的の場所に来た。体育館の扉はしっかりと閉められている。扉にかかっていた大きな南京錠は、外れたままになっている。初めて日直業務をやった日のことを思い出す。ゆっくりと扉に耳を近づけ、聞き耳を立てた。物音一つ聞こえない。どうやら野良犬はここにはいないらしい。
鳴りやまぬ心臓を少しだけ落ち着けるように、深呼吸を繰り返す。そして震える指をゆっくりと扉のくぼみへと伸ばした。重たい扉を数センチだけ、横へスライドさせる。その隙間から中を覗き込んだ。がらんとした体育館に、バレー部の生徒はひとっこひとり見当たらない。
額から噴き出して止まらない汗が、頬から首筋に伝っていくのが分かった。水滴が地面に落ちるのを合図に、僕は思い切り扉を開いた。目の前に広がる無数の教科書はもうどこにもない。穴の開いたスクールバッグも、重たいカーテンの後ろに身を隠すお茶目な彼女の姿も。呼吸をするのも苦しくなるような熱気だけが、その場には広がっていた。
「そうか……」
僕はそこでなぜかひどく納得した。彼女がここに、いるはずはないと。約束の場所はもう一つあったはずなのに、なぜこちら側を選んだのだろうか。あれほど通い詰めた赤い鳥居の前を、なぜ見向きもしなかったのだろう。
彼女はもう、ここの生徒ではないのに。
僕は大きなため息と共に、その場に座り込んだ。今になって左ひざの痛みに悶絶する。カーキ色のカーゴパンツには、うっすらと黒いシミが出来ていた。どれほど擦りむいたのだろうかと裾をまくり上げようとした時だった。
「卒業証書、授与」
「――っ!」
体育館に、カナリアのさえずりが響き渡った。僕はハッとして、声のした方へと顔をあげる。そこには黄色い髪をした一人の女子高生が、ボロボロのノートを手に壇上へと向かい頭を下げているところだった。さらに誰もいない観客席に深々とお辞儀をした彼女は、ゆっくりと舞台上へと足を進める。今にも二つに割れてしまいそうなそのノートを悠々に広げると、はきはきとした声で次の言葉を述べた。
「卒業証書。三年五組、清田れもん。あなたは本校においての学びを終え、卒業したことをここに証します。八月三一日。柑橘系代表、清田れもん」
自らが書き、自らが読み終えたノートを壇上へと置く。すると今度は反対の位置に回り込み、卒業証書を受け取る様に片手ずつ手を添えて、一歩後ろへと下がった。そして深々とお辞儀をし右脇に抱えた後、ゆっくりと僕の方を振り返る。
「青野来夢」
「え……? ――は、はいっ!」
次に彼女は僕の名前を呼んだ。現状も理解できぬまま、なんとなくその場の空気で慌てて返事をする。その声は体育館の中に反響し、しばらく響いた後に鳴りやんだ。代わりに蝉の大合唱が覆いかぶさる。
僕はどうしていいものか分からず、照れくささを隠すためにその場に立ち上がった。痛かったはずの膝のことなど、疾うに忘れている。次の瞬間、蝉たちが飛び立つのではないかというほどの大きな笑い声がその場を包み込んだ。
「アハハ! ごめん、ごめん。君はまだ、卒業しないからね」
彼女の笑い声に、やはりまたしてもからかわれたのだと気が付いた僕は、恥ずかしさともどかしさで彼女にくるりと背を向けた。どこに視線をやっていいのかも分からずいじけるように地面を見下ろしていると、彼女が僕の方へと駆け寄ってくる足音だけが聞こえた。僕の視線の先に彼女の足先が見えて、次に甘ったるい声が僕の頭上へ降りかかる。
「来てくれたんだね」
「――まあ、約束しましたし」
僕は何も考えずに返事をした。本当は、約束などしていない。もし偶然にもあの紙が風に飛ばされなければ、かすれた文字を見つけなければ、彼女は今頃一人ぼっちで卒業式をしていたのだろうから。感謝してもらわないと困るぞ、と心の中で悪態をつきながらも、僕が見届け人で良かったと思うもう一つの顔があった。
僕が次の言葉を紡ぐのに戸惑っていると、軽やかな足取りで彼女は体育館の入口へと向かって行く。輝く黄色い鳥が離れて行く様を目で追いかけていると、太陽に照らされた美しい彼女が一言、僕に言った。
「ねえ、二人で心中しようか」
彼女の言葉に、僕は驚かなかった。それは言葉の意味を知らなかったからではない。最初から答えを知っていたからだ。いつも吃音ばかりを立てている僕が、その日ばかりははっきりとした口調で答えた。
「いいよ」
僕の言葉に、彼女の方が驚いた顔をしていた。次には困ったように笑って、片隅に隠していた穴の開いたスクールバックを持ち出した。随分と身軽になった中身を探り彼女が取り出したのは、ずいぶんと小柄な財布だった。小学生の女の子が好みそうな可愛らしいキャラクターが施された財布の中身を、彼女は大きく開いて見せてきた。そこには見たこともない程の一万円札が押し込まれていたのだ。
「どうしたの、これ……」
「いいの。最後だから」
彼女はそう言うと財布をもう一度鞄の中へと収め、しっかりと鞄のチャックを閉じた。もはや鞄に穴が空いていることに僕がひやひやしている状況だ。だがあの大きさなら、財布が抜け落ちることはないだろう。穴がこれ以上開かないことを願いながら、僕は彼女の隣へ並んだ。




