3-1 二つの手紙
次の日、僕は塾へと向かう途中であの文房具屋へと寄った。丸付けで使う赤いインクペンと同時に、真っ白なレターセットを手に取った。他にも様々な柄がある中で、僕は何も描かれていないその便箋をあえて選んだ。おじいさんは以前と変わらず二刀流で、ご時世のニュースを確認している。大した会話もなく作業を終えた僕は、淡々と家路についた。
玄関扉を開くとそのまま自分の部屋に戻り、鞄を床へと下ろす。ゆっくりとした足取りで大きな机の席に着くと、レターセットの包みを丁寧に剥がした。中から現れたシンプルな便箋を目の前に置くと、鞄の中から取り出した筆箱からシャープペンシルを一本取り出す。何度かノックして芯を数ミリ出し、初めの行に文字を綴り始めた。自分が書けるだけの丁寧な文字で、感謝の意を述べる。
一行書き終えた後に、僕は筆をおいた。そして振り返るは、木村さんと過ごしたあの穏やかな日常――ではなかった。僕たちが非日常であると感じている場所に立っている、太陽のような少女の姿であった。唯一のつながりであった手紙も、もういらないと言われた。きっとこのまま僕はこの学校を卒業して、今まで過ごした非日常など全て忘れ、新たな環境で新たな経験値を積んでいくのだろう。彼女とのわずかな時間など、最初からなかったものとして。彼女はどうだろうか。僕のことなど、もうすでに忘れてしまっただろうか。
僕はほとんど書き終えた手紙の続きに当たり障りのない言葉を書き込むと、適当に二つに折り封筒へと差し込んだ。元々ついていた被せの両面テープを剥がし、軽い封を閉じる。初めてのラブレターにあれほどかき乱されていた心であったのに、今ではなぜか波風経たぬ凪の状態で実に静かなものである。これから始まるであろう心弾む恋心よりも、終わってしまった感情が僕をむさぼり続けていた。胸にぽっかり空いた穴は、まるで虫食い葉のようだ。むこうから芋虫が僕のことを覗いていやがる。そんなことさえも頭の片隅に想像できるほどに、僕の心はすっかりこのラブレターから離れてしまっていたのである。
勢いよく椅子から立ち上がると、机の奥にしまい込んでいた檸檬の便箋を取り出した。そしてその場に置かれていたシャープペンシルを素早くタップする。慌てて文字を書いていたせいか、数回芯がへし折れて遥か向こうへと飛んで行ってしまった。ほとんど書きなぐりの言葉。いや、いつものことだ。彼女に書く手紙に、今まで言葉らしい言葉など書いた覚えがない。
僕はたった二文字の漢字を書いた便箋を丁寧に二つ折りにすると、封筒の中に入れ込みこれでもかという程に糊を塗りたくった。
書くなと言われた。迷惑かもしれない。そんなことは分かりきっている。けれど、どうしてもここで終わらせたくなかったのだ。彼女との繋がりをここで絶つことを、彼女は納得しても僕が出来なかったのだ。今までさんざん人から言われたことばかりを優先していた僕が何を言うかと思われるだろうが、僕は本気だった。
翌朝、僕はあの日と同じように少し家を早く出て、少し駆け足に坂道を下った。もはや見慣れた超おんぼろアパート。誰もいないような部屋に、確かに彼女は住んでいる。
ゆっくりと階段を上り、彼女の部屋の前まで来た。いつも通り知らぬ封筒で完全に塞がれているであろうポストを見下ろすと、なんとそこには何一つ入ってはいなかった。まさかと思い、慌てて表札を確認する。かすれた文字のままで彼女の名前はそこにあった。引っ越したわけではないのか。それとも――。
その先の言葉は出てこなかった。僕はその先の世界を、想像できない程に無知だからである。誰もいないこの部屋に手紙を投函したとして、一体誰が拾うだろうか。このアパートの管理人だろうか。それとも清掃員か。拾った人が中身を空けて、この二文字の意味を知ったらどんな顔をするだろう。宛先も送り名も書いてはいない。彼女の元へ届くことはこの先、一生ないだろう。ならばいい。これが僕からのものであることも、彼女にしか分からないものなのだから。
僕は隔たりのなくなった向こう側へと、ぽとりと手紙を落とし入れた。手紙が地面にそのまま落ちる音が聞こえた。そのまま少し待ってみた。だがこの前のように扉を揺らす物音も、誰かの気配も感じない。僕は暗闇に転がったままの紙きれに、気持ちばかりの謝罪を入れた。
捨てるつもりなどなかったのだ。そう伝えたかった。




