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檸檬の叫びが聞こえるか  作者: 高冨さご
さんかじりめ

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3-3① ただのゴミ

 それから僕は、予定通りのバスに乗って家に帰った。母の作ってくれたお手製の夕食を終えると勉強机に向かう。


 一度目の別れはあまりにも納得がいかず、抗うように彼女の家に乗り込んだ。けれど今はどうだろう。塾で赤線を引いた参考書を見返し、課題として出されたプリントと黙々と向き合っている。王女も助けだして世界平和を導いたRPGゲームには、今や埃がかぶっている始末だ。


 小一時間無心でやり続けたプリントが終わりを迎えると、僕は机の中に入れていた白く美しい封筒を取り出した。その中には僕に対する愛の言葉が綴られている。彼女に何と返事をしたのかは記憶に乏しかった。感謝の気持ちを綴った後、僕はなんと付け足したのだろうか。


 夏休みに入る前日、終業式を終えた僕は帰り際に彼女の靴箱の中へと手紙を添えてきた。美しい白い靴に溶け込む白い封筒は、とても彼女に似合っている。そんな感想を抱いた。夏休みが明けるまでには手紙の内容を思い出しておく必要があるなと思いながら、僕は丁寧に折りたたまれた傷一つない便箋を再び封筒の中へと忍ばせた。


 もう一度引き出しの中に戻そうと視線を下ろす。ふと一つだけ残された、レモン柄のレターセットが目に留まった。見るも無残な折り目が付いて、もう二度と元には戻らない。けれど、どうしてだろう。最初からこうではなかったはずなのに、今の方が彼女に似合うと思うだなんて。


 物は使われることによってどんどん愛着がわいていく。最初は傷一つつかない様にと、それはそれは丁寧に扱うものだ。しばらく経って出来上がった傷を振り返ると、こんなにも長い時間を共にしてきたのだと感傷に浸る。だが中にはもう使い物にならないと、簡単に手放す人もいるだろう。


 人間も、同じだと思う。綺麗な正方形を模ったままでいる紙は美しい。そして人に言われるがまま真っ直ぐな線を一ミリたりともずれることなく折りたたまれた紙も美しい。けれど、何も面白くはない。なぜならそれらと同じ姿かたちなど、この世界にごまんと転がっているからだ。


 ――それが、僕だ。


 彼女はこっちに来るなと言ったが、どうして行ってはいけないのだろう。確かに僕にとっては知らない世界で、知らなくてもいいことだと本能的に分かっているのだ。彼女のしていることから目を逸らし、自分の望む彼女だけを追い求めていたことからも憶測が着く。


 僕は自らの意志で、折り目を増やすことが怖いのだ。完璧な鶴になることが、僕の目指している未来だから。でも少しだけ、ちょっとだけ。翼の折れた鶴が、羨ましいと思う。ないものねだりということか。

僕はそっと引き出しを閉じると、参考書を鞄の中へと押し込み部屋の灯りを消した。




 あれから数週間が経った。あれから彼女との思い出の場所には、一度たりとも行っていない。僕が危惧することは、あの犬が無事で生きているかどうかのことだけだった。ドッグフードは買っていない。世知辛い世の中だが、なんとか耐え忍んで生きて欲しい。辛いのに生きろだなんて自分勝手だと思う。それでも僕は生きていて欲しいのだ。僕みたいな人間が高みの見物をしていると思われても仕方がないかもしれないが、本当のところ、僕みたいな人間は指をくわえて見ているのだ。君みたいに泥臭くても、必死に命を燃やして生きてみたかったって。人間の勝手なエゴのせいで大変な思いをしているだろうが、どうか長生きしてほしい。


 たった一度出くわしただけの野良犬に対して思いのたけを唱え続けているうちに、塾から家にたどり着いていた。いよいよ夏期講習も大詰めだ。明日は今世紀最大ともいえるほどの、学年テストがある。この結果によっては大学を変えざるを得ない人も出て来るだろう。それともそのまま実現するまで突き進むのだろうか。自身の道を自分で決めた人間の考えることは、僕には分からない。


 家に帰ると夕食が出来ていた。美味しそうな焼き魚の匂いがする。先にお風呂に入っておいでと言われ、僕は自室に荷物を置きに行った。ずっしりと肩に重しを乗せていたような鞄を下ろすと、とつてもない解放感に襲われた。体とはこんなに軽かっただろうか。


 その勢いのまま、その場でくるりと一回転した。コインの裏表みたいに、まわるだけで簡単に生きている世界線が代わればいいのに。そうすれば僕は一国を救う勇者になるだろう。いや、それはないか。きっと酒場でいつも座っている村人Aくらいのポジションだろう。西に向かうと、大きな街があるらしいぜ! くらいの軽いヒントを与える台詞は喋らせてほしい。


 その日僕は、母が用意してくれた温かなお風呂と食事にありつき、柔らかいベッドの中で目を閉じた。




 翌朝。朝からなんだか憂鬱だ。テストという響きは、何歳になってもやっぱり苦手だ。詰め込まれた参考書たちを取り出して、最低限の荷物に替える。こんなに大量に持って行ったところで、結局見返したりなどしないのだから。


 筆箱と二、三冊の薄っぺらいノートを鞄の中に入れていると、なんだかどこからか見られているような感覚を覚えそちらへと視線をやった。そこにはベッドと机の隙間、埃が溜まっている人の入れない隙間に、丸まったノートの紙くずが落ちていた。


 それは、単なる白い紙。ただの丸まった、白い紙。されど捨てられなかった、白い紙。


 僕は埃だらけになりながらも、彼女から最後に受け取った紙を持ち上げた。あの日家に帰ると、僕は握りしめていたこの紙くずを無意識に床へと落としていた。ゴミ箱に投げ入れることも出来たのに、なぜかここに落っこちたまま。誰も拾いもしなかった。けれどずっと、ここにあった。誰も知らない、見向きもしない。けれどずっと、ここにあった。


 僕は気が付くと、彼女が丸めた紙を一枚一枚丁寧に開いていた。これが君だというのなら、それは、それは美しいのだろう。少し破れた正方形の紙を開くと、机の上に置いて両手でアイロンをかけるようにして引き延ばす。こんなに皴だらけになってしまったら、鶴を折ることなど難しいだろう。きっと僕なら新しい紙を用意して、端と端がずれないように慎重に折り直していく。ほとんどの人間はそうするだろう。なぜなら新しい紙は、まだあるのだから。


 机の上で波打っている嘘の公式へ、数滴の水が零れ落ちた。おかしいな、クーラーはついているはずなのに、汗をかくなんて。そう思いながら、僕は両目を手の甲で拭った。


 ふと時計を振り返る。まだ塾に向かうまでに時間がある。そう思って、僕は部屋に置かれているタブレットをインターネットにつなぎ、あることを調べ始めた。


 元々折り紙は得意な方だった。細かい作業は幼いころからよくやっていたから。というよりも、一人遊びをするにあたり、折り紙は丁度良かった。外遊びが苦手だった僕は、ひたすら一人で折り鶴を降り続け、たったひとりで千羽鶴の三分の二を完成させたことがある。


 けれど、どうしても苦手なものがあった。沢山折り目を付けて、最後にその折り目通りに畳んでいくと完成するという代物だ。当時の僕はそれが何一つ理解できなかった。言われた通りの折り目を付けても、僕の紙は完成には至らなかった。なぜだかそれが、今になって分かった。


 君の紙は確かに折り目が付き過ぎてぐしゃぐしゃで、出来上がった見た目は酷いものだろう。けれど誰より柔らかい。時にその柔らかさで自ら紙を破いてしまうこともあるけれど、いずれその折り目は折り重なって一つの作品となっていく。


 僕は最後の一枚の便箋を丁寧に正方形に切り取ると、それに沢山の折り目を重ねていった。一見ただのぐしゃぐしゃの紙に見える。折り重なる皴同士を結び合わせ、さらに小さく折りたたむ。重ね合った紙の擦れる音が、彼女の悲鳴に聞こえた。


「出来た……」


 僕の性格ゆえに結局皴一つない、面白みのない花になってしまったが、思いは伝わるだろう。僕は檸檬色の作品をそっとポケットの中に入れると、時計を確認した。まだ時間に余裕はある。きっとこれが、彼女へ送る最後のお届け物になることだろう。彼女が指名した通り、手紙は書かなかった。だからといってこんなものを送り付けられてどうするのかと思われるだろうが、僕の意図が数ミリでも伝わってくれればうれしい。彼女のことだ。不可解な暗号ばかりを送る僕の気持ちを、きっと汲み取ってくれるだろう。


 重たい鞄を持ち上げて部屋のドアノブを握る。今日を持って、『不良生徒』と呼び名をつけられていた彼女とのお別れだ。高校生最後の夏。例年を凌ぐ最高気温を観測したが、僕にはちょっぴり寒い夏だった。

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